2009 5月
5月31日 (日)

はる 2903
 日本人は随分と昔からイタリアの歌が好きだった。我々が小さかった頃訳もわからずイタリアのサンレモには世界的に有名な音楽祭があって、日本からザ・ピーナツや伊藤ゆかりが参加したなどということを聞いて、サンレモがどこにあるのかさえ知らないのに彼女たちは大したものだと感心したりしていた。私が子供の頃だったからもう30年も40年も前の話だ。

 ところがこの音楽祭が日本でいえば紅白歌合戦のように毎年未だに続いていて、その音楽祭のCD]も発売されている。日本でいえば札幌音楽祭みたいなもので、一地方の冠をつけてイベントをやるというのはもう随分と昔から行われていることなんだな。

 美術で言えば、ベネチアビエンナーレ「現代美術の祭典」はもう100年の歴史が有る。我々はすぐに効果が出ることしかしないからすぐに行き詰まってしまう。この間の給付金なんかもそうだけれど、今すぐ効果が出るカンフル剤のようなものは、その時は元気になるけれど、すぐ又前よりも悪くなる。息の長い支援みたいなものが本当は一番必要なんだろうな。

 ところで、この「コンテパルテーロ」はオペラなのかカンツーネなのかよく分からないのだけれど、最初に聴いたのはどこだったろうか。段々に盛り上がって行進曲風になってくるところは気分もよくなる。最後歌い上げるところはパバロティーの歌声を思い出させる。何度聴いても感動的だ。聴いてみてくれ。


更新時間 : 11:39:35

5月30日 (土)

はる 2902
 お休みします。

更新時間 : 22:58:36

5月29日 (金)

はる 2901
「心の拠り所1」
 「そのひとが最も関心があることを
その人はやろうとする。

医者が必要な人が医者になり
教育が必要な人が教育者をめざす」

 ということが書かれていた。なるほどなぁ・・そういうことか。自転車にまだよくなれていなくてよたよたと走っていた頃にこんなことは無かったか?向こうに障害物が見える。そちらに行ってはいけないと思えばおもうほど吸い寄せられるようにそれに向かってしまう。やってはいけない、なってはいけない、と意識すればするほどやってしまう。これって何なんだろうか。不安や心配事は結局自分の中にある観念に縛られているに過ぎないのだな。

 私のこの憂鬱な気質がどこから来ているのかと考えると、親や兄弟との関係に行き着く。五人兄弟の末っ子というのは非常に無責任な立場にいる。ほとんど何にも期待されないし、何か責任あることを任されることもない。反対にある一定のルールさえ守っていればそこそこに保護される立場である。それゆえに立場を守るというのか、分をわきまえるというのか、でしゃばった事はしないという非常に保守的な態度を自然に身に付ける。

 それゆえに、私の不安や心配事の原点はそういった保護された、安住の場を失うのではないか?という不安ではないかと思う。どっちつかずのあやふやな立場を快く思うのもそんな日和見的な保身から出てきているように思う。

 長じてこんなでたらめな生活になってしまったのだけれど、多分子供頃からなってはいけない、やってはいけない生活をいつのまにかしてしまっているのだな。その不安から逃れたいために絵を描いているのかもしれないな。


更新時間 : 20:54:09

5月28日 (木)

はる 2900
 何と切りのいいカウントになりましたね。3000の大台ももうすぐです。少しずつ一日一日積み重ねてゆく。このことの意味は大きいですね。往々にして何とか盛り返そうと一日で一週間分など書こうとするともうだめです。こういった日々のメモの意味が無くなってしまうのですな。たった一言でいい。何か残すことです。それが続けるコツです。

 表現というのはそうやって日々何事かを刻みこんでゆくことの中から生まれてくるように思う。絵を描く事でもいいのだけれど、デッサンやスケッチみたいなものは運動みたいなもので、何も考えないでやってもあまり意味が無いように思うな。運動能力はつくかもしれないけれどね。心を耕すというのかな、思索するというのか、茫茫と考えることも必要ですな。一気にやってもだめなんです。継続することに意味がある。

 矛盾するようだけれど、クロッキーなどをやっていて思うことは、これは運動とよく似ている。ずっとやっていないと忘れるというのか、確かに能力が落ちる。楽器なんかもそうだけれど、昔盛んに練習していた時は簡単に弾けたものが、しばらく弾かないと全く忘れていることに愕然とする。で、また少し練習すると感覚は戻ってくるのだけれど、しばらくやると又飽きてきてやらなくなってしまう。そんなことの繰り返しだ。

