2007 9月
9月30日 (日)

はる 2297
 車のタイヤがパンク。タイヤ交換のため、雨の中JAFのお世話になる。無理すれば自分でも出来なくは無いのだけれど、段々力仕事が辛いと思うようになってきた。まぁそれでも昼間なら自分でやったかもしれないけれどね。

 色んな工具をつんだ特別な車で駆けつけてくれる。何だか心強い。あっという間にタイヤ交換をやってくれた。仕事とは言え雨の中ご苦労さんでした。どうもありがとう。

 ついてないなぁ。このところ車のトラブルが多い。気をつけろというサインだな。前に事故ったときもそうだった。注意しよう!

更新時間 : 22:43:01

9月29日 (土)

はる 2296
 団体展に出品する大きな意味は年一度だけれど、売れるとか売れないとか関係なしに大きな作品が発表できるということだろう。売ることだけを考えれば100号以上の絵を描く必要など少ないのだな。私の場合一年の半分は大きな作品にかかわっている。まぁ大きいといっても130号が限界だけれどね。

 でまぁ、団体展に出した作品を誰かが観ているのかといえば、どうなんだろうか。確かに地方も巡回する訳だから、そこそこ多くの人の目には触れるのだけれど、人様が大変感動してメッセージをくれるとか、何かそれで大きなチャンスが訪れるとか、そんなことはあまり期待できない。

 じゃなぜ、瓦礫のような大きな作品を作っているのか?色々な理由はあるのだろうけれど、基本的にはそのことが楽しい、好きだということだろうな。毎回何かしらの新しい試みをして少しでも前に進みたいと思いながら作っている。それが評価されるのかどうか、少し様子見ているところがある。

 団体展の作品は言ってみればあまり外には開かれていない。どちらかと言えば出品者が自分の今の仕事に位置を確認する、そのための機会ととらえた方が正しいかな。年一度のお祭りみたいなものだろう。

 個展だけでそれができるならそれもいいのだけれど、どうしてもね人間流されるから、次第に甘くなってしまうんだな。もう一つはそういった同じ志を持った優れた若い作家に会えるということかな。なかなか一人でやっているとそういった機会は無い。

 まぁそれでも、いずれは大きい作品も描けなくなるだろうからね、描けるうちは描いておこうと思うわけだ。



更新時間 : 22:51:06

9月28日 (金)

はる 2295
 今日は前に70周年の記念画集をつくるために預かっていた故・竹田稔さんの作品を返しに伺った。竹田さんとは生前それほど親しかったわけではなかったけれど、個展には必ず来てくれて何かしらアドバイスをしてくれた。

 美術館で学芸員として働いていた姿が印象に残ってはいるけれど、元々は母校の大先輩で中学校の美術の教員をながくやっていたようだ。人当たりもよくソフトで温厚な人柄で、その絵も竹田さんそのものという感じがしていた。

 ところが,彼のアトリエを拝見してその混沌とした無頼ぶりにビックリした。 アトリエは天井が高くだるまストーブが置いてあって、遠い昔のピカソたちの集団アトリエ「洗濯舟」をほうふつさせる。普段見ない内側を見ることで、先生の絵に対する熱い情熱を感じた。いいアトリエだ。



更新時間 : 23:03:14

9月27日 (木)

はる 2294
 好きな作家には日本画家がけっこういる。高山辰雄もその一人だった。彼は日展の重鎮だったけれど、そういった派閥を超えて最後まで素晴らしい絵を描いていた。本当にいいものは何画であってもいいわけで、そんな絵を死ぬまで描きつづけた彼は絵描きとしても、単に人間としても尊敬に値する。直接本人は知らないのだけれど、一度話をしてみたかった。

 彼の存在を知ったのはいつごろだったろうか。はっきりはおぼえていないのだけれど、私の前に大きな存在として迫ってきたのは、弥生画廊の別館で小川美術館で開催された「聖家族」のシリーズを見てからだ。

