2007 03
3月29日 (木)

はる 2105
 今日は入院中のお袋の見舞い。91歳になる母上は腕の骨を骨折して入院中。凄いことに目下体重は27キロしかない。まるで断食中の修行僧のようにやせこけているが、いたって健康で意識ははっきりしていている。骨折した利き腕ではない左手で日記をつけている。何事かを記録、表現してゆこうという姿は修羅の如し、頭がさがる。

 自らの老いの姿を重ねる。



更新時間 : 21:44:36

3月28日 (水)

はる 2104
 実家にいます。本日は臨時休業

更新時間 : 22:18:28

3月27日 (火)

はる 2103
 そうそう、明日からまた少し留守にします。というのは前にも書いたけれど兄貴の還暦祝いということで、今回は兵庫県の有馬温泉に一泊しようという計画です。まぁ桜も見頃だろうしちょっと楽しみにしてます。

 まぁそういったことも兼ねていつもは個展でバタバタとしてますので、今回はすこしゆっくりと羽根を伸ばしてきます。

 ということで、更新がシャメだけになるかもしれませんが、出来るだけ臨場感のあるところをアップしたいと思っています。更新できないかもしれませんが、その場合はあしからず。

・・・・・・・・・・・・・・・・
 昨日ある直木賞作家の本を読んでいて、あとがきの方に作家の言葉が書かれていた。まぁ直木賞作家というと売り線の作家というふうに取られるけれど、純文学も大衆小説もない。あるのはいいか悪いかどちらかだ。という風なことが書かれていた。

 ということはやっぱり直木賞作家であるということに多少ともコンプレックスを感じていたのかもしれないなぁと思った。反対に言えば芥川賞の作家から、このような言葉を聞いた事が無い。

 デパート付きの作家になるということにまだ違和感を持っている。

 どうやっても作品は売っていたのだけれどね。売らないことには生活が出来ないというのも事実だ。けれど・・と思うわけだ。デパートの絵ねぇと。

 画廊で売るのと、デパートで売るのと、結果はおなじだけれどね。何かが違う。私ならデパートで絵は買わない。

 そこらあたりをもう一度しっかり考える必要があるだろうな。

 結論は出ている。どこであっても私の絵であればいいのだ。

更新時間 : 20:41:37

3月25日 (日)

はる 2102
 文章を書くことは随分前から習慣にはなっていた。ことによると絵を描くより駄文を書いているほうがすきかもしれないな。ただ好きであるというのと上手いというのは同じではないので、そこのところ勘違いしないで欲しい。

 だらだらと自分の考えたことを文章化しながらまとめて行くというやり方は、その当時からかわらない習慣だ。ただこういったブログになって大きく違うのは、今までと違って誰かが読むということを意識しているところかな、そこのところが決定的に違う訳だ。

 人が読む。ということを前提に書くということは、これはなかなか表現力を養うのではないかと思う。なぜなら、前日の話の続きになるのだけれど、話をまとめるとか、何を言いたいのか簡単にするとか、分かりやすくとか、また読んでもらうためにはある程度継続するということも必要だし、そこそこ飽きさせない努力というのも必要だ。

 絵描きは絵を描くことで思索して行けばいい、それが絵描きの本来の姿だと言われればその通りで、私のやり方は間違っているかもしれない。しかし、確かに言えることはこの思考の仕方と絵を作って行く、描いて行く仕方とはよく似ている。私は目に見えるものを描いている訳ではない、見えたものを色や形にしているだけだ。

 ゴーギャンの言葉に「よく見るためには目をつぶれ」というのがある。まぁこれもどこかで読んだ話だから、間違っているかもしれない。適当にとばしてもらってけっこうです。
 

更新時間 : 22:22:49

3月24日 (土)

はる 2101

 あるブログを読んでいたら、ブログは表現者の修行の場だというようなことが書かれていた。まずメッセージを明確にすること、継続すること、驚きと感動、飽きさせない工夫、読者が何を望んでいるのかを知ること・・などなど。

 まぁこういった毎日更新して行くブログという表現手段はいまだかつてなかった訳だから、これが将来どいういった風に進化して行くのか、影響を与えるのかだれも分からない。

 こうやって続けていくことで、何が変わったか?今のところよくはわからない。ただ言えることは書く事で自分が今考えていることが明確になった。人にどうやって自分の考えていることを伝えるのか、そんなことを考えるようになった。これはまぁ大きな収穫ではないかな。

 人は起きている時間の八割はしっかり意識して生きてはいない。例えば本を読むとか映画を観るとか意識された時は別にして、普通は考えているようなないようなうつろな世界に漂っている。

 考えているといったところで、案外思考は堂々巡りで同じと頃を言ったり来たりしている場合が多い。図示化すれば言葉の断片が浮遊している状態に近いかな。

  私の仕事の大きなテーマが「美は美しいと思った自分との再会だ」という話をどこかで書いたことがあるけれど、再会して今度はそれを人に伝えようとした時に表現となるわけで、ただ美しいと思っただけではまだ表現には至っていない。

 文章にするという作業ははっきり表現すると意識する訳で、その客観性がとても大事な作業のように思えるのだ。どうだろうか?


