2006 11月

11月30日 (木)

はる 1988
 甲府の個展が終わって一息つく間もなく、明日から師走になってしまう。何を焦っているのか、といえば18日から銀座で個展があるわけで、こんなことをもう何年もくり返している。

 しかしまぁ、人間と言うのはいいかげんなもので、こんなに忙しい想いをするなら、来年はもう少し間隔をずらすんだったと、その時は考えるのだけれど、終わってしまうともう忘れて、また同じことを繰返している。まったく懲りていない。

 それに今回は怒涛の大阪阪急デパートデビュー展が控えている。この三ヶ月はコテンコテンコテンの大安売りだ。大阪は期日指定で私が選べる立場ではなかったのでね、結果としてこんな形になってしまった。次回はもう少し余裕を持ってやりたいな。

 さて、色々な後片付けや準備も片付けて行かねばならいのだが、取り急ぎ次の個展のDMをだした。本来はもう少し後の方がいいのだけれど、まぁ12月に入ればそう場違いでもなかろう。

 まだ描かなければならない絵があるのでね、気になっていることを片付けておきたかった。

 明日はTAO展の搬出だ。んじゃ。

 

更新時間 : 20:15:49

11月29日 (水)

はる 1987
 最近は画廊のDMも何枚かまとめて、透明なビニールに入って郵送されてくる。その方が料金も安上がりだし、送る方もまぁ便利だわな。

 というわけで私も今までのように封筒じゃなくて透明なビニールに入れて出そうかなと思った。何回か少ない枚数ではそういった方法で送ったことはあるけれど、その度にあまりいい顔をされない。

 多くは切手が貼れない。料金別納ならいいのかと思ったのだけど、そう簡単ではないらしい。ある程度まとまって郵送する場合、これでは受け付けられません、と言われると辛いので、詳しいことを郵便局に聞きに行った。

 しかし、郵便局のおば様もよく分からなくて、本局かどこかに電話して聞いていた。待たされること20分ぐらいかな、で結論はこういうことだ。

 基本的に定型なら受け付けられるけれど、その中に入っている郵便物が袋いっぱいに入ってないと定型外になって120円になる。正確には1ミリ以内でないといけないらしい。

 それから封をした状態で口がばたついてはいけない。なぜなら機械で読み取るのでひっかるらしい。とかなんとか・・。

 ようするに、定型の普通の封筒以外面倒なことになるかもしれませんよ。余計なことをしないできまった形で出した方がお互いのためですよ。ということか。聞いていて段々にイライラとしてきた。

 その帰りに宅急便屋さんによって、メール便について聞く。同じようなおば様だったけれど、「ハイハイ」と言いながら、30cmくらいのエ型のメジャーを持ってきて、厚さがこのあつみで、A4サイズまでなら80円です。シールはこちらで貼りますし、言ってくれればこちらでとりに伺います。とのこと、この違いはどうだ!

 長い間の日の丸根性がこういった融通のきかないお役所体質をうむ。どんどん民営化すべきだな。

更新時間 : 17:06:45

11月28日 (火)

はる 1986
 今日は休養日

更新時間 : 22:15:15

11月27日 (月)

はる 1985
個展履歴
NO 年 場 画廊 備考

1   83 甲府 県民会館
2   86 甲府 県民会館
3   88 銀座 中央画廊
4   89 銀座 中央画廊
5   90 甲府 おおくぼ
6   銀座 中央画廊
7   91 甲府 おおくぼ
8   銀座 スルガ台画廊
9   92 甲府 おおくぼ
10   銀座 銀屋画廊
11  93 甲府 おおくぼ
12  銀座 スルガ台画廊
13  94 甲府 ギャラリーWin
14  銀座 中央画廊
15  95 イタリア ナルニ市民劇場
16  96 甲府 三彩洞
17  97 神戸 海文堂画廊 「こころのかたち1」
18  甲府 ハーパーズ・ミル 「こころのかたち2」
19  銀座 スルガ台画廊 「こころのかたち3」
20  98 甲府 ハーパーズ・ミル 「たいせつなこと1」
21  銀座 ギャラリー惣 「たいせつなこと2」
22  99 甲府 ハーパーズ・ミル 「いまここにいる1」
23   銀座 ギャラリー惣 「いまここにいる2」
24 2000 甲府 ハーパーズ・ミル 「どこにいくのか1」
25 銀座 ギャラリー惣 「どこにいくのか2」
26 2001 甲府 ハーパーズ・ミル 「みみをすます1」
27 銀座 ギャラリー惣 「みみをすます2」
28 2002 甲府 ハーパーズ・ミル 「あそびをせんと1」
29 銀座 ギャラリー惣 「あそびをせんと2」
30 2003 神戸 ルポール 「あそびをせんと3」
31 甲府 ハーパーズ・ミル 「こしかたのき1」
32 銀座 ギャラリー惣 「こしかたのき2」
33 2004 神戸 ルポール 「こしかたのき3」
34 甲府 ハーパーズ・ミル 「かぜのおとづれ1」
35 2005 神戸 ルポール 「かぜのおとづれ2」
36 甲府 ハーパーズ・ミル 「色はにほへと1」
37 銀座 ギャラリー惣 「こたえてください」
38 2006 神戸 ルポール 「色はにほへと2」
39 甲府 ハーパーズ・ミル 「うつろふもの1」
40 銀座 ギャラリー惣 「うつろふもの2」