 綺麗な風景や人物を描く作家は多いけれど、彼のようにただ綺麗なだけではない日本人の精神性まで降りていった絵を描く作家は少ない。単に写生ではなく自分の根底まで突き詰めてオリジンに触れた貴重な作家だと思う。あそこまで降りてゆければ何画であろうと関係ないね。

 まぁいずれは誰もが老いて、よれよれになって死んで行くのだけれど、本当にいい絵を描きつづけられるならそれも面白いなと思う。老いることはあまり怖くない。何処まで降りて行けるのか、見つめられるのか、そんなことを同じ目線で見ていて欲しい。

更新時間 : 23:59:25

9月26日 (水)

はる 2293
 絵を描いている学生のブログがあって,今のところ書き込みはしないけれど横から眺めている。

 今話題になっているのは、美大をでても絵描きとしてやっていけない。残って絵を描きつづけているやつは100人に一人もいない。就職活動の一かんとして考えるなら、学校のカリキュラムとしてそういった業界の人をよんで講義して欲しいなんて事が書かれていた。

 なんかねぇ、少し違うようなきがするな。反対に学生時代ぐらい売れるとか売れないとか関係なしに自分の思ったまま絵を描けばいいと思う。いずれどうやっても生活を考えなくてはならないのだからね。そこまでせこく売ることを考えなくてもいいのじゃないかな。

 それに卒業生全員が絵描きになったら毎年凄い数の画家が誕生するわけで、絵など描かなくて生きてゆけるならそれはそれでいいのではないか、反対にその後の生活の中で美大で学んだことが、何らかの形で役に立つ時があるでしょう。

 まぁ今の美大なんかは絵描きの専門学校とは考えずに,広く一般教養学科と考えたほうがいいように思うな。

 いつも言うように絵描きというのは「絵を描くという生き方」なのであって、絵を売ることだけを考えるならイラストレーターとか漫画家とかアニメーターとか職人の手書き友禅と焼き物の絵付師とかのほうが向いているように思う。

 まぁライバルは少ない方がいいのでどんどん辞めてもらってけっこうですよ。

更新時間 : 21:49:15

9月25日 (火)

はる 2292
 今日はお仕事、ゆえにパス。

更新時間 : 08:42:51

9月24日 (月)

はる 2291
 以下のことはかなり偏見にみちた発言かもしれないし、無論全ての人に当てはまるわけでもないので、気分を害しても反論は受け付けませんのであしからず。

 学校にAETなる先生が派遣されるようになって何年たつだろうか。ネイティブな英語を実際の耳で聞いて英会話になれて欲しい,あわよくば日本人の欧米人への劣等感を取り除きたいと思ったかどうか、兎に角英語が話せる外国人先生を確保している。

 遠くから見ているだけだから、実際の所は良くわからないのだけれど、はっきり言って充分に活用されているとは思えない。日本人の先生に付いてテープレコーダのようなそんな機械的な扱いしかされていないような気がする。

 大体まだシステムがよく出来ていないところに、まず兎に角外国人の先生を確保するという,でたらめなことをやっている気がするなぁ。こういうのもお役所的な割りふりで、安くない賃金を払っているのだから、なんとかもっと活用してあげて欲しい。彼らにとってもいまの扱いはとても失礼な気がする。

 まぁ簡単に割り切って効率のいいアルバイトと考えて勉強不足の先生もいる。これまた、人のいい日本人は世界で利用されるだけだろう。人がいいなどという言葉は世界であるのだろうか?ただ単にバカということじゃないの。

 英語を話せる外国人といっても色々で、オーストラリアやニュージーランド、イギリス英語に米語、カナダなど色々だ。

 最近まで付き合っていたAETはイギリス人で、彼は非常に勉強家だった。わずか半年ぐらいで日本語がしゃべれるようになり、尊敬語や丁寧語の区別、そして一年ごには外国人の漢字検定にまで受かるようになっていた。最近は若者言葉「マジ」とか「うざい」なども使い分けて、もう電話でも日本人と普通に会話していた。