 
 

更新時間 : 00:25:31

3月23日 (金)

はる 2100
 おぉ、切りのいいナンバーになった。

 志賀の原発の30年前の事故が問題になっているけれど、まぁもっと大きな事故が知らないだけで起きているのではないかな、実際は。

 あの「バケツの臨界事故」で有名になった東海村の臨界事故も、結局はよく知らないスタッフが引き起こした、ありえない未熟な事故として一件落着してしまったけれど、そうかなぁ・・これは根本的な構造のミスだと思うぞ。

 大きな組織というものは管理する者と現場とはおおきな隔たりがある。現場の人間というのは全体が見えにくい。その日その日をいかに楽に暮して行くかということが重要課題でね。出来るだけ手を抜こうとそればかり考えている。

 管理者といえば聴こえはいいけれど、この人達は一種のエリートでね、現場の仕事のことより自分の出世のこと以外に興味はない。だから最も恐れるのが、期間中に事故や事件が起きて経歴に傷がつくことなんだな。

 そんなのが集まって原発などという危ない機械を動かしているのだから、怖いなぁ・・。だから、これはこれからもありうる事件なんだよ。というのか無くならない。

 人間は間違いをおかす動物だということだな。原発は間違いの無い安全な道具だと宣伝するのは間違っている。誤った認識を広める。

 もし、原発がどうしてもひつようであるなら、絶対安全であると宣伝するより、本当は扱い方によっては相当危険な道具だから、事故が起きた時はこういう手順で対処する、こうしたら出来るだけ被害が拡散せずにすみます。 といった方法を明確に広報すべきだな。

 まして、責任者をつるし上げて謝ったところで何の解決にもならない。又同じ事の繰り返しだよ。大きな事故が起きなければいいけれどな。




更新時間 : 23:16:59

3月22日 (木)

はる 2099
 オリジンの話4
 ところで、同じような言葉で最近よく耳にするのが、「ユビキタスubiquitous」「時空自在」と訳すそうだけれど、まるで孫悟空のようなイメージがあるな。

 これも元はラテン語の(ubique いつでも、どこでも)という言葉からでているそうだ。

 ところで、英語のユビキタスの意味には「神の遍在」という、意味があるらしい。もともと西欧のキリスト教などをみると、基本的には唯一神で他の神は一切認めないという結構厳しい掟がある社会なんだけれど、その神は唯一でありながら何処にでもいるという離れ技をやってのける。

 誰かが言っていたけれど、砂漠の民のような厳しい環境の元では生き残って行くには、そういった激しい排他的な掟(神)が必要であって、我々のような湿潤な生物が生息するに適した八百万神の生息する、アジアモンスーン気候に棲んでいるような人には到底理解できないてなことをきいた。

 そうやって考えると、偏在のありようも西欧型の唯一神的な分裂型の「いつでも、どこでも、だれにでも」よりも、元々我々が持っているアジアモンスーン型の八百万的な「いつでも、どこでも、だれにでも」の方が、我々には分かりやすいね。

 ところで、オリジン(源)の話をしていたら、いつのまにか神の話になっている。そう、結局一つ元にもどって考えるということを繰り返して、もうこれ以上戻れないというところは「これ」なんだ
な。

 「これ」の実態は分からない。見えないしつかめない、けれど確実に「そこに、ここに、どこにでも」存在するものなんだろう。「これ」は誰にでも理解できて、分かりやすくて、またあることが普通で、安心できるものなんだ。

 時々「これ」を掴んだと思うときがあるのだけれど、意識するとすぐにまた元の木阿弥だ。

 ボケてきてあちらの世界とこちらの世界を行ったり来たり出来るようになって、初めて「これ」がつかめるのかな。まぁそう考えるとボケるのも悪くないかな。

更新時間 : 20:44:46

3月21日 (水)

はる 2098
 オリジンの話3

 この(unique ユニーク)と(universal 普遍的)の話は、結構本質的な事柄ではないだろうか。

 どういうことかと言えば、まぁ普通に考えて(only one ただ一つの)ということは、掛け替えのない唯一のもの、そんじょそこらに同じ物があってはならない、ただ一つのもの、貴重なもの、という意味が込められているね。まぁだからこそそれが(ユニーク)個性的ということになるわけだ。

 (ナンバーワンよりオンリーワン)の歌詞に含まれている意味も、だから貴方は掛け替えのない大切な人なんだよという、多分そういったことが唄われていると思うんだな。

 ところで、もう一方の(universal 普遍的)の意味は、私は随分と考え違いしていたところがある。言葉の音として(不変的 変わらないもの 一定した)というふうに理解していた。

 絵を描くことは自分の個性をのばすことだ、いかに人と違うユニークな存在であるかそのことを確認する、そのことが一番大切なことだというふうに考えていた。独創性、オリジナリティが作家の生命線だと考えていた。

