2007 11月
11月30日
(金)
はる 2359 T氏へのメール転載 信仰の心はだれにでもあるように思います。ただ・・教という具体的な宗教ではありませんがね。そこのところが外国からみるとあいまいに見えるかもしれませんね。 初詣やお宮参り、厄払い、地鎮祭など未だに連綿と続いているのですから、これを見れば明らかに何かしらの信心がこの民族にはあるように思います。 私のテーマである「おおいなるもの」というのもそういった目に見えぬ人智を超えた何かを表す言葉で、静かな「いのりのかたち」が描ければいいかなと常々思っています。 更新時間 : 23:53:12
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11月29日 (木)
はる 2358 今日もおいそがし。でお休み。 更新時間 : 01:35:42
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11月28日 (水)
はる 2357 今日はお休み。 更新時間 : 23:01:25
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11月27日
(火)
はる 2356 疲れた。 公募展に出品したいと言ってきた人がいる。まぁ普通は一つの動機になるので奨励するのだけれど、ちょっと訳ありなどで単純に勧められないところがある。 多くの人が勘違いしているところがあるのだけれど、絵描きになることとどこそこの会の会員になることとは違う話なんだな。○○会会員になれば絵で食べて行けるのかといえば,ほとんどの場合難しい。 自称絵描きのほとんどが学校の先生かカルチャーの講師、または予備校か、大学の先生など「教えること」で食べている。まぁそれが悪いことというのではないのだけれど、はっきり言って「絵描き」ではない。 この公募に出品したいと言ってきた人を仮にA氏としよう。Aさんは絵描きになりたいという希望がある。まぁ若い人なら一応美大受験を勧めるのだが、もうそれほど若くもない。 私から見てAさんがこれから絵描きになりたいというのであれば、ダイレクトに個展をして作品を観てもらう、そういった方法が一番手っ取り早いように思えるんだな。今から何年もかかって公募展の会員を目指してもあまり意味がないように思える。 一昔前のように展覧会をやる場所も機会もないという時代なら、団体展に出品して受賞するというのが一つのサクセスの方法であったかもしれないけれど、いまはほとんど見向きもされない。 単に絵描きになるというのであればもっと違う方法があるように思うなぁ。兎に角時間と労力の無駄だ。 更新時間 : 00:18:12
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11月26日
(月)
はる 2355 個展が終了してポッカリと穴があいてしまった。後片付けもしなければならないのだけれど、今日は何もかもほっぽりだしてボーボーしていた。いつもはここから東京展まで一ヶ月もなくて、そりゃもう大騒ぎなんだけれどね、今年は比較的に余裕がある。 今年の個展は比較的に分かりやすいということを聞いた。何がどのように分かりやすいのか具体的な話は聞かなかったのだけれど、自分ではほとんど変化は感じられないので、へぇそうなんだと思った。 まぁそういったことも少し考えてみたい。 更新時間 : 00:02:29
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11月25日
(日)
はる 2354 個展八日目・楽日 甲府個展無事終了しました。ありがとうございました。 更新時間 : 23:15:54
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11月24日
(土)
はる 2353 個展七日目 今日もいい天気だった。 寒山拾得じゃなかったかな。山の中で修行しているのはまだ半端者、本当に悟った人間は町中で箒でも持って掃き掃除をしている。 芸の世界で言ったなら、自分のためだけに描いて、他人と競って「私が,僕が」と言っている間はまだまだだな、本物はだれにでもわかる絵を描いて、それでも圧倒的に魅力的だというのだろう。 どうもね、少し認められると身近なところをおろそかにする人がいる。自分は大物なんだと言わなければ、だれも認められないような人物は大物ではない。本物は例え小学生の絵と並べられても,観る人が観なければ分からない手くそな絵だと思う。 分かりますか?貴方のことです。 更新時間 : 21:24:00
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11月23日
