2010 2月

2月28日 (日)

はる 3173
 山梨日々新聞 平成22年2/27 文化欄
 (田中喜博)
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「絵は鏡」-。そう語るのは山梨美術協会の第37回会員展で最優秀賞の会員賞に選ばれた榎並和春さんだ。重厚なマチエール(絵肌)の裏にはあるがままの自らの姿が秘められている。国画会会員でもある榎並さんに創作哲学を聞いた。

 受賞作「再生」は紙やアクリル絵の具などを用いたミクストメディア作品。画面中央の牧神は異様な存在感を放つが、笛を吹く柔らかな表情とその音色で芽吹く植物のある構図が温かな印象を与え、どこかで安心感を覚える。「羊は崇高で貴重な存在。画面では牧歌的な雰囲気を醸し出せた」

 学生時代、本格的に絵筆を持ち始めた頃は「西欧への憧れ」から油彩に傾倒していたが、イタリアへの研修旅行(1995〜96)を経てミクストメディアに表現法を転換した。「乾燥した西洋に比べて、日本は湿潤。水墨や水彩などがあるように、日本人として「水」を意識した表現をしたい」帰国後、アトリエから油彩の画材を一掃した。

 現在、画材はアクリル絵の具や土、木、布などで「画材店より建材屋にいく方が多い」という日常。はけやこてを使うことも少なくない。

 制作するパネル版に向かうとき、描き出す対象は決まっていないことが大半という。布を貼り、紙を貼り、絵の具を垂らしながら創作する過程で画面が形作られる、という流れだ。「これだ」と決まる瞬間がある。ただそれは自分が経験したことや得た知識の範囲でしか出てこないもの。とことん自分を掘り下げ、探り出すことに時間を費やしている」

 だからこそ、画面に表出した事物は榎並さんそのものということになる。「自分をさらけ出した結果なので恥ずかしさも感じるが、その意思がなければ鑑賞者の共感はえられない。絵画は独りよがりではだめ。「人を巻き込める」絵に、これからもこだわって行きたい」
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更新時間 : 00:16:26

2月27日 (土)

はる 3172
 冬季のオリンピックが開かれている。今回はオープンセレモニーも観なかったし、特に観たいと思う競技もないのだけれど、昔から男女ともフィギアーは好きで観た。確かにスポーツの競技ではあるけれど、それ以上体をつかった表現として見た場合、いいものはやっぱり感動する。ウルウルしてくるから不思議だな。

 キムヨナさんが終わった段階で、負けたと思った。今回の彼女には何ともいえない選ばれたものだけが持つ特別な雰囲気があった。氷上に立っただけで何かしら訴えてくるものがある。きゃしゃな折れてしまいそうな、儚げで危なっかしくてもろい、そんな雰囲気を彼女は持っている。

 ここからは憶測なんだけれど、そんなことはもう充分わかっていて、そのことを反対にしたたかに演出したんだと思う。それがまぁ、オリンピックという国家を挙げて戦う競技であって、個人の思惑などほとんど無視されるのだろう。国家戦略といえば言い過ぎかもしれないが、そうやって多分国の一つの戦略として利用されているのじゃないかな。

 国というのは長い間にそこにある独特の気質をはぐくむ。大陸にあって長い間大きな国の脅威にさらされながら独立を維持してきたそういった歴史を持った民族というのは、周りを海という自然の防波堤に守られてノホホンとしてきた民族とは明らかに違うのではないかな。顔や体系はにているけれどね。

 今戦略といったけれど、我々日本人の感覚としてそうやって何かしら戦略を立てて、小細工をろうして戦うということに先天的な嫌悪を感じるところがある。正々堂々としていないとか、潔くないとか、策士だとかね。しかし、戦いとは本来作戦を立てて戦うべきもので、何の考えもなく戦うのは犬死なんだけれど、それを潔いと美化してしまう風土があるな。

 真央ちゃんにはそういった戦略を感じない。純粋培養なんだな。あまりにも正々堂々としているんだな。技術的にはキムヨナさんよりはるかに勝っていた。負けたのは戦略だな。元々我々には戦略などなかったのだ。

更新時間 : 23:16:59

2月26日 (金)

はる 3171
 さてそれで自分の個展はどうなの?と言われるとなにもいえないので、自分のことを棚上げにして言うしかない。国際展などといっているからどんなもんじゃと覗いてみたけれど、言葉がわからない分余計に作品の質が透けて見えた。反対に言葉でごまかされない分ストレートに見えたのかもしれない。

 ある意味抽象化した作品のコンセプト、表現したいという気持ち、反対に言えば理解したいという気持ちのキャッチボールのようなものだと思うのだけれど、私の感度が鈍いのか、表現者の気持ちが伝わってこない。つまらないな、悪いけど、つまらんな。

閑話休題

かなり暖かくなってきたぞ。今年から来年にかけての個展が大体決まった。今のところデパートを含めて年間4箇所で個展を開催している。これからどう展開してゆくのか、どうなって行きたいのだろうか、考えてその通りになってゆくことは少ないのだけれどね。

 定職を持っていればそろそろリタイヤで、年金もらって夫婦二人の老後の生活を考えて行けばいいのだけれどね。今のところそんなに優雅に暮らせる計画はない。末はやっぱり河原こじきの原点で野垂れ死にかな・・。