 登山にたとえると、登っては落っこちてまた登る、そんなことの繰り返しだ。だから一向に高くはならない。だから運動能力というのは日々きたえておく必要がある。

 まぁ頭を練るというのと腕を鍛えるというのと両方必要ということかな・・。ついついサボってしまうのですがね。

 閑話休題
 前から何度かさらした画像もあるけれど、まぁ観る人がみれば私の絵のソースがどこから来ているのか分かると思う。どんな作家も全くオリジナルということはありえなくて、どこからか自分のお気に入りの作品を心のどこかに溜め込んでいる。それが具体的に誰だということはできないかもしれなけれど、確かにあるんだな。それをはっきり意識する、潜在意識に有るものを意識下に呼び戻す必要がある。

 この間の村松さんのメルマガに書いてあったことなんだけれど、例えば作家としてどういう人が有望か?てなことがあった。よくやるのが例えば村上春樹のような文章を書く人はたくさんいる。大事なことは「・・・のような人」はいらないということなんだな。今流行っている作家を真似しても寿命は短い。

 真似するなら最も古いものからもってくることだ。そこにはオリジナルなもの、変わらないもの、またどこにでも有る普遍的な宝物が隠れている。


 そんなことが書かれていて、うんうんとうなずいた。そこのところが大事だな。

 私がこうやって種明かしをしてもいっこうにかまわないのは、そこから何を感じ何を選び取るのかは人それぞれで、それがまた作家そのものだからだろう。真似するならどうぞ御随意に・・。



更新時間 : 23:28:59

5月27日 (水)

はる 2899
  地塗りが終わって、布や土や絵の具を何度か重ねた状態。まだ何を描くのか決まっていない。しかしそうは言いながら、ぼんやりと敦煌の莫高窟やバーミヤンの壁画などの仏や菩薩、もう少し西に出かけてキリスト教のイコンやフレスコ画などがいいなぁと想っている。人が動物から「にんげん」になって、空いてしまった心の内側を埋めるには、どうしても「おおいなるもの」の存在が欠かせない。それがアラーの神なのかイスラムの神なのか古代ギリシャの神々なのか、仏陀や八百万の神なのか知らない。何かそんなものが出てこないか待ち構えている。

で、ゆっくりと現れたのが、こんな人だった。雷が鳴り出したのでここで一先ず終了。

 再開。まぁ途中で泊り込みの仕事があったりしたけれど、ほぼ一ヶ月作品を観ていたことになる。色んなシーンが出てきたり引っ込んだり。人物も10人は出てきた。どれも今の私にはピンと来るものでは無かった。それでも諦めないでからかっていると、突然というのか、偶然と言うのか、形が具体的に見えてくるときが有る。往々にしてあまりに強いイメージは説明画になってすぐに飽きが来る。そんなことを描きたかったのかと自問する。

 まぁそんなところかな。次にタイトルを考える。出来るだけ絵の説明から離れる。離れるのだけれど、それしかないというタイトルが必ず一つは世の中に存在すると信じる。それを見つけるのが作家の仕事でもあるのだ。「私の絵は護符とかイコンのようなもの」ということをどこかで書いた。その言葉が頭に残っていた。それを言葉で言えば何と言うのだろうと考えた。「おまじない」これさえ唱えれば「安心」するというような「秘密の言葉」があればいいなぁ、、などと想ったのだな。そんなところからこのタイトルととなった。


更新時間 : 22:30:56

5月26日 (火)

はる 2898
  「スラムドック・ミリオネラー」を観た。期待はしていなかったが、つまらない映画だった。私に面白さがわからないだけなのかもしれないけれど、昨年度のアカデミー賞がこれだったとはどうしても思えない。テーマというのか何が言いたいのか、インドの混沌とか貧困とか運命とかそんなことが言いたかったのかな。

 そう言えばここではおなじみの義さんの息子さんが映画監督メジャーデビューしました。この夏公開予定だそうです。ちょっとここでリンクしておきますので、観に行けたら是非お願いします。

映画『美代子阿佐ヶ谷気分』公式サイト

更新時間 : 22:21:50

5月25日 (月)

はる 2897
 パス

更新時間 : 20:11:08

5月24日 (日)

