2007 7月
7月31日 (火)

はる 2236
 今日で七月も終わりです。夏は始まったばかりですが、はじまると終わりが見えるのですね。なにやら禅問答のようですが。

 例えば子供の頃を思い出してほしいのですが、夏休みというのは楽しいのは最初の一週間、七月中だけなんですね。その後にまだ一ヶ月の休みがあるからなんですが、何となくうすら寂しいのです。特にお盆を超えると急速に夏の終わりが追いかけてくる気がします。

 夏の終わりは、祭りの後の寂しさにいてますね。じゃ祭りなど止めりゃいいのだけれど、その時はそれはそれで楽しかったりするんですね。

 夏祭りなどただ屋台があるだけなんだけれど、それでも浴衣着て出かけたりした。ちょっと小遣いもらって、つまらない駄菓子買ったり、お店をひやかしたり、そんなことが楽しかった。

 人生も半ば過ぎるとはやいです。若い頃は終末など考えなかったな、当たり前だけど。でもまぁ、うすら寂しいけど、そう悲観的でもない。けっこうこうやって色々楽しかったことを思い出しては、にやにやしている。

 今小品を描いている。で、結局はそんな今まで生きてきたことを絵にするしかない。いい絵を観てうらやましいなぁ・・、うまいなぁ・・どうやればこんな絵が描けるのか?などと感じ入るんだけれど、とことん突き詰めると、自分に無いものは描いても意味ないなぁという結論になる。

 つまらないぼやきになってしまった。んじゃ又明日。

更新時間 : 22:43:58

7月30日 (月)

はる 2235
 今日は朝から荒れ模様。午後からお日様も出てきましたが、夜は又雷がなってます。奇妙な天気でした。

更新時間 : 22:39:36

7月29日 (日)

はる 2234
 ルッコラとバジル、今年はインゲンとキュウリとトマトをコンテナ栽培した。ルッコラは今第三陣目が食べごろになって来た。私ができる畑仕事などこんなものかもしれないが、毎朝ルッコラとバジルとトマトの新鮮なサラダが食べられるのは贅沢だなぁ。

 植物はすごいと思う。あんな小さな種の中にどうしてあんなにビックリするぐらいの生命が隠れているのだろう。特につる性の植物はまるで目があるかのように相手に巻きついて自分を支える。一体誰が教えたのだ!

 無機物をいくら集めても有機物は生まれない。ところが今までに一度だけ無から有が生まれたことがある。何を隠そう生命の発生だ。そこから何億年もかかってやっとここまで来た。けれどなぁ、人類ができたばっかりに地球は風前の灯火だ。

 まぁ宇宙の時間からみれば、人類なんて消えても何でもないことだけれどね。その前もその後も悠久の時間が流れているだけだ。

 さて、又明日。

更新時間 : 20:46:41

7月28日 (土)

はる 2233
 明日は選挙だ。こう見えて昔から特別な理由がないかぎり棄権したことが無い。当たり前といえば当たり前の話ですが、案外少ないのではないかな。

 それにしても政治の意識と言うのが低い国民だと思うな。まぁ偉そうなことがいえたぎりではないのだけれど、例えばこうやって選挙運動のシステム一つをとってみても、旧態然としていて進歩が無い。選挙カーで候補者の氏名をがなりたてるだけだ。あれで何ほどのことが分かるのだろうか。

 今のシステムをみていると、何が何でも数がなければ何も出来ないようになっている。もっとも政治というのはそういったものなのかな。日本の国会中継などをみていると、あれは茶番でしかない。質問事項も解答も本会議までには決まっていて、あとは本番でしくじらないようにつじつま合わせに始終している。

 裸の王様という話があったけれど、誰が見てもあれではだめだと分かっているのに変えられない。変えようとしない。この国は潰れるだろうな。

 それともう一つ。全体として日本人は真面目で勤勉だと思うんだな。与えられた仕事はわりときっちりこなす。そういった能力は秀でていると思う。けれど、それがいいほうに働いている場合はいいのだけれど、悪いようにはたらいてしまうと、融通のきかない、効率の悪い、お役所仕事となってしまう。

 責任の所在というのがあやふやだ。みんな自分がかわいいもんだから、責任逃ればかりしている。自分の役の時にトラブルがおきないように,自分の経歴に傷がつかないようにそればかり願っている。何も無くて当たり前、何かトラブルがあったら、運が悪かったと諦めるか、誰かに責任を転嫁する。

 銀行や保険屋や特殊法人なんかもそうだけれど、大きくなればなるほど小回りがきかなくて、無駄なことばかりやってるな。

 問題が多すぎてどうすればいいのか?どこから手をつければいいのか?皆目見当がつかないのだけれど、一つだけと言うなら、ちゃんと言葉でもって説明できる、また人の話を聞ける人間を選ぶということだろうか。まぁさしあたって明日の選挙は誰に入れるかだな。魅力の有る候補者がいないのだけれどね。

更新時間 : 23:24:46

7月27日 (金)

