2009 11月
11月30日
(月)
はる 3085 イルミネーションのことで思い出した。子供の頃はお金が自由に使えなっかたから、何でも自作した。自作できないものは想像力でカバーしたものだ。もみの木が無かったらヒバの枝をそれに見立てて、厚紙で星型を切り抜いて銀紙を貼り付けた。色んな飾りも色紙で作ったり描いたりしたものだ。それでも充分幸せだった。ものが無いということは不幸せなことではない。それをひがんでしまう心根が貧しいのだろう。 今回書いた文章の抜粋 「人は何処から来て、何処に行くのか?良かれと思っていた(速い、安い、便利)は多くのものを壊してしまいました。多分これからは、ごく小さな世界を大切にして、誰かのために、誰が作ったか分かるモノに囲まれてゆっくり、丁寧に生きることが望まれるようになるでしょう。こころ豊かに生きるために、私たちの仕事がホンの少しでもお役に立てば嬉しく思います」 お金やモノはもう充分なんだろう。それよりもゆっくり丁寧に生きて行きたい。そんなふうに思った。 さて、上の写真はサイレントチェロです。実は10年ほど前に何処でもチェロが練習できる持ち運びが楽な、音も大きくないチョロが欲しいと思った。実際には楽器メーカーが練習用の電子サイレントチェロを販売しているのだが、本物の楽器以上に高価なしろものだ。そんなものが私に買えるはずが無い。というわけで、自作したものです。 糸巻きの部分は壊れたギターの糸巻きを転用。寸法は実際のチョロと同じです。でもまぁ実際にはあまり使っていません。それでも上の↑写真のようにレイアウトすればそれなり見えるでしょう。ということでどこかでまた見てもらいましょうか。 更新時間 : 23:05:28
|
11月29日
(日)
はる 3084 夜から久しぶりに雨になった。少し冷えてきたようだ。 近所にものすごいイルミネーションで家を飾っているオヤジがいる。このところ毎年恒例になっているから、多分彼はいいと思ってやっているのだろう。電気代も馬鹿にならないだろうにと、他人事ながら心配する。普段とてもそんなことに一生懸命になりそうもない極普通のオヤジさんだから、ちょっとたまげるのだな。電飾といえばトラック野郎のけばけばしいイルミネーションを思い出すけれど、まったくそんな感じで家を飾り立てている。 というわけであれを見てしまうと自分家にイルミネーションをという気にはならない。小さく星を飾った。 更新時間 : 22:08:07
|
11月28日 (土)
はる 3083 今日はお休み。 更新時間 : 20:18:09
|
11月27日
(金)
はる 3082 個展が終わってからも結構忙しくて、まだ片付けがすんでいない。いつもはこのまま東京の個展になだれ込んでゆくのだが、今年は年内はこれでお仕舞いになる。 毎年、銀座で個展をはじめて20年以上になる。最初、銀座ワコービルが分からなくて人に聞いたりしたのだから相当なものだ。そんなおのぼりさんでも何回か出かけるとやがてはなれるものだ。今では東京で一番地図がわかっているのは銀座界隈で、はっきり言えばそれ以外はまるっきり分かっていない。 クリスマスの頃の銀座は何となくウキウキする。デパートやお洒落なビルがデコレーションして益々綺麗になる。サンタの格好をした昔ながらのサンドイッチマンがいたり、大きなツリーのイルミネーションがきらきらしたり、街中の雑踏がその時だけは楽しげなバックミュージックになる。子供の頃にクリスマスが待ち遠しかったように、こんなオヤジになってもどこかそんな気分が残っているのが不思議だな。 話題が変わって。 教室でちょっと話題になったんだけれど、絵に額をつけるよね、何故だと思う?まぁ最近は簡単にテープを巻いてすませる人もおおいけれど、額によって作品の印象ががらりと変わったりする。 馬子にも衣装で、単に飾り物なのかということだな。私は随分と前から、これはあちらの世界とこちらの世界、あの世とこの世の境界、すなわち結界だと思って来たんだな。 天地創造のように限られた空間ではあるけれど、作家が思いのまま世界を構築するわけで、他からの影響を極力排除したい。そのためには何らかの意識された境界が必要なわけで、地鎮祭の時に笹を四方に立てて綱を張るように、どこでも好きなところに「わが世界」の穴をうがつわけだ。よほど強固な結界でなければ自分の意志とは裏腹に他の俗な世界がひたひたと押し寄せて来て、ああしろこうしろとかしましい。 個展なんかでもそうなんだけれど、会場内というのはある種日常の空間と異質な空間になるわけだ。