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 パネルをねかせて、布を張り込んでいるところ。  綿布の上に色んな布を貼り付ける。作品が大きいので(194x162CM)寝かせた場合、作品の上に乗って作業をする。兎に角アトリエが狭いので、余計に疲れる。

 今回はいっぺんに四つの写真を載せた。こんな具合に作業するのだという臨場感が伝わればいいかと思う。

 適当に載せるので、適当に楽しんでください。
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5.
 パネルを立ち上げる。実は上下がさかさま。
6.
 水性の下地材ジェッソを適当に塗りこむ。私の仕事ではこの「適当」という言葉が随所に出てくるけれど、「いいかげん」という意味ではない。似てるけれど・・。反対にきっちり塗ることは誰でも出来る、そういえば理解してもらえるだろうか
7.
 ホームセンターなどに手ごろな壁材が販売されている。珪藻土や聚楽壁、漆喰、などなど色々試している。本来は身近にある土そのものを精製して泥絵の具として使用するのが本来のかたちだと、願望としては持っている。今のところそこまではやれていない。

 そういった場合メジュウム(糊の役目)として何を使うか?ということになる。私はかなりアバウトな性格からエマルジョン系の接着剤(ボンド)を使用するけれど、ここらあたりで賛否は分かれるかもしれない。

 以前、現代美術系のキーファの作品を観たときに、彼の作品の接着材もボンドが使われていたなぁと思い出した。ボンドはまだ改良のよちはあるけれど、接着剤として戦後の画期的な発明だと思う。何よりも有効なのは堅牢であること、そして水性であるがゆえに扱いが非常に簡単であること、乾燥が速いこと、そして大切な安価であること、などなど。

 現代美術というものがどういう概念なのかはよく知らないが、今を生きる我々の美術というのであれば、大きく考えて今手に入れることができる画材ならなにを使ってもいいのではないか、反対に考えれば、今入手が困難な画材で伝統的な手法だけで描く事だけが正統と考えるのは、今を表現すると言う意味では違うのではないかと思う。

 空を飛ぶ鳥たちも巣を作るとき、ありもしない麦わらを探してまわるわけじゃない。そこらにあるビニールヒモやプラスチックのかけらを集めて巣を作るのだ。彼らに何の罪もない。

 さてさて、何がいいたいのかわからなくなってきたので、また。
8.

少し大きめのバケツのなかに、既成の壁材にボンドをぶち込んでハンドミキサーでかき混ぜる。なぜか私の道具は台所用品が多い。とっての取れたなべや欠けた器などなど、何屋さんなのかわからない。


 この間本屋さんにいったら、「左官屋」さんの本が特集されていた。日本の左官屋さんはもう特殊なしごとになってしまった。昔建築中の家には左官屋さんの壁土を踏む姿や、フノリを煮る匂いが必ずあったもんだけれど、今はまったく見かけない。懐かしいというより、あれが本来の日本の建物の姿なんだな、などとおもいながら、がんがん泥を塗り込む。

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.カーマインジェッソで一度目の地塗り。
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黄土を塗り込む。最初からこうしょうと決めていたわけではない、何となく黄土を塗りたかったということだ。色数はそう多くない。三原色に白と黒他少々。赤以外は顔料から自分で作るというのか、調合する。その方が安く多量に使えるからだ。白には日本画の胡粉なども使う。べん柄、との粉、金粉などなど、後黒は墨だ。そうやって考えると、今の分類方で行くなら日本画に限りなく近い。
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 また、カーマインジェッソで赤に還元する。ニコラ・ド・スタールだったかな?「100gの赤は10gの赤より赤なんだ」というのをどこかで聞いたことがある。今はとにかく大変な量のの絵の具を下地にしのばせる。そうすることが兎に角「きもちいい」のだから仕方ない。まだまだ下地作りは始まったばかり、延々と続くのです。

12.
 既成の壁土にボンドと墨とベンガラを混ぜて褐色の壁土にする。なぜそうするのか、分からないけれど赤に黒というのは凄くマッチする気がする。赤だ黄色とケバイ色を使っていると、モノクローム系の色が欲しくなるということかなぁ。この錆びた鉄の色(暗褐色=セピア色)というのは、土の色と同じくらい心落ち着かせる。
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ベンガラを塗ってその上から金泥を塗りこむ。金色という色は絵の具にはない。(まぁ最近は特殊な色としてあることはある)ダビンチもレンブラントも金色など使わないで金の光沢を容易に出した。