はる 2232
 何だか、暑過ぎてものが考えられないのだ。アトリエにはエアコンがない。開放的な空間といえば聞こえがいいけれど、適当に壁を壊して一つの部屋にしたもので扉というものがない。故にエアコンがが効かないので、つけてないという三段論法になる。

 しかし、午後からは西日が当たってとても快適な空間となる。もう昼寝するしか何も手につかない。で,それをいいことに風の通る廊下に座布団を枕にして,下らない剣豪小説を読むことにしている。と、いつのまにやらスースーと眠っている。

 日本の夏の午後というのは昔からこういう生活ではなかったか。クーラーなんてあるから窓を閉め切って仕事をする羽目になる。で、電気代がかかるからそれを稼ぐためにまた働かなくてはならない。これが悪循環というものだ。

 クーラーの替わりに打ち水をする。たまたま敷地の横を用水路が流れていて、夏の間途切れることなく水が流れている。これを利用させてもらっている。地熱を少しは下げているのではなかろうか。

 明日も35度を越えるようだ。

更新時間 : 22:30:29

7月26日 (木)

はる 2231
 今日は運転手で八ヶ岳までニ往復。疲れました。

 車の運転が好きな人は多いけれど、私は元来動くのが億劫なたちなのか、車の運転も好きではない。物事すべからく慎重なので車の運転はすこぶる疲れる。

 昔は神戸まで毎回くるまで帰っていたこともあったのだけれど、ここ最近は眠って行ける電車のたびをおぼえて、ずぼらになってしまった。

 ということで又明日。

更新時間 : 22:29:40

7月25日 (水)

はる 2230
 本日お休み

更新時間 : 22:30:14

7月24日 (火)

はる 2229
 今さらデッサンでもないのだけれど、何か有効な本がないかと本屋さんをうろうろする。我々が学生だった頃、参考にしたのがアトリエという雑誌だった。色んな大学が責任編集していて、特に東京芸大の研究室が編集したものは、格調高くて絵を描くもののバイブルのような存在だった。

 あとまぁその時に応じたタイムリーな特集が組まれていて、例えば古典画法が流行ればそれにそったシリーズが出たりした。あの有元さんが安井賞を取る前に、自らの技法を公表しているのには驚いた。むろん食い入るように読んで、まねをしたのは言うまでもない。

 ところでデッサンの本だけれど、どれも昔と同じようなことが書かれていて進歩がない。まぁこういったものは何万冊の本を読んでもけっして上手くはならないのは当然なんだけれど、それでも何かしらのヒントが欲しい。

 前にも書いたけれど、人間の目は物を二重に見ていて、それを頭の中で一つの画像に修正している。それゆえに写真などのすでに平面化されているものを見て描くデッサンと、実際のものを見て描くデッサンとは明らかに違いが有る。

 西欧型のというのか、美大受験方のデッサンはこの二重に見える映像を如何に一つの画面に表現するかということに苦心する。まぁ何というのか見えないところまで描くというのか、優れたデッサンはそれこそもう一つの作品である。

 デッサンの達人というのがいる。これは才能であり、努力ではそこそこカバーできたとしても、如何ともし難いものだ。本来絵描きというのはこの人たちの仕事であって、下手くそな絵描きなど無用の長物でしょう。

 しかしまぁ、可笑しなもので上手い人は描かなくなるんだな。下手くそが何とか努力して続ける。見えないものを観ようとする、聞こえないものを聴こうとする。そんな所が面白いのだな。なんだか屁理屈だけど。上手い絵などちっとも面白くないんだな。ありがたいことに。

 で、そのデッサンの本だけれど、本格的な本ほど理屈では分かるのだけれど、今ひとつガテンがいかないところがある。結局のところセンスなんだろうけれど、物を立体的に見る、見えないところ描くということができないんだな。

 どこまで行っても日本人で複眼的には物が見えない。論理的にはなれなくて、感覚的だ。見えないところは無いのだ。

 で、たまたま選んだ本がアメリカのイラストレータのデッサンの指南書だった。これがなかなかの優れもので、目からうろこ的なことが書かれている。今の私にはスイスイと入ってくる。

 例えば今まで陰影のパターンは面の組み合わせと理解していた。だからこうあの面取りの石膏のような組み合わせがどうしても頭の中から離れなかった。確かにそうすればいいとは分かっていたけれど、自分の感覚では否定的なんだな。

 ところがこの本には陰影のパターンについてこう書かれている。「マッピング・・描きはじめは区分地図かジグソーパズルのように描く」見えないところを描けとは一言も書いていない。

 その他、構図の考え方、トリミングの方法、なぜそうするのかということが丁寧に書かれている。無から有を生むイメージの創作の方法など、今までどんな技法書にも書かれていなかった秘密が盛りだくさんに書かれている。

 これは明らかに今までのアカデミックな技法書ではふれられなかった、新しいタイプの指南書だと思う。

 「デッサンの55の秘訣」
 B・ドットソン
 エルテ出版

 

更新時間 : 00:03:07

7月23日 (月)