会場に一歩足を踏み入れたらそこは作家の意識された特殊な世界に入り込むわけだな。俗な世界と隔絶するためにも何かしらの境界が必要なわけで、絵の場合でいうならそれが額ということになる。 今回ほとんどの額をボックス型の標本箱のようなシンプルなモノにした。デコラティブな古色感のある額も好きなんだけれど、あえてそういった装飾を廃した形にした。 それは絵そのものをストレートに観てもらいたいということも大きいのだけれど、私の場合、絵のサイドも作品になるような気がしてきたからだ。今までの作品を入れ込むタイプの額だと物理的に端っこを何ミリか取られてきゅうくつになる。 そもそも、ルオーのように額も一緒に描きたいと思っている。だからこのタイプの額がまぁ今のところ気に入っている。 更新時間 : 00:07:55
|
11月26日
(木)
はる 3081 午前中は定期検診。午後は知り合いのオヤジさんのお葬式があり、車をとばしてかけつける。ついこの間は若い人の門出に使った礼服を、今日は最後のお別れに使う。 帰りにホームセンターに寄ってコンポストの容器を買う。今まで穴を掘って野菜くずなどの生ゴミはうめていたのだけれど、もう少し効率的に生ゴミの処理が出来ないかということで、コンポストを試してみることにする。上手くするとゴミ処理と堆肥ができるそうだ。そんなに上手く行くのか、少々疑心暗鬼。 今年から裏の畑を借りて本格的というのか、趣味的というのか、農園を始めた。5坪ほどの極小さい畑だけれど、今年はトマトやキュウリ、ナス、ブロッコリー、ジャガイモやにんじん、かぼちゃ。夏にはバジルやルッコラなど大いに楽しく食した。意外にけっこう収穫できるものだな。 これから冬にかけて土を作る作業をしようと思っている。堆肥を出来るだけ自家製のものにしたいのだが、今年はまだ充分に出来ていないのでホームセンターで買ってきた。 とても農作業などという規模ではないけれど、自分達が口にするものを作るというのは、何と魅力的な仕事なんだろう。出来うるならば夏場の野菜や冬の根菜類などを、多少なりとも自分の畑でまかないたい。 「小国寡民」は本当にこれからの日本の生きる指針になるかもしれないな。 更新時間 : 00:00:02
|
11月25日
(水)
はる 3080 引用 「小国寡民」 小国寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徒、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使人復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、鄰国相望、鶏犬之聲相聞、民至老死、不相往来。 小国寡民。什伯の器ありて而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而うして遠く徒らざらしむ。舟輿ありと雖も、之に乗る所無く、甲兵ありと雖もこれを陳ぬる所無し。人をして復縄を結んで而うして之を用いしめ、其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬の声相聞こえて、民は老死に至るまで、相往来せず。 現代語訳 国は小さく住民は少ない(としよう)。軍隊に要する道具はあったとしても使わせないようにし、人民に命をだいじにさせ、遠くへ移住することがないようにさせるならば、船や車はあったところで、それに乗るまでもなく、甲や武器があったところで、それらを並べて見せる機会もない。もう一度、人びとが結んだ縄を(契約に)用いる(太古の)世と(同じく)し、かれらの(まずい)食物をうまいと思わせ、(そまつな)衣服を心地よく感じさせ、(せまい)すまいにおちつかせ、(素朴な)習慣(の生活)を楽しくすごすようにさせる。(そうなれば)隣の国はすぐ見えるところにあって、鶏や犬の鳴く声が聞こえるほどであっても、人民は老いて死ぬまで、(他国の人と)たがいに行き来することもないであろう。 (小川環樹:中公文庫 1997年改版 167P〜168P) 「小国寡民2」 道具というのはある意味で人の機能の延長上にある。スコップは手の土を掘るという機能だし、ぺンチは握るという機能を特化したものだ。やがて車はより速く走るために考え出されたものだ。電話や携帯、pcも大体同じようなものだな。 道具が一つ開発されるとその代りにそれまでそれを生業にしていた仕事がなくなる。昔は家を建てるとなればそれは多くの職人の世話にならなければ出来なかったわけだ。