 まぁ個人の能力ややる気もあるのだろうけれど、何だろう自国に大きな伝統を持っている国民というのは、ある意味で他国の文化にも尊敬の念があるように感じた。自国の文化だけが全てという思い込みがすくない。

 それは今回の戦争なんかでも同じ発想だとおもうんだな。世界を自国のグローバルスタンダードで推し量ってはいけないんだな。

更新時間 : 22:24:16

9月23日 (日)

はる 2290
 今日は一日クロッキー会でした。疲れましたのでパスします。んじゃ。

更新時間 : 22:24:33

9月22日 (土)

はる 2289
 パソコンのメモリー機能の進歩は全く物凄いものがある。まぁデジカメが登場してきたときも、その画素数の増加の度合いがあれよあれよという間であったけれど、まぁメモリー機能の充実はパソコンの大切な能力だからね。

 私のpcにはCDを書き込む装置もなかった。それ故外付けの書き込み装置を別に買わなくてはならなかった。その当時記憶装置はフロッピーディスクが主流でやっとMDとかがでてきたころで、安価に大きな容量で記憶できるCDRは画期的なものだった。

 CDは焼かなければならないので記憶装置としては面倒だったな。今使っているソフトはパケットマンというもので、これはCDをフロッピーのようにどんどん上書き保存できるので便利なんだけれど、互換性が無いために他のpcでは開かないという不自由さがある。

 今日フラッシュメモリー機能の話を聞いてビックリした。今や巷ではこれが主流らしい。小さなステック状のメモリーに1GBの容量が入るらしい。

 しかし残念なことに2000以上でないと対応していないらしい。パソコンも買わなければならんということか。

更新時間 : 23:38:14

9月21日 (金)

はる 2288
 下書き4
         2007個展に寄せて3
「永遠のかけら」     榎並和春
 毎年この時期になると個展のタイトルを考えている。さして代わりばえしないタイトルではあるけれど、一年間の活動報告でもあるので、付き合ってください。

 最初、「顔の見える暮し」ということを考えていた。色々な物が雑多に生活の中に入ってきて、元々の由来がわからなくなってきたというのが、そもそもの始まりだった。

やがて、自分の絵のスタイルも何処からきたのか?ということから「オリジナル」の語源を考えた。「オリジナリティがある」とは、「人とは違っている」とか「独創的だ」というふうに理解されているけれど、元々の意味を考えると「オリジン」とは
「根源」だ。本来そのものが持っているものという意味ではなかろうか。

人との違いということばかりを気にしていたけれど、本当はありとあらゆるところにあるもの、 いつでも、どこにでも、だれにでもあるもの、そんなものを探すべきだと思った。これは新しい発見だった。

見えなかったものが見え、見過ごしていたことに気付く。やがて本来の自分と再会する、そこらあたりに人生の醍醐味がありそうだ。

 さて、今年もそんなことを考えながら「永遠のかけら」を拾い集めてみました。楽しんでもらえると嬉しく思います。
              榎並和春個展
〜永遠のかけら〜
   2007 11/17(土)〜11/25(日)11/21(水)休廊
甲府・ハーパーズ・ミル 
甲府市東光寺町1346 電話055-233-3157

 

更新時間 : 21:11:23

9月20日 (木)

はる 2287
 下書き3
          2007個展に寄せて2
「おおいなるもの」     
 毎年個展のテーマを考える。さして変わり映えしないテーマではあるけれど、今年はこんなこと考えてきたんだよ、という事後報告でもある。

 最初、「顔の見える暮し」というタイトルを考えていた。色々な物が雑多に生活の中に入ってきて、元々は何処から来たのか分からなくなって来たというのが、そもそもの始まりだった。ちょっと今風雑誌のタイトルのようで、違うかなと思った。

自分の絵のスタイルは何処から来たのか?ということで「オリジナル」ということを考えていた。「オリジナリティがある」とは、「人とは違っている」とか「独創的だ」というふうに理解されているけれど、元々の意味を考えると「オリジン」とは「根源」だ。本来そのものが持っているものという意味ではなかろうか。