 しかし、ただ一人の存在であることは当たり前のことなんだな。他と違うことを競うことが最も大切なテーマである仕事など大した仕事ではないのではないか。

 自分のスタイルを作って喜んでいても、そんなものはいずれは真似されるかただの流行で終わってしまう。すぐにもっと目新しい作品に取って代わられてしまう。AのものをBにした程度の違いで個性だユニークだと主張するのもおかしなものだ。本質的に違いはない。

 ところで、普遍とは(すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること)

 全く正反対のことなんだな。自分にしかないただ一つのものを探して、小さな違いをあげつらって喜んでいたんだけれど、そうではない、みんなに共通の何か、どこにでもある何かを見つけるんだよと言われた気がした。

 これは目からうろこだな。自分の進むべき方向を教えられた気がした。

更新時間 : 16:55:57

3月20日 (火)

「いつか見た青い空 私の心象風景」より無断転載
http://plaza.rakuten.co.jp/triprosequartz/diary/200703100000/

 俯瞰する。
感情的にならず 俯瞰してみる。
不愉快な状況は
コンプレックスの原因は
そんなに悩まなくてよいこと
だれもが嫉妬し
だれもが焦り
だれもが自分を嫌悪している。
そして、だれもがこどもだ。
愛が必要なのだ。
割が合わないとか
大人のくせに…などと言ってはいけない。
ただただ注ぐ。
ただただ注ぐ。
じゃばじゃばと
ケチらずに
蛇口を全開し
溺れるまでに注ぎ続ける。
黄金の雨のごとく
隣人に愛を注ぐのだ。
枯れ果てることなく
天は雨を注ぐ。
全開の心で受けて
全開の蛇口から注ぐのだ…
ケチることはない。
いくらでも天からいただけるのだ。
注いだ分
注いだ以上
それを天からいただけるのだから…
(転載ここまで)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はる 2097
 オリジナルの話2。とりとめもなく・・。

 originalは形容詞だから、名詞でいうとオリジン(origin)ということになる。

 中国には想像上の動物というのが結構たくさんいて、有名な所では竜や鳳凰なんかもそうだな。前に麒麟をモチーフに絵を描いた時に気付いたんだけれど、麒麟も実際には存在しない動物だ。

 まぁ不思議なことに鳳凰は西欧に行けば不死鳥フェニックスとなる、ここらあたりはどこがオリジナルなんだろうか。

 で、想像上の動物というのは考えてみれば、そのときの人間の理想や希望を表しているわけで、ただの絵空事だから無意味なことだとは言えないんだな。

 じゃあ、麒麟というのはどういった思いが込められているのかと調べてみた。

以下(はる 654から蔵出し)

 麒麟は物凄く頭のいい動物とされている。もちろんこれは人が作り出した想像上の動物であるから何とでもいえるわけだけれど、反対に考えてみれば、だからこそ人間の理想、願望というのがよく表現されているといえるのじゃないかと思う。
 麒麟は絶対に人を傷つけないとされている。その角は他を傷つけないために丸く肉付いている。一説によると蟻さえも踏まないように注意して歩くとか。これはいってみれば徹底的な「非暴力」、理想的な「平和主義」といえるのじゃないか。

 もう一つの特徴は麒麟が現れる時は理想的な哲学者、政治家が出てくるときで、この前に出現したのは孔子が生まれたときだとされている。孔子の母は麒麟の足跡を踏んだ時に彼をはらんだとか。馬鹿な大統領の言いなりになってないで、今まさに真の指導者の出現を待つということを考えれば、これも一つのメッセージになるのかもしれない。

 「反戦」「非戦」そんな思いが多少なりとも乗せられるといいなぁと思う。
・・・・・・・・・・・・

 とまぁ、こんな意味がこめられていたんだなぁ。ところで、きりんというのは、一角なんだな。一角獣ということでここでも西欧のユニコーンと関係してくるから面白い。

 ところで、このユニコーン(unicorn)というのは一つの名詞だと思っていたんだけれど、ユニ(uni)+コーン(corn)なんだな。ユニというのはなんとラテン語で一を表す、でコーンは(角)なんだそのままじゃないか!と思うなかれ。

 で(only one)のラテン語は(unicus ウーニカス)、ここからが面白い。この(uni)は(unique ユニーク)(universal 普遍的)とつながってゆく。

 ということは、オンリーワンの元の意味をたどってゆくと、ただ一つのものは個性的であるし、普遍的でもあるということになる。

 でさらにこの普遍的という意味を調べてみると、
 1.すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること。
 2.宇宙や存在の全体にかかわっていること。

 結局言いたい事は、全ての源(オリジン)はすべからく自分のなかにあり、でそれは宇宙や存在の全体にかかわっていることでもある、ということなんだな。

 とりとめもない話で、すんません。まだまだつづく。

更新時間 : 16:58:48

3月19日 (月)