家などという大きなものでなくても日常使うカップやお皿でもどこかの職人が作ったものだったわけだ。それがまぁ機械化というのかオートメーションで同じ意匠のものが捨てるほど作られるわけだ。それで多くの職人の仕事がなくなる。 結局人は、突き詰めて言えば人は仕事をなくす方向を求めてきたことになる。極端な話何もしないでロボットかそれに類する機械が全てのことをやってくれるそんなことを目指してきたのではないかとさえ思われるんだな。で、人は幸せになったか?ということだ。 今の不況というのをじっくり考えてみれば、結局仕事そのものが不足しているのじゃないかな。工業化というのは大きくいえば分業化だな。一人一人は機械の歯車でしかない。チャップリンのモダンタイムスみたいなもので、人間にとっての仕事の意味が単に賃金を稼ぐだけになってしまった。パートタイム、アルバイト、契約社員、派遣、言葉は代わっても仕事の内容は変わらない。時間の切り売りでしかない。 パソコンが出てきて今まで人力でやっていた経理や商品管理、顧客管理もできるようになった。社報やちょっとした報告や印刷は自分でできる。デジカメが普及して町のカメラやサンは必要なくなった。画集を作ったときに感じたのは情報のやり取りがメールで出来るので経費が随分とかからなくなった。これもコンピュータのおかげといえばそうだろう。これでどれだけの仕事を食っただろうか。 仕事という意味をじっくり考えてみると、結局は自分や家族の食い扶持を得る行為だな。 更新時間 : 20:46:01
|
11月24日
(火)
はる 3079 「小国寡民1」 デフレのスパイラルに落ち込んでいるそうだ。具体的にデフレなるものがどういったものかよくは知らない。けれど例えば今まで120円でしか売っていなかった缶コーヒーが100円のところがあらわれて、やがて90円、80円という具合になってゆけば、まぁどんどんと値は下がってゆくでしょうね。120円で売られていた物は当然売れなくなるでしょう。 全てのものがそういった具合に値下がりしはじめると、掛けた労力は同じであるにもかかわらず、トータルで収入が少なくなる。でものが動かない売れないという悪循環に陥るというシナリオらしい。 ただ考えると今回の不況、物が売れないというのはもっと根本的な事が間違えている、おかしいのじゃないかな。どこがというのはうまい説明が出来ないかもしれないが、やってみる。 人はある意味欲のかたまりである。旨いものを食いたいというのも欲ならば、いい生活がしたい、お金が欲しい、etc、etc・・。そういった欲がまぁこの世の中を進歩させてきたわけだから、なまじ否定はできない。 人力でやっていた洗濯を洗濯機が代用する、スコップで掘っていた穴をパワーショベルが簡単にもっとすばやく解決してくれる。車は色んなことを可能にしてくれた。宅急便はすこぶる便利だ。その日のうちに自宅まで荷物を運んでくれる。携帯はいつでもどこでも個人と個人をつなげてくれる。パソコンのネットワークは世界をつなげた。 今までえっちらおっちら運んでいた荷物があっという間に目的地まで運んでくれる。速い安い便利がこの世の中の合言葉であったわけだ。 更新時間 : 20:08:14
|
11月23日
(月)
はる 3078 楽日疲れました。 無事終了しました。昨年お休みしたということもあるのかお客様はかなり多かった。お客さんが一人もいないという時間はほとんど無かった。この場所で毎年開催するということが定着してきたのかもしれない。 写真で分かるように会場には重い木で出来た教会の家具のようなテーブルがあって、老若男女、家族連れや、カップルが三々五々訪れてお茶を飲んだりだべったりしてゆく。この画廊が好きなのはこういったゆったりとしたスペースがあることで、只単に絵だけを見に来るだけではなく、日常の生活の中で絵を見てもらうそんな雰囲気が好きなんだ。高尚な芸術鑑賞、かた苦しい教養ではなく、極普通のありきたりな、いつもの生活の中で絵を見てもらいたいと思っている。かつての教え子が結婚して子供を連れてやってくることも多く、自分達が歳を食ったのも当たり前だなと思う。そんな感傷も好きな時間だ。 どうもありがとうございました。また次回を楽しみにしていてください。 更新時間 : 00:00:46
|
11月22日 (日)
はる 3077 個展7日目 明日で終了です。 更新時間 : 20:21:02
|
11月21日
(土)
はる 3076 個展6日目 今日は教え子の結婚式。夫婦して招待される。まぁ疲れました。 更新時間 : 21:23:58