更新時間 : 21:29:44

11月26日 (日)

はる 1984
 個展八日目・楽日
 とうとう甲府の個展が終わってしまった。何だか凄く寂しいのだな。いつもそうだけれど・・。

 午後四時過ぎると作品を受け取りに来る人がぼちぼちやって来る。歯が抜けたように壁が剥き出しになって行く。展示の空間は、本当に微妙なバランスで成り立っていて、一部分が抜けて行くともう全体がゆがんで美しく見えない。個展の会場自身が一つの作品のように思うのだな。

 多くの人がかけつけてくれました。どうもありがとうございました。また来年です。

更新時間 : 00:06:04

11月25日 (土)

はる 1983
 個展七日目
 まぁいよいよ明日で終わりです。出かけて下さい。

 今日は例のTAO展の搬入、飾り付け。実は間違って昨日美術館に出かけたのだ。で、受付のところで作品の搬入ですと言ったら、変な顔をされる。「何の搬入ですか?」であわてて期日を確認、私の早とちりが判明した次第。

 今日は間違いなかったようだ。100号が20点ほど並ぶと結構壮観だ。観てやって下さい。

更新時間 : 22:12:28

11月24日 (金)

はる 1982
 個展六日目
 号・・万円というようなことを言う。絵画の値段は相場があってないようなもので、作者がこの値段でいいといえばそれで通ってしまうところがある。

 よく個展会場などで美術年鑑とかその手のカタログが置かれていることが多いけれど、あれってまやかしでね、お金を払って自主申告で掲載してもらうのだ。で、さもその値で取引されているように見せる。

 雑誌の掲載記事とか新聞の記事とかそういった類のものを個展会場に置けばいいのにとアドバイスをくれた人がいたけれど、それも上の話同様に何となく胡散臭い。

 そうやって絵以外の外からの(他人の)評価でしか観れないのはやっぱり少し悲しいね。

 人がどう観ようと関係ない。自分が好きか嫌いか、いいか悪いか、それしかないだろう。

更新時間 : 23:07:14

11月23日 (木)

はる 1981
 個展五日目
 祝日(勤労感謝の日)というわけで、けっこう多くの人が来てくれた。

 ↓のあそびべの話をもう少ししたかったのだけれど、疲れてしまった。というわけで又今度だな。んじゃ。

更新時間 : 22:04:25

11月22日 (水)

はる 1980
 個展中休み
 今日は個展の中休み。一週間ぶっとおしでやるのはなかなか疲れる。こうやって中一日休むことも必要だ。といっても今日は出稼ぎ仕事で、まるまる休みではないのですがね。

 テレビはほとんど見ないが、今火曜日のNHK10:30から中沢新一が「折口信夫」をやっているので興味深く見た。先週は「まれびと」の話だったけれど、見逃してしまった。見ました?

 この民俗学というのは面白いねぇ。まぁそんなに詳しく知っているわけでもないのですが、ちらっとさわりを見ただけでも興味が惹かれる。

 例えば昨日の、能の「翁」の話はこうだ。翁というのは能の最初に演じられる。今ではそれは単に儀式になってしまってその意味は隠されてしまっているけれど、その能の舞が出来た頃にはちゃんとした意味があった。

 翁の面と言うのは老人のように見えるけれど、それは「老人」でもあるけれど「生まれたばかりの赤子」でもあるそうだ。で、その役割は「あちらの世界とこちらの世界」との橋渡し、巫女のような役割を演じているのだ、ということだ。

 そして、そこから話はふくらんでゆく。能のような芸能には「神の使者=精霊」を呼ぶというような役割があって、古いわが国では貴い職能であったらしい。

 「貴種流離」という話をしていたけれど、そういった人たちは村から村、町から町に流れてそれぞれの場で芸能を演じていたようだ。「あそびべ」のルーツはここらあたりにある。