はる 2096
 今日は一日地元の美術協会の70周年記念画集の撮影に付き合う。こういった団体も70年を数えると、創立会員はもはやだれもいない。10年ごとの物故者もかなりの数になる。

 今回の仕事は画集の編集委員ということで、物故作家の家族に会って画集に載せる作品や顔写真を預かったり、経歴を聞いたり、撮影に付き合ったりと、まぁ微力ながらお手伝いした。

 まぁそういったこともあって、残された作品のことを考えることも多かったな。いずれ自分の番が来ることでもあるわけだし、やたらと作品を残しておくのも迷惑だなと思った。自分の意志のあるうちに整理、処分しておく必要があるだろう。

 閑話休題

 車の調子が悪くなった。最初に異常に気付いたのは音からだった。かすかだけれど小さなモーター音がした。ちょうどクーラーをつけたときのような音だ。それでいつもの修理やサンにみてもらったんだけど、まぁ今の状態だけではまだなんとも判断できない、経過観察ということで、そのまま帰ってきた。

 次にヒーターがきかなくなった。クーラーがきかないというのは聞いた事があるけれど暖房が効かない車はない、どんなボロイ車でもヒーターだけはきくのだ。

 そしてついに水温が異常を示した。オーバーヒートだ。これで明らかな症状がでたわけで、何らかの修理が必要だということだな。

更新時間 : 22:42:24

3月18日 (日)

はる 2095
 オリジナルの話1
 「ナンバーワンよりオンリーワン」なんて歌があったけれど、最近は何かにつけて、オリジナリティが問題にされる。この間のW氏の盗作問題もそうだけれど、表現活動に関わっているとどうしてもその問題にぶち当たる。

 オリジナルという意味は普通、「独創の」とか「唯一の」という意味で使われることが多いけれど、本来の意味はどういうものだったにだろうか。

 元来全くの独創というのはありえなくてね、どこかの孤島にでもいて、全く情報が入らない状態ならいざしらず(いやそれでも言葉でもって考えているということ自体、何かしら文化的に影響を受けているということだろう)こういった情報化社会に生きていれば、自然と色んなものに影響される。

 私はよく問題にぶつかると、一つ前に戻って考えることがある。どういうことかといえば、上手くいえないかもしれないけれど、やってみよう。

 例えば「あそびべ」という言葉がある。何処でその言葉にめぐり合ったのか、定かにはおぼえていないのだけれど、ある時白川静さんの本を読んでいて、「遊」という言葉の源泉にふれたことがあった。彼の解説は驚きに満ちていた。

 詳しいことはHPのアバウトのところにリンクしてある「伊藤さん」の解説を読んで下さいな。簡単に言えば人が旗を持って歩いているかたちだというのだな。

 何故旗など持っているのかといえば、古代の人にとって自分たちの住んでいる所以外は異郷の地であって、魔物が住んでいると考えられていた。故にそこから離れることは何かしら身を守るご神体に代わるもの「旗」が必要だったのだ。

 また「あそぶ」とは神がかって「忘我」の状態をいうらしい。そういわれてみれば、真剣に遊んでいる時は「私」はない。「・・あそばせ」という言葉には本来そういった意味があるらしい。

 とか、自分の仕事の本来のかたちはどういったものなんだろうか?と考えていると、絵描きとか役者とか芸人やテキヤとか香具師、宗教家とか山師、医者みたいなものは本来一所に住んでなくて各地を放浪してその土地で何かしらの仕事をして暮していた。

 昔は多くの人は土地に縛られて暮していたわけだから、情報も限られていて、案外そういった流れ者は優遇されていたし、ありがたがられる存在だったりした。まれに来る人、客人(まろうど)まれびとという言葉もここらあたりで知った。

 また、職能てきには古代からそういった音楽とか舞とか謡曲を担当する職人たちが存在して「遊部」といわれていたらしい。

 つづく

更新時間 : 16:59:52

3月17日 (土)

はる 2094
 午後から約半年振りに散髪に出かける。何故か昔っから髪を切るのが嫌いだった。何故かなぁ・・、面倒だ、邪魔くさい、拘束されるのが嫌だ・・。薄くなったとはいえ、半年も放っておけばボワボワになってくる。時々ホームレスのおっさんとすれちがうと、相手は気にしてないようだけれど、私はそこそこ気になるなぁ。

 我々の若い頃はヒッピーが大流行でね。猫も杓子もロンゲでジーンズのすそを引きずって歩いていた。何だろうかね、アメリカさんの真似かもしれないけれど、世界的なブームだったことは確かだな。

 今はやりのマクロビューテックというのかな、自然食、無農薬、自給自足、共同生活、ソローの「森の生活」とか、そこらあたりから東洋の思想、道教とかそんなものにも興味を持ったりした。結局流行り廃りはあっても、時代はそんなことの繰り返しかな。あまり進歩はない。

 私は「しごと」ということに引っかかっていた。今の若者がニートとかワーキングプアなどと言われているけれど、30年もまえからそんな生活だ。「就職しないで生きる」ということにある種の誇りを持ってきた。いいんじゃないかな、そうやって生きていけるならそれでも。