|
11月20日
(金)
はる 3075 個展5日目 今回も勿論今までと同じように作品を作ってきた。変わったことはほとんどないように感じていたのだけれど、二年ぶりに見るひとはかなりの変化を感じたようだ。多く指摘されるのは色が鮮やかになったということ。使っている色は変わらないわけだから、何かしらどこかの手順が変わったのかもしれない。 今やっているスタイルというのは、誰かの真似をしているのではなく、何となく自分が長い作画生活の中であみ出したというのか行き着いた方法で、どこかに標準的な手法があるわけではない。それゆえに何年か前まではほとんど探り描きのような、試行錯誤を余儀なくされていたように思う。 やっては壊して、壊しては又絵の具を塗りこんで、布を張り込む、そんな繰り返しで自然に厚くなって行ったのだが、そういった手法ゆえどこか野暮ったい、さえない発色もあったように思う。 まぁよく言えばそういった試行錯誤が作家の軌跡を感じさせて好ましく感じられたのかもしれないな。 そういった意味では今のスタイルは完成に近づいてきたのかもしれないな。 更新時間 : 21:11:56
|
11月19日
(木)
はる 3074 個展4日目 昨日はお休みだったのですが、何人かのかたはいらしてくれたようです。すみませんでしたね。というわけで今日は結構なお客様でした。ありがとうございました。 更新時間 : 22:35:43
|
11月18日 (水)
はる 3073 スローフード例会1 更新時間 : 00:51:47
|
11月17日
(火)
はる 3072 個展3日目 今日は学校で、その後会場にいましたが、雨で寒いのでお客さんは少ないようでした。 一人のお客さんは新聞の記事を見て来られて、色々と話をされていった。海外に40年もいったり来たり暮らしていたそうで、私の絵に西欧と東洋をあわせた「祈りのかたち」を感じたと言われて、あと木村忠太だとか香月泰男、タピエス、などの影響を指摘されて、あぁこのオヤジはなかなか分かっているなぁとちょっとドキリとした。ロシアイコンも何点かコレクションしているそうだ。 こんなオヤジが身近にいるということが分かっただけでも今回の個展の成果かもしれないな。ちょっと自慢話が気になると言えばいえるがね。 更新時間 : 21:31:41
|
11月16日
(月)
はる 3071 個展2日目 今日はうす曇。お客さんは多かった。 更新時間 : 21:05:16
|
11月15日
(日)
はる 3070 個展1日目 オープニングパーティ、疲れた。 更新時間 : 00:14:47
|
11月14日
(土)
はる 3069 この『私が全存在をかけて作った作品は、「抹茶ケーキが美味しかった♪」というツブヤキと同程度なのか』という命題は最近まで考えていた話と共通するものがある。というのかそのものかもしれないな。 というのは例の「般若心経」のところで何回も出てきた事柄だな。繰り返しになるけれど書く。 我々人類の歴史はある意味序列をつけること、価値付けること、順番をつけること、名前がついっていなかったあいまいなものに名前を付けること、整理整頓して秩序立てて分かりやすくする事、そんなことを繰り返して人は人間になってきたんだな。 で、確かに今まではそうやってより高いというのか、新しい見方というのか「価値観」を提示して、新しい時代の先鞭をつけた方が勝ちといった風潮があった。二番煎じは全て亜流であって何の権利も無くなる。だからとにかく新しく発見すること、気付くことが最大の目標であって、競争が最大のモチベーションであったわけだ。 そうやって分けたり記憶したり、序列を作ったり、学習する道具の究極的な形がコンピュータだったわけだ。パソコンが出来たおかげでどれだけ仕事がはかどったか、で次にそれらを縦横につないでネットが大きな頭脳に発達してきた。 我々はすでに仮想空間ではあるけれど無限小の0から無限大の∞を知っている。 眠い続く 坂本龍一さんに聞く ネット時代の音楽表現とは http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY200812180219.html 「ネットのおかげで、ぼくはたくさんの人に聞いてもらうことが音楽を作る動機にならないことが逆に分かった。アマチュア時代に戻ったような新鮮な感覚だ。顔の見えない、何をおもしろがるのか分からない大量のユーザーのために音楽を作る必要性を感じない。作りたい音楽があるからやっている。