 私は「絵描き」になりたい訳ではない。最近はそんなふうに思うな。たまたま今は絵を多少なりとも生活の糧にしているので、それらしくみえるけれど、世間でよく言う「絵描き」ではない。だいたい絵を描いている時間はそれほど多くない。ほとんどボーッと何事か考えたり、本読んだり、そんなふう毎日が過ぎてゆく。これが絵描きなのかな・・。

 基本的なスタンスは「遊び」かな。「飲む、打つ、買う」の遊びではなくてね。生きてゆくことは遊びの延長、かっこよく言えば。まじめな人に怒られるかもしれないけれど、「真剣に人生を遊びたい」と思っているんだな。お金はないけれど、使えるのは自分の持ち時間しかないけれどね。死ぬまで遊び続けられれば本望だ。絵を描くことはそんななかの一つじゃないかな。どうだろう。

 最近若い人と付き合って、この人たちと真剣に遊べたらそれはそれで面白いのじゃないかと思っている。遊びは面白いからあそびであって、面白くなくなればやめる。また面白いことを考える。絵だけ描いていたのじゃすぐに行き詰まってしまうのじゃないかな。
2010/02

更新時間 : 22:53:42

2月25日 (木)

はる 3170
 「セザンヌ7」 吉田秀和「セザンヌ物語」より
「セザンヌ物語」をやっと読み終えた。かなり分厚い文庫本だったけれど、まぁ行きつ戻りつしながら読んだので随分とかかった。

 話は寄り道する。途中簡単な剣豪小説「居眠り磐音」もはさみながらだった。剣豪小説は全く予定調和の水戸黄門みたいなもので、娯楽としてこれほど適しているものはない。私は大体いつも一冊ふところに忍ばして時間つぶしに読んでいる。池波正太郎の「鬼平シリーズ」「剣客商売」完全読破。今は少々飽きてこの「居眠り磐音」の作家佐伯泰英の作品を読み漁っている。この人も多作だな。

更新時間 : 17:02:14

2月24日 (水)

はる 3169
 「セザンヌ6」 吉田秀和「セザンヌ物語」より
 この多視点というのと「部分が全体」というのとどう結びつくかということだな。まぁここからは全く嘘八百になるのであしからず。

 多視点で描くというのはどういうことなんだろう。反対に考えれば、普通は一つの視点で描いている。一つの場所で、ある一定の時をストップモーションをかけて止まっているようなものか。まぁちょうどカメラやビデオのストップをかけたようなものか。

 けれど、普通生きている限り時間が止まったような瞬間を見ることはないわけで、必ず時間は動いているし、微妙に場所も動いている。

 以前、アメリカの現代作家のホイックニーが京都を旅して、竜安寺の石庭をランダムに写真に撮影してそれをまたコラージュして作品にしている様子が何かで」紹介されていたけれど、人の記憶というのは案外こういったもののような気がする。

 人が生きて活動している様子を記憶に残った特徴的なものだけを拾っていくと多分大変奇妙で面白いものになるだろう。とにかくそれの中心に存在するのは自分で、それから自分にとって大事なものが大きく描かれる。取るに足りないものは小さく描かれてやがては消えてゆく運命にある。まぁ完全に消えるのではなく潜在意識の中に入ってゆくということかな。で、何かのときにふと浮かんできたりする。・・・

 セザンヌの話とは少しずれてしまったな。元に戻そう。

 そうやって考えてみると、彼はとにかく一つの画面に多くのことを描きたかった。多くの情報をそのものがそこに存在するということを、そのすべてを描いておきたかったのだ。ストップモーションのようにある時、ある場所からの一つの方向からの情報ではなく、そこに私が居ました、立って周りをぐるりと歩いて得た情報も描きたかった。その結果出来上がったものは閉じられた一つの宇宙のように思える。

 多視点を今便宜上無限大に増やしてみる。ありとあらゆる方向と過去から今までの時間を加えてみるとそれは閉じられた一つの宇宙を作ったことにならないかな。

 以前にフラクタルの理論というのを聞きかじったことがある。これもどこかで書いたことだけれど、簡単に言えばロシアの入れ子の人形みたいなもので、親亀の中に小亀が入っての中にまた孫亀が入るにたいなものか。どこまで行っても最初の形を維持している。

 例えば宇宙のある一部分をサンプリングで取ったとする。まぁ凄く特殊な場所もあるのだろうけれど、可能な限り大きく取ればそれも含めたサンプルが取れるわけだ。その宇宙のサンプルの組成は結局全宇宙の様子を暗示しているわけだ。だから極端に話を進めると、我々の脳内や遺伝子情報を知ることは宇宙の組成や成り立ちをしることでもあるわけだ。

 セザンヌの言っていた「小さな感覚」と言うのはこの宇宙観のようなものではなかったか。そのことがセザンヌのいう「部分が全体」という意味ではないのかな。
 

更新時間 : 20:40:03

2月23日 (火)

はる 3168
「セザンヌ5」・・・吉田秀和「セザンヌ物語」より
 多視点というけれど、元々我々は物を見るときに複数の視点で見ている。というのは三次元にあるものを見る場合、左右の目がそれぞれ違うものを見ているからで、それを一つの画像にしているのは頭の中にある頭脳であって、まぁそのことがことさら珍しいことではない。バーチャルであるというなら元々我々は仮想・幻想を見ていることになる。今盛んに作られている3Dの映像はそれを利用したものだな。