 「就職する」というのと「散髪する」というのが同意語だったときがあるんだな。今はわりに自由だけれどね。散髪するのが嫌いなのはそんなところから引きずっているのかな。

更新時間 : 21:08:32

3月16日 (金)

はる 2093
 地域の公民館で月に二回、数人の生徒をみている。これは前にどこかで書いたかな。生徒は私より全て年上なので、誰が生徒か先生かぁ〜という感じだ。

 教えることは教わることというけれど、忘れていたことに気付かされることが多い。例えば初心者から一歩進んで公募展用の作品を描こうと思ったときに、何を考えていたのだろうか?とか、絵を描く事で何を表現したかったのか?とか。とっくの昔に解決していたと思っていた事をあらためて考えさせられることが多い。

 こういった場で地域の活動をしているグループにも良く会うのだけれど、短歌や俳句といった趣味の世界や、手話や点字などのボランティア活動にしてもほとんどが女性だ。私の参加している裸婦のクロッキー会にしても七割が女性かな。まぁ男性は仕事があるからとは思うのだけれど、退職してから急にそういった活動に参加しても遅いように思うなぁ・・。

 前にも書いたけれど、いらない物を人にあげるというのはありがた迷惑な場合が多い。本人は親切のつもりでもね。それと同じように「時間があったら・・する」というのはやらないというのと同じなんだな。

 人に物をあげるなら自分にとって身を切るようなものを上げなければ意味ない。それと同じように時間も生きた時間をワザワザ使って活動するからボランティアすることに意味があるのだろう。地域の活動にしても、趣味にしても、今の大事な時間を使うから生きた意味がある。

 男性諸君が段々にしょぼくれてつまらなくなって行くとすれば多分そういった時間の使い方をしているからじゃないか。自分を含めて。

更新時間 : 21:27:31

3月15日 (木)

はる 2092
 午後から来年度の仕事の契約のための書類を学校に届に出かける。履歴書の写真がいるということなので、駅の構内にある簡単な証明書の自動写真機の世話になる。結構便利なものだ。

 こういった手続きももう25年も続けている訳で、免許書の写しとか履歴書なんかは昨年と同じじゃ無いか?健康診断書は昨年のものを流用というわけにはいかないけれどね。それに何だか雇ってやるから持って来いみたいな微妙な圧力を感じて嫌なんだな。何もあんたに雇ってもらってるわけじゃないのに・・と思う。

 彼らは何処までも小役人とよく似ている。どこか自信たっぷりで人の意見を聞かない、トラブルが起こらないように、起きないように、細心の注意を払っている。で起きてしまったら、極力責任逃れする道を考える。自分の保身が全てで、何事もなく、何事もしないのが彼らの仕事なんだな。

 さて、今日も一日終わってしまった。又明日。

更新時間 : 20:55:32

3月14日 (水)

はる 2091
 ブログといえば有名人のブログというコーナーがありまして、そこを覗いたら何とまぁ綺麗な女性のプロフィールがずらりと並んでおりました。有名人といいながら私は誰一人として知りませんでしたけれど・・。

 で、ブロガーというのは女性が主流なんですかね。いやそれより昔は男尊女卑なんていって、男であるだけで何やら優遇されていた時代がありましたけれど、今はまさに反対に若い女性であるというのが売りになっている感じがしますな。芸能や芸術にかぎらず、今活躍している、もしくは活躍するだろうと期待されている人は女性が多い。

 まぁ身近の若い人を見ていても今は女性が活き活き活動してますね。ここ10年はますますそういった女の時代になるようなきがします。顧みて男性はしょぼくれて保守的で面白くないですね。決定的に差をつけられた感じですね。まぁ同じ男性としては情けないなぁ、頑張れとエールを送りたい。

 反対にこれから若い、とか女性というだけにあぐらをかいていると、またいずれ逆転するのだろうけれど、私が生きているうちにそんな時代がくるのだろうかね。んじゃ


更新時間 : 23:08:20

3月13日 (火)

はる 2090
 どうしょうか、自分では決められなくて初めて人に相談したりしていたことの結論が今日出た。

 来年の一月の銀座の松屋デパートでの個展だ。今年の阪急デパートに続いて、いよいよデパートで売り出すということになる。

 まぁ一度始めてしまって今さら何を寝言言ってるのか?と思われるかもしれないけれど、正直いって、いままで裏方で細々やっていた人間が大きな舞台に引っ張り出されたような気恥ずかしさを感じる。これもそのうちに慣れるのだろうか。

 言えることは小さな会場で細々とやるということに行き詰まりを感じていたことは確かだ。お客さんは徐々に増えてきてはいたけれど、前にも書いたけれど私の作品はマニアックな絵ではない。

 小さな会場でごく一部のマニアックなファンに見せてゆくという絵でないことにははやくから気付いていた。20年やってきて、だからどうすればいいのかということは分からなかったのだけれどね・・まぁそれでも、生きて行ければいいかと思っていた。