はる 2896
  今日は久しぶりのクロッキーだった。モデルにはわるいけれど、胴長寸胴のスタイルは非常に描き易い体型だった。一番描づらいのはファッションモデルのような体型だ。観るのにはきれいだけれど、美しいものではない。そういう意味で今日のモデルはいいモデルだった。ごめん。


更新時間 : 23:34:56

5月23日 (土)

はる 2895
 昨日かな何気に新聞を読んでいたら気になる記事が目についた。こういったものも普段自分が気にしていなければ素通りしてしまうのだが、たまたまというのか今気になっていることと関係があったりすると文字が飛び込んでくるわけだ。普段は見ていても観えず、聞いても聴こえずということだな。

 かの国の除草剤の話。もともと除草剤はベトナム戦争の悪魔の忘れ形見なんだけれど、当時のベトコンのジャングルでのゲリラ戦に往生していた某軍がなんとかジャングルを裸にしたい、それにはジャングルを枯らしてしまえと世に言う「枯葉剤」を飛行機からジャングルに散布した。その後の話は色々あるな。それが元で人間に限らず、奇形の動植物が天から降って沸いたように発生した。それにも関わらずかの国は謝りもしなかった。鬼畜とはだれのことだろう。

 今日の本題はそれではない。その後、枯葉剤は除草剤と名前を変えてどこのホームセンターでも売られている。もちろん何倍も薄められて毒性は枯葉剤の比ではないだろうけれど、それでも何度も何度も繰り返して使えばどうなんだろうか。だれがそのことを知っているのか責任はとれるのか?疑問に思う。またまた横道にそれた。

 で、新聞の話にもどる。遺伝仕組み替えで除草剤に強い植物を作って、実際に今アメリカの農業はそういった植物を農業生産物として作っているそうだ。そういったことならかたちは違うけれど、遺伝子組み替えで芽が出ないようにした馬鈴薯とか虫のつかない大豆とかは聞いたことが有る。

 除草剤に強い遺伝し組替え植物が何故必要かといえば、そういった畑に除草剤を撒けば雑草だけが枯れて必要な植物だけが残るということになる。なるほど、そうかと思うだろう。頭いい。

 ところがどっこい、敵もさるものひっかくもの、除草剤に耐性をもった植物が出てくるそうだ。そりゃそうだろう。ダーウィンを持ち出すまでも無く、進化とは強いものが生き残るわけではない、弱くていつも変化していそういったものが生き残るのだ。

 今回のインフルエンザ騒ぎでも感じたことなんだけれど、ウィルスなどというものは何か他の細胞を媒体として常に変化して、形を変えて生き残って我々を攻撃してくる。そりゃそうだ。彼らにとっては生死をかけた生き残り戦略なのだから、半端なものではない。人類はそうやっていままでも生き残って来たわけで、ウィルスとの戦いは今に始まったことではない。まぁもっと冷静にといいたい。


更新時間 : 21:09:49

5月22日 (金)

はる 2894
 唯一登録しているメルマガがある。村松恒平さんの「秘伝」というやつ。これはほぼ気まぐれに一ヶ月に一度くらいしか配信されてこないけれど、毎回内容の濃いことがかかれている。何度か銀座の個展でお会いしたことも有るのだが、この人とのめぐり合いもネットを通じてであったなぁ。

 彼の文章は簡単な言葉で書かれているけれど、ずばずばと心のどこかに入り込んでくる。編集者であったことから主に小説や文学一般について書かれていることがおおいのだけれど、そっくり絵画とか芸術と置き換えてもすんなり腑に落ちる言葉もある。

 最近きた文章の中に「今の日本は今はやっている事象に全員が集中する」という個所がある。これは小説のジャンルについての質問に答えたものなんだけれど、今回のインフルエンザ騒ぎでも同じことが言えないかね。全員がマスクして通勤通学している写真などを見ると、この国のまじめさというのか均一性というのか、何でも皆と同じでない時と気がすまない、そんな国民性が良くも悪くも感じられて情けないなと思う。まだまだ一人の人間として独立した人格というのか哲学、信仰みたいなものが無いんだな。

 だからたぶんまた、上手く世論をまとめられて戦争になったり、誰かをつるし上げたり、いじめたりするのだろう。どこかの国のように「私はわたし、あなたはあなた」というふうにはなかなかならないのだ。人のうわさとか動向そんなものばかりを気にしている。もっと自尊独立しなければ、芸術を楽しむという気風も生まれにくいだろうな。

 眠いのでおかしな文章だけど、そのままアップします。いつもか?


