2009 8月
8月31日 (月)

はる 2994
 昨日は選挙で地元も大騒ぎだったようだ。歴史的大敗とか勝利とか、まぁいつもいわれている常套句のような気もするけれどね。我々は大体が一元的なものに流れやすい国民性があるのかな、右なら右、左なら左と誰かの意見に惑わされる。

 今ならテレビとかマスコミの意見がそのまま自分の意見だと思っている人が多いな。まぁ洗脳されやすい国民性なんだろう。批判精神というのかな、自分でモノを考えるという習慣がないというのか、教えられていないので、人の意見に従いやすいわけだ。どちらかといえば自分の意見を述べる人は「うるさ型」などといわれて煙たがられる。

 農耕的な民族だから、全てが一列に並んでいっせいに作業する。個の意見はこの場合ほとんど邪魔になる。ただ一つの機械、部品として働いてくれればいいわけで、列を乱すものはとことん嫌われる。村八分になる。これが恐ろしい、いじめだな。だからじっと我慢が尊ばれるわけだ。聖徳太子の十七条の憲法でも一番大事なのは「和」だとあげている。まぁ今それをあらためて読んだけれどほとんどが官僚、役人について述べているんだな、今のお役人さんもよくよく読んで欲しい。

 サッカーなどを見ているとはっきりあれは狩人のスポーツだとわかる。集団で追い込んで一番いいチャンスがあるものが獲物を仕留める。だから誰もが瞬時の判断が要求されるシュートが撃てるわけだ。運動能力というのもあるけれど、まぁ訓練というのか民族のDNAだろうな。同じアジアの中でも韓国人は農耕もやるけれど、どちらかといえば狩人の血が流れている。焼肉(大好きだ)を食ったり、犬を食ったりするのはその証拠だろう(非難しているのではないのでくれぐれも)血が熱い。顔はよく似ているけれど明らかな違いがあるな。

 まぁ最近はさらにおたく化が進んで若い男が植物化しているのでよけいにこういった洗脳現象が起きるのではないだろうかね。ちょっと末恐ろしい気がするのは私だけかね。
2009/08/31 (M

更新時間 : 21:25:37

8月30日 (日)

はる 2993
 お休み

更新時間 : 23:28:02

8月29日 (土)

はる 2992
 ネットが普通の家庭に入り込んで10年ほどになるだろうか。最初は猫も杓子もHPを持とうとした。ホームページさえ持てばお客さんはひきもきらず訪れてくれてさぞかし毎日忙しいだろう。これからの商売はネットを中心に広がって行くのだろうなどと夢のようなことをうたっていた。

 確かにアマゾンやネットオークション会社など色んなところで商売の形は変わってきた。私などもネットの使い方で一番多いのが調べものをする場合だ。検索の仕方にもよるのだろうけれど、探してないものはないというこの膨大な奥深い知識の泉は底なし沼のような魅力にあふれている。

 いままでほとんど顧みられることがなかったような例えば絶版本とか貴重な古本や資料なども、ネットの海では簡単に見つけることができる。ほとんど誰も知らなかった忘れ去られた画家などもこの広い世の中では知っている人がいたりする。これもネットがなければ不可能なことだ。

 数は少ないけれど私のHPを何かの偶然で見つけて何度か足を運んでくれた人もいる。ネットがなければこういった遠く離れた人たちと会うこともなかったろう。

 けれどネットはまだ発展途上のシステムだ、これからどのようになってゆくかは皆目見当がつかない。私の使い方はごく簡単なものだ。一昔前のミニコミ的な発想だと思う。積極的にランキングにでも参加して訪問者を増やせばもう少し活気が出るかもしれないけれど、これでいいと思っている。何らかの形で興味を持ってもらって機会があれば個展に足を運んでもらってみてもらう、そんなアナログでいいと思っている。

 ↑ネットで何が出来るか、ずっと模索していた若い連中が、最近自らキャラクターを考えてアニメーションの動画を始めた。それもストーリーなどを一般から募集してそれをアレンジしてまた投げ返すというような、ネットでしかありえないような仕事を始めた。彼らを見ていると簡単にモノを右から左に動かして利益を得るというのではなくて新しいものを創作して作って行くそんなことに魅力を感じる。そんな中から最近はイベントをやってキャラクターのグッズをうったりCDを作って販売したり。まぁいまのところ何でもやりますみたいだけれど、面白いことやってるなと思う。がんばれ。