 それをもう少しアレンジして片目は正面からもう一方は斜め上からとしてもまんざら大きな違いはないのではないか。もっと進めて時間も空間も複数にしたとしても誰からも文句はないだろう。セザンヌのやったことはそんなことか。

 マネもそうだけれど、ゴッホやロートレックやドガなど印象派のそうそうたるメンバーが明らかに日本の浮世絵版画から影響を受けていて、その事実はそれを模写している作品があったりするので、我々は何となくしてやったりといういい心持になる。

 彼らが大いに影響を受けたのは特にその大胆な構図、省略、フラットに塗られた色面などがすぐに分かるのだが、実は分かりにくいけれど、もっとも重大な影響を受けたのはセザンヌかもしれない。

 西欧の描画の中でこの多視点を論じられるから、すごく新鮮に見えるのだけれど、我々東洋人にとってはそれほど珍しい表現方法ではない。掛け軸や屏風や絵巻物などは時間とともに進むように描かれたり場所が変わるのは当たり前だし、同一画面に春から夏、秋、冬と季節が移り変わるのは極普通の表現方法だ。

 この斜め上から俯瞰してながめたり、真横からながめらり、モチーフを中心にぐるりと回ってみたり、前後を無視して気にいったものを大きく描いたり、そういった遠近法は東洋の絵巻物やあたりから学んだのではないだろうか。

 それからセザンヌの晩年の水彩画などは東洋の水墨画などと空間の表し方など、感覚的にも凄く共通するところがある。有名な「セザンヌの塗り残し」だけれど、水墨画などはそういった余白が大事な空間表現なのだからね。

更新時間 : 18:03:23

2月22日 (月)

はる 3167
 「セザンヌ4」
 セザンヌとゴーギャンは一時期お互いに並んで絵を描いていた時期があったようだ。で、ゴーギャンはセザンヌのことを大変尊敬していて自分の絵の中にセザンヌの絵を描き込んでいるものがある。

 ところが、セザンヌはかれのことをこういってののしった。「私にはたった一つの小さな感覚しかなかったが、それをあいつは盗みやがった!」

 芸事というのはいつの時代も盗んだり盗まれたりしながら大きくなってゆくものだ。だからゴーギャンがまるっきり悪者というわけではないとは思う。そのことよりも私はセザンヌのいう「小さい感覚」というのが何だったのか、そのことが大いに気になる。

 いまでこそ、セザンヌは現代絵画の父として敬われているのだけれど、当時そのことが分かっている人は彼の周りのホンの一握りの人間でしかなかった。無論当の本人はわかってはいたのだろうけれど、そのことにはまるっきり自信がなかったようだ。

 ここからはまるっきり私の空想なので間違っているかもしれない。あしからず。

 選挙の当確予想などもそうだけれど、ある程度の集団の傾向とか性格とかなどは全部を調べなくても分かるらしい。それが大きな集団になればなるほど、その確からしさの判断は正しくなるらしい。

 で、まぁこの世界というのもある程度は分かっていて、これが起きれば多分これもあるだろうなどと予測ができる。コンピュータの世界になってその情報が大きくなればなるほど正確な判断が出来るようになる。

 どんな部分を取ってみても、必ずこの世界の縮図がそこにはあって、それをどう解釈するかは人によって色々なんだろうけれど、多分それが理といえば言えるのじゃないか。

 「人は生きてきたように死んでゆく」というのもそのことを言っているし、「末端にも本性がある」ということもそれをいっている。

 セザンヌがやっていた、やろうとしていたことも「全体が部分で部分が全体」ということで、どの部分も必ず全体の影響を受けているし、部分だけで存在することはないということではないのかな。

 だから、セザンヌは常にいつも全体を描いている。そのことがセザンヌの発見した「小さな感覚」ではなかったか。

 

更新時間 : 01:12:13

2月21日 (日)

はる 3166
「セザンヌ3」
 @は正面から見たセザンヌ「キューピッドのある静物」普通に見ていても明らかにおかしいところに気がつく。机の左端のラインが大きく弓うってカーブしているのがわかる。もしこんな机が実際にあったならとんでもない不良品ということにあるだろう。

 今回吉田秀和の「セザンヌ物語」を読んでいてちょっと気がついたのだが、例えばこの絵をAのように左端から斜めに見ると手前の机のラインは正しいことに気がつく。で引き続きき見る方向をBからCと次第に右端から斜めにみるようにしてみると、机のラインはそれぞれに正しい位置にあることがわかる。

 ということは、セザンヌは描くときにこのキューピッドど中心にしてぐるりと一周して描いたということだ。一つの絵の中に複数の視点を持ち込んだ。ある意味で平面に時空を持ち込んだということができるな。セザンヌという作家がどうしてこれほどまでに気になる作家なのか、最近になってやっと気がついたところだ。


更新時間 : 21:39:15

2月20日 (土)