更新時間 : 21:10:42

5月21日 (木)

はる 2893
 「想えば通ず」ということが時々ある。それがいつもあれば私は天才になれたかもしれないのだが、たまにそこそこだからそこそこでしかない。いや、ひょっとすると私の想いはこんなものだったのかもしれないな。

 人はみな「こうなればいい」「こうありたい」と想うかたちがあるだろう。そう想うだけでだれでもできるのだが、それにむかって努力しつづけることは難しい。色んな障害や困難が待ち構えてはいるのだけれど、それでも尚やりつづけていると少なくとも一歩ずつそれに近づいてゆく。諦めさえしなければね。

 前にも書いたけれど、ギャラリー汲美という画廊があった。あったというのは今はもうなくなってしまったからだけれど、銀座・汲美といえばプロの作家を目指している人や、コレクターには有名だった。オーナーが自分の目で見つけてきた作家を何とか世の中に押し出してゆく、それも相当な水準で認められてゆく確立が高かった。かなり偏向はしていたけれど、もともと画廊など、そういったものだろう。

 画歴とか学歴で人を選ぶことは簡単だ。目にみることが出来るし、相手方にも分かりやすく提示することができる。しかし、作品の質だけで選ぶとなるとこれはなかなか難しいね。多くの画廊やコレクターは案外そういった肩書きを見て安心して付き合うようなところが有る。

更新時間 : 22:26:11

5月20日 (水)

はる 2892
 ちょっと疲れました。

学校がある日は一日学校にいることになるので、楽器を持っていくことにしている。昼間の授業と夜の授業の間はけっこう時間があるために、昼寝して過ごすことが多いのだが、時々楽器に触れる。大してというのか、ほとんど進歩が無いのでチェロをやっていますと言うのが恥ずかしいくらいのものだが、まぁこれも一生続けていこうかなとは思っている。キャリアだけは長いのだよ。しかし、弦楽器は難しいなぁ、上手な人が弾けばただの音階、スケールだけでも美しい音色がする。私が弾けば普通のの音階だ。


更新時間 : 22:01:17

5月19日 (火)

はる 2891
 今日はパス

更新時間 : 23:06:32

5月18日 (月)

はる 2890
 いつのまにかこんな制作風景になった。アトリエに据え置きの大きなイーゼルもあったのだが今は部屋の片隅で埃をかぶっている。特に水性の絵の具を使うようになってパネルを立てて描く事が少なくなった。日本画の作家は畳の上で画面を寝かせて描くのが普通のようだが、私の方法もややそれに近い。

 何故絵を描くのか?そこのところがよく分からない。絵描きになりたいと思って始めたのだけれど、今の私は絵描きなのかどうか、確かに物は作ってはいるけれど、何か具体的に物を描写することはない。私にとっては大事なもの、心の拠り所みたいなものだとは思うのだけれど、いや物そのものがというより描いている、作っているというそのことが、私にとっては慰めになっているように思うのだけれど、それが人様に必要なものかどうかわからないな。

 行者や修行僧が修行の一環として護符とかイコンを描いているのを見たことがあるけれど、あんなのに近いかもしれん。あわよくば人様にも良かれと思うのだ。


更新時間 : 23:06:02

5月17日 (日)

はる 2889
 クリント・イーストウッドのグラントリノを観た。あまり先入観もなく観たために意外に楽しめた。まぁ傑作だというほどの映画ではなかったけれど、DVD化されれたら家で観ればいいだろう。

 しかし、彼の作品は他はローハイドとかマカロニウエスタンなど初期の頃の作品しか観ていないけれど、息の長い俳優だな。若い頃はニヒルな二枚目の役で「夕陽のガンマン」の頃などちょっと流れ者の武士のようで日本人にも受けていたな。

 人は歳を食う。誰もが避けられないことなんだけれど、出来うるなら年取っても恥ずかしくない生き様をしたいものだ。俳優など特に自分をさらす職業だから、その人がどういった人生を歩んできたか如実に出てくる。まぁ面白いといえばおもしろい。