更新時間 : 23:07:14

8月28日 (金)

はる 2991
 夏が終わります。どことなく寂しいですな。

 めったにテレビは観ないのだが、ここ四日ばかり井上陽水をやっていたので続けてみた。まぁ彼とはほぼ同じ世代でね、言っていることがよく分かった。最終的にやっぱり歌手は歌が上手くなければ生き残れないのかな、それに何とも詩がシュールで面白い。歌謡曲ふうでありながらほとんど抽象的な言葉遊びをやっている。そんなことができるのも歌が上手いという余裕かもしれんなぁ。

 「最後のニュース」を初めて聞いた時はさすがだなと感動したな。あんなニュースの断片を羅列しただけで何処となく終末観がただよう詩にしてしまうのだから凄いねぇ。「少年時代」も好きな歌でね。何かそんなタイトルの絵を描いたおぼえがある。

 リリー・フランキーと対談していたけれど、あれだけの当たりを取った作家とシンガーでも「禍福はあざなえる縄の如し」というふうなことを言っていた。大きな成功を収めるとそれと同じだけの犠牲も払わなきゃならんということだな。結局幸福と不幸はおなじもので表裏なんだろう。ある一方から見れば幸にみえるものが、反対から見れば不幸だったということだ。

 自分だけ不幸だなどとよく言ったり聞いたりするけれど、それは一方的な見方でね、もしそうしか見えないなら見方が浅いということだろうね。その最中には分からないのだけれど、人生はなかなか面白いしよく出来ている。全てのことはプラスマイナス0、ここでもエネルギー不変の法則は生きている。

更新時間 : 23:20:26

8月27日 (木)

はる 2990
 今日はパス。

更新時間 : 20:15:14

8月26日 (水)

はる 2989
 いよいよ3000のカウントダウンが始まる。だれも待ってはいないし、めでたくもないのだけれどね。しかし何もしないというのも面白くないので、こんなことを考えたがどうだろうか。

 今日より先着10名様に08年制画集「こたえてくださいvol1」をプレゼントします。

 ここに住所、氏名を書いて送り返してください。希望としては、できるだけ私のことを知らない、あったこともない人とのコンタクトが欲しいですね。待ってます。


更新時間 : 21:16:42

8月25日 (火)

はる 2988
 Tさんへのメール
 「さて、Sさんのイラストの件、若干戸惑いましたが見ることが出来ました。お手数すんませんでした。

 内容はどういえばいいのでしょうかね。趣味としてやっているというのであれば充分水準はいっていると思います。また、イラストレータという仕事も、絵が好きであれば誰でもが努力とコネがあればやって行けると思いますよ。絵は充分描けているとおもいますから。スペインの様子がまるっきりわからないので、詳しいことはわかりませんがね。

 ただ、アートということになればこれは何とも分かりませんね。何が芸術か、これも一概にはいえませんから。私は「生き様」だと思っていますから、サラさんがこれからどういった生き方をするか?ということがそのまま芸道になってゆくのだと思います。こんな話は外国人に通用するのかどうかわかりませんが・・」


更新時間 : 22:42:35

8月24日 (月)

はる 2987
 明日から仕事が始まる。長い休み明けは特に嫌だなぁ・・。辞めるのは簡単だけれど、困るのは見えている。不定期のパートとはいえ確実に収入が見込めるのはありがたい。絵はみずものだからね、やってみないと分からない。まぁこんなことをもう30年近くやっている。生徒には申し訳ないけれど、それが私の生き方でもある。

 下手くそなクロッキーを毎回晒している。素人が見ればそこそこかも知れないが、プロがみればなんでもない。これが自慢で載せているわけでもない。誤解しないでほしいね。これが日常だから載せているだけだ。