人との違いということばかりに目を奪われていたけれど、本当はありとあらゆるところにあるもの、 いつでも、どこにでも、だれにでもあるもの、そんなものを探すべきだと思った。これは目からうろこの発見だったなぁ。

見えなかったものが見え、見過ごしていたことに気付く。やがて本来の自分と再会する、そこらあたりに人生の醍醐味がありそうだ。

 さて、今年はそんなことを考えながら「おおいなるもののかけら」を集めてみました。楽しんでもらえると嬉しく思います。

             榎並和春個展
〜おおいなるもの〜
   2007 11/17(土)〜11/25(日)11/21(水)休廊
甲府・ハーパーズ・ミル 
甲府市東光寺町1346 電話055-233-3157


更新時間 : 23:51:31

9月19日 (水)

はる 2286
 下書き2
 「なにげない日々」

 流行り物には凄い力がある。誰かがこれがいいと言ったわけでもないのに、誰もが争って手に入れようとする。「かわいい〜」というやつだ。けれど、流行り物には旬がある。

 反対に変わらないもの、ずっとそこにあるものもある。そういったものは案外気付かないものだ。

 オリジナルということを考えた。「オリジナリティがある」とは、「人とは違っている」とか「独創的だ」というふうに理解されている。

 しかし「オリジン」といは「根源」だ。元々本来そのものが持っているものという意味ではないだろうか。いつでも、どこにでも、だれにでもあるもの、そんなものを見つけたい。

 見えなかったものが見え、見過ごしていたことに気付く。本来の自分と再会する、そこらあたりに人生の醍醐味がありそうだ。

 ゆきつくところはありふれた日々の暮しかな。


更新時間 : 23:51:10

9月18日 (火)

はる 2285
 下書き1
 「ゆきつくところ」
 流行り物には凄い力がある。誰かがこれがいいと言ったわけでもないのに、誰もが争って手に入れようとする。「かわいい〜」というやつだ。

 反対に変わらないもの、ずっとそこにあるもの、というものもある。そういったものは案外気付かないものだ。

 オリジナルということを考えた。「オリジナリティがある」という意味は「人とは違っている」とか「ユニークだ」というふうに理解されている。

 しかし「オリジン」といは「源泉」だ。元々本来そのものが持っているものという意味ではないだろうか。

 見えなかったものが見え、見過ごしていたことに気付く。本来の自分と再会する、そこらあたりに人生の醍醐味がありそうだ。

更新時間 : 23:50:48

9月17日 (月)

はる 2284
 いつも美術館に向かう道筋に東南アジア系の木の雑貨を扱っているお店がある。気に入ったとしてももうほとんど我が家には置くスペースがないので見に行くこともまれなんだけれど、前から目をつけているベンチがあった。

 このベンチはお店の外に花瓶や素焼きのポットを置く台になったりしていたもので、ほとんど雨ざらしになっている。もちろん売り物ではなく値段もついていなかった。

 一見した所、もう本体の木の部分は朽ちて大きな穴があいている。それに別の足をくっつけた本当に素朴な椅子?さわってたたいて確かめないと、ボロボロとくずれてしまいそうなしろものだ。芯の部分はまだしっかりしていて、まだまだ実用に耐えうると判断した。

 こういった椅子は現地では本当に生活の中で使っていたものかもしれないし、上の木だけどこから調達して足をくっつけたものかもしれない。

 アフリカのドゴン族の椅子や生活雑貨,布など素晴らしいものがおおいけれど、まぁこういったものはもう骨董の部類にはいってしまっていて、なかなかいい値段がついている。

 この椅子も値段が着いていないということは交渉次第でビックリするような話になる可能性があるので、まぁおそるおそる聞いてみた。まぁ私の考えてい範ちゅうだったので、交渉成立。手に入れてきたわけだ。うれし!