 「最悪でも死ぬだけ」というのはどうだろう。死ぬってことはいずれやってくる現実だからね、縁起でもないと言わないで考えてみようか。考え方によればそう悪いことじゃないように思うんだな。別にそれを礼賛するつもりはないのだけれど、極悪人も守銭奴も善人もまた全てのことが許されてニュートラルな立場になれるというのは救いでもある。何もかもが平等にきれいさっぱり無くなってしまうのだからね。それもまたいいかと思うわけだ。

 この時期にいうのは凄く不謹慎かもしれないけれど、例えばインフルエンザが流行り始めている。みんながこぞってマスクを買い求める。ワクチンを人数分用意しないと不安にかられている。パニックになって潔癖症になっている。それは用心に越したことはないのだけれど、自分が、私だけはというのは凄く醜いなぁ。個体の維持と種族保存いうのは生命の本能だけれど「うろたえない」という哲学というのか生き方、ダンディズムも必要じゃないかと思うんだ。「最悪でも死ぬだけ」だろう。借金を背負う訳でもないし、人様に後ろ指を指されるわけでもない。多少ご迷惑をかけるかもしれないけれどね。

 ちょっとそんなふうに思った。まぁじたばたするとおもうけれど。

更新時間 : 23:02:08

5月16日 (土)

はる 2888
 今日は映画「グラントリノ」を観た。イーストウッドが結構泣かせる。それにしてもいい男も年取ったな。あれだけのビッグネームになってもまだ映画撮りたいんだ。そんなところに感動したね。



更新時間 : 00:04:22

5月15日 (金)

はる 2887
  無為、無作為になろうとしても、まぁ凡人には無理な話だ。人がものを考えるひとになった時点で無為ということはありえない。例えば農業にしても単一の作物だけが繁茂するということは自然界にはありえないことで、そこには何かしらの作為がはたらいているわけだ。

 天然とか自然というけれど、人が修行して近づけるのは有為自然が限界で、全くの天然、無為自然な状態というのは人間といえるのかどうか、そんな人間がそばにいれば周りにとっても迷惑なだけじゃないだろうかね。芸術家というのは多少天然のボケでも許されるところがあるけれど、それでも限界はあるだろうな。あちらの世界に行きっぱなしの人は芸術家とは言えない気がする。普通の人がそこそこの努力をしてあちらとこちらに自由に行き来できるようになるから尊いのじゃないかね。

 絵を描くという行為そのものはめちゃくちゃに作為的な行為だ。無意識に夢遊病のように自動筆記できるといいのかもしれないが、それもまた表現とはいえない気がするな。あくまでも作者は「意識」する。意識はするのだけれど、もう一方でそれを打ち消しているわけだ。

 現れてくるのを待ち構えている。また明日だな。


更新時間 : 23:25:52

5月14日 (木)

はる 2886
 といいながら、わがアトリエを眺めると確かに雑木林の混沌のようだ。狭いものだから物は段々と上に重ねあげられて、一つの壁になっている。奥にあるダンボール箱にはボロ布が色に分けて入っている。これはボロ布というのか、絵の具というのか私にとって画材ではある。この雑然とした混沌にもそれなりのルールがある。ただ単に無秩序に物が置かれているわけではない。「無意識」ではない。ここのところが微妙だな。

 その一定のルールがその人の「好み」とか「嗜好」と微妙に関係する。全く「無意識」というのは自然ではあるけれど創造物ではない。できるなら無意識にあるがままに生きたいとは思うのだけれど、そこはそれ凡人だからどこか意識してしてしまう訳だ。

 何だか分からんようになった。まただな。

更新時間 : 21:54:05

5月13日 (水)

はる 2885
 午後の一時裏庭に日が通る。ここに来た当事あったコデマリは何時の間にか影をひそめて、反対に私たちが植えた青かえでや花桃や豊後うめなどが勢いを増した。大きな金木犀は二階の屋根より大きくなって隣の樋を詰まらせているようだ。今年は何とか少しは剪定したけれど、いつまでこんなことができるのだろうか。それにしてもこんな裏庭でも、春になるといっせいに芽吹いて、毎年五月の新緑の頃は一番美しい。

 ほとんど手入れもしないので、まるで雑木林のようなありさまだ。これから夏になるとやぶ蚊の温床になる。隣近所のはなつまみだろうか。しかし、私はこの混沌とした雑草も含めた雑木林が好きなんだ。何だかどこにでもあるようなしゃれた洋風の庭とか、盆栽のような松や楓が絵のように取り澄ましたような日本庭園など面白くない。消毒も水撒きも施肥もしないので、自然淘汰されていつのまにか消えてしまう木も有る。下草が枯れてやがては自然の堆肥になってゆく。。ときどき繁茂しすぎると剪定する程度。私はただそうなるように見ているだけ。これって私の絵の描き方と似ている。