 例えばどういった人達に受け入れられたいのだろうか。

 極々普通の日常生活を送っている市井の人たちに、あぁこんな時もあったなぁ・・とか、そんな時もあったね・・と、日々折々の瞬間に、慰められたり、怒ったり、悲しんだり・・そんな時の心の糧になれば嬉しいし、心の拠り所になればもっとうれしい。

 間違っていなければ通俗的であることは恥ずかしいことではないと思っている。広く多くの人に受け入れられることは普遍性があるということ、本物である可能性があることではないかな。出来たらそんな絵を描きたいと思っている。

 私の絵のそういった可能性を見つけてくれたのがHさんで、今回の企画も彼の持ってきた話だ。広く一般の不特定多数の人に観てもらうというには、デパートいう場は都合のいい所ではある。今までも人生の色んな時にキーになる出来事や人に出会ってきた。そういった流に身を任せるというのも私の一つの生き方ではないかな。

 この選択がどういう結果を生んで行くのか、どう展開して行くのか、一緒に楽しんでもらえればこのweb日記にも多少の意味があるだろう。

更新時間 : 21:58:53

3月12日 (月)

はる 2089
 携帯からの投稿が何故か突然出来なくなっていた。私の方から何か設定を変えたおぼえはないのだけれど、こういったサービスというのは案外に不安定なものだ。アメブロの方に質問状を出したのだけど、返事はこれもあまり期待できないな。

 ということで、もう一度設定しなおしたら、理由はまったくわからないけれど復活したようだ。まぁ結果オーライということで。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 <わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。>(ヨハネによる福音書)・・らしい。飯野さんありがとうございました


更新時間 : 22:44:31

3月11日 (日)

はる 2088
 今日は朝から裸婦クロッキーに出かけた。ということで疲れましたね。

 なんだろうなぁ、クロッキーみたいな簡単なしごとにこそ、絵を描く本来の楽しさがあるように思う。何回もやっているくせに一回一回違ううんだな、これが。他人が見れば同じにみえるかもしれないけれど、出来がいい時と悪い時というのがハッキリとあるんだ。

 それもあるけれど、未だに技術的にああしてやろうとか、こうしてやろうとか工夫している自分がいる。上手くなりたい?という自分がいるんだな。まぁ上手くないから飽きないのかもね。これは多分一生終わりがないという気がしている。

・・・・・・・・・
 「現代美術」という言い方もおかしいのだけれど、例えば絵画が単に色のついた板だという点に立ち返って、じゃ色は絵の具でなくてもいい、板はキャンバスでなくてもいい、ということで色んな他の画材を使うようになった。まぁここらあたりまでは心情的に同じラインにいる。

 ところが、もっと進んでというのか後退してというのか、物を作るのではなく、考えることそのものが即芸術だということになって、例のデシャンの便器をそのまま(泉というタイトルで)出品したということになると、もう何だか分からなくなってくる。これもまぁある種の(見立て・価値の転換)と言われればそうかなとは思うのだけれどね。

 「現代美術」ということになると、今は設置芸術(インスタレーション)みたいなものが主流だな。まぁここらあたりの最前線になると、私もよく理解できていない、というのか心情的には分からないといった方が近いかな。

 どういうかたちであれ、私は(ものをつくる)というところから離れられないような気がしている。もっというなら、わたしのやろうとしていることは形を変えた(いのりのかたち)であって、何が何でも自己表現という意識は薄いな、まして芸術だとも思っていない。

 自力、他力どちらでもいいけれど、ほんの一瞬にでも「おおいなるものの意識」にふれることができたらいいなとただそれだけのことだ。


更新時間 : 23:42:27

3月10日 (土)

はる 2087
 人の道具をただで借りていて文句をいえた義理ではないのだけれど、こういったブログというのはあなた任せなところがあって信用できない。明日からこのサービースを止めますといわれれば、はいそうですかと引き下がるしかない。

 このシャメの機能もニ三日前は問題なく利用していたんだけれど、突然使えなくなった。ただただ待つしかないのだろうか?

 まぁそれにしても色々な機能がつきすぎているのではないだろうか、だからすぐにトラブルがおきる。他と大した違いはないのだけれど、何かしら新しいことをやらなければ利用者が減ってしまうからかな。

 我がままだけれど、私は基本的な機能さえあればそれでいいわけで、できるだけシンプルな方がいい。最低限ブログの記事がかけて、シャメで画像が添付できればそれでいいのだよ。他は要りません。はやく何とかして下さい。お願いします。



更新時間 : 19:17:20

3月9日 (金)

はる 2086
 本日お休み

更新時間 : 23:08:28

3月8日 (木)

はる 2085
 蔵出し(はる40)
 「・・数年前の秋口にめずらしくこの地方にも台風がきた。普段雨戸など閉めないのだが、風台風ということでガタピシと雨戸を引き出した。