はる 3165
「セザンヌ2」
吉田秀和「セザンヌ物語」よりp322
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 この点で、セザンヌの芸術家としての歩みはベートーヴェンに比べてみることができる。この音楽家も、初期の段階を過ぎたあと、ほぼ30歳頃から力強い充実、雄渾という点で、第一線の名作を次々と制作したあと、最後の10年間ほどになると、大勢の人に向かって語りかけるというより、孤独の中で自分--あるいは自分を超えた何者か--を相手に、ひそかな問答を行う世界に入る。だから初期の後、古典的充足期をもち、それに引きつで晩年の作風となると、その音楽には、戦いより宥和と疑惑を選び、情熱の激しさよりも恍惚の光と影が交錯するようになる。一口で言って、ここにも、ある超絶的なものへの接近、あるいは「観ずるより想する」ことにアクセントのおかれた生き方の反映としての芸術が生まれてくるのである。
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 今朝のFMかなゴンチチの「快適音楽セレクション」で「名人の音楽」というのをやっていた。まぁその中で「名人、天才のい域になると、私が・・と強烈な自己主張がない」というコメントが耳に残った。

 ベートーヴェンの交響曲などをきいていると、「私はがんばって、がんばって努力してここまで来ました、ナムサン」という声が聞こえる。それはまぁ一人の天才芸術家の叫びではあるのだろうが、最初は納得できるし、共感もするのだが、次第に疲れてくる。ところが晩年のピアノソナタあたりになると、もっとおちついた一人の祈りのかたちになってくる。ここには「私」というものが抜け落ちている。

 前にも書いたけれど、人との違い、個性、私がわたしが・・と際立たせて行くと、結局自己満足のひとりよがりの物しか出来ないのではないかと思う。

 本当はオリジナルというのは「源泉」ということであって、「多くの人に共通しているもの」を見つける探す、表現する、したものを言うのではないだろうかね。

更新時間 : 20:46:51

2月19日 (金)

はる 3164
 昨日はブログのサーバーがメンテナンスで今朝まで接続できなかったようです。何かしらの表示があると戸惑わないのですが、待っていてもつながらないとイライラしますね。すんません。
 
「セザンヌ1」
 セザンヌの風景や人物を見ていると明らかに傾いている場合が多い。どう見ても実際はこうは見えない。セザンヌという人物はどんな人間だったのか、その作品から推し量るしかないのだけれど、勤勉で実直な公務員か石頭の学校の先生を感じる。ほとんど冗談も言わない、そんな面白みにかける人物を想像するのだな。

 そんな人物であるにもかかわらず、実にまじめに実直に斜めに傾いた人物や風景、静物を何点も何点も飽きずに描いている。ちょっとデフォルメしました、洒落です、冗談です、といった軽いものじゃないのだな。何かしら自分の法則というのか真理、理、を見つけてそれにしたがって、やむにやまれずこういった描き方になったということなんだな。

 子供たちが描く絵をみていると、よく電信棒や立ち木が道に対して直角に寝て描かれている場合がある。これは実際に見た風景ではなく、生活の習慣上体験したこと、電信柱は道に対して直角に空に向かって立っているという経験が描き込まれているんだな。普通、科学的な視覚で言うならば、そんなことはありえないのだけれど、あえて遠近法を無視した色んな視点から見た画面を一つに描いたということなんだな。ここのところが画期的に新しいことだった。

 今でこそ多視点はピカソなどの偉大な作家によって極普通に語られ、先駆的な作家として認められてはいるけれど、まだサロンが大きく権威があった頃はほとんど気違い沙汰であったと想像する。

 それではセザンヌが発見した法則、理とは何だったのか?そんなことを書いてみたい。

 

更新時間 : 20:47:29

2月18日 (木)

はる 3163

http://kattak.exblog.jp/5357267/
「Dessin : デッサンをすることの意味って何だ?」より勝手引用
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 略・・デッサンを描くというのは現在目の前で起きている現象を突き詰めて考えるということでもある。目の前に宇宙の法則の全てがある。絵を描くというのは感性の問題だと思われがちだが、実はその大部分は物理学的、科学的な思考なのだ。

そして、言わばその副産物として3次元的なものの見方が可能になり、「形」が見えるようになる。「形」が見えればそれは描けるのだ。器用さなど関係がない。だから描ける人は左手に鉛筆を持っても、足でも描けるはずだ。

で、さらにそれらを越えたところに「表現」がある。ここまで行って初めて「良いデッサン」になる。

日本の美術大学の場合、入試にデッサンがあるので大学入学前に皆デッサンをやるのだが、ヨーロッパの美術大学ではどうしているのか?今でもデッサンをやっているのか?と疑問なのでいろいろと検索したら、時の人「佐藤可士和」氏がデッサンについて力説してた(笑)。無断で抜粋しとこ。

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http://www5e.biglobe.ne.jp/~gajuku/artisttalkks.htm
可士和; ぼくは、アートに関わる以上「デッサン力」がないとダメだと思っています。「デッサン力」とは「理解力」のことです。描くこと=理解することですから、見方・把握の仕方の訓練が描くこと(デッサン)なんだと思います。また、広告ディレクションは「視点とセンス」が命です。フツウの人と違う視点でものを見て、センス良く再プレゼンテーションすることが広告ですから、ひとつのモノ・コトをいろいろな見方(価値観)で見れるように訓練しなければいけない。そのためには「デッサン」が有効だと思っています。
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 略・・。

更新時間 : 22:41:39

2月17日 (水)