更新時間 : 19:27:29

9月16日 (日)

はる 2283
 今日は山美のデッサン会だった。疲れたので又明日。

更新時間 : 20:01:58

9月15日 (土)

はる 2282
 彼は週末にはここに来てこつこつと古い家を改造、自分だけのギャラリーにしてしまった。天上も壁も元の面影さえない。一歩中に入れば壁という壁は彼の作品で埋まっていて、この家そのものが彼の作品の一部なんだな。

 

更新時間 : 21:11:16

9月14日 (金)

はる 2281
 今日は暑かったね。

 映画「天然コケッコー」を観た。まぁ日本の今の映画の世界はアニメか、こういった素朴系の作品でしか勝負できないかもしれない。これも原作は漫画だそうだけれど、テレビドラマにしても原作は漫画というのがけっこう多い。そういった意味では漫画の影響というのか、文化的な位置は大きいように思う。

 前にも少し書いたけれど、日本のロボット産業、ひいてはあらゆるハイテク産業の肯定的なベースになっているのは手塚治虫の「鉄腕アトム」のような気がするな。ちょっと話が飛躍し過ぎかもしれないけれどね。

 で、まぁそこそこかな。大傑作とは思わないけれどね。

更新時間 : 22:50:43

9月13日 (木)

はる 2280

 作品というのは一点一点が違っていて当然で、同じ作者だからといって全ていいわけではない。当然駄作もあれば傑作もある。まぁあたりまえのことだけどね。

 問題は、作家にしても見るがわにしても、はっきり言ってその作品が「いいかわるいか」すぐには分からないというところだな。

 まぁ何年か床の間にでも飾ってもらって、ながめているうちに、「あぁこれはいいものだったわいなぁ・・」とわかってくるようなもので、ぱっとみて「これはいい」とはなかなか決められない。(本物というのは案外そんな直感に訴えるもののような気もするけれどね)

 まぁ画家というのは作品を売っている商売だけれど、どちらかといえば「生き方」を見てもらっているようなところもあってね。作品だなんていってるけれど、綺麗で美しいものばかりではない。

更新時間 : 23:32:05

9月12日 (水)

はる 2279
 もうすっかり秋の気配の雲ですね。どこかエルグレコのトレドの風景をほうふつさせます。まぁ実際はそんなに良くはないのだけれどね。日本は四季があって本当に色んな季節が感じられるからいいねぇ。ついこの間まで,熱帯のように暑い暑いと叫んでいたんだけれど、そらもう秋の虫がコロコロと鳴いている。

 そうですね、私も気分転換は下手くそです。はっきり言って気分転換は全く出来ないといっていいかと思います。だからまぁ、こうやって一つのことにこだわってやりつづけられるのかもしれません。

 しかし、日常生活ではできるだけこだわりを捨てるように考えられないかと修行中です。どうでもいいことにあまりにもとらわれすぎて、全く本末転倒、てんやわんや、で頭の中がくしゃくしゃになります。どうにか、なんとか、考えない、捨て去る、いいこぶらない、できる顔をしない、その場で考える、ように修行しています。

 この考えないというのがとても難しい。いつもこう最悪のストーリーを考えてしまう。でその考えに自ら不安になってくずれてしまうんだな。こういう悪循環を取り去りたい。

 「入れるものが無い,両手でうける」という尾崎放哉 の俳句はこの気持にぴったりとはまった。



更新時間 : 23:10:57

9月11日 (火)

はる 2278
 今年のテーマを考えている。基本になることは何ら変化しないのだけれど、何かこれだといった目新しい「ことば」が欲しい。

 以下思いついた言葉を書いていく。
 「オリジン」
 「顔の見える生活」
 「スローライフ」
 「原点回帰」
 「クウネル」
 「日々好日」
 誰もが知っている
 全てのことに共通している
 どこにでもある

更新時間 : 23:46:34

9月10日 (月)