 本画とまるっきり違う。見て書けばだれでも訓練すれば描けるようにはなるだろう。見ないでもすらすら描ける達人も居る。犬や馬や人物がどこかで見てきたようにすいすいと描ける人もいる。そのことは別にうらやましくはない。人は自分にあった絵をかけばいい。何も見ないで自分の心の中のかたちが描ければいいと思っている。だから上手くなくてもいいのだな。

 ものを見て描く場合は出来るだけ無心にそのままを描くようにしている。



更新時間 : 22:12:33

8月23日 (日)

はる 2986
 Iさんへの返事
「 こんばんは。「如何に住むか?」は「どう生きるか?」とつながっているように思います。どんな壁にするか、カーテンや絨毯、カップやお皿、インテリア、そして花や絵を飾るスペースを考える、などなど。そして最後にはそこでどんな人を招くか、どんな会話がなされるのか、そんなことを想います」


更新時間 : 22:12:54

8月22日 (土)

はる 2985
 今日はパス

更新時間 : 20:17:22

8月21日 (金)

はる 2984
以下二枚の写真は自宅を改装している時の写真です。上は15年ほど前のペンキやの親父の姿です。楽しそうですね。

 こんな写真を引っ張り出してきたのは、つい最近昔の教え子達が結婚してやってきた。学生の頃には気付かなかった諸々のことが、自分達も住む家が欲しいとなると気付くんですな。その時にはただの奇妙なおじさんが、おぉそうやって暮らしていたのか、そんな手もあったのか、なるほどねぇ・・と。で、おもむろにこの写真を見せて自慢するわけだ。あぁ愉快愉快・・。

 飯野さんが今日のブログで「小屋」の話を書いていた。特に関東大震災後すぐの焼け跡に建つバラックの話は面白かった。「・・震災に遭った人たちは、あるだけの材料で、必要最小限の住む家を建てて暮らし始めた。その瞬間を今和次郎はしっかりと描きとった。必要ぎりぎりの、切実な、こんなプリミティブなものこそ美しい・・」


更新時間 : 22:51:32

8月20日 (木)

はる 2983
 今日は東京でちょっと遊ぶ。今尾さんの個展にもちょっと顔を出した。バタバタとすみませんでした。ということで、又明日。


更新時間 : 23:29:51

8月19日 (水)

はる 2982
 今日は教室の生徒達といつもお邪魔している仲間のアトリエを訪ねる。その近くのお寺の山門とその野仏の写真だ。

 有名なお寺の仏さんはいつもどこかで紹介されるけれど、こういった無名?のおてらはの仏さんはメディアにのることもない。けれど、いい表情をしている。何十年もその場所にあって動かず、求めず、ただじっとそこにあるだけだ。遠い祖先の誰かが、だれかのために、だれかを想ってそこに置いたのだけれど、そんな生臭い人の想いも年月がたって風化して、今はただじっとそこにあるだけだ。それもやがては風化して一塊の石になり、砂になってこの世から形そのものは消えてしまう。残るのはそこに何かがあったという気だけだ。そしてやがてそれさえもなくなってしまう。

 形あるものはやがてはなくなってしまう。それは硬い石でも巌でも同じことで、さざれ石が巌になって苔むすことはない。ちょっと横道にそれた。まぁそれが自然の摂理というやつだな。ならば一時にせよ今ある生を出来うる限り謳歌せよということだろう。

 閑話休題
 選挙が始まって巷は騒がしい。うるさいと言っては政治を放棄するのかということに、なるのだけれど、まぁ基本的にはあまり関心はない。棄権はしたことはないのだけれどね。でも裁判員制度にしてもいつのまにか知らないうちに決まっている訳で、こんな大事なことが何の音沙汰もなく決まっている訳で、もっと突き詰めてゆくと知らないうちに戦争に巻き込まれていた、なんていう風になるのじゃないかとちょっと恐ろしい気がするね。まぁ日本は平和ボケしている国だから、ことが切羽詰らないと分からない。

 どこかの党はまるでマンガからストーリーを抜き出したような画期的に分かりやすいお題目を掲げているけれど、この人たちは本当に真剣にこんなことを考えているのだろうか?そんなことが実現できると考えているのだろうか。分かりやすいということは大衆を巻き込むにはとても有効な手段だけれど、分かり易過ぎるという裏には何かしら良からぬたくらみが隠れているのだな。平和ボケしている国だから、案外こんな人たちの言動が世の中を動かすようで怖いなぁ。しっかり眼をひらいで見極めような。
 