はる 2228
 さて、やっと夏休みになった。ここまで何やかやと雑用があり、家を空ける事が多かった。フリーというのはけっこう雑用があるものなんだな。というのは勤めに出ていれば、それをいいことに「仕事だ」ということで全て済んでしまう。

 まぁそれはそれで拘束感があるわけで、嫌なもんだろうけれどね。自由業といっても私などの場合、絵だけで食べているわけではないので、色々と細々と雑用が入ってくる。また絵だけこもってかいていろ!と言われると、これまた苦痛だろうな。なんともへそ曲がりなものだ。

 まぁ雑用といっても、生きていることがそもそも雑用なわけで、雑用を取り除いたら、味も素っ気もない人生だろう。

 閑話休題

 この間ロボット製作者の話をNHKでやっていた。ロボットというのは我々日本人にはなじみが深いわけで、どちらかと言えば人間に近い仲間という感覚がある。まぁそれは知ってのとおり手塚治の鉄腕アトムの影響が大きい。

 欧米ではどうしても人造人間というのはフランケンシュタインや悪魔てきな人類に敵対するイメージがあるらしい。もっといえば、人間は神が自らの姿に似せてつくったもので、それと同じようなことをやってはいけないという意識があるのではないかな。

 八百万の神がいてどんなものにも生命が宿ると考える、まぁこんなところにも違いがあるわけで、おもしろいなぁと思う。

更新時間 : 23:17:11

7月22日 (日)

はる 2227
 今日はクロッキーにでかける。あれだけ前日疲れていてもクロッキーだけには出かけるから、好きなんだねーと皮肉を言われる。なんだろうな。無心になって絵を描く面白さというのがあるように思う。それ以上でも以下でもないのだけれどね。まぁいいか。

 ということで又明日。

更新時間 : 23:46:21

7月21日 (土)

はる 2226
 今日は疲れた。

更新時間 : 21:13:52

7月20日 (金)

はる 2225
 色んな人がこうやってブログなどで日記をオープンしている。少し前なら絶対に考えられなかったことだ。このことで何かが少しずつ変わってゆくのだろうな。

 人前で話をするのが苦手だ。学校の非常勤教師という、まぁかりそめにもそんな仕事をしているにもかかわらず、人前でしゃべるのは上手くない。どこかで上手くしゃべろうという気があるからなのか、何年たってもうまくならない。

 それでもまぁ生徒相手なら、15分くらいはしゃべることができるかな、だいぶなれてきたのかもしれない。もう25年もやってるからねぇ。人前で上手にしゃべるいことができる人がうらやましい。

 反対に、まぁこうやって文章書いたり、絵を描いたりするほうが得意なのかもしれないなぁ。下らないおしゃべりは好きなんだけれどね。それとこれとはやっぱり違うようだ。

 さて、今夜はこれで。又明日。

更新時間 : 22:56:59

7月19日 (木)

はる 2224
 「顔の見える生活 2」
 ここも古い城下町だから、町名に当時の職業の名が残っている。例えば元紺屋町、鍛冶屋町、桶屋町、魚町などなど、しかしいつの間にやら中央・・丁目とか丸の内・・とかになっている。その方が新しい感じがするからだろうか。

 全国初のカタカナの町名ができたのもこの町だったなぁ。それもまぁ住民投票かなんかで選んだとおもうのだけれど、多数決がいつも正しい選択をするとは限らないことを知るべきだ。

 時代小説が好きでほとんどそんな暇つぶし小説しか読んでないのだけれど、江戸の町というのは、基本的に将軍様のおわす武人の統括する町だったけれど、本当の所はしたたかな町人たちがいきいきと生活している町だったようだ。

 町の住人のほとんどが何らかの商人であり職人であった。当時あれだけの規模の消費型の大都市でありながら、大きな混乱もなくきれいに循環していたのは、まぁ衣食住のあらゆるものでリサイクルされていたのではないかな。まぁ実際に調べた訳でもないので間違っているかもしれないけれどね。

 この間の中越沖地震で放射能漏れを起こした原発だけれど、あれはたまたまおおきな事故にならなかっただけで、ひょっとすると第二のチェルノブイニになる可能性も大いにあったわけだ。想定外なんていってるけれど、事故というのはいつも想定外で起きる。

 政府の「安全宣言」なんてまったくあてにならないことは「年金問題」で立証済みのはず。基本的にリサイクルできない、コントロールできない、安全性の疑わしい「顔の見えない」材料は使うべきじゃないな。

 またまた違う話に寄り道しそうになってきたので、元に戻そう。

 まぁ例えばそういった職人が作ったものがいいということが分かったとしても、安くて便利な外国製品が簡単に手に入ればそちらを買ってしまうのは止められないよな。

 職人の需要があるということは、あるものを修理しながら何年も使いまわしているということでね。結局は新しい物は売れないということで、そうなると経済は低迷するということになる。今の自由市場の世界ではありえないということだな。

 だから、まぁ出きる事から始めるしかない。何だろう、大げさに言えば「人生」は日々の生活の積み重ねなんだな。その日々の生活を「手数を惜しまないで、ゆっくりかみしめて生きる」というようなことだろうかね。上手い言葉がみつからないのだけれどね。

 出来合いのものをできるだけ止めて、あるものを、工夫して考えて知恵をしぼって生きる。そのことが面白いことだ、楽しいことだと、生きるということだということをもう一度提示することから始めなきゃならないかな。

 一時的には経済は落ちるけれど、長い目で観ればそちらの方が「楽しい生き方」だということがわかれば、多くの人が納得できるのじゃないだろうか。甘いかな。

 多分そこらあたりの話とアートというのは上手くリンクすると思うよ。アートというのは生き方だからね。

 もう一度言おう。衣食住全てにおいて「作った人の顔の見える」生活を目指そう!
 