はる 3162
 今日はパス

更新時間 : 22:48:18

2月16日 (火)

はる 3161
 昨年の作品も一応組み作品のようなもので、Aのように展示するつもりであったがそうしなかったは面倒になったからだ。アトリエが狭いということもあるのだけれど、わたしの作品は一つ一つが独立しているような描き方なので、今のアトリエでは最大でもF130号しか描けない。この一つ一つが独立しているというのはとても大切な要素で、一度に全体を仕上げてゆく描き方といってもいいかな。

 絵を描かない人にはなかなか説明するのが難しいのだけれど、では反対の描き方はというと編あみ物やパッチワークのような描き方といえば分かりやすいかな。全体が一つではなくて部分の集まりが全体になっているような絵ということかな。こういった絵の特徴はどんどん増殖ができていくらでも大きな絵が描けるということだ。

 全体を一つのものとして描いて行く描き方の先駆的な作家はセザンヌだ。またそのうちに書いてみよう。

 で@は今年の組作品。元々は一つ一つ独立してういるものだが、こうやって組にしても違和感がないようにまとめたつもりだ。横の長さが268cmある。


更新時間 : 23:43:16

2月15日 (月)

はる 3160
 東京の個展が楽しいのは異邦人になれるところであろうか。日本でありながら異邦人というのは少しおかしいのだけれど、あの街は私にとってある意味異国のようなものだ。生活の場でもなければ、何か人間関係が発生する場でもない。仕事場といえばそうなのかもしれないが、普通の意味の職場ではない。

 かつて一度もそこに住んだことはないので、地下鉄に乗っても、街を歩いても顔見知りに出会うことはほとんどない。多くの人が行き交うけれど、私のことを知る人は誰もいない。無名のただの路傍の石のようなものだ。そこのところが心持いいのだな。

 日常的にそこに住んでしまえば、少なくとも何かしらの人間関係が出来て色々と面倒なことに巻き込まれてゆくのだが、それはそれ人が生きてゆくためには仕方のないことだけれど、高々一週間そこで遊び暮らしている分には、まぁ旅人のような、風来坊のような、旅芸人のような感覚で楽しい、終わりが近づいてくると一抹の寂しさがある。

 どこまでそうやって暮らして行けるのか、どこまで行けるのか分からないけれど、いつの間にかだけれど、まぁこれが望んでいた暮らしに近いような気もする。こうありたいと強く志を持っていたわけではないのでね。何となくだな。

 先日の話につながるのだけれど、白黒はっきり付けるとか、理路整然としているというのは一見正しいし、カッコよくはあるのだけれど、反面それは他を認めないという排他的なところもあるわけだ。我々は今までそれが正しいと教わって暮らしてきたわけだけれど、自然それが身についてきたわけだけれど、まぁそんなにカッコよく生きられないなぁとは最近思う。もっとルーズだし、いい加減だ。

 欧米型の効率を考えるなら、これはもっとも不出来な、出来損ないの言い訳にすぎないのだけれど、あえて色々あってもいいという多様な混沌の選択でもいいかなと思い始めた。そういった方がより大きいというのか、宇宙の理に近いのじゃないかと思う。

 国母選手がいてもいいのだ。

更新時間 : 23:52:39

2月14日 (日)

はる 3159
 つい最近宇宙の話が新聞に出ていて、例の暗黒物質のことが書かれていた。暗黒物質と書けば、なんとなくスターウォーズのことかと勘違いするのだけれど、善悪のことを言っているのではない。

 目に見える物質というのは、例えば太陽のように自身が燃えているとか、何かしらのエネルギーを出している、月の様に他から照らされているということもあるかな、まぁそういったことが考えられる。当たり前の話だけれどそんな星の方が実際少ないわけだ。計算上宇宙の構造上見えている星だけではバランスが取れないらしい。

 例えば砲丸投げの選手がキリキリ回って重い砲丸を投げるわけだけれど、放っておけば中心にいる選手は砲丸に引かれて体勢崩してしまう。テレビなどで見ればほとんど45度ぐらいの角度で引っ張ってやっとバランスを保っている。

 星雲という星の渦巻きを写真などで見たことがあるとおもうのだが、ものすごい数の星たちがある中心を真ん中に渦を巻いている。

 眠いまた明日。
 

更新時間 : 21:33:50

2月13日 (土)

はる 3158
 今日はパス

更新時間 : 22:32:36

2月12日 (金)

はる 3157
 ↑はとっておきの布地。インド綿のプリント模様。裏地は真っ赤なローズヴァイオレット。どこか昔チベットの仏教寺院を見ていると、まるっきり同じような色の装飾を見た。それからそれから、中国の京劇や韓国の舞の衣装や日本の神社の歌舞、ほとんど同じような配色だな。現代の歌舞伎になるとやや渋い日本人の好みが入ってくるように思うのだけれど、元々のルーツは同じかもしれない。

 西欧の色彩理論というのは極めて論理的で、要するに破調もふくめて、トータルには調和するということを目指しているように思う。現代の我々の感覚もどちらかといえば西欧化してきているんだろうな。だから↑のようなめったやたらな極彩色のようなものは反対にエキゾチックなものを感じてしまう。