テクノロジーも100%は信用していない。結局はぼく自身の体にしかよりどころはない。自分の耳がどんなメロディーを聴きたいか。それを突き詰めていく」 ――50年後、100年後の音楽はどうなると思いますか? 「CDが完全に消えるとは思わない。人間には、触ることのできるものを持っておきたい欲望がある。ぼくもネット経由で大量にダウンロードする一方、手元に残したい曲はレコードやCDで買う。最近はアナログ版のレコードが売れて、よいビジネスになっている。500部限定の現代詩の詩集と同様、CDやレコードも希少性が強みだ。ぼくも、バッハらの30巻の豪華な全集を作っている」 「それでも、音楽家は、一握りのヒットメーカーを除いて職業とすることは難しくなるだろう。ぼくはメガヒットメーカーには入れない。口うるさい古本屋のオヤジになって、ブログとかを書いているかもしれない。あるいは学校の先生になって音楽について教えているかもしれない」 更新時間 : 11:48:28
|
11月13日 (金)
はる 3068 今日はパス 更新時間 : 00:03:59
|
11月12日
(木)
はる 3067 「私が全存在をかけて作った作品は、「抹茶ケーキが美味しかった♪」というツブヤキと同程度なのか」 あるメルマガを読んでいたらこんなことが書かれていた。何のことか分かりますか?そうネットの情報は無料か?という大きな問題なんだな。 まぁ今までは何かを知ろうとすれば、ある意味本に頼るしかなかったわけだ。だから図書館みたいな知の集積箱のようなものが必要だったし、百科事典のような分厚い本が必要だった。どれだけ蔵書があるかというのが、その人の知の分量でもあったわけだ。だから本にお金を掛ける事をいとわない人も多かった。 ところが、ネットがこれだけ充実してくると何か調べる時にいちいち本に当たることがなくなってしまった。お手軽に簡単にネットで検索すれば、かなり専門的なことでも知ることが出来るんだな。それもここが大事なんだけれど、無料なんだ。 一人の専門化がある時期に全存在をかけた労作がいとも簡単に無料で手に入ってしまう。知の共有化といえばその通りなんだけれど、人間の共有の財産といえばそうなんだけれど、それで一人の専門家が消えてしまう。下世話に言えば食えなくなってしまう。 アニメのキャラクターなんかもそうだな。何万もの作家志望のオタクがいてほんの一握りの才能ある作家が売れるキャラクターを作るんだけれど、成功すればあっという間に亜流で食いつぶされてしまう。 だったらもっと厳格な規律を打ち立てて、著作権を侵犯するものは財産没収で死刑、尚且つ子々孫々末代まで罪に問われるとしたらどうか。 私の予想としてはたぶんそうはならないと思う。なぜならば物事というのは全て楽な方に流れるからだな。規則があれば不規則な方に、秩序があるものは無秩序になるのが自然のながれだかだ。いまある流れをせき止めることは多分できない。世の中の多くの出来事がそれを示している。 最初の話で言えばたぶん全存在を賭けた労作も「抹茶ケーキが美味しかった」というつぶやきも、価値的には同じなんだと思う。全存在を賭けた作品の方が価値があるというのは一方的な思い込みにすぎない。○か×か。求める人によって必要な人には○であり、必要ない人には×となる。全ては等価な並列な関係となるのだろう。それが多分これから迎えるであろう社会だ。 更新時間 : 20:58:27
|
11月11日
(水)
はる 3066 私の生徒操じゅう法は簡単だ。生徒の声を聞く、声をかける、それだけだ。生徒のアイディアなり考えを頭ごなしに否定しない。まずは話を聞く、あとはゆっくり話す。不思議だが、それだけで半年ぐらい付き合うとおとなしくなる。 しかし、見た目には何もしていないように見えるけれど、気力が充実していないと逆効果になる。やる気のない態度、おざなりな言動、引いた気力だとすぐに分かるらしい。その点は彼らは敏感で動物のような感覚を持っている。静かだが気力に満ちた態度、一歩も引かない毅然とした態度でなければすぐにうるさくなる。今日よくても明日はだめかもしれない。生き物相手だからしかたない。 だから40人相手の授業というのは一見静かだが、その実、結構見えない駆け引きをしているように思う。楽そうにみえるけれど、結構疲れる。 新米の教師というものがどうしてもうまく行かないのは、もちろん経験不足というのが大きいけれど、案外それまでに優等生でやってきた人間が教師になるからだろう。彼らはほぼ上から半分のところにいた人間なんだな。言わないでも分かる、学力やその他のことでも充分目立っていた存在で、あえて「私を見て」と言わなくてもそこそこ注目されていたわけだ。 世の中の残り半分は学校生活で辛い想いをしている。特に学力というのははっきりと数字で示されるから残酷だな。選別すること順番をつけること、評価すること、それだけを教師の仕事だと考えているならば、ここで大きなしっぺ返しを食うだろう。 それでも人間が好きなら何とか我慢できる。ものを売ったり買ったり、損だ得だで動かない仕事。そう考えるならば、仕事としてはいい仕事ではないだろうか。 更新時間 : 23:02:16