 庭木もやっぱりその住人を現している。そのことに気づいている人は少ないだろうな。洋服や靴などには気を使うけれど庭の体裁には気配りしないのはおかしいな。絵を描くのと全く同じことだと思うんだ。絵だけ特別おしゃれな絵を描いても実生活がおしゃれじゃなきゃそれは嘘だろう。色んな顔つきをしているけれど、それはまったくあなた自身であり、私自身でもある。どうでもいいならどうでもいい庭になる、その人の好みや嗜好がそのまま出てくるのです。とても興味深くありませんか?


更新時間 : 23:26:56

5月12日 (火)

はる 2884
 今日はパス

更新時間 : 00:11:31

5月11日 (月)

はる 2883
 実は昨日から東京にいる。今日は国展の最終日で色々もろもろの片付け、そして打ち上げなる。カタログのスタッフは8人でかかっている。一時のことではあるがそれなりに一致団結してことにあたる。最盛期には何泊か泊り込みでやる、それゆえ何かしらの連帯感、仲間意識というのが芽生えて、まぁいっとき学生時代のような面白さがある。

 いままであまりそんな風にカタログなどを見たことはないのだけれど、実際はこういったスタッフが影で働いていたわけで、こうやって自分がやってみて初めて分かることも多いな。

 絵描きなどという仕事は、ほとんど自分だけの事だけを考えている自己中な人間で、組織で徒党を組んでやることは不得意な連中なのだが、学生時代や社会生活の中で身に付けておかなくてはならない、徒党を組んでやる楽しさみたいなものを、私などは還暦近くなって初めて知った感じがする。ただやっぱり疲れるなぁ・・。何度もやりたくはない。

更新時間 : 00:18:15

5月10日 (日)

はる 2882
 今日はパス

更新時間 : 20:43:38

5月9日 (土)

はる 2881
 何と言うことはないものだけれど、自分が植えたものと言うのは気になるものだ。大して世話を焼くわけでもないのだけれど、種をまいたものは発芽して、やがては大きく茎や葉っぱを伸ばしていつのまにかそれらしいカタチになってゆく。

 お袋は実家が農家だった割にはお百姓仕事を好まなかった。当時の農家の仕事の過酷さを知っているから、今更お百姓の真似事などしたくなかったのかもしれない。それでも裏庭に小さな畑を作っていたこともあった。きゅうりやトマトイチゴなど季節の野菜をその枝から直接もいで食った覚えがある。時々小さなイチゴを見つけて敷き藁代わりに草を敷いたことなどを思い出す。

 あれからほとんど本格的な畑などしたことはないのだけれど、そんな古い記憶が土を触っているとよみがえってくる。自分にもそんな一面があるんだと今ごろ気が付いた。新しい発見かもしれないな。

更新時間 : 23:11:57

5月8日 (金)

はる 2880
 今日はパス

更新時間 : 00:06:51

5月7日 (木)

はる 2879
 糖尿の試薬というのをご存知かな。まぁそんな心配のない家庭には必要ないものだけれどね。尿に糖が含まれているかどうかと簡単に知ることが出来る便利な道具だ。

 普通健康な人は尿に糖が出ることはめったにない。なぜなら糖は栄養分でもぴか一の栄養素であるわけだから、そう簡単に一度取り込んだものをわざわざ捨てるようなことはしない。生物の身体というものはそういうふうにできている。

 ところが、健康な人でも血糖値が150を超えると自然にオーバーフローで糖が尿に出てきてしまう。普通はそうならないようにインシュリンが出て正常範囲を保つようにコントロールするのだが、その制御が利かなくなって、いつも血糖値が150を超えてしまうのが糖尿病という厄介な病気である。

 食べたものは一度胃でゆっくり消化される。胃は消化だけではなく、腸に行く前のストックの効用もあるわけで、一度に吸収がおこらないようにコントロールされている。特に糖は一番最初に吸収されてまぁ疲れた身体を回復させたりするわけだ。ところが、胃を摘出した場合、食べた物が直接腸に入って吸収される。とどうなるかといえば、血糖値がいきなり150を超えてしまう。で結果的に尿に糖が出てしまうということになる。