更新時間 : 22:50:45

7月18日 (水)

はる 2223
 今日はお休みしよう。

更新時間 : 20:17:17

7月17日 (火)

はる 2222
 おお記念すべきカウントになりましたな。

 「顔の見える生活 1」

 何だろうこの間から書かなければと思っていたことは。そう衣食住の話だ。

 イタリアで一年遊んでいた時に、お世話になった家の隣に典型的なイタリアの田舎の大家族の方たちが住んでいた。日本でも昔は田舎に行けば三世帯家族が普通で、今のように親と子だけの家族なんて無かった。最近はもっと変で年寄りだけの家というのが当たり前になってしまった。これはやっぱり異常だな。

 そこの爺さんが日ごろ言っていた言葉に「私は自分が作ったもの以外口にしない」というあった。当時へぇーそうなんだ、ぐらいにしか意識しなかったのだけれど、今から考えるとなかなか示唆にとんだ言葉だ。

 我々は貪欲だ。日本では世界中のありとあらゆる食べ物が食べられる。それも本場以上に美味しい。人類の歴史が始まって以来、これほど節操の無い民族は未だかつていなかったのではないか。どんな王様や貴族よりも気ままで贅沢だ。まぁそうやって日本人は色んな文化を吸収してきたんだといえば、確かにそうなんだけれどね。

 食べることだけではない。ありとあらゆる事や物が同じように日常の中で融合している。その結果何が起こっているかといえば、全てが個性の無い画一的なコンビニ・ファミレス化現象を起こしている。何でもあるけど何も無いという不思議な人間が出来上がりつつある。

 誰が料理したのかなど関係ないし、問えるものでもない。だれがつくったものなど全くわからない。いやその方が効率よく便利なことは確かなことだ。より安く大量に、何を使ったかは問わない、似たような色やかたちや味や匂いがあればそれでいい。簡単かんたんポンポンチン。はい出来上がり。

 何を食べてきたか?ということはその人を作ってきた大きな要素になる。気候や風土,習慣がその人を作ってきたように、食べ物がその人を作ってきたことは確かなことだろう。今我々はそのアイデンティティーを失い始めているのではないかな。

 だからハングリーに戻れと言う話ではない。よくだから回顧的に昔に戻れ!などと言う人がいるけれど、もう昔には戻れないのだ。ハングリーに次ぐ新しい価値観がほしいのだ。指針になる言葉が欲しいのだ。

 建築の話はよく分かる。基本的にはそこの場所で手に入れることができる一番安価で安全で丈夫な材料が選ばれる。けっして外国から直輸入して誇ってみても木に竹はつなげないのだな。それは生活全般にいえてね、そろそろ本物の暮らしを目指すべきかなと思う。

 「自分で作ったものしか口にしない」ということは無理だけれど、「作った人の顔が見える」それは材料でも、料理人でも職人でもアーチストでも、そんな生活をこれから目指すべきじゃないかな。

 そんなことを思った。

更新時間 : 22:51:26

7月16日 (月)

はる 2221
 建築の話はわかりやすい。人がそこで生まれてその場所で成長してやがて家族を持って生きて行く。人の一生と言うのはそんな単純なサイクルで出来ている。

 で、その場所で住む棲家を作る場合。原則はその場所でできるだけ安く手に入って尚且つ安全で丈夫なこと。そんなことが材料を選ぶ基準になる。日本の民家が木や土や紙で出来ていたのにはそれなりの理由があって、それが一番簡単に手に入るからだった。世界中のどんな民族でもその原則は変わらない。

 その原則が崩れてしまったのは、皮肉なことに日本が経済的に世界でも有数の大国になったからだ。例えば世界各国の美しい風景や建築を見せられて、さて貴方はどんな住宅をお望みですか?と問われて色んなカタログを見せられる。

 アーリィアメリカンタイプやイタリアンタイプ。カナディアンな丸太小屋から純和風建築、どれでも選り取りみどりで現地から直輸入することが可能になったということなんだな。

 それは衣食住すべてのことでいえて、世界中の食べ物がこれだけ自由にたべることができる国は他にない。

 日本という国は色んな国の影響を受けてそれらを自分たちに都合のいいように変えて吸収して自分のものにしてしまうという特技がある。言葉を見れば一目りょうぜんだけれど、漢字は中国からひらがなを作ってカタカナ,ローマ字を作った。英語でもフランス語でもそのまま日本語として取り込める融通無碍な言語を持っている。