|
11月10日
(火)
はる 3065 例の整形して逃げていた容疑者がつかまった。まぁあれだけ連日テレビで放映されたら逃げ道は無いだろうなとは思っていた。昔「逃亡者」というテレビ映画があったけれど、現実に日々逃げるだけの生活などなかなか出来るものではない。 更新時間 : 00:37:21
|
11月9日
(月)
はる 3064 「邂逅の森」熊谷達也 なかなか面白かった。かなり厚い文庫本だったけれど、東京往復の電車のなかでほとんど夢中で読んでしまった。以下は気になった個所 ・・人間の欲というものは、やっかいなもんでな。欲を消せば抗うこともしなくなる。・・・山の獣は、人間の欲望で獲るものではなく、山の神様から授けられるものだ・・ ・・山の神様といっても、明確な姿形をもっているわけではない。・・その場その時によっていかようにも姿形を変えるのが、山の神様の本質である・・・・ある時は動物に姿を変え、またある時は木々や森となり、風にも雲にも変化する。ありとあらゆる空間に偏在しつつ、その時のマタギにとって最も分かりやすい姿になって助けてくれるのが、山の神様の実体である。・・ ・・山の神様に守ってもらうには、人間の性である欲深さを封じ込め、意識や感覚を出来うる限り獣の領域まで近づけなくてはならない。・・ 話を変えて 昨日は野暮用で東京にでる。そのついでに三箇所ほど個展会場を覗いた。一つは来年早々にお世話になる銀座松屋デパートの画廊。私と同じキュレータ(企画屋さん)の企画で、盛岡在住の版画家兼ギタリストである大場冨生の個展をやっていた。作家が在廊されていてリクエストしたら気軽に応じて「黒いオルフェ」を演奏してしてくれた。感激!いずれまたどこかでお会いしましょうと約束して次の会場へ。 もう一つはネットでどこで見つけたのかはっきりは憶えていないのだけれど、退職されてから精力的に個展を開催されている作家の個展を見た。アクリル、ペンキ?と紙などをコラージュした作品で古いヨーロッパの石壁とか化石の動物や人物、花のようなものが、所狭しと展示されていて作者のエネルギーが感じられて面白かった。ただこれは誰にでもいえることなんだが、「どうだ俺を見てみてみろ」という声が大き過ぎて、本来の絵のよさである慎ましやかな内なる声が聞きつらい気がした。これからの精進に期待したい。 更新時間 : 19:18:15
|
11月8日 (日)
はる 3063 午前様。 更新時間 : 00:26:44
|
11月7日
(土)
はる 3062 明日は東京です。故に更新はシャメだけですな。 更新時間 : 00:26:28
|
11月6日
(金)
はる 3061 もう随分と何回も書いたんだけれど、永遠とか無限について書こうと思う。ミミタコだから飛ばしてもらってもOKです。 どこまでも細かく分けてゆくとすると、いったいどこまで行くのだろうと考えたことはない?昔は世の中の構成要素として例えば土だとか水だとか火とか風とかそういった極々単純なものを考えていた。でまぁ水は水の分子で出来ていて、さらに水は水素と酸素で出来ていることがわかって、原子は原子核と電子の数で重さが違って色んな原子が見つかる。でまた原子はもっと細かく陽子とか中性子などというもので出来ている。光も小さな素粒子の一つで、なにやらここまで来ると世の中は小さな光の粒の集まりで出来ているような錯覚に陥る。 でまぁ見ることが出来ないのでそれ以上は想像の域を出ないのだけれど、さらにもっと細かくすることが出来るのじゃないだろうかね。ここのところが重要なんだけれど、いくら細かくしたとしても0にはならないということだな。限りなく0に近づいたとしても0にはならない。そういう意味では我々は0を見ることができない。 大きい方も同じ事で無限大というのも見えないのだ。 更新時間 : 23:06:54
|
11月5日
(木)