 白川静の「遊」話にも共通するけれど、何事かが起きるとそれを認識する「ことば」が生まれる。で、その言葉の裏には必ず「神」が存在するということなんだな。

更新時間 : 12:49:18

11月21日 (火)

はる 1979
 個展四日目
 山梨日々新聞・2006・11/21「文化欄」無断転載
  「榎並和春さんが甲府で個展」・水で広がるイメージ表現」
 「油彩をやめて十年。1995年にイタリアで一年間研修したのがきっかけだった。「油彩以前の壁画であるフレスコ画をみて日本画のような身近さを感じ、自分の中で油彩以外の表現の摸索が始まった」
 水彩絵の具、布、紙、土などを素材に使ったミクストメディアでの表現を続けている榎並和春さんの個展が26日まで、甲府市東光寺のギャラリー・ハーパーズ・ミルで開かれている。
 「キーワードは(水)。日本では日常生活に深く入り込んでいる。一方、油彩はヨーロッパの乾燥した風土で完成した材料。日本の風土を考えた時、水彩の方がなじむと思っている」と語る。
 画風は、厚みのある独特のマチエール。「油彩は水をはじき、受け入れるものが限られる。それに対して、水彩は許容範囲が広い。水に染み込むものは全て画面に取り込むことができ、イメージそのものが広がっていく」画面上では、絵の具と繊維類などの素材が一体化している。
 今展では「うつろふもの」をテーマにした今年の新作約30点を出品。絵と向かい合いながら自己を投影させた心象風景を描き、今回は楽器をモチーフした作品がめだつ。オブジェなどの立体作品もならぶ。・・略・・」

更新時間 : 20:30:20

11月20日 (月)

はる 1978
 個展3日目
 昨日は疲れてしまってコタツで風呂も入らずにうたた寝してしまった。夜中に寒くて目がさめたけれど、そのままベッドに直行、朝まで寝てしまった。かなり疲れて来たようだな。

 明日は出稼ぎ仕事の為に私は三時過ぎまで留守にします。むろん画廊はオープンしていますので、ご自由にご覧下さい。では又明日。

更新時間 : 21:34:14

11月19日 (日)

はる 1977
 個展二日目
 昨日はオープニングのコンサート。お客さんと言ってもほとんどが私の知り合いなので、気楽なファミリーコンサートのようなものだ。

 持ち運び出来るチェンバロと聞いていたので、小さなオルガン程度のものを想像していたら、なんと本格的な楽器が会場に入ってきたて組み立てられたので、びっくりした。

 第一声かなじみのあるグレゴリアン聖歌だったので、このコンサートが上手く行くような気がした。

 その後去年と同じお店にケータリングをお願いしたので、軽く食べたり飲んだり、私は楽しかったけれどお客さんはどうだったのだろうかね。

 今日は朝から雨。それでも多くのお客さんに来くれた。感謝。

更新時間 : 22:24:22

11月18日 (土)

はる 1976
 個展1日目
 オープニングでした。コンサートの様子はブログにあります。またそのうちにまとめましょう。疲れました。んじゃ。

更新時間 : 00:26:12

11月17日 (金)

はる 1975
 今日は午後から飾り付け。今帰ってきました。

 いよいよ、明日からです。皆さんよろしく。

 明日は、夕方7:00からオープニングコンサートですよ。まだ若干余裕があります。連絡くださいな。んじゃ。

更新時間 : 22:18:55

11月16日 (木)

はる 1974
 明日搬入。本日臨時休業。

更新時間 : 21:14:50

11月15日 (水)

はる 1973
 さて、今日も仕事でした。

 毎年のことだが、この時期になると生徒を連れて近く川沿いに出かける。大きなケヤキの並木があり春には細かい梢に精一杯の若葉をつけ、この時期になると紅葉してはらはらと木の葉を撒き散らす。

 本当は絵など描かなくてもその場にいるだけでけっこう気持のいい空間なんだけれど、一応美術の授業なんでね、色々だまくらかして絵を描かせることにしている。

 しかし、疲れました。また明日。

更新時間 : 22:19:40

11月14日 (火)

はる 1972
 「いじめ」が社会問題になっている。新聞も読まないし、テレビも見ないのでほとんど情報は漏れてくるものをつなぎ合わせて推量で言っているだけなので間違っているかもしれない。あしからず。

 まぁ我々の小さい頃だってやっぱり弱いものは、いじめられていたな、質のいい「いじめ」なんてなくて、「いじめ」はみんな陰湿なものだ。

 社会とは強いもの、弱いもの、真面目な人もいれば、とんでもない不真面目な人もいる。お年よりもいれば、今生まれた子もいる。体の弱いひとも、障害を持った人も、男も女もいる。種々雑多、混沌としたものなんだ。

 何か一つだけ取り上げてスポットを当てれば確かに異常なんだな。「いじめ」はあってはいけないことだとは思う。けれど社会とは冷たいけれどそういったものを含んでいるんだな。そういった中でやっぱり戦ってというのか、負けないでしぶとく生きて行かなければならないのだな。

 それもそうだけれど、学校の校長が問題があるとすぐに自殺してしまうことの方が異常だな。弱すぎるというのか、今までどんな人生を送ってきたのかと疑いたくなる。かん難辛苦、人生の荒波を乗り越えてそれなりの人物になったから校長になったのじゃないの?