はる 2277
 例えばよく「感性」などという分からない言葉で絵の批評をしたりする。この感性を持ち出してしまえばどんな反論も空しくなるな。まぁ一般に「感性」とは単純に「好き嫌い」と受け止められている。

 以下単に「好き嫌い」です。

 一昨日花のお江戸で商業演劇「ドラクル」を観た。今が旬の海老蔵と宮沢リエのキャストだから、まぁどうやっても話題にはなると思うのだ。場内は凄い熱気で立ち見もあったから、大盛況だった。

 ミーハーな気持で観にいったことは隠せないけれど、まぁそんなに多くのお芝居を観たこともないので、上手い批評はできないけれどね、はっきりいって面白くなかった。

 どうも最後まで物語にのめりこむことができなかったな。普通一箇所ぐらいグッグとくる泣かせどころがあるもんなんだけれど、すらすらと過ぎてしまって、そのまま終わってしまった。まぁカーテンコールもなんだか盛り上がりに欠けたね。

 観客を芝居に引きずり込むことが出来なかったのは脚本のせいか,演出のせいか、俳優のせいか分かりませんけどね。

 悪魔が神に祈り、その悪魔を愛した女の物語というのだけれどね、歌舞伎役者が時々顔を見せてね、十字をきるのだけれど、どうもうそっぽく感じてしまう。

 いい所は無かったのか?といわれると、そう生の音楽はよかったな。カルテットなんだけれど、歌舞伎の音曲のように舞台上で演奏している。臨場感があってあれはなかなか良かった。他舞台の照明とか道具とかシンプルでいいと思ったんだけど。こんな周りを誉めたんじゃ怒られるな。すんません。

更新時間 : 23:25:54

9月9日 (日)

はる 2276
 今日は一日家にいた。

 地方の美術団体の事務局のお手伝いを頼まれる。パソコンが少しできるからということで、何やらかんやらと色々な資料が一つのCDに詰め込まれて手渡された。

 まぁこういった事務的な仕事と言うのは今やパソコンがなくてはできなくなってしまった。一つのチラシをつくるのでさえ、パソコンがなくては出来なくなってしまった。少し前はガリ版でも刷っていたのだろうか。

 昨日は東京にでていた。帰りの山の手線が誰かが線路に立ち入ったということで、15分ほどストップ。どんどんホームに人はあふれてくるし、帰りの電車の時刻はせまってくるし、暑いし、ややイライラとしてくる。

 人が多いということはいろいろ楽しいこともあるけれど、人と人の間隔というのか、入ってきて欲しくない範囲まで他人が入り込んでくるので、それだけでややパニクッテくる。田舎に住んでいるとあれだけまじかに他人の体が迫ってくることはない。だんだん都会の雑踏が耐えられなくなってゆくようだ。

 例えば上野で時間があったので予定に無かったインカ展をみた。誰も見ていないだろうと思って会場につくと、それでも約30分待ちだった。暑いさなかみんな文句も言わず黙って並んでいた。

 会場に入ればこれまたデパートのバーゲンセールのごとくで、人の頭を見ず物を鑑賞することは不可能だった。こんなものは冷房の効いた会場で、ゆっくり鼻突き合わせて静に見たいものだ。何でこんな誰でも面白いとは思わないような物にも人は殺到してくるのだ。と腹立たしくなってさっさと会場をでてしまった。歳とってこらえ性もなくなった。

 ということで、観劇の話は又今度。

 

更新時間 : 00:31:55

9月8日 (土)

はる 2275
 昨日(実は今日は9日になっています)は東京にでて午前様で帰ってきました。まぁ色々見たり聞いたり・・。以下に書き綴っておきましょう。

 上野の国立博物館で「インカ・マヤ・アステカ展」
 銀座にまわって、松屋で「芳村和彦個展」
 スルガ台画廊で国画の仲間のグループ展
 ギャラリー惣「杉浦尚史展」
 渋谷シアターコクーンで「ドラクル」の観劇

 疲れましたが、まぁ気分転換にはなりました。

更新時間 : 10:03:37

9月7日 (金)