(金)
はる 2352 個展六日目 いよいよ後二日になった。残り少なくなってくると段々と寂しくなってくるのが個展なんだな。 今回はわりと天気には恵まれた。けれどまぁこれも微妙なところがあって、天気が良過ぎて行楽に出掛けられてしまうと,画廊に足を運んでもらえない。 日曜日など休日は案外とお客さんが少ないのは、わざわざ着替えて出かけるのが面倒なんだろうか。そんな心理もわからないでもない。 個展に出かけるというのはどんな気分なんだろう。けっこうワクワク楽しい時間を想像するのだけれど、どうなんだろうか。そんな期待にこたえられているのだろうかねぇ。 まぁ来ていただいた方にはできるだけ失礼のないように心掛けてはいるのだが、不思議なことに混む時は一時なのに、そのときに限ってお客さんが次々といらっしゃるのですね。不愉快な想いで帰られた方もいるかも知れません。この場を借りてお詫びしておきましょう。 さて、明日とあさってで終わりです。是非いらしてくださいな。 更新時間 : 23:28:33
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11月22日
(木)
はる 2351 個展五日目 「誘惑」というタイトルの作品がある。三人の人物が描かれている20号の絵だ。 簡単に解説すると、一人の人物は薄物の腰布を巻いただけの若い女。少し恥じらいながら、一人のおばさんに支えられながら立っている。 もう一人の人物は明らかにその光景を拒絶したように顔をそむけて、あらぬ方向を見ている。 私はこれらを描こうと思って描いてはいない。いたずらに絵の具を乗せているあいだに自然に出てきた形だ。しかし、私に全くない形というのはでて来ないわけで、そこがこの絵の描き方の面白いところで、また怖いところでもある。 私の心の中で「裸の女の人」を登場させたいという気持がどこかにあったと思う。何故なら、このところ裸婦のクロッキーを何回も手がけているし、そろそろ服を着た人物にも飽きてきたというのがある。 で、私が描く世界で裸婦を登場させても違和感がないシーンというのは、例の「マグダラのマリア」の有名な場面だな。「この中で罪を犯したことのない人だけ石を投げなさい」と言われてだれも投げることが出来なかったというところ。 だれもみな欲のない人などいないわけだ。欲を否定することは生きるということも否定することになる。生きることは罪を犯すことでもある。 そんなことを考えながらこの絵を創った。 この絵を観て「マグダラのマリア」ですねと言った人も何人かいる。 ここのところが面白いのだけれど、観る人が「マグダラのマリア」の逸話を知らなければこの話は出てこないわけで、絵を観ることは「自分を観る」ことだという話。 更新時間 : 23:37:35
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11月21日
(水)
はる 2350 例えば美術館などの場合、専門の学芸員などがいて次の展覧会をどうするのか?ということを協議する。まぁそれがその美術館なりの意義であり、今なぜその企画をうつのかというのが、美術館の根幹をなすコンセプトでもあるわけだ。 反対に町の小さな貸し画廊なんかの場合、そんなコンセプトなど全くなくてやりたい者がやりたい時にお金を出しさえすればいつでも出来る。これはまぁ正反対なところにあるわけだけれど、展覧会という形には違いはないわけだ。 作家と言うのはちょっとへそ曲がりな存在で、例えば絵が売れたとか売れなかったということをとやかくいうけれど、それはもちろん大事なことなんだけれど、ただそれだけでいいのか?といえば違うと言いたい。 少しうがった見方をすれば、画廊にとって作家の替えはたくさんあるわけだ。特別わたしでなくてもいい。百人の中の一人に過ぎない。けれど作家にとっては私はわたし一人なんだな。当たり前だけれど。 町の大きな画廊の企画に入ったりすると嬉しいけれど、半面彼らにとって別に私でなくてもいいじゃないの?単に一つの駒じゃないの?駄々をこねたくなる。 まぁお互い様かもしれないね。私は大きな画廊のブランドを借りる代わりに無名の作家として作品を提供する。ギブアンドテイクなのかなぁ・・。 更新時間 : 20:15:48
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11月20日 (火)
はる 2349 個展四日目 明日はお休みです。 更新時間 : 20:47:44
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11月19日
(月)
はる 2348 個展三日目 疲れたなぁ・・。 更新時間 : 00:15:54