更新時間 : 00:44:18

8月18日 (火)

はる 2981
 村松さんがブログを始めた。「心が大事」というブログだ。色んなブログやメルマガがあるけれど、彼の言っていることがいつも素直にコトリとこころに落ちるのは何故かな。難しいことを簡単な日常の言葉で語っているからかな。これからもここからインスパイアされて何かを語って行くのだろう。

 今日は「競争からのドロップアウト」について書かれていた。我々はいつのまにか人と競争することで自分の立ち位置を確認していたところがある。学校生活というのはある意味そういう競争をあおっているところがあって、あおってあおって順番をつける。学校の先生はそれが仕事だと思っている人も多いな。

 一番が居れば必ずびりっけつが居るわけで、分からなかった有象無象の事柄を目に見える、判断しやすい状態にするのが競争だとも言える。まぁそれはある一面でしかないのだけれど、それ以外に全員が納得できる基準というのはなかなか難しいだろうな。職業として公教育の教員をやるならば、ある意味そこらあたりが限界だと思う。個人の能力には色々あって一元的に決めるのは嫌だというのであれば、早々に辞めて自分の主義にあう私立か私塾をやるしかないだろう。

 絵でも同じことで、上手い奴というのはとんでもなくうまいやつというのが居る。上には上がいる。大体アカデミックな学校をでてきた人というのはそういった受験で勝ち残ってきた人たちなので、判断がそこらあたりで止まっている。上手いか下手くそか、上か下か、そんなことで判断する。

 まぁ芸というのはそういった技の良し悪しの面もなくはないので、上手い人はそれを頼りに生きて行けばいいのだけれど、ならば下手くそは生きる道はないのかといえば、どっこいここが芸の面白いところで、いくらでも生きる道が転がっている。むしろ芸の道ではこちらの方が本流で、長くはかかるかもしれないが面白い物が出来る可能性があるようにおもうな。

 このことはもう少し書きたい。

更新時間 : 23:25:43

8月17日 (月)

はる 2980
 お休み。あしからず。

更新時間 : 00:20:32

8月16日 (日)

はる 2979
 これは何枚あるのか、全部で何枚と一応数えて始めた。けれどやっているうちに諦めたり、つぶしたり、もう見たくもないので横にはねているやつなどが出てくるので、総数は分からない。まだまだ仕上がりには遠いけれど、大体全てのものに何かしらの手が入っている。一つ取り上げてコチョコチョやり始めると、他の作品が「こっちにも手を入れてよ」と声をかけてくる。だからまたそちらに、こちらにと落ち着かない。一つを何時間もこね繰り返しているということはない。すぐに飽きる。

 色を塗るのも綺麗に隅からすみまできっちりと塗るのは不得意だ。そんなに集中したくない。適当にフンフンと鼻歌まじりでやる方がむいている。これは芸術だから・・とも思っていない。筆も絵の具もいいかげんなものだ。筆は生徒が捨てて置いたものや、近くのホームセンターの塗装コーナーの刷毛だったり、障子を張る時ののり刷毛だったりする。こだわりというのが少ない。・・こだわらないというのがこだわりかもしれない。

 一生定職に就かないなどと偉そうなこと言ったけれど、実のところ飽きっぽくて同じことが続けられないだけじゃないのか・・。


更新時間 : 22:37:36

8月15日 (土)

はる 2978

 今年は長雨で八月に入っても夏らしい天気が少ない気がする。もうお盆も過ぎた。まだまだ暑いけれど、朝夕は少し過ごしやすくなってきた。上のような入道雲も少ない。子供頃は空を見上げる事が多かった。野原が多かったのか、寝転がって空を見上げて飽きるまで流れる雲を見ていた。

 

更新時間 : 09:43:02

8月14日 (金)