はる 3060 昨日かな、夜の学校が無かったので早めに帰ってきて、放送大学の番組をコタツに入ってウトウトと観ていた。他に観たいものもない時にはNHK教育が一番面白い。民放は本当につまらない。 で、教育相談の話をやっていて、非行や反社会的な行動の原因みたいなことを真面目くさったオヤジがしゃべっていた。まぁこれも一概には言えないのだけれど、なかなか面白かった。 非行の原因というのは「あるときまで与えられていた愛情が、何かの原因で断ち切られたと感じるストレスが原因である場合が多い」例えば兄弟ができるとか、親の失業とか、不仲、離婚みたいなことらしい。離婚家族がみんな非行に走るかといえばそんなことはないわけで、そこのところを勘違いしないように。 それから面白かったのは、盗癖というのは、色々原因はあるのだろうけれど、突き詰めて行けば「母親の関心を自分に向ける」というのがあるそうだ。それから暴力というのもちょっと屈折しているのだけれど「暴力をふるってもそれに耐えて、忍耐強く待ってくれている母親の愛情が欲しい」ということらしい。何だ、結局はすべてかあさんに見て欲しいというのが根本にあるのだな。自分勝手といえばその通り。けど、あんがい基本はみんなジコチュウだ。 生徒と接していてもよく感じることがある。彼らにとって学校の教師というのは親に次ぐ身近な大人なんだな。まぁ親とは格段にレベルは低いのだけれど、一般のそこらのオヤジやオバハンとは違うわけだ。だからまぁ反発も凄いのだけれど、それも結局「私を見て」の裏返しである場合が多いな。 「おいお前!」というより「おいタツノリ!」と一声かけることで態度ががらりと変わる。「おお、このおっさん俺のこと見てんじゃん!」と感じるわけだ。 大人になっても根本は変わらんな。みんな自分のことを見て欲しいわけだ。 更新時間 : 23:48:56
|
11月4日
(水)
はる 3059 お気に入りのブログに82歳の女性のサイトがある。淡々と「お一人さまの老後」を生きていらっしゃる様子がうかがえて、面白いというのは失礼かもしれないが、なかなか面白い、。普通なら話をすることも聞くことも無いであろう、こういった特別な人でない、何気ない日常が垣間見えるのがブログの面白いところかもしれない。 何日か前の記事にオムツについて書かれていた。赤ん坊のかわいいお尻をカバーするオムツの話ではない。年取って自由が利かなくなって障害が出てきた時の話だ。いずれ我々自身の話になる。 基本の姿勢がいい。身体の機能が落ちてそれをカバーするための道具はなんら恥ずかしいものでないというスタンスだ。例えば目の機能が落ちたらメガネが必要でしょう、耳が不自由になれば補聴器が必要だ。それを恥ずかしい、出来たら見えないようにしたいと思うから肌色のおしゃれでない補聴器しかないと訴えていた。メガネを楽しむように補聴器も色々あってもいいのじゃないかってね。 で、その延長で足が悪くなれば車椅子や杖が必要だ。それを何か隠すような、ないものにするような、見えないようにするのは間違いだな。堂々ともっと言えば反対にそれを楽しむぐらいでちょうどいいのじゃないかってね。オムツもその延長上にあるという考え方だ。なかなか割り切れないものがあるんだけれど、その通りかもしれない。 いずれ我々もどこかに障害がおきて来る。生きるということはそういったこともひっくるめて生きるということなんだ。死は突然訪れるのではない、生の反対が死ではない、我々は段々に死んでいる。生きて来たように死んでゆくのだな。日常が大事。 更新時間 : 23:30:42
|
11月3日
(火)
はる 3058 「般若心経7」 絵画というのは何だろうということを考えたのは、絵を描き始めてまもない頃だ。確かに今目の前にあるものをそのままそっくり写し取るということに確かな手ごたえはあるけれど、これを描いたからといっていったい何が言いたいのか?自分自身明確に答えることができないことに苛立ちをおぼえた。 印象派以降、セザンヌから始まったキュビズムの考え方はよく分かった。絵画は平面の画布に描かれたある秩序に従った色の集合であるという考え方は、純粋な抽象の始まりでもある。そこから絵画は大きく二通りの方向に分かれる。一方は絵画そのものを分解抽象化する方向へ、もう一方は文学や物語、精神世界を表現するシュールリアリズムの方向へ。 分解抽象化する方向からは、材料そのものを問う方法もある。(モノ派などと呼ばれる)布や紙でなくてもいいわけで、木や石やコンクリートその他色んなものを画布として用いる、絵の具も既成の画材屋さんで売られているものではなく、もっと自由に(色の粉)を絵の具として用いるということも可能なわけだ。