 アジアの色彩は混沌だと思うな。ということで少し前の「美は混沌にあり」を復習しておこう。

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はる 3046
 「般若心経5」つづき・・これもまた徒然に
 けれど「美は混沌にあり」ということになれば少し違うなぁと感じている。

 そうだなぁ、例えば美術史を勉強する、中世があってやがてルネサンスがあって、バロックの時代があって、古典の時代がきて印象派ができて、現代があるみたいに何かしら理由があって、時代が変わって行くように理解する。学問とか知識というものはそうやって分けて「名前をつけて」分類して行くことだ。

 まぁ普通に勉強して行くと魔法にかけられたように全ての人がそれが正しい唯一の道のように考えるわけだ。確かに、たしかにそうやって人類は色んなものを理解してきたし、効率よく人間に役立つように世界を環境を利用してきたわけだ。

 まぁ世の中の価値というものの体系を作ってきて秩序立てたといってもいい。それが今現在の我々の姿だ。

 「美は発見だ」「これが一番だ」というのであれば結局AがBになっただけで本質的に何ら変わりは無い。根本的な変革ではない。五十歩百歩。いつかはまた新しい価値に取って代わられてしまうだろう。子供が陣地を取り合いしているようなものだ。

 規則のあるものは不規則に、秩序あるものは無秩序にさらに混沌とすすんでゆく。なぜならそれが一番安定しているからだ。

 ところでそれでも宇宙が崩壊せずに存在するのは、ある意味の「無秩序な秩序」というのがあるからなんじゃなかな。それが何なのかよくわからないのだけれど、多分「言葉にできない」「意識されない力」「潜在的な力」であるきがするな。

 宇宙のある部分をとれば他と全く違うように見えるけれど、ある程度の広さで捉えると、それはずいぶんと似通ったものになる。それは例えば地球と太陽では全く違う星である。けれどもっと大きく太陽系と他の系でみてみればどちらも同じような構造を持つことが分かる。

 何もないところと、星たちが集まっているところがあってとても均質であるとは見えないけれど、もっと大きな範囲で捉えれば結局その内容は大きく違わないということがわかる。

 ある場所だけみてそこの構造や組成だけで宇宙を語った気になるのが我々なんだけれど、実はそれ以外のところでは例外だらけでそんな秩序は無かったりするわけだ。

 美術史やスタイルだけでその時代を統計立て考える違うのではないかと思う。世界はもっとアトランダムで混沌としている。

 それが多分正解だ。

 はる 3051
 「般若心経6」
 「美は混沌にあり」これは新しい概念だな。ここのところ考えていることにぴたりと当てはまる。「美は発見である」というのが私の今までの考えだった。思えばこれはもう十年も変わらない考え方でね。まぁ今も基本的にはその立ち位置は変わらないのだけれど「美は混沌にあり」の方が本質的な気がする。

 「美は発見である」というのはどこから来たのかといえば、よく「絵なんて好き嫌いでいいじゃないか」といわれる。そういわれて、確かにその通りなんだけれど、どうも何かしっくり来ないものがある。子供が好きというのと大人が好きというのではどうも違うのではないかと。本当に「好き嫌いだけ」なのかなとね。

 何でもそうなんだけれど「人は自分の身の丈にあったものしか理解できない」幼稚園生にいくら正しくても高等数学は理解できないだろう。それと同じでいいか悪いかはその人次第、その人のレベル次第というところがあるな。だから、まぁ「これが好き」といえば簡単にいえばその程度の人間だということかな。

 ところがね、ここのところが難しいところなんだが、例えばピカソは子供が見て面白いと思わないか、興味を示さないかと言われればそんなことはないんだな。本物というのは実は子供から大芸術家まで満足させる多くの引き出しを持っているということなんだな。ある程度の教養のある人しか分からない美というのは、まだまだ本物じゃないと言うことじゃないかな。

 ドゴン族のお面とか扉とか鍵とか家そのものも面白い。朝鮮の民芸とか日本の古い猿楽のお面とか、神楽のお面や奉納物なんどもおもしろい、初期の仏像なども面白い。当時の人が特に教養があって美の何たるかを理解していたとか考えていたとは思えない。そういった価値はまぁこちら側の物差しであってね、彼らは「美(うつくしい)」とか「信仰」「道徳」などという概念も無かったように思う。あったのはただ「いい」ということだけだったんだろう。

 この「いい」という概念も様々だ。「美」とかいて(よし)とも読む。「善」も(よし)だし「儀」も(よし)、だし「良」「好」もよしだ。「よし」というのを調べてみるとこれまたなかなか面白いように思うな。

 ある時、ある場所では「よい」であっても時空が異なれば「悪い」になるのであれば、それは普遍性が在るとはいえない。もっと違う概念、普遍的な考え方がないものかと探っていた。

 ところで、また般若心経に戻ってみる、
「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」

 「いい」「わるい」の判断を超えたところに真実があると言っているきがするなぁ。「いいもわるいもない」と言ってしまえばそうなんだけれど、「いい」にこだわって「わるい」を排除すると、いつかまた排除される側になる。

 壊れた物はさらに壊れることはない。死んだものは再び死ぬことはない。なくなった物は二度なくなることはない。正しいものはいつか正しくなくなるかもしれないけれど、元々いいも悪いも無いものは永久にいいも悪いも無いという禅問答だ。