はる 2274
 今日は臨時休業日

更新時間 : 22:47:39

9月6日 (木)

はる 2273
 台風です。こちらは久しぶりの直撃のようす。富士山より東側を通るか、西側かそれによって大きく被害がちがう。

 子供頃は台風が来て学校が臨時休校になるのが嬉しかったな。最近はそうでもないけれど、マスコミを含めて何処となくお祭り気分なのは、まぁ我々日本人にとっては年中行事みたいなものでね、神さんが決めたことだから、ジタバタしても始まらんという諦めもあるよな。被害が出ればそんなことも言ってられないのですがね。自分の身に降りかからなきゃ、不謹慎だけどお祭りみたいなもんだ。

 昔はね、家族総出で窓に板を打ち付けたりしたもんだけれど、それも最近じゃ見かけんな。サッシになってしまったからね。窓ごと飛んでしまうなんてことがないのでしょう。

 私の今の家にはまだ雨戸があってね。ほとんど使わないのだけれど、台風のときだけ雨戸を閉めるんだ。そうするとね。家の中はムッとするんだけれど、外の雨の音も小さくなって、何だかね、守られているという気になるんだな,不思議と。

 さて、テレビニュースでも見ながらはやめに寝るか。

更新時間 : 22:06:58

9月5日 (水)

はる 2272
 今年のテーマを考える。「オリジン」という話と「顔のみえる生活」まぁ全く関係のないはなしだけれど、私の中ではつながっている。

 今見えていることだけで済ますのではなくて、その元になることまで戻って考えてみようということかな。そのことが今の私たちの生活のなかで、いいかげんに済まされてきた。

 結果とか効率さえよけりゃいいじゃないか。というのが今までのありかたで、そうやって日本は高度成長してきた。効率や利便性という物差しで、計ってきたんだな。まぁそうだから今の豊かで便利な生活があるんだけれどねぇ。

 人の幸せという単純な物差しで計ったら、どうやらそれだけじゃないんだよなということにやっと気がついて、あたふたとしている。

 なにかしら、いい言葉がみつからないだろうか。

更新時間 : 22:51:22

9月4日 (火)

はる 2271
 今日はお休み。又明日。

更新時間 : 22:49:32

9月3日 (月)

はる 2270
 九月になって急に夜が過ごしやすくなった。今もコロコロと虫が鳴いている。

 この間も人と話していて、まぁ一般に絵描きと言われる人間に期待されいる姿勢というのか態度というのがあってね、まぁ子供の頃から絵が好きだったとか、絵さえ描いていれば文句を言わない少年だったとか、寡黙でナイーブな自分だけの世界を持っているとか、そうあってほしいということも含めて、そう期待されているように感じる。

 そういったイメージはどこから来るのか知らないけれど、アニメーションとか漫画を描いているオタッキーな子供たちと重なるなぁ。

 少し前にも書いたけれど、そういった幻想というのか、ある種の夢は壊さない方がいいのかもしれないけれど、私に限っては全く違うと言ってもいいように思う。

更新時間 : 22:36:48

9月2日 (日)

はる 2269
 清里フォトミュージアムと言う所に出かけた。これがまぁ凄く美しいところで、鬱蒼とした森の中に忽然と安藤さんぽい建物がでてくる。ほとんど人の気配が無いにもかかわらず、きれいに整頓されていて無機的な空間を森の気配が埋めている。これほど人工的な空間はないのではないかな。

 ジャズピアニストのウォン・ウィンツァン のコンサートを聴きに出かけたのだ。彼の即興音楽は森の風のように美しく、こころを和ませてくれる。彼との出会いは昔たまたま訪ねたお店のBJMで流れていた音楽に心ひかれたとことからだ。市販されていないということで、取り寄せた。それ以来個展の会場で流すことが多い。



更新時間 : 22:34:26

9月1日 (土)

はる 2268
 さて、九月になりました。

更新時間 : 21:33:18