 古い家に住んでいる人ならわかると思うが、戸袋がちょうど大きな木のウロのようになっていて、中に鳥の巣が幾重にも重なりあってとても使える状態ではなくなっていた。

 その巣は草の切れ端から針金、ビニールのひも,布のくず、土など、巣の材料になるものならなんでもござれのてんこ盛。下手な「現代美術」より「現代美術」的だった。

 現代に生きて今ここで生活している以上、今ここで手に入る材料で絵を描くほうがより自然な行為ではないか。100年後、当時の人はこんな材料で絵をかいていたのだということも現代を表す重要な要素じゃないかな」

 随分と昔に書いた記事だ。鳥でなくとも自分の棲家は自分で作るというのがあるべき姿だな。まぁそれは無理だとしても少なくともその土地で調達できるもので作るというのが理想だろうな。

 同じように考えて、例えば絵を描こうと思った場合、画材やさんに走って絵の具を調達するというのが当たり前のことになっているけれど、そうなんだろうか?ということだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・

 絵画は印象派あたりで、画家は絵を描く職人だという概念から自由になった。自由になったはいいけれど、じゃぁ何を描けばいいのかということが、画家本人に託されてしまった。

 まぁいわゆるアーティストになったということだけれど、その「何を」ということを考えない作家はいらなくなったということなんだな。

 で、印象派がやったことは、絵というのは突きつめれば「平面に置かれた秩序だった色の点の集まりだ」と考えた。まぁちょうど科学が発達して印刷や写真その他の出現も作用しているとは思うのだけれどね。で、そこからカンジンスキーやクレーなんかの完全な抽象絵画もでてくる。

 セザンヌが考えたことは少し違っていた。西欧の伝統である所の遠近法を考え直した。見たままというより画面上の均衡みたいなものを重要視したんだな。いかにバランスを取るか、ということが彼にとって最重要課題だったわけだ。そこからブラックやピカソの視点の移動、多視点という考え方が出てくる。

 ピカソのキュピズムまでくると、いよいよ物を具体的に描き表すということから離れて行く。彼は生涯にわたって変わりつづけた作家なので一概に言えないのだけれど、画材にこだわらない、今手に入るものが全て画材であるという最初のひとではないだろうかね。

 画面の中に既成の新聞紙や包装紙をコラージュして新しく「見立てる」という発想は現代の「コンセプトアート」にまでつながる考え方だと思う。まぁこの「見立てる」という発想は日本のお茶の世界ではお得意の分野ではあるのだけれどね。いまはこれにふれない。


更新時間 : 17:27:54

3月7日 (水)

はる 2084
 ミクストメディアなるものを自分なりに訳してみた。異種材料混成技法というのはどうだろか。

 混合技法・という言葉は伝統的な西欧絵画であるところのテンペラ画と油彩画の混合というところで出てくる。

 絵画とは、紙や布、板などの上に何らかの顔料(色の粉)でもって描かれたものということなんだな。それをどうやって定着するかで色んな言い方が出てくる。

 まず我々の住んでいる東洋では墨をはじめとしてニカワを定着剤として使うようになった。ニカワは優れたのりで、乾けば人の力でははがせないほど固着力は強い。しかるに暖めることで簡単に柔らかくもなる。

 日本画といわれる絵画はこのニカワをつかって岩絵の具という顔料をとめて行く、まことに古風な絵画である。元来自然の中に存在していた色のついた岩石は、ほとんどが今宝石の部類に入るので、純粋な日本画はある意味で非常に高価な砂絵ということができるだろう。

 また簡単な水彩絵の具はのりの材料としてアラビアのりを使っている。乾けば一応定着するけれど、簡単に水に解けてしまう。それが使いやすいところでもあるけれど、堅牢性ということでは少し落ちる。

 西欧では絵画は科学の一部だった。如何に自然をそのまま写し取るかということに苦心した。正確な形ということでは遠近法が考えられて、光と影でもって立体を表現するという方法が考えられた。

 それからどうすれば永遠性のある強い堅牢な画面が得られるかとか、濡れたような生々しい色彩をどうやって得られるのか、というようなことが大きな関心事だったようだ。

 多分偶然からだろうけれど、濡れた石灰のうえに水でといた顔料で直接かけば、漆喰が乾いた時に自然に色を取り込んで固まってしまうということを発見した。そこから「新鮮な」というラテン語の「フレスコ画」ができた。

 まぁ西欧の教会やほとんどの壁画はこの方法で描かれている。何世紀も経ってもほとんど退色もせず残っているということは、これが技法的にも理屈にあった技法だということだろう。

 しかし、このフレスコ画は小さなものには適さないということや、技法的にじっくり描いて行くといったことができないという欠陥がある。

 壁画のように大きな空間を埋め尽くしたいという願望も人にはあるけれど、極小さい手に乗るような可愛い作品を慈しみたいという願望もあるんだな。

 想像だけれど、最初はのりの材料として卵に注目したんだと思う。顔料を卵の黄身でといたら艶もあるし、乾いてもくっついて取れなかった。これはいいと思ったんだろうな。

 で、完全に乾いたら艶がひいてきたのでその中に植物油を入れたんだな、そうすると乾いてもそこそこ艶が残ったんだよ。描く時は水で延ばすこともできるし都合よかったんだな。