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11月18日
(日)
はる 2347 個展二日目 日曜日天気がよすぎて画廊は暇でした。で、又明日。 更新時間 : 23:00:22
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11月17日
(土)
はる 2346 個展第一日目 たまたま、宗教学者の中沢新一さんが立ち寄ってくれた。何処となくやっぱりオーラーがあるなぁ。 後はライブ、楽しかった。 更新時間 : 00:48:47
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11月16日
(金)
はる 2345 搬入陳列が終わりました。いよいよ明日からです。皆さん来て下さい。自分で言うのもおかしいけれど、なかなかいいですよ。 更新時間 : 20:15:50
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11月15日
(木)
はる 2343 今日は通常の定期検診だったのですが、まぁ念のために頭のMRIを受けた。 これは二度目だけれど、まぁ凄い騒音のなかに放り込まれたような凄まじい検査ですな。知っている人はそうそうと思うだろうけれど、ちょっと説明しておきましょう。 普通身体の断層写真はCTといわれるレントゲン撮影します。これはでっかいドーナツのなかに身体ごとは入って行く感じですね。でそのドーナツの部分の中が高速で回って写真を撮るんだな。 しかし、どういう理由なのかわかりませんが、頭はレントゲンではよく分からないのかもしれませんね。でMRIという磁気を使った断層写真をとるようです。 これはヘルメットをかぶってヘッドホーンをします。でその上から金槌でたたくような音と振動がします。身体が軽く縛られているのでほとんど拷問に近いなぁ。 現代音楽でミニマムアートというのを聴いたことがあるのだけれど、同じ人工的なフレーズを百回くらい繰り返す。まったくそんな感じだよ。 しかしね、そんな騒音の中でも私は眠ってしまった。まぁ異常が見つからなければいいのですがね。 明日は搬入です。 更新時間 : 19:07:11
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11月14日
(水)
はる 2342 今日はパートタイムでした。ということで又明日。 学校ではほとんど何もしない。特別指導らしきこともしないし、手を加えることもない。この時期になると大体の生徒は私が何を望んでいるのかということが分かってきて、それに自然に従うというのか、一生懸命制作にのめり込んでいくようだ。 私の授業を見たある先生は荒くれものの生徒がなぜ大人しく制作しているのか不思議に思うらしい。言葉は悪いけれど一種の集団催眠のようなものじゃないだろうか。 「うるさい!」とか「静にしろ!」というのは最終的な脅かしだな。一時の効果はあるけれど、長くは続かない。これは負けなんだ。 強制しないで人を動かす。自らの意思で人を振り向かすには、心を掴まなくてはできない。例えば小さな声でささやくように言うとか、みみをすまして外の音(風の音とか、鳥の声)を聞かせるとか。これってまやかしかもしれないけれど、効果抜群です。 自分のこころの声を聞けとか、けっこう難しいことをほざいているのだけれど、分かっている生徒は少ないでしょう。けど気分や雰囲気は分かるのかもしれない。何か深遠なことを言っているのだなぁ・・・みたいな。「上手い上手い」と、気持ちよくだますというのも必要な手じゃないかな。 更新時間 : 23:27:13
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11月13日
(火)
はる 2341 densinbasiraさんのブログより抜粋 略 我慢強く 忍耐強くカラダにいい聞かせてください。 「大丈夫、大丈夫、安心して」って・・。 怖れモ不安もみーんな自分の意識が 造り出している 幻想です。 それより 体を動かし 大きな声を出して ソシテ たくさんおしゃべりをして エネルギーを出すことです。 エネルギーを出すと、 エネルギーが入り 循環がはじまります。 息をはくと 息を吸うように 人間の生命は循環です。 略 更新時間 : 21:13:30
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11月12日
(月)