 私は金色が欲しいわけではない。物質的な金属の光沢やそのざらざらした肌合いがほしいのだ。 日本画では昔から金属箔を使用した。有名な作者不明の「日月山水図屏風」は箔を使用した鎌倉時代の傑作だ。あと尾形光琳の紅梅図とか、数えれば切りがない。


 そうやって西洋にはこういった伝統はないのかなと眺めてみると、そうそうルネサンス以前のイタリアの祭壇画、たとえばシモーネ・マルティーニとかジョットの聖母、ここらあたりは黄金背景が当たり前だった。


 やっていることも画材もほとんど同じで西欧ではテンペラ画といって接着剤に卵を使った、日本はニカワをつかったそれだけの違いだ。洋の東西がぴったりと重なる。


 いずれにしろ、金色は人類共通の憧れの色、天上の色だったのだ。

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墨にベンガラを混ぜて染み込ませる。金色に墨が所々なじんで美しいムラを作る。私の絵はこの色むらが大事なイメージの元となる。


 精神分析学でロールシャッハテストというのがあった。紙を二つ折りにしてその中にインクをたらす、それて出てきた形が何に見えるかと問う、例のやつ。それを大きくしたものかな。


 さてあなたは何が見えますか?

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 またその上から土壁を少しゆるくといて泥状にしたものをかける。本当は手で塗りこみたい。泥遊びなぜかこころそそられる。わかる?


 ここまででまだ工程は半道中。先は長い・・。

16.

人間の感覚、ちなみに五感というけれど、このディスクトップで表現されている絵というものは、視覚のほんの一部しか満足させるものでしかない。そこのところをよくわきまえて置くべきだろうね。


 何でもそうだろうけれど、これからは二極化が大きく進むだろう。こういったブログ化は色んなところで進んで行く。情報源としてもうインターネットはなくてはならない存在になって来た。


 けれど、反対に全く情報化されない情報のようなもの。たとえばこういった絵画で言えば、空間とか大きさ、重さ、絵肌、におい、雰囲気などなど、それは実際に画廊なり美術館に出かけなければ感じることができないものだ。


 相反するものが、反目するのではなく、お互いに必要なものとして上手に住み分けできるものだけが、それを意識できるものだけが、生き残っていくように思う。なんてね・・。よく分かりませんが・・。


 また赤に還元した。元の木阿弥かと言えば、そうではなくてこの赤は最初の赤とは全く違って見える。絵の具そのものは同じものだけれど、何回か塗り重ねることによって違ったものになる。これがバーチャルな絵とアナログな絵と大きく違うところだろうな。

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さらに金泥をかける。ここらあたりまでくると、それなりに雰囲気がでてくる。何が出てくるか、待ち構えている。


 絵は鏡みたいなものだ。今自分が考えていることが、そのまま出てくるわけだ。反対にいえば自分にないものは出くることはない。今までの自分の人生経験が、考えていることが、読んだ本のこと、映画で見たこと、こうであったらいいなぁと言った夢などなど。見る人がみれば、私の心の中までお見通しということになる。


 また、こうも言える。あなたが見ているのは、私の心の中ではない。いいと思ったのはあなたがそこに「いいと思った自分」を発見したからだ。

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また墨とベンガラをたらし込む
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 実際のところ、ここで何をしたのかよく覚えていない。兎に角、一つ前よりは絵の具は厚くなった。そろそろ何か見えてこないだろうか・・。しかしあわてることはない。


 まだまだ下地を作ることを楽しみたい、という気持ちと、そろそろ何か具体的なイメージをつかみたいという気持ちが、私の中で戦っている。

20.

 墨の垂らし込み。この垂らし込みという技法は、日本画の技法だ。本来この垂らし込みという技法は画面を床に置いて、絵の具を染み込ませるというやり方なんだけれど、アトリエが狭いためにそれが出来ない。仕方ないので、たれるがままにしている。


 水墨画にはにじみやかすれなど偶然性を生かす技法があるけれど、それを生かすも殺すも作者しだい。見えない者にはそれもただの絵の具のしみにしか見えないのだろう。楽しみは多い方がたのしい!

21.

ここまで来ると何をどうしたのか、よくわからないなぁ。けれどもう絵はほぼ出来ている。あとは具体的に何を描くかということだけだ。


 もうお分かりかもしれないけれど、私の絵は半分以上がオブジェとしても「もの」をつくることに始終している。「もの」がそこにあることが描ければ、わたしの仕事はほぼ終わっているいるような気がする。自分が存在することを確かめるために私は絵を描いているのであって、その他のことは全て付随している枝葉である気もする。


 具体的な絵はここから始まるのだが、それは案外どうでもいいことかもしれないな。

22.