絵を描くことがすなわちスケッチブックや油絵の道具を購入するということ自体に不自由さが入り込んでいるわけで、ホームセンターの安物の水性ペンキでもダンボールでも一向に構わない。新聞紙だって使い方次第では充分に画材になる。戦後のアメリカの新しい抽象的な作家はそんなところから出てきた。 実際に絵を描かなくても考え方そのものが表現だと考えると、少し前にはやったコンセプチュアルアートということになる。出てきたものには大した意味はなく、ギョッとすること、させることだけが主眼になって、身体を使ったハプニングとか、環境や空間を自らの作品と一体にアレンジするインスタレーション(設置芸術)などというものもある。 最近流行りのフギア。もうここらあたりに来れば、近かすぎて何がいいのか、残るのか、同時代の我々には判断できない。50年後100年後の人間の時代のふるいがかっかてはじめて分かる、そんなものだ。 ちょっと話が飛ぶ まぁ、人は偉くなりすぎたね。分けて分けて、分解して名前を付けて、意味をつけて、それなりに分かった気がしてきた。最たるものが生命の方舟であるところの遺伝子情報の解読かな。けっしてそれが悪いわけではない、人というのは与えられると細かく分けて分析して理解しようとする動物なんだな、そうやって人になってきた。とことん最後まで分子の原子の電子のさらにその奥底まで知ろうとするだろう。 で、探ってさぐってとことん行っても、実はまだその奥があるんだな。だから永久に終わることがない。永遠とか無限ということはそういったことだ。こっれって前にいったフラクタルの法則だな。 実は我々は永遠の無限大と極小の無限大の中間にいる。だから宇宙の果ても見ることが出来ないし、極小のゼロも知ることができない。まぁ我々はそういった存在なんだろう。 無限大から無限小まで実際に並べてみたとする。これを図形化すると無限小はどこまでいっても0にはならない。どこまでも永久に続いているわけだ。これってパソコンのとことで出てきた究極の恐竜の尻尾だ。結局永遠に分けるということは元の混沌に戻るってことだな。 これもまた我々は途中の過程にいる。永遠に分かることはないのだけれど、とにかく途中にいる。遥かかなたに宇宙の地平線に消えかかっている星が見えている。かたや生命の秘密のなぞも見えかかってはいるのだけれど、これもまた永久にたどり着かないだろう。人間とはそんな存在だ。 いいも悪いもない。 「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」 更新時間 : 23:45:38
|
11月2日
(月)
はる 3057 今日は夕方から北風が猛烈に吹いて気温がぐっとさがった。木枯らし一号だそうだ。いよいよ本格的な冬がやってきそうだな。 午前中野暮用があって北のほうに出かけた。紅葉がぼちぼち始まって夏の避暑地はもうすでに冬の景色だ。今回出かけたのはそんな優雅な話ではないのだけれどね。で用事を済ませていざ帰ろうと車をバックして前進にシフトした時にタイヤが異様な音を発した。で、何だろうと降りて確認したら、案の定パンクだった。どこかで釘でも踏んだのか。まぁタイヤ交換ぐらいなら自分で出来なくもないのだけれど、寒いのと少し雨もぱらついてきたということで、JAFのお世話になった。 用意周到というのかJAFはもう20年来の会員になっている。宣伝するわけではないが、どんなに夜遅くても、どこでも会員なら只で来てくれるので、トラぶった時には心強い味方だな。年会費4000円は手ごろだと思うのだけど、会員は減少しているそうだ。これまで3度しか利用していないけれど、まぁ保険みたいなもので使わないならそれに越したことはない。 午後、個展のDMを郵送しました。ニ三日の内に着くと思います。額装も終わったので、後は搬入、飾り付けを待つだけかな。昨年は新聞小説の挿絵展をやったけれど、本格的な個展は開催しませんでした。二年ぶりの個展なのでちょっと楽しみですね。 地元の個展は、コンサートをやったり、ちょっとしたホームパーティをやったり適当に遊べるので、面白い。自分で企画して人を招待して遊ぶわけだから、楽しくなきゃやらない。展覧会の趣旨とはすこし外れるかもしれないが、そう何回もできることでもないし、やれる時にはやるべと思っている。 今回はスペシャルゲストが出演します。お楽しみに。ではでは。 更新時間 : 23:57:09
|
11月1日 (日)
はる 3056 今日は一日クロッキー三昧 更新時間 : 20:18:48
|