はる 2340 骨董屋の親父と、たまたま下町で出会って昼ご飯をご馳走になった。商売が人格をつくるのか、元々の性格が骨董屋的なのか、偏屈なまったくコットウヤ的な人物である。 知り合ったのはもう30年も前になる。下町の一角で骨董屋兼喫茶店をやっていたので、店の壁面を借りて生まれて初めて個展なるものをやったのがこのお店だった。 当時からこめかみに膏薬を張ったりしていたから、相当ふけていたけれど、不思議なことに30年たっても印象は変わらない。口癖で「もう死ぬ、もう死ぬ」とつぶやいていたけれど、あれからもう30年もたってしまった。今日もまた今にも死にそうだった。 彼は何でも知っているけれど、表立って吹聴することはない。にやにやしながら人の話を聞いている。まぁわかりませんがそんな感じがするんですね。それがまぁ骨董やの親父らしい雰囲気をかもし出しているように思う。 今日の話はこんな話。 白隠の画が掛けられていて、画題は布袋さんのような仙人のような人物が一人風にゆられて立っている。ご存知のように布袋さんは奇妙に頭が長い。なぜこんな人物を描いたのか?実際にこういった人物がいたのか?という質問をぶつけた。 エジプトのファラオなんかでもそうだけれど、けっこう頭の長い異形の人物が描かれたり像になったりしている。盲なんかもそうだけれど、神との交感ができる人物というのは他と同じであってはいけない訳で、特に異形の人物というのはある意味神に選ばれた人でもあったわけだ。そういった意味で大切にされたと言うんだな。 それから中国には美しく老いることが尊いという発想がある。兎に角子供と年寄りが尊重されるらしい。 自分の老い先を考える。 更新時間 : 23:43:32
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11月11日
(日)
はる 2339 どういった経緯で私のHPにやってきたのかというのが、検索文字で分かるようになっている。まぁ他のことは全く分かりませんから気にしないで欲しいのだけれどね。まぁ私のページなどたいした数ではありません。 昨日「画家になる方法」という言葉で来ている方がいました。まぁ何か参考になることがあったでしょうか。多少責任を感じますな。でもまぁこんなのは思いつきで書いているので、聞き流してくださいな。 繰り返しになるけれど、画家というのも色々ありまして、兎に角絵を描いてそれを売って生活するというのであれば、例えばイラストレーターとか漫画家とか、挿絵画家、肖像画家、似顔絵描き、変わったところでは友禅とか陶器の絵付け職人とか、そういった職人系がいいと思いますね。 普通に考えている画家という職業は、よく言えば詩人とか文人とか芸人、悪く言えば河原者、遊び人、極道に近く職業として成立するのかどうか、はなはだ心もとない。 生きることを自らを道化にして晒して売ってるわけだからね。だからまぁいつもぎりぎりの所で生きている。それが面白くて楽しめないなら辞めた方がいいですね。他にもっと楽な生き方があるでしょう。 「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という詩がありますが、何処かに逃げ道を残したままじゃ、どこかに嘘がある。 更新時間 : 22:00:08
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11月10日
(土)
はる 2338 長年こうやってだらだらとつまらないような文章を垂れ流している。まぁこれはだれのために書いているのかといえば、第一には自分のためでしょう。自分の覚書みたいなものだ。 けれどそれだけではないわな。自分のためだけじゃたぶんこれだけ続いてはこれなかったようなきもする。たぶんに読者を意識して書いている部分がある。だれが読んでいるのか、闇に一人つぶやいているような手ごたえのなさもあるけれどね。 まぁ何にでもその人物が現れるということだから、絵を描くのもこうやって駄文を書くのも大して違いはないように思う。この駄文の中にも真剣な真実が含まれているちゅうこった。 ということで又明日。 更新時間 : 21:00:43
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11月9日 (金)
はる 2337 今日はお休み 更新時間 : 22:57:18
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11月8日
(木)