セメントを着色するグリーンの顔料が建材屋さんで見つけた。これにとの粉を混ぜて薄くかけると、銅版が緑青を噴いたようになる。


 以前アフリカの仮面や生活道具を見たときに感じた「いのりのかたち」や「いろ」、無作為な造形にこころひかれる

23.

ラフなデッサンを始める。ジーっと見つめていくうちに、何やら色々rなものが見えてくる。


アトリエの壁には新聞などで気になった写真や絵が適当に貼り付けてある。それを見るとはなしに毎日みているわけで、そんなところからもイメージが作られているようだな。


さて、まだ落書き程度だけれどぼんやりと形が見えてきた。何が見えますか?

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 この間一度最初に戻る。面倒なので省略した。で、また形を探り出している。ぼんやりと人物が浮かんでくる。詳しくはまた後で。

25.

 やっと形が決まる。ここに至るまでに幾星霜、多くの下書き(落書き)がぼつになった。「おおいなるもの」というタイトルもこの頃に決まる。


 下の方の人物はまだはっきりと形になっていない。左の人物画傘を持っているのは、上の人物とのバランスを取るため。まだ二転三転するだろうが、基本的にはこの線でゆこうときめる。


 なぜこんなものが出てきたのか?そうそれを語ればこんなスペースでは足りないだろうし、はっきり言って私にもわからない。まぁそれを知るために絵を描いているのかもしれないな。


 一つは昨年の国画会に出品した「こたえてください(守護神)」 のイメージがあった。それからスマトラ沖の地震、津波の報道写真イラク戦争敦煌のミイラ自身の病気のこと(3/24の日記) など・・。生きている、生かされている、そんなことを考えていたような気がするな。

26.

 ここまで二ヶ月くらいかな。絵ができるのと、一つの物語(テーマ、タイトル)ができるのと同時進行。一つの絵を長く描くので、モチベーションの維持が難しい。最初から細かいところにこだわると、私の場合、根気が続かない。まぁ人それぞれ色々な描き方があるので、自分にあった画法を考えることが大切かな。


 部分というのは描いていて面白い。また、描いて行けばゆくほど工芸的になってゆく。それはそれで面白いのだが、最初のねらいとはずれて行く。けれど、部分の描写に埋没して行く心地よさというのも理解できる。そこらへんの兼ね合いが難しい。あまりにも工芸的になってくるまた潰したくなって、ウズウズしてくるのだ。


 このまま、仕上げに持ってゆけるだろうか?

27.

したの人物二人に苦労しています。ホームレス風のジィさんになったり、バァさんになったり、迷っています。どうなりますやら、見当がつきません。


 人物ではやはり目が難しい。二ミリずれると表情がまったく違ってきます。周りはいいかげんでもほとんど気になりませんが、目だけはそういうわけにはいきません。かといってあまりにもリアルすぎても周りと調和が取れません。


 百回ぐらい描けば、一つぐらいまぐれにピタリとあう目が描けたりします。下手な鉄砲も数うちゃ当たる方式と呼んでいます。ただそれが「いいかわるいか」「合うか合わないか」判断するのは自分の目というわけですな。


 結局まわりまわって自分に帰ってきます。いつもいつまでも自分の周りを掘っている気がしますね。

28.

したの人物の形がほぼ決まった。どこかでジョットの(アッシジ)壁画パドバ・スクロベィーニの礼拝堂 )イメージがある。音楽で言えばジョットはあのバッハのようなものだろうか。古典は古くなっても新しい。どこかに「祈り」の想いがある。

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 人物の表情や、服の描写にかかる。細かいところは面白い。描けばかくほどはまってしまう。けれど段々に全体から外れていってしまう。そこのところが難しい。


 今回の反省としては、顔を描きすぎたきらいがある。もっと茫洋とした人間でよかった気もする。描いている時には分からなかったけれどね。


30.

「おおいなるもの」の表情が難しい。何回も描き直す。ということで描き過ぎたかも知れないな。もっと自然な方が良かった気もする。


 デジタルな場合いつでも元の状態にもどれる。けれど、アナログな世界は一度やってしまったものは、厳密には元には戻れない。


 さて、後1回で終了です。

31.
 完成とする。

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2005作
「おおいなるもの」F130制作過程