はる 2977
  今日は地域のお祭りで盆踊りをやっている。しかし、何処となく寂しいのは私が歳食ったせいなのかな。屋台が出るのだけれど、これも皆地域の町内会の連中が順番でやっている。まぁだから安いし、安全なんだけれど、お祭りの屋台って何処からとなく集まってきたテキヤの親父の口上が面白かったりしたんだな。がまの油売りとか、見世物とか、どこか怪しげな雰囲気にワクワクしたものだ。これもまぁ自分が子供だったからなのかな。どこか健全になってしまうと「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という感じで、御まじないもきかない。こんなものもどんどんなくなって行くのだろうな。

 話は変わって、少し前に突然「北海道の珍味屋でぇーす」とか言って行商してあるいてお兄さんがいて、何とも不思議な奴がいるものだと話題になったことがある。詳しいことは未だに不明なんだけれど、どうやら新手の新興宗教の活動資金になっているという風なことを聞いた。嘘か本当か分かりませんが・・。でつい最近突然「○○珍味」というのが送られてきた。それも結構たくさんの海産物の干物である。送り主に憶えはない。冷凍庫は一杯でまぁ無理すれば半分くらいは入るのだけれど、あとはご近所に配って食べてもらうしかない。

 で、ちょっと困った。知らない人からの食料品を配って、もし、事故があったら責任とれないなぁ・・。これって新手の詐欺なのか、はたまた新興宗教の勧誘なのか、とすったもんだして結局どうしたと思いますか?

 まぁわかってしまえば笑い話なんだけれど、ネットで「○○珍味」を検索。でようやっと送り主の見当がついたというわけだ。これってやっぱり何か一言添付しなければ、怖いですね。時代が何でもむやみに信用できる時代ではないのでね、特に食品は。


更新時間 : 23:04:29

8月13日 (木)

はる 2976
 お客さんが来ていました。今日はここまで。

更新時間 : 00:07:06

8月12日 (水)

はる 2975
 私の絵は何処までが地塗りか分からない、仕上がったと思った作品も数日経てばその上に新しい作品が登場する場合もある。だから手元にあるうちは終わりがないと思った方がいいかもしれないな。これもいつのまにかこんな描き方になったわけで意識してこうしようと思ったわけではない。

 気をつけていることは一つだけだな。これが上手く説明出来ないのだけれど、やってみる。

 例えば今日の仕事が終わったとするとその時点でその絵は一応何らかの形で完了している。無論途中なんだけれど、途中なりに終わっていなければならない。いつも「全体の中の部分」を意識しているということかな。

 話はまた少し飛ぶけれど、宇宙の構造はフラクタルだという話を書いた。自己相似形、簡単に言えばツルの渦巻きと星雲の渦巻きは同じ原理で出来ているといったこと(これは私の推測で証明されたことではないので人には言わないように)全体と部分は同じ原理で出来ているということだな。

 パネルという一つの閉じられた空間だけれど、これは宇宙と同じだと考える。ここにも大宇宙と同じ原理が存在している。そこからは逃れられない。何か分からない混沌としたものだけれど、画面全体としてはプラスマイナス0の均衡を保ってなければならない。

 「いつも始まりで終わっている」そんな描き方が出来ればいい。


更新時間 : 00:35:39

8月11日 (火)

はる 2974
 今朝は5時ごろ地震で起こされた。震度4ということだから、私が体験したなかでは結構大きい方だ。家が古くてぼろいので壊れないかそれだけが心配だ。最近の耐震設計だったり、ツーバイホーならほとんど心配することもないのだろうけれど、特にアトリエなど和室六畳を二つくっつけたような自己流の改造なので、構造は非常にもろいでしょ。

 住むことは、食べること、装うこと、と同様に大切な人生の要素だと考える。無論いくらでもかけられるだけの贅沢をしろというのではない、今あるだけの材料で出来うる限りの贅沢をして楽しもうというわけだ。ここらあたりがスローフード、ソローライフのコンセプトと重なるところだな。

 お金があれば楽しく生きられるか?といえば必ずしもそうではないということが、そこそこ分かってきた。楽しむすべ、面白がるこころがなければ何をやっても楽しめないのだな。