はる 2336 今日は県展の当番と授賞式と搬出で一日美術館にいました。学生の頃から県展には出品していて、一番身近に手が届きそうな公募展だった。同じように狙っている仲間がたくさんいて競争するように出品していた。 やがて今度は審査する側になって、教えている生徒が出品してくる。まぁできるだけ客観的にというのは難しいので、生徒の審査には積極的に協力しないようにしている。人情としてどうしても身びいきになってしまうのでね。 大きな団体なんかでも結局は同じでね。学閥や師弟閥や地域閥が大手を振っている。みんな自分の息がかかっている人を優遇してしまうのだ。それはまぁ人情としては分かる。 何にも縛られなく客観的に判断するなどと言うことはなかなか難しいように思う。まぁだから身内には積極的に協力しないというスタンスを取っている。それがいいかどうか分かりませんがね。 ということで又明日。 更新時間 : 23:07:31
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11月7日
(水)
はる 2335 月曜日にDMも出しました。そろそろ着いた頃ではないでしょうかね。額装も終わって、キャプションも作った。あとは前日に運び込んで飾り付けるだけだ。 楽しみにしていて下さい。 ということで今日はおしまい。 更新時間 : 23:13:58
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11月6日
(火)
はる 2334 まぁこういった人生を一つの言葉で言い表すことが出来ないか?というのはもう随分と前から考えていたことで、高校のときにけっこう話の分かる先生に冗談めかして聞いたことがある。 このぐらいの歳の時にはあまり真顔で先生に質問なんか出来ないわけで、まぁおちゃらけて質問するしかなかったんだろうな。で、先生の方もあまり真剣に答えてくれなかったから、お互い様というのか、少々がっかりした。 そのときのことを今でも覚えているわけだから、自分にとっては結構真剣な質問だったんだろう。けれど、今考えてみてもすらすらと回答できる話ではないな。結構奥の深い命題が隠れているわけで、頭の弱い高校生が一晩や二晩考えて回答が出てくるものでもない。 今ならさしずめ何と答えるだろう。 前にも書いたけれど「青春の尻尾」という漫画があった。内容はほとんど忘れてしまったけれど、大体こんな様なことが描かれていた。 人は青年時代に人生について色々考え始める。如何に生きるべきか?とかいい人生とは?愛とは?などなど。しかしそれらすべては回答の出る問題じゃない。世の大人たちは分かったような顔をして生きているけれど、実は何も解決していない。考えること悩むことを止めただけだ。 だから、そういった青臭い回答のないことを考え続けることが大事なんだよ。そういうことことを「青春の尻尾」というんだと。 あぁ分かった「・・・」だ。というのは案外偽物で危険だ。まやかしの新興宗教に近いものがある。大事なのは「こたえてください」と求め続けることじゃないかな。 更新時間 : 19:25:12
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11月5日
(月)
はる 2333 前に「ことばを探す人」というテーマの絵を描いたことがある。大きな辞書のような本を抱えてうつむいて考えこんでいるような絵柄だったように思う。 多分個展のテーマかタイトルでも考えていて、そんな自分自身を投影したしたのがそういった絵になったのだ。その時も絵柄が先に決まっていて後でタイトルをつけたように思う。 今年のテーマである「永遠のかけら」も決まってしまえばそれしかないぴったりの言葉のように思えるけれど、出てくるまでは苦しいものだ。 全体の雰囲気は見えているのだけれど、近づくと消えてしまう幻のようでつかみ所がない。 俳句や短歌など日本にはそういった言葉遊びの伝統があるけれど、短ければ短いほど一つの言葉の重要性が増すわけだ。絵のタイトルやテーマを考えるのは詩人や文人が言葉を探している行為と似ているように思う。 絵のタイトルを考える時もこの絵にはこれしかないという言葉が必ずあるはずだ、出てこないのは見えてないだけだと思っている。 更新時間 : 19:51:21
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11月4日
(日)