 病気ではないのだが、無自覚にこれを長く続けているとインシュリンのコントロールが出来なくなって結果的には擬似的な糖尿病になるらしい。胃を摘出した人が注意するべき事柄の一つらしい。

 そのことは聞いてはいたので知ってはいたけれど、急激な血糖値の上昇でめまいがしたり、また急激な降下で冷や汗がでたりというダンピング症は気にしていたけれど、糖尿は私には関係ないことのように思っていた。

 無計画に、無自覚に、無制限に糖分を摂取することを控えなければならないようだ。まぁいずれにしろ気をつけた方がいい年齢では有る。

更新時間 : 23:26:36

5月6日 (水)

はる 2878
 これは、コラージュをしているところです。インド綿がほとんでですが、自然素材のプリント地を適当に画面に貼り付けてゆきます。まぁいいかげんといえばいいかげんなんです。何が出てくるのか、何描くのかも決めていない。この後水性の絵の具をたらし込んでほとんどプリント模様は見えなくなってしむのですが、どこかでちらちらと見えるのが何かしらのイメージを呼ぶわけです。

 アクリルのエマルジョン樹脂というのはかなり強固な合成樹脂で、木工用のボンドに近い接着力をもつ。こうやって木材と布を交互に張り合わせてゆくと、人が作った造形物としては鉄などの金属などより強固なものが出来るのではないかと思っている。例えば天然の樹脂といえば太古から漆の樹脂とか膠なども天然の樹脂の範疇にはいるだろう。こういった漆器などは長い間土の中に入っていてもほぼそのままの状態で出土したりする。鉄などはさびてぼろぼろになるのに比べてはるかに強固だということになる。

 こうやって布や土や絵の具を幾度もなく張り合わせて何かしらの創造物を作ってゆくと、確かにここにある変わらない手触り、肌触りみたいなものが、何となく心地いい。そういった中から私が描くのではない、見つけた形がイメージとして具体的になってくればいいのかなと思っている。

 私の絵は描かれたものではない。私の絵は絵ではない。


更新時間 : 00:00:56

5月5日 (火)

はる 2877
 銀座のギャラリーを探さなくてはならない。これがなかなか問題だとは思っている。若い頃、そう30代で銀座で個展をやろうと決めた頃は、体力もあって自分なりに履歴や作品集を持って片っ端からたずねて歩いたおぼえがある。今はもうそんな体力は無い。

 むろんその頃は企画になる(画廊のお眼鏡にかなう)とは考えてはいなかったので、お金さえ出せばどこだって出来た。ただこれも問題が多い。銀座には貸し画廊はやたらと多いけれど、安かろう悪かろうではないけれど、無名の作家が名も無い貸し画廊でやっても誰も来てはくれないのだな。

 反対にこちら側が画廊の履歴というのか、これまでにやった作家のメンバーを見て、その中で全部は企画ではないだろうけれど、将来的にその画廊の企画作家になりえるだろうか?ということを考えてゆかねばならない。まぁこれはあくまでも作家として食べてゆこうかと考えた場合だけれどね。

 作家は自分の作品をとことん大事にする。まぁ当然だけれど、それが商品として流通するかと言えばほとんどの場合、値があってないようなものなんだな。ここのところがまことに微妙だ。客観的な値段などないからね。画廊というのはそういったある種の幻を売っているところなんだな。だから普通の商売とはちょっと違う。

 オーナーは自分がこれだと思った作家に眼をつける。そして企画して何年かかけて世の中に認めさせてゆく。まぁそれほど大げさなものでなくても、その作家付のコレクターを作ってゆけばいいわけだ。知ってる人は知っているというので充分だ。そういったものだろう、絵画というものは。どこかの雑誌ではないけれどカタログを作って販売するものではない。

 画廊も商売でやっているわけだから、お互いに持ちつ持たれつの信頼関係が築けるかどうか、はっきり言えば画廊に儲けさせなければ相手も本気にはならないのだな。そこのところを勘違いすると長くは付き合えない。

 長く付き合える画廊を探さなくては。

更新時間 : 23:02:33

5月4日 (月)

はる 2876
 バッハは宇宙の音楽だな。胎児が聞く母親の心音に近いのかもしれないな。今日はFMでバッハの特集をやっていたけれど、ジャズ風にアレンジしてもバッハの真髄は消えない。五百年の時間を一気に旅できる。いい時間を過ごした。