 家を自分で建ててしまう人たちがいる。一時ハンドメイドハウスに憧れた。山奥に行ってそこにある木を材料に柱を作って泥をこねて壁を作ってという風な家に住みたいと模索したこともある。確かにゆめはあるけれど、家を作ることが自分の夢でもないなぁと思ったんだな。

 どちらかといえば家は自分の生活の手段というのか道具というのかな、そこを使ってどう生活を作って行くかということが目的なんだな。だから色んなことを考えると町中に適当なボロヤを手に入れて自分なりに改装して楽しめれば善しとした。これがまぁ折衷案だったわけだ。今でも間違っていなかったとは思っている。

 閑話休題
 ある女優が死後二週間たって発見されて、「かわいそうな晩年」「孤独死」などと騒がれている。テレビや新聞さえ見ないのだけれど、こういった情報は自然に入ってくるものだ。

 「野垂れ死」というのが理想てきだなとは思っている。借金背負ったり色んなところで迷惑かけるなら別だけれど、誰にも知らせず知られずひっそりと消えて行くのは理想的じゃないかな。よく芸能人で癌を告知して大々的に芸能人として亡くなる人もいるけれど、どうなんだろう?どう死ぬかというのはどう生きるかということと同じことで、ああしろこうしろ言われたくない。

 まぁ彼女がどう思っていたのかは知らないけれど、最近見ないと思ったら亡くなっていたという方が自然ではなかろうか。一人で生きて行くと決めたことはそういうことだろうと思う。
2009/08/11 (Tue

更新時間 : 22:11:02

8月10日 (月)

はる 2973
 又明日。

更新時間 : 22:00:28

8月9日 (日)

はる 2972
 風邪なのか扁桃腺が少しはれて微熱がある。大したことはないけれど、夏風邪は熱くてだるい。少し夏の疲れが出てきたのかな。

 昨日の続きのようだけれど、少し違う話を書こう。日常と言うのはありふれたものだ。だから昔からお祭りがあって、大衆はお祭りの非日常を少し浮かれたようにたのしんだ。どこかで息抜きをしないと良からぬことをしでかしたり考えたりするからだな。

 「はれとけ」って言うんだそうな。ハレ舞台のはれかな。ブラジルのリオのカーニバルなど死人が出たりする。日本でも諏訪の御柱などけが人や死人が出たりする。まぁ元々我々はそんな詰まらんことに命かけたりするんだな。誰も責められない,そういう浮かれ者が人なんだ。

 芸能と言うのは元々巫女みたいなもので、神楽とか舞など遊びから転じた職業だ。今の芸能界はやや違うけれど、「はれとけ」があやふやで、いつもやや興奮気味で、日常生活では飽き足らないと思っているようだな。脳内麻薬ではないけれど、芸能にはそんなものが元々付加されているのじゃないだろうか。どうも紙一重のところがあるように思う。まぁだからといって肯定しているわけではないので、間違わないように。

 よく言われることなんだけれど、例えば酒によって気持ちよくなって書いた文章を人様が読んで気持ちいいか?といえばけっして面白いとはいえない。ここが難しいところなんだけれど、人を酔わせるには自分が酔ってしまっては出来ないのではないかと思うんだな。まぁそれだけではないだろうけれど、適度にアルコールが入ってリラックスするのはいいのだけれど、酔っ払ってしまえばただのクダになってしまう。

 それからもう一つ感じたのは、皆がみな正義の味方のようになって一人をたたくのは我々独特な村意識があるのじゃないかな。どうも世論というのか上手い具合にコントロールされて最初は同情的だったのが、いきなりバッシングの変わるのがこれまた恐ろしいね。

 

更新時間 : 22:08:48

8月8日 (土)

はる 2971
 絵描きとしてはまだまだヒヨッコだと思っている。若くしてさっそうと世の中に出るのも格好はいいけれど、実際に話すぐにネタに尽きるのではないかと他人事ながら考えてしまう。まぁ負け惜しみだと思ってもらってもいいのだけれどね。

 文学賞なども一時はやたらと若い女性にターゲットをしぼって賞を与えていた。話題性はものすごくあるけれど、作家側からすればほとんど使い捨てで無責任この上ないな。まぁそれをきっかけにして長いスタンスで活動できる人もいるかもしれないけれど、まぁかなり難しい。出版社側から言えば一時話題になればそれでいいわけで、長い目で見て作家を育てようなどとは考えていない。