はる 2332 「絵を描くことは自分を探る道具だよ」と簡単に答えたけれど、私自身そのことが心の底から理解できたのはつい最近のことのように思う。なかなかそのことが理解できない。 絵を描きはじめた頃、よく考えたことは例えば今ここでリンゴを描いているとしよう。みずみずしいリンゴでとても上手そうだ。で、それをそっくりそのまま見えたように描いたとして、それが一体何なんだ。ということだな。 まぁ最初はそれを描写することが結構面白いし、楽しくはあるのだけれど、やがて何か物足らなくなってくる。 例えば言葉。子供は親の真似をして言葉を覚えてゆく。日常的な言葉が自分の意志を伝えることを体験として知って行く。暑いだ寒いだ腹が減ったとか、面白いとか悲しいとか段々に語彙が増えて複雑な言葉を覚えてゆく。 確かにただ単に日常生活するだけではそれで充分暮らしてゆけるだろう。たとえば学校とか会社とか、試験とか仕事とか、そんなことはそこそこの知識と経験でなんとかやって行けるのだ。それ以上の事はだれも教えてくれないし、ほとんど話題にもならない。必要ないと言えば無駄なことかもしれない。 けれど例えばこうやって生きてきて、後何年生きられるかなどと考えると、自分の感情や気持を何かしらの形で伝えたいとか、残したいとか思わないかい。暑いだ寒いで本当にいいのかい。本当にこのまま終わってしまっていいのかい。 言葉ならことばでもいい。歌でもいい。詩でもいい。もちろん絵ならもっといい。自分の人生全てと引き換えてもいいような「宝物」を探すのだ。これさえ言えれば満足だというもの。それを探すことが自分を見つけることのように思う。 更新時間 : 23:27:13
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11月3日 (土)
はる 2331 本日休業 更新時間 : 00:23:39
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11月2日
(金)
はる 2330 来年の東京の個展のDMも上がってきた。いよいよ来年の話も見えてきたわけだ。まだ今年の展覧会もすんでないのにね。 この間自分の来し方を十年単位ぐらいで考えてみた。30年ほど前にだれも知らないこの地に一人でやって来た。まだ自分が何をしたいのか、どうなって行くのか考えてもいなかった。とりあえず絵を描いてゆこうとは決めていたけれどね。 20年前にはじめて銀座で個展を開催した。絵描きとしてやっと遅まきながらデビューしたということかな。ほとんど身内だけの展覧会だったけれどね。でもまぁ、東京のど真ん中で個展が出来たというだけで満足だった。 10年前に偶然に一年間遊学する機会を得た。まぁ無理やりだったけれど、あのときにしか行けなかっただろう、その後大きな病気をした。そのことも自分の中じゃ大きなできごとだった。 帰国してから油彩画から離れた。ヨーロッパの体験は自分の中のアジアを意識するきっかけとなった。で、現在に至る。 でこれからの10年はどうしようか?ということだな。さしずめ絵描きとして何やかやと一番活動できるときかもしれない。普通のサラリーマンなら引退する時期なんだけれど、こういった芸事はある程度の経験や蓄積が必要でね。 無論若いときにしか出来ない感覚やセンスというものもあるだろうけれど、もうここまできたら「永遠のかけら」を集めるしかない。いけるトコまで行こう。ながくて20年ぐらいか。もっと短いかもしれん。 最後は隠棲してひっそりと朽ちてゆけたらそれでいいと思う。 更新時間 : 23:52:46
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11月1日
(木)
はる 2329 十一月になりました。 ネットというのは便利なようでけっこう誤解を招くことが多いようだ。たとえば「何を考えているんだか」と書いても、顔を見ながら笑っていうのと、声を荒げて語気強く言う場合では受ける印象がまったく逆になる。そういったことが日常的にあるわけだからね、まぁ難しいコミニケーションの道具だわな。 若い絵描きが日常的な悩みや仕事のことについて語っているブログがあった。まぁ第三者的に眺めていてコメントを書くこともなかったのだけれど。最初は自分について批判的なコメントも受け付けますよとオープンなメッセージを書いていたんだけれど、まぁ途中から少し変わってきた。 色々とトラブルがあって気分を害したらしく、ブログを閉鎖することになった。で次は自分にとって都合のいいコメントしか受け付けない閉じられたスタイルにするということだ。 まぁブログなど絵描きにとっては趣味みたいなもので、こんなことに気を紛らわしていること自体本末転倒なのかもしれないけれどね。 元来ネットの面白いところはどこまでもオープンな所で、いいも悪いも並列にあるという所だとおもうんだな。あえて批判的な文章も受け付けると公言していたのに、そうやって狭く閉じてしまうというのは、何かそのオカルト的な秘密結社のようで気持が悪い。 それから、いままで楽しみで読んでいた人間を選別して、自分の都合のいい人だけ残すみたいな態度が傲慢で気に入らない。まぁ高が無料の何でもないブログなんだけれど、多分そういった方向は間違っているように思うな。 更新時間 : 23:22:28
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