 水と油と上手い具合に混ぜ合わせる(乳化剤)として卵えることを経験で知ったんだとおもう。これがテンペラ画(混ぜるという意味)の始まりだ。

 西欧のグレゴリオ聖歌の楽譜(ネウマ譜)やイコンなどはほとんどこのテンペラ画で描かれている。やがて仕上げにニスを塗るようになって、本格的な油彩画と発展して行く。

 今例えば油彩画を描こうと思えば画材店に飛んでいって、油絵の具とキャンバスとオイルを買ってくればすむことだ。そこのところに何の疑問もわかない。

 しかし、何故油彩画なの?何故キャンバスなの?そこらあたりを疑い始めるといてもたってもいられなくなる。

 続きは又書けたら。

 

更新時間 : 23:59:14

3月6日 (火)

はる 2083
 そのことを知る道には大きく分けて二通りある。

 普通に考えるのは直接努力してそのことをつかむということだろう。世の中の学習とか訓練とか修行とか、いわゆる真っ当な社会で正統と認められている方法だ。

 技術とか技といったものは、そういった長い時間かけることによって得られるとされている。

 有為の奥山、今日越えて
 浅き夢見じ、酔いもせず

 わき目もふらず努力せよ、それが成功の秘訣だというわけだ。

 とここまでが自力本願てやつ。そりゃあその通りなんだけれど、とあまのじゃくな私が言う。そんなやつぁ技術屋でね、コツを掴んだとたん大事な物を見落としてしまうんだ。大体そんなに時間をかけてりゃ死んじまうよと。

 自力じゃなきゃ他力本願でね。自分じゃ何もやらない。全面的に任せてしまう。「捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」ってわけで、なるようになれ、ケセラセラというわけだ。

 まぁここまでになれば本望なんだけれどね。間違うとただの怠け者か世捨て人になっちまう。難しいところだな。

 けれどね、よくはわからないのだけれど、探しているものはみつからないものなんだな、探しているうちは。探すのをやめた時にはたと気がつく。自分の中にそれがあることにね。

 何やら禅問答

 


更新時間 : 21:16:47

3月5日 (月)

はる 2082
 私の親父もそのまた親父も59歳で亡くなった。まぁたんに偶然だとは思うのだけれど、どうも我々兄弟にとって60歳というのが大きな峠になっていることは間違いない。

 ほかの家ではどうか知らないのだけれど、我が家系では還暦は特別な意味を持っている。

 還暦といえば子供たちが赤いちゃんちゃんこなどを送ってお祝いするようだけれど、いつの日にか私たちは兄弟が集まって、お互いの無事を確認するようになった。

 さて、上から順番に降りてきて今年は三番目の兄貴が還暦をすませた。まぁめでたいことに違いないのだが、そうするとやがて私が59の鬼門をくぐることになるのだな・・。奇妙なプレッシャーを感じるな。

 ということで、今年は三月の末に兄弟が集まって、兵庫の有馬温泉一泊旅行ということになっている。

更新時間 : 23:35:45

3月4日 (日)

はる 2081
 また新しい計画が持ち上がっているんだけれど、何だろうなぁ・・。いいような悪いような、妙な心持だ。

 いやしかし、後になって客観的にみたらここ一二年が大きなターニングポイントだったということになるのだろうか。渦中にいる今はただただオロオロしているばかりだ。

 良いのか悪いのか、そんなこたぁ誰も分からんだろう。時の流に身を任せてという言葉あるけれど、今はそういった時なんだろうな。結果は後からついてくる。で、またその時に考えよう。

 具体的な話になったらまた報告します。ということで又明日。

更新時間 : 21:32:58

3月3日 (土)

はる 2080
 本日休業

更新時間 : 23:27:28

3月2日 (金)

はる 2079
 朝、まぁ比較的に遅く起きだして、河原ぞいを散歩する。もう三月だからうらうらと遠くの山がかすんで見えたりする。あぁもう春なんだなぁ・・と鼻歌の一つも出てくる。

 朝は野菜中心にいつもわりとしっかり食べる。紅茶に食パン一切れ。人参をガーガーミキサーにかけてジュースにする。あとスープがあったり、お腹の調子がいいと自家製のカスピ海ヨーグルトに果物をつける。

 幸福というのは、その最中には気付かないことが多い。失って初めて、あぁあれが「しあわせだったんだ」と回顧する。何気ない日常が幸福だったんだと、病気をして初めて知った。

 それではもったいないので、一日のうちで数回「これが幸福なんだ」と思うようにしている。

更新時間 : 23:23:15

3月1日 (木)

はる 2078
 東京から今帰ってきた。疲れました。ということで又明日。

更新時間 : 22:47:35