 統一された、これしかない、唯一のというものほど危なっかしいものはない。明日から保身にまわらなければならない。

 「美は混沌にあり」


更新時間 : 22:24:35

2月11日 (木)

はる 3156
 今日は一日雨。野暮用で一日つぶれる。

更新時間 : 21:28:30

2月10日 (水)

はる 3155
 例えばネット裏から野球を見るとする。最初はネットがじゃまになる、ところが慣れてくるとネットは存在するけれど気にならなくなる、そしてやがてあることさえ忘れてしまう。

 水道の水がぽたぽたと落ちている。気になって眠れない。しかしやがてつかれて音が聞こえなくなると、眠りに落ちたということ。水の音を聞いている限り眠れない。

 竹刀を持ったこともないのだが、例えば剣道の達人というのは剣をやわらかく持っているのではないだろうか、自在にどんな風にでも対応できる構えというものは、力の入ったものではないし、殺気立ったものでもないだろう。そこの具合が極意なんだ。

 ピカソは90年かけてピカソになった。ピカソの絵をみて誰もデッサンがおかしいとは言わない。彼自身正確な形を表現しようとは思ってないからだ。そんなところに絵の目的を置いていない。自由にピカソのように描いた。だからピカソなんだ。

 ここのところが難しい。絵を指導するのに、こういう人が多い。「基礎も何もいらない、自由に描けばいい」というのは簡単なことだ。けれど基礎がない人が一番デッサンにこだわるのだ、見えたとおり正確に描きたいと思う。

 反対に言えば、自由に形や色にこだわらなく描くためにデッサンが必要なんだな。そこの部分を気にしなくなる、ネット裏の野球でいえばネットが見えなくなるまで、水の音が聞こえなくなるまで、竹刀を持っていると意識しなくなるまで、描く必要があるんだな。で、初めて自在に描けるようになるように思う。

 それでもまだ
「有為の奥山、今日越えて、浅き夢見し、酔いもせず」
なんと奥深いものか・・。

更新時間 : 21:01:37

2月9日 (火)

はる 3154
 久しぶりに学校に行く。個展があったり、学校のスキー教室があったりで、なかなか思うように授業が進まない。三学期は毎年こんな感じだな。こちらの都合で休むのは申し訳ないとは思っている。許してくれ。

 昨日のデッサンの話。なるほどなぁと自分で納得した。今までそんな風に考えたことはなかった。人物クロッキーやデッサンは結構好きなんだな。月に一度だけれど、もう随分と長くやっている。それで上手くなったか?といえば、それは昔に比べれば形は取れるようにはなったけれど、まだまだへたくそだ。

 クロッキーを始めたのは、最低限の描写力がほしいと思ったからで、まぁやり始めるとなかなか上手くならないので面白いということもあるな。

 もう一つは本格的なデッサンの修行をしていないというコンプレックスが根底にはあるんだな。私の卒業した学校は教育学部で絵の専門の学校ではない。それゆえにどこかまともな技術教育を受けていないのじゃないか、という気持ちがずっとあった。それがいままで人物クロッキーをやり通して来た根底の動機かもしれないな。

 でね、色々な話を聞くと絵の修行というのは、みんなそれぞれ独学でね、学校で手取り足取りで教えられるものではないらしいということが、薄々分かってきたんだけれどね。今ならそれも納得できるけれど、昔はそうではなかった。

 デッサン力を付けたい、というのがやはり直接の動機なんだと思う。誰も文句の付けようがないデッサン力を付けたいというのが、当初の浅はかな願いだった。やがてクロッキーそのものの面白さにひき込まれて行くのだけれどね。

 で、今は「見ないで描く」ということを本願にしている。頭の中にある形を出来るだけ何も見ないで想像で描くことが面白い。それも実物とそっくり同じである必要などないわけで、何かその様なもので、私の中にある「かたち」が描ければそれでいいと思っている。子供の様な絵が描ければそれが一番だ。

 「形がくるっている」「デッサンが違う」という無言の圧力(結局、それここれも自分の中にある声だ)から自由になるためにデッサンをするのだと思うようになった。



更新時間 : 00:29:41

2月8日 (月)

はる 3153
 昨日の天声人語から
「・・どんな死も悲しいけれど、若い母親のそれは切ない。お母さんは風になり木になって、わが子の声援を送り続ける。他の母親より少し短い、真珠のような思い出を抱きしめながら。
 乳がんに侵された先の女性は、幼子にも走り書きを残していた。(男の子はやさしくなければいけません。まわりの人の言うことをよくきいて。いっぱいおでかけにつれていってもらうんだよ。本もいっぱいよんで、音楽もいっぱいきいて・・・)つらなる「いっぱい」に母性の叫びを聴く」・・

 自然に泣けてきた。こういった話には弱いな。

「嚢中の錐」(のうちゅうのきり)の話。ある本を読んでいたらこの話が出てきた。嚢というのはまぁカバンのようなものか、で持っているカバンに錐を隠し持っていると自然に外に現れてくるという意味だそうだ。いい意味で隠し持っている人格や品格が外ににじみ出ているというのであれば、それはすばらしいことなんだけれど、反対に腹に一物を持っていると自然人柄にも出てくる。そんなことか。なかなかこれはいい得て妙だ。馬鹿は隠しおおせるものでない。何か悪巧みは自然にばれる。自らの身辺、心持をいつも清廉潔白にしておけということか。まぁそれも難しい。