 表現というのは経験とか体験、まぁ実際に経験しなくても読んだとかどこかで聞いたとか見たとか、そんなことが積もり積もって潜在意識の中に入り込んで、自分が経験したことかどうかもわからなくなって、そこからぽっこり顔を出したり引っ込めたりしたものを、すくい集めてふるいにかけて残ったようなものだからね。時間がかかる。青春時代の生々しい経験など、たまには思い出してもいいけれど、あまり見たくもないし、聞きたくもないな。

 そういう意味で今からが面白いなと思っている。決して負け惜しみではなくて、歳を取って行くのがおもしろいと思っている。どんな年寄りになるのか、どんな風にしおれて行くのか、消えて行くのか、自分の経験や体験がどんな風に醗酵して出てくるのか、そんなことがすごく楽しみだ。

 このブログを含めて私という一表現者の生き方をライブで報告して行きたいなと思っている。


更新時間 : 22:29:43

8月7日 (金)

はる 2970
 毎年個展を開催するようになってもう20年ほどになる。よくネタが尽きませんねと言われる。まぁ実際、ネタはもう出し尽くした感はある。しかし、今のような形になるまでは本当にネタに困った。最初の頃は何か実際のものを見てスケッチしたものを元に作品化を図るわけだけれど、そんなものは二度三度描くともうネタに飽きてくる。大体似たような花とか風景とかが並ぶわけだ。

 こういったブログなんかも似ているけれど、何かこれぞと思ったネタを探していると明らかに何処か無理が生じてくる。毎日それほど波乱万丈な生活をしているわけだはないのでね。じつはこういった表現を続けるコツというのか、方法は絵画であろうが文章であろうがとてもよく似ている気がする。

 それは、ごくごく平凡な日常に何かしら書くことが隠れているということだな。それを見つけることができるかどうか、まぁこれも長い間の訓練というのか習慣で身につけることができるように思うけれど、大事なことは「好きである」ということだろうな。好きでなければ続かないし、やっても面白くないだろう。基本は「好き」ということだ。

 波乱万丈の人生も楽しいかもしれないけれど、とても疲れるだろう。若い時は作家はそうあるべきだのように思っていたけれど、まぁそういった作家が居てもいいけれどあまり近づきたくはないな。映画の小津安二郎のように本当に描きたいことは何気ない日常にあるように思うなぁ。奇をてらったものではなく、淡々とした日常にこと宝物が隠れていると思う。妙に演出することはない。

 その隠れた宝物を見つける眼を養うことが大事だろうな。それにはこうやって毎日何かしら書いたり描いたりすることだ。これがネタになる。


更新時間 : 23:25:28

8月6日 (木)

はる 2969
 ドロッピングとはようするに絵の具をたらすことである。最初の頃は確かに下地に絵の具を塗りこんではいたんだけれど塗ったというのか描いた色面というのが段々に違和感をおぼえるようになってきた。何か具体的なものがあってそれを描写するというのであれば描くというのは正しいのだけれど、私の場合最初に何の構想もない。で真新しいキャンバスに向かっても何もでてはこない。出来るだけ画面は汚れていた方がイメージが出て来易いことに気がついた。

 何も具体的なものは描かないのだけれど、出来るだけ自由に筆を遊ばせるにはこのドロッピングが一番いい。偶然に出来た絵の具のシミやかすれやにじみが具体的な物語の種になる。

 絵の強度をたまに質問される。水性の絵の具の特徴は、水を媒体にしているので濃淡が自由であるということと、もう一つは油彩画のように上からくっついているというのでなくしっかりと画面に染み込んでいるというところだな。だから乾くと繊維の中までのりが染み込んで画布と一体なって強固な造形物になる。素人考えだけれど、最近の科学的な物質は知らないけれど、人が作ったものの中で一番強い、変化しにくいものではないかな。特に私の方法は膠ではなくボンドとアクリルメジュームを使用しているのでさらに強いものだろう。このやり方でもう10年経過したけれど、ストックしている作品に剥落やひび割れはない。