更新時間 : 21:12:41

5月3日 (日)

はる 2875
  忌野清志郎が亡くなった。個人的にはそれほど思い入れもないのだけれど、歌唄いとしてはいつも大衆の側にいて、その姿勢には共感するところがあった。芸能というのは所詮ひかれ者の怨み節のようなところがあってね。体制側からのお墨付きや奨励を受けたものは面白くも可笑しくも無い。まして保護されたものなどいつかは消えてしまう運命にある。

 50代の後半ということで自分と同じ世代であり、彼らが出てきた頃も良く知っているので何となく親近感がある。高田渡などもそうだけど、一時代を築いた彼らもそろそろあちらの世界に旅立つ奴も出てきたな。



更新時間 : 21:06:45

5月2日 (土)

はる 2874
 今日はパス

更新時間 : 23:25:52

5月1日 (金)

はる 2873
 どうやってもいつも主流にはなれない体質というのか、傍流にいる。例えば学校の仕事もそうだ。非常勤などというどっちつかずの立場にいる。まぁそれは自分が選んだことなんだな。

 たとえば病気になる。色んな病気があるけれど、ほとんどは生活習慣がその病気を作っているといえる。脂っこい物が好きでそればかりを食べていると、やがては血栓やコレステロールが血管を詰まらせる。

 生活が不規則で朝寝坊の宵っ張り、これを続けるとほとんどが胃腸を壊す。ストレスということもあるけれど、基本的には消化液のせいではないだろうか。消化器官というものはパブロフを持ち出さなくてもある時間になれば消化液が出るように習慣付けられている。それにもかかわらず不規則な食事時間だと、自らの胃を消化してしまう。やがては潰瘍がおきて放っておけば癌になる。

 病気に限らないのだけれど、病気が一番分かりやすい。今の自分は過去の私の延長上にあるということだ。病気など突然降ってわいた不幸というきもするが、その種はたねはここにある。

 そんなことを考えたのは、つい最近閉じた画廊のクロージングパーティに出た時だ。基本的にこの画廊は有名なS会出身の画家が多かった。むろんいろいろの作家も扱ってはいたけれど、私の属している団体の作家はほとんどいなかった。

 いやだから、自由にものが言えて面白かったんだ。自分の属している会ならなかなか会の主流の作家と話をするなどということはできない。多分自分のせいかくなんだろうな。

 本当は何でも主流にいたほうが発言力にしても地位やその他のことを考えると楽ではあるようにおもうのだけれど、どうしてもどちらにも属さないような無責任な立場を選んでしまうようだ。

 もっと考えてゆくと、その源流は親兄弟との関係まで降りてゆく。私は五人兄弟の末っ子でまぁ言ってみれば味噌っかすなんだな。今でもそうだけれど、兄弟の中では重要な位置にはいない。そんな責任のとれるところにはいつもいない。傍流と言うのかそういった場がここちいいそんな立場に慣れてしまったのじゃないかと思う。

 まぁ今更こんなことを分析しても始まらないのだけれどね。

 一昨日から六本木で展覧会が始まった。で、名札をぶら下げて一般の出品者のコーナーを観て歩いていると、どこからか忍び寄って批評をして下さいと頼まれる。ゆっくり観たいので途中から名札をはずしたのだが、まぁそれは仕事の一部だとは思って答えてはいる。

 何でもかんでも分かっている訳ではむろんない。こんな若造だからね。どう思いますか?って聞かれと、その絵が今のあなた自身でしょうって答える。今までのあなたの集積がそこにあるわけで、絵だけ特別他のものにはなれないし、なっても意味が無い。そのことの意味は大きいと思うんだな。

 上手いとか下手だとかはどうだっていいと思う。あぁこれが今の私なんだと気づくこと。だから自分がそのことに気づかなければ絵も変わりようがないということだな。どれだけ一生懸命講評してもそのことに気づいていなければ、馬耳東風なんだろう。

 出来るだけ無骨に、わざとらしくない、作為的でない、自分が自分がと言うような絵ではない、下手くそな手わざに頼らないそんな絵が描きたい。描けたらいいなぁと思っている。

 そうやって会場全体を眺めると自分の絵を含めて及第点がもらえる作品は少ない。方向は間違っていないきがするのだがな。

更新時間 : 23:44:34