 これもどこかのブログより。山に登って悟りを開くために修行しているうちは仙人だ。山から下りてしまえばただの俗人だな。多くの教祖といわれている人間はほとんどが途中で「山から降りた人」何らかの理由で修行を止めた人ということだな。

 芸術家など山に登りもしない。山の周りでその雰囲気を楽しんでいるだけの俗人だな。人畜無害で人様に迷惑をかけなきゃ、まぁそれはそれでいいかなとも思う。

 もう一つ、これは今日あっと気づいたこと。私が人物デッサンを続けているのは人物をより正確に間違いなく描くためではない。ここのところはすごく難しいところなんだけれど「デッサンに囚われない」ためにデッサンをしている。

 普通デッサンの勉強は物の形と陰影を学ぶためにする。ごく当たり前に時間をかければそれなりに上手くなる。もちろん程度の差はあるのだけれどね。

 形や陰影などのものの描写に囚われないためにデッサンは必要なんだな。

更新時間 : 22:51:33

2月7日 (日)

はる 3152
 今日はパス

更新時間 : 00:20:18

2月6日 (土)

はる 3151
 油彩画を習いたいという人が来た。私なんかもそうだったけれど、ごく自然に絵を習うことは油彩画を習うということだった。無論日本画をやりたいという人や水墨画や水彩画もいることはいるのだが、油彩画には何かしら特別な響きがある。

 最初に買った画集がゴッホであったということはどこかに書いた。とにかくゴッホのような絵の具をチューブから直接出したような、ゴテゴテした肌合いの絵が油絵だというイメージがある。何かしらそこには水彩にはない物としての存在感があって、西欧を身近に感じられる、そんな気がしたのだな。

 紙と鉛筆と水彩絵の具で描くことが出来る水絵はどこか安易で、絵の具などどこまでも水で薄めて描くことができるし、そんなことが安っぽいというイメージがあった。

 とにかく高級な舶来の絵の具をたっぷり使った「油絵」がいい悪いは別にして高級な絵、高価な絵、と思っていたふしがある。

 本当はまったく逆なんだけれどね。まぁやりたいという人を「やめた方がいい」とは言えない。日本人には水彩の方が体質にあっているようにおもうのだな。

 

更新時間 : 00:30:25

2月5日 (金)

はる 3150
 午後から倉庫の片付けとアトリエの荷物を何とか仕事ができるように整理する。個展期間中は家を留守にするので雑他なことから開放されるが、その代わりに終わってからどどっと雑事が押し寄せてくる。

 絵描きは絵を描いているだけでいいというのであれば、こういった雑用から開放もされ、さぞかし仕事もはかどるだろうと想像するのだけれど、絵だけ描くという職人仕事のような毎日はそれはそれで大変かもしれない。私はいずれにしろこうやってだらだらと生きてゆくしかない。

 半端なプロならアマチュアの方が潔くて、あとくされがなく、綺麗にすまして生きられるからその方がよい。多くの自称作家は本来の意味のプロではない。



更新時間 : 23:04:31

2月4日 (木)

はる 3149
 若い頃は個展の荷物も自分で車を運転して運んだ。もともと車の運転は好きではなかったので、10年ぐらい前から赤帽さんに頼んでいる。今回も作品だけではなく雑多なものを展示したので、すべてまとめてお願いした。

 昨日、体だけは帰宅したけれど、赤帽さんも他の仕事があって荷物はまだ着いていなかった。午前中に美術館に100号の絵をおろして、他の絵を倉庫までおろしに行く。100号の絵は今日から始まる「山梨美術協会会員展」に出品するため。期せずして会員賞をいただきました。受賞もこれで打ち止めでしょう。ありがとうございました。来週の水曜(2/10)まで県立美術館に展示されます、是非ご覧ください。

 今回の個展の雑感。
 展覧会の企画の話があった。よく分からないのだけれど、絵を展示するだけでは展示にはなるけれど展覧会にはならない。その展覧会がどんなコンセプトでやられるのか、見せるだけの展示なのか、売るための展示なのか、ただのイベントとしての展示なのか。いままでも色々な話があったけれど、どうもやりたいと思える企画は少ない。

 絵だけでは分からなかったことが、今回展示した写真や文章でよく分かったという人も多かったが、絵描きは絵だけで勝負すべきだという内心の声も無視できない。まぁおおむね好評ではあった。

 絵がだんだんにまとまってきたという感想があった。よくもわるくも、まとまってきたことは事実のように思う。これからどこに向かうのか、考えてみる必要もあるだろう。

 個展を始めて20年以上たった。最初は手探りで、海のものか山のものか、暗中模索で手探りではじめたことだった。それがいつの間にか大きな会場で恥もせず堂々と展示するところまで来た。絵を売るということが当然と感じ始めていたのだが、確かにそうではない「見せるだけ」の展示というのもある。
 

更新時間 : 01:35:00

2月3日 (水)

はる 3148
 帰ってきました。

更新時間 : 21:37:43

2月2日 (火)

はる 3147
 個展楽日
 無事終了

更新時間 : 21:36:16

2月1日 (月)

はる 3146
 個展6日目
 無事終了

更新時間 : 21:35:28