 そういった体質は言語だけではなくあらゆることでも言えて、食べ物でも生活習慣でもいいと思ったものは貪欲にアレンジして吸収してしまう。アメーバーのようなバイタリティがある。これは案外日本人の本質かもしれない。

 でまぁ、ここまでのことは今までも何回か書いてきたことだ。

 食うや食わずで生きて行かなければならない状態なら問題にはならなかっただろう。幸か不幸か日本は明日の食べることを心配しないでもいい豊かな国になってしまった。

 世界史上で栄華をほこった多くの国があるときを境に転落して行く。まぁそれは何がきっかけなのかよくは分からないのだけれど、食を含めて「家族を命をかけて守る」という意識が欠けた民族は滅びてゆくのでないかと思う。たぶんに日本は今そこに来ている気がする。

 生活全体の話に戻れば、時代に逆行しているようだけれど、今一度「自分たちの身のまわりに有るもので工夫して生きる」という考え方に戻る必要があるのではないかと思う。

 これは今はやりのエコという物ではなく、もちろんリンクすることもあるのだけれど、人が人として暮して行くということは、基本的に衣食住全てにおいて「顔の見える生活」というのか誰それが作ったとか、誰それが織ったとか、何処そこの山で採ってきたとか、あの海で拾ってきたとか、本当は自給自足、それが一番贅沢なんだ,幸せなんだよという考え方が必要だろうな。そこにプライドを持つ教育ということも必要だろうな。

 ハングリーなら目標は立てやすい。食えるようにというのは一番ストレートだ。けれどだからと言ってその昔に戻れというのはちょっと違う。たとえば「美しい日本」とか愛国心とか忠君愛国的な時代錯誤を持ち出すのは能がなさすぎる。わかりやすいけれど。

 食べるために、色んなことを捨ててきた。お望みのものを何でも好きなだけ手に入れることができるようになったら、国が潰れていたといった笑えない話だ。いらない国なら潰れてもいいのだけれど、どうやると幸せに生きられるかということは大事なことだ。

 

更新時間 : 15:45:52

7月15日 (日)

はる 2220
 今日は会場当番で台風の影響で雨を心配しながら出かけていった。幸い心配するほどでもなく午後からは日差しも戻ってきた。明日は台風一過で夏の太陽がギラギラと暑いでしょうな。

 明日はこの会の70周年記念レセプションが華々しく行われる。これにも当然出席しなければならないわけで、そういえば50回記念のパーティーにも出た記憶がある。あの時はまだ誘っていただいた大学の恩師が存命で,何か声をかけられたおぼえがあるのだが、詳細は忘れてしまった。はるか昔々の話だ・・。

 当番の食事をいただきながら色々と四方山話をする。団体展に出品してくる若い作家が少ない・・。この先どうなって行くのだろう、という何となくの不安がやっぱりここにも有る。まぁこれは今日本全体が抱えている漠然とした不安なんだろうな。ここだけの話ではない。

 声を大きく勧誘するようなメリットといってもない。今じゃ・・会の会員といった肩書きなど、窮屈な思いをするくらいならいらないや、と思っている若い人もおおいだろうな。

 けどまぁ、団体に属していなければ絶対に知り合えないような仲間と知り合ってゆくというのも、なかなか面白いかなと思っている。ここをベースに生きて行くならそれもまた一つの方法でしょう。

 閑話休題
 どう生きても何にも問題がないということは絶対にない。上手くゆけばその上手くいったことが反対に魔を呼ぶということがよくある。「禍福はあざなえる縄の如し」とはよくいったものだ。

 そうはいってもことここに至ってもはや取り返しのつかないほど腐敗がすすんでいるだなぁとは「年金問題」だ。このことは年金だけの話ではないだろう。信頼していた日本のシステムそのものが壊れているという証しだろうな。役人は仕事をしないというのは常識にはなっていたけれど、こんな風になってしまっていたなんて。

 まぁこんなところでぼやいてみても誰も読みゃしないのだけれどね。

 「衣食住」のことを書こうと思っていたんだけれど、その話はまた今度だな。んじゃ。

更新時間 : 22:13:34

7月14日 (土)

はる 2219
 今日は台風の影響で一日雨降りでしたね。ということで特に書きたい事もなし。又明日。

更新時間 : 22:44:19

7月13日 (金)

はる 2218
 この間の大腸検診の結果を聞きに伺う。まぁ一応OKということでしたが、放っておけばまずいことになったと脅かされる。医者は大体が大げさだ。

 ということでその帰りにたまに伺うレストランでお祝いのランチ。ちょうど霧がかかってなんとも美しい絶妙な風景。木製の厚いサッシを額ぶちのように使ってトリミングしたら、一幅の絵のようだ。なんとも幸せな午後の一時でした。

 あとまた今年も神戸のギャラリー島田でグループ展(小品展)です。一応案内をしておきますが、当然私は不在です。



更新時間 : 22:33:42

7月12日 (木)