 少し前にある雑誌から画材についてのアンケートがあって、具体的に今使っている材料とメーカーを書くように求められたのだけれど、画材もそうだけれど技法というのは表現と一体になっているものであって、今の私のスタイルは私の表現のために少しずつ変化していったものだ。とくに秘密のものはないのだけれどスタイルだけ真似しても意味がないと書いて提出したら採用されなかった。まぁ当たり前だけれどね。
2009/08/06

更新時間 : 22:42:00

8月5日 (水)

はる 2968
 一番最初に絵を買ってくれたのは兄弟だった。今から考えるととんでもなく安い値段だったけれど、それでも絵が売れたことがとても嬉しくて何となく絵描きでやって行けるのかな・・とほのかな希望が持てた。身内に売ったとて、タコが自分の足を食っているみたなもので、やがてはどん詰まりになるのは見えている。でもやっぱりそこから始まるのだな。

 個展をやって他人に絵が売れたときは、絵って売れるんだ!と意外な気がした。誰かの注文で描いたわけでもない自己流の絵が値段がついて売れることが不思議だった。まだ知り合いにしか売れないけれど、親戚から少しは遠くなった。

 でもまぁここからが遠い。見ず知らずの他人が、絵だけ見てそれで買ってくれるということは少ない。何らかの人間関係ができて売れて行くのだな。でもそれはちょっと方向が違うな、勘違いする場合が多い。カルチャーの先生や学校の先生が個展をやって売れるというのは、絵がいいからではないな。単に付き合いだ。これをいくら繰り返しても画家とはいえない。

 名もない、どこの馬の骨か分からない作家の絵を買うのは勇気のいることだ。絵がいいというのは最低限必要条件だろう。それ以外にその作家がどれだけ真剣か、本気か、その生き方に共感できるか、そんなことが条件に加わる。

 絵を購入するのは、自分の価値観と共感できるからだろう。利休が名もない陶工の井戸茶碗にとんでもない価値を見出して善しとした。それまでもそこにあることはあったのだけど、だれも善しとはしなかった。そこに自分なりの価値を見つけたということだな。そこのところが大事だ。


 

更新時間 : 00:26:26

8月4日 (火)

はる 2967
 さて、千葉の作品が戻ってきた。オーナー自らが運転して運んでくるのだから、まずこれほど確かな報告はない。搬入出、飾り付け、DMの制作から発送、接客、営業、全て彼一人でやる。作家は先生面して何日か会場に詰めるだけだ。売れっ子作家ならそれが当たり前なのかもしれないけれど、我々程度の作家ではありえないことだ。これは当たり前ではない、ありがたいことだ、そのことを忘れてはいけない。



更新時間 : 23:22:33

8月3日 (月)

はる 2966
  昨日で銀座のグループ展も終わって、今日はまた千葉の山口画廊の個展も終了した。8/8から8/19まで神戸のギャラリー島田で恒例の小品展を開催します。出品作家の数も100名を越えますが、私も一点出品しています。良かったら見てください。まぁ取り合えずこれで、今年の夏の陣は終了、これから年末から来年にかけての個展の作品にかからなければならない。時間の余裕はそれほどないなぁ。50点から60点以上描かねば間に合わないだろう。

 展覧会はそれぞれに趣旨が異なる。グループ展はメンバーの親睦という意味合いが大きい。本当の趣旨はそこではなくて会の新人の紹介という意味合いが大きいのだけれど、新人と言うには初々しさにかける。みんなもうすでにかなり活動歴をもっているからな。でもまぁそういった意味では面白かった。

 個展は自分の一番大事に展覧会だ。とにかくこれが全てと言っても良い。

 少し疲れた。

 ************
ミニアチュール神戸展
「こころにはなを、」
2009 8/8〜8/19
ギャラリー島田
神戸市中央区山本通2-4-24
078-262-8058


更新時間 : 22:17:59

8月2日 (日)

はる 2965
 今日お江戸から帰りました。

更新時間 : 23:11:09

8月1日 (土)

はる 2964
 まぁ疲れました。

更新時間 : 21:21:53