はる 2217
 木村二郎さんっご存知ですか?知る人ぞ知る家具のデザイナーです。 天才ともいわれています。もっとも名前が出たのは古材のリメイクオリジナル家具ですが、その他に画廊のオーナーであったり、建築の設計をしたり、映像作家もどきの活動をのこしたり、色々やっていたようです。アマチュアなんですが、玄人をうならせる才能をもっていた人でした。

 色んなメディアに取り上げられてこれからと言う時に、さっさとこの世から去っていきました。

 八ヶ岳のふもとにギャラリートラックスという小さな画廊をひらいていて、そこもお寺が経営していた幼稚園を借り受けてやっていたようです。何度か訪れたことがありますが、なかなか牧歌的なスペースで画廊というよりペンションみたいな感じだったな。

 今日は実際に使われているお宅に伺って写真を撮らせてもらいました。古材の肌触りがいいでしょう。



更新時間 : 23:20:45

7月11日 (水)

はる 2216
 地方の団体でも70年を越える団体は少ないのじゃないかな。会員の数も色々な分野合わせて130人ぐらいいる。毎年公募展を開催することは勿論のこと、会員展や各種の講習会も企画実行しているまぁ、非営利の文化団体といえるかな。

 学生の頃に出品し始めて84年に会員になったから、もう20年を越えた。今回も記念画集も含めていろんな記念事業が催されるけれど、いままで後ろについて手伝っていればよかった立場が、段々に中心になって働かなくてはならない年周りになって来た。まぁそれが結構ゆううつの種だ。

 絵描きの仲間でもそういったボス的な役回りが好きな人もいるけれど、多くの人は自分の世界を中心に表現しているマニアック(自閉症的)な人たちだ。できればそういったことに関わりをもちたくないのだが、でもまぁこういった団体を動かして行くにはそういった力も必要なのかもしれない。

 画家というのは個人商店で本来はそういった組合から独立しているものなんだけれど、こういった地方に住んでいる以上、郷に入れば郷に従えで、そういったボランティア活動、文化的な布教活動も含めて画家という仕事かなとも思う。絵さえ売れればいいというものでもないだろう。

 まぁ自分の作家活動に負担にならない程度にお手伝いしてゆこうとは思っている。

更新時間 : 23:11:37

7月10日 (火)

はる 2215
 今日は一日地元の美術協会の審査,陳列のお手伝い。疲れたのでコメントはまた後日。んじゃまた。

更新時間 : 21:24:06

7月9日 (月)

はる 2214
 昨日の話の続きになるかな。「人生いたるところに青山あり」まぁ何となく「青山」といえば、「綺麗な美しい山並み」を想像して、「成功のパターンは一つじゃない、色々あってもいじゃないか」というふうにとれるけれど、まぁそれも間違いじゃないけれど、本当の意味は微妙に違う。

 そんなことはよくあることだけれど、案外前者の意味で通っているいる場合が多いね。

 良くあるのが「そで触れ合うもたしょうの縁」というやつ。「たしょう」を「多少」と考えて、ほんの少しの縁かいな?と普通考えるのだけれどね。本当はもっとひにくれていて、「他生の縁」だってさ。輪廻転生のはなしでね。今生(現世)と対応した他生(前世)の話。三輪さんじゃないけど、どこか前世で縁があったんじゃないか?という話さ。なんだか奥が深くて恐ろしい・・。んじゃまた明日。

更新時間 : 22:32:42

7月8日 (日)

はる 2213
 一日の訪問者はそれほど多くない。というのかとても少ない。まぁ自分の覚書みたいなものなので、それはそれでいいと思っている。

 検索項目でどんな言葉で訪問したのか分かる。ニ三日前に「新任教師、クラス運営」といった言葉で来てくれた人がいた。多分新任の教師がクラス運営に困って訪ねてくれたように、かってに解釈した。

 一学期も終わるこの時期、自分のクラス運営の結果が出てくるところだ。私にも経験がある。初めて持ったクラスはこの時期、迷走状態になってしまった。

 まぁはっきり言って当然というのか、上手くゆく方がおかしい。だれもクラスの運営など教えてくれなかったし、いきなり40人の親になれと言われても無理な話。多かれ少なかれ火を噴くのは見えている。

 自信の喪失。真面目な貴方は益々自分を責めることになる。まぁ今は何を言ってもむなしく聞こえるだろうな。もともと気分転換の下手な貴方は、そのことばかりを考えて一日暮しているのだろう?

 色んなベテランの先生から話を聞くこともいいかもしれない。けれど答えは一つしかない。腹をくくることだ。それが生きて行くということだ。適性を得るには多分最低3年はかかる。今苦労している経験が必ず生きてくる。

 それでだめなら、辞めたらいい。体こわすよりいい。新聞配達でもビル掃除でも何をやっても生きていける。

更新時間 : 00:26:11

7月7日 (土)

はる 2212
 今日は一日出ずっぱりだった。午前中は教室、午後からはクロッキー展の当番、夕方からはこの間のグループ展の反省会という飲み会。まぁ土曜日だし町は七夕でにぎわっていた。

 出かける前に、そうだ今日はこのことを書こうと思っていたのだが、帰ってきたら全く何のことだったか忘れてしまった。まぁそんな具合だから大したことではなかったのだろう。また思い出したら書く事にする。

 今日もお客さんと話をしていて、「絵を観ることは、自分の心の中を観ることだ」といったら、けっこう驚いていた。そんな風に考えて絵を観たことがなかったようだ。確かに鑑賞の仕方というのか、観方を我々は教えてもらわなかったし、教えてもこなかった。

 よく言うのが「自由に観てください」確かに自由に観て「好きだ嫌いだ」というのは簡単なことだ。だけどもそこで終わってしまったら、何にも自分の心の中には返ってこない。

 「美は発見である、創作である」青山二郎の言葉だけれど、「好き」には物凄いドラマが隠れている。

 「観る」ことは「みみをすます」ことと似ている。聴こえなかったものを聴き取ったその音は意識して聴いた「おと」なんだな。普段そこにある「おと」なんだけれど、聴こうとしない耳には聞こえない「おと」なんだ。

 心の中もにている。自分はここにいるんだけれど、あえて観ようとしなければ、聴こうとしなければ、何も見えないし聴こえない。

 今貴方が「好き」といったそこには、意識して観ようとした貴方の心のかたちが隠れている。

更新時間 : 22:15:21

7月6日 (金)

はる 2211
 一日はあっというまです。昨日何を書こうか考えて、もうまた今日のブログを考えている。これの繰り返しで人生は出来ているというわけだ。故に毎日まいにちが大事ということですな。

 今日はあまり書くきにならない。ということで又明日。

更新時間 : 22:42:26

7月5日 (木)

はる 2210
 さて、今日は何を書くかな・・。

 この間HPのトップに晒してあった20号の作品「誘惑」ってやつ、おぼえてますか?右のほうに裸の若い女性らしき者がいて、真中と左におばさんが二人寄りそっている、そんな構図だった。

 その一つ前が100号のビーナス誕生だったので、意識はあまりしなかったのだけれど、裸のつながりがあったのかもしれない。

 かもしれない?というのは自分でもはっきりこれを描こうとして始めたものじゃないからだ。絵の具を乗せてゴトゴトやっているうちに絵のほうから出てきたものだ。

 というと、まったく他力本願か?と思うかもしれないけれど、そこそこ自分の中にそれらしき種があって、画面を見ているうちにそれがきっかけとなって浮かび上がってくるという感じかな。

 まぁだからその種をたくさん持つということが大事なんだね。

 ところで、「誘惑」だけれど、なんでこんなものを描こうとおもったのか、ということを少し書いてみたい。書ききれないかも知れませんが、そこんとこあしからず。

 最初心の中にあったのは、随分昔に描いた「帰宅」という絵だ。これは聖書のなかの「放蕩息子の帰宅」から取ったもので、絵柄は母と子だったけれど、聖書の中では父と子の話のようだ。まぁ詳しいことは調べて欲しいのだけれど、簡単に言えば勘当された放蕩息子が改心して帰ってくるという親ばかの話だ。

 そこからの教訓は親鸞の「悪人正機説」というものいわゆる「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というもの。簡単に言えば「善人は自力で何とかできるだろう、どんな悪人でも極楽に連れて行ってあげるのが、本物じゃわい」かな。

 まぁ自己流の解釈がかなり入ってますけど、いいたいことは、真面目で、悩みも無く、不安も無く、善人を絵に描いたような人は救われて当たり前だ。そうじゃなくてね、自分じゃどうしょうも無い悪たれが、今までのことを反省して改心することの方が大事でね、人間なんてみんな善人面してるけど、本心は夜叉を隠してる。みんな罪びとなんだよ,悪人なんだよ。だから悪人こそ救われるといったのがこの「悪人正機」、なかなか奥が深いですな。

 洋の東西ごちゃ混ぜですが。で、この「誘惑」はそれの女性版みたいなやつでね。娼婦が出てくる。キリストの前にこの女性が連れ出される。で彼は言う「あなた方の中で、罪の無いひとはこの人に石を投げなさい」

 誰も皆罪びとだ。これは法的にということでは無論無い。みんな「欲」という夜叉を抱えている、それが人間だわな。普段はかくしているけど、まぁそれを悪人と言ってしまえば、みんな悪人ですけどねぇ・・。

 まぁそんなことが頭の中をかすめたんですね。

更新時間 : 23:27:25

7月4日 (水)

はる 2209
 今日は夜の部だけ仕事に出かける。多くても10人前後の生徒を相手にすればいいので、ある程度習慣ができれば仕事としては楽かもしれない。

 まぁ楽か楽じゃ無いかで判断してはいけないのだけれどね。昔のようにツッパリの生徒が多いときは一時間やるとぐったりと疲れたものだ。今はそんなハチャメチャな生徒はあまりいない気がする。

 反対に昼間の生徒の方がやりにくい。40人相手にしているということもあるけれど、自分に余裕が無い分生徒を抑えつけているのかもしれない。もっと生徒を自由に遊ばせるだけの器が私にあれば、楽しい仕事ではあるのだろうけれど。今の私ではアップアップだ。

 生徒ばかりではない。よの大人たちもあまり面白くないな。

 アートなんて分からなくてもいいのかもしれないし、それよりもっと面白いことが世の中にはたくさんあるのかもしれない、けれど、そうだなぁ・・、基本的には自分たちの今の生活からアートの気分が無くなってしまったことが、とてももったいないというのか悲しいことだな。

 まぁ自分たちの責任でもあるのだけれどね。まぁ例えば尊敬できる人とか、こんな大人になりたいとか、理想の人物とか、そういったことを話す事さえダサイといった雰囲気がある。

 まぁ例えばそういったことを話すとしても、実際はエリートになるとか、有名になるとか、お金持ちになるとか、そういた具体的な話にはなったとしても、こんな生き方をしたいとか、こんな人間になりたいなどという話にはなかなかならない。

 今の大人たちでもそんな話にはならんだろう。俗に宗教と政治と哲学の話はしないほうが波風が立たなくて会話がスムースにゆくとか言われるけれど、考えてみるとそんな話は何の役にも立たないし、面白くも無い。

 会話の楽しさはその人が何を考えて感じているのか、人生が滲み出てくるから面白いのだろう。アートはそんなところに絡んででてくるわけで、これが好き、これがいい?ということはその人の人生観がモロに出てくるわけだ。それがアートなんだな。

 もっと中味の有る話をしようよ。人生かけておしゃべりすれば、もっとアートが盛んになると思うな。

 

更新時間 : 23:17:39

7月3日 (火)

はる 2208
 そろそろ夏休みですね。と言うことで今日は出先います。

更新時間 : 21:03:12

7月2日 (月)

はる 2207
 もう七月ですね。ひさかたぶりに小品を描いてみると、なかなか上手く行かないなぁ。どれもみんな同じようになってしまう。50点なら50違うアイディアを出さなければならない。だからまぁ面白いのだけれど、つらいところでもある。

 アイディアといっても取ってつけたような、空想や幻想を描くのではない。まぁそういったファンタジー物のアイディアも大変だとはおもう。例えば宮崎駿さんのアニメーションの物語の最初のきっかけの絵の話をしていたのを、偶然テレビでみたけれど、自分を掘り下げて段々不機嫌になって行く様子は、おこがましいけれど、似てるなぁ・・と思った。

 宮崎さんの場合でも、結局自分ののなかにある子供頃からの夢とか憧れみたいなものから、一歩も出ないのじゃないかな、それと仕事だから「売れる」ということも大事なファクターなんだろう。あれだけのスタッフを抱えているわけだから、自分だけ分かった,面白いじゃ済まされないところがあるのだろう。

 私なんかは全く個人的な身辺雑記的なものだけれど、だからこそ余計に変化が出にくいように思う。

 毎日こうやってブログを書いてゆく。何の変化も無い毎日だけど、何かしら心に浮かんだり消えたりしている訳だ。そういったことをメモ代わりにこうやって書いてゆく。これもまた似ているなあ・・と思う。「ことばのデッサン」みたいなものかな。

更新時間 : 20:54:24

7月1日 (日)

はる 2206
 「絵画の平面性」3

 まぁ何を言いたいのか分からなくなって、これで三回目ということになった。結論までゆくのかどうか分かりませんが、書いてみましょう。

 なぜ「平面か」ということでした。私なんかがよく言われたのが、絵の上を強くしろ、というような具体的なこと。どうしても上は遠近法的には遠くになるので、遠くにならないように持ち上げろというような意味だと解釈した。

 ピカソかブラックかは忘れたけれど、キュービックな絵の一番上にピンが描かれていて、この意味はピンナップ写真のように「これは描かれた奥行きの無い平面なんだよ」という意味だと教えられた。

 まぁ結局現代になるにしたがって絵画の三次元的なリアリズム性がひつようなくなってきたということが上げられるだろうな。その理由は前にも描いたけれど、市民階級の台頭で教会や王侯貴族などがいなくなって、パトロン的の肖像画的な絵画がなくなったこと。

 商業が経済の中心になってきて、表現が宣伝にポスターや看板のデザイン、映画や雑誌,新聞、放送などマスメディアに段々表現が移行してきて,絵画が純粋に芸術という分野だけにしぼられてきたこと。そんなことかなぁ・・。

 まぁ、インターネットの時代になって、これだけ情報が瞬時に世界中を駆け巡る忙しい時代になって、尚のこと絵画が生き残ってゆく場所は何処にあるのかと考えると、結局「自己表現」これしか残ってないように思う。

 私にとって絵画とは、三次元的なリアリズムとか、平面的な装飾とか、綺麗だとか、上手いとか下手だとか、一切関係ない。絵画は自分を見つけに行く道具でしかない。
 

更新時間 : 20:58:10