 管理職という職業は先生ではない。感触としては行政の役人に近いかな。ことなく滞りなくスムースに事が運ぶことが全てであって、事が起こったら自分の責任を極力回避する。心掛けているのは自分の保身でしかない。

 だから、今回のように事件が起きたらすぐに自殺してしまうのだ。

 生きて行くことはカッコ悪いものなんだな。汚点一つなく生きて行くことなんて出来ないんだな。かっこ悪くて、惨めで、辛くてもそれでも生きて行かねばならないのだな。

 なぜならそれ以上に素晴らしく楽しく感動的な日々があるからだ。生きていてよかったと思える瞬間が必ずあるからだ。

 我々は、そんなことを子供たちに伝える義務があるだろう。

更新時間 : 23:00:43

11月13日 (月)

はる 1971
 午後一番に地元の新聞社の取材を受ける。記者が新しく代わって自己紹介がてら訪ねてくるということだ。

 新聞記事に限らず、あらゆる情報というものは現場が一番だと思う。こまめに動いて実際に自分の目で確かめて取材する。それで記事を書くというのが鉄則だろう。

 けれど、長い間こうやって地元で活動しているけれど、個展の事前取材で記者の訪問を受けたことは、今回が初めてだと思う。オープンされた後で会場に来て取材と言うのは何回かあるけれど、今回に限らず、ほとんどのマスコミの取材は電話取材だな。

 まぁどんな形であれ、記事にしてもらえればありがたい話で、文句をいってはお門違いなんだけれど、やっぱり実際にアトリエに訪ねてきて顔を見ながら取材すると言うのが筋だろうな。

 芸事というのはもちろん勝負するのはその作品だけなんだけれど、その作品ができた背景を知らなければ、理解の半分もできない。

 「美は美しいと思った自分との再会だ」というのが私の持論なんだけれど、美は観た人のレベルでしか理解できないものなんだな。だから少なくとも、紹介するならその作家に会ってその作品が生まれた背景なりを知る必要があるように思うな。

 まぁ難しい話でした。また明日。

更新時間 : 22:18:18

11月12日 (日)

はる 1970
 1970年はやっぱり大阪万博でしょう。今はもう昔になってしまったけれど、あの岡本太郎の太陽の塔はこの万博のシンボルタワーだったんだよ。万博には都合三回ほど出かけた。けどほとんど何も覚えてないなぁ。

 東京でオリンピックがあって、それじゃ大阪でも何にかやらなきゃというので、ぶち上げたのがこの万博だったのじゃないかな。物凄い人が日本中をこのイベントのために移動したと思う。元々何とか参りみたいなものが好きな国民だったのが、晴れて出かける口実ができたもので、大っぴらに移動したんだろう。

 ちょうど高度成長期もピークでそれなりにみんな一息ついたのかもしれないな。農協さんが旗振って世界中をヒンシュクをかいながら旅行した出したのもこの頃か。

 個人的には高校二年から三年になる頃で、これからの進路に不安がいっぱいの頃だ。学生運動もこの頃がピークかな。高校の隣の大学が送ればせながらバリケード封鎖されて、ゲバ棒にヘルメットに手ぬぐいで顔を隠した例のスタイルを見るために、放課後に面白がって見に行ったりした。

 私の高校でも今では信じがたいけれど「臨時全学学生集会」なるものが体育館であったりして、先生が吊るし上げを食ったりしていた。何で揉めていたのか、基本的にノンポリだったので定かではない。

 うわさと言うのはバカバカしくて何処かの学生が自分たちの文化祭を乗っ取りに来る。だから全校生徒が集まって防衛するのだというような、誠に幼い漫画チックなことが真剣に語られていた。何であんな馬鹿みたいなことが許されていたのか、誰に乗せられたのか、正門あたりに椅子や机を山のように積み上げてバリケードのようなものを作っていた。今から考えるとあれは何だったのか?

 青春時代の恥ずかしい思い出だな。



更新時間 : 00:21:58

11月11日 (土)

はる 1969
 こうやって携帯から画像を転送するようになって、画像をネットに貼り付けることがすこぶる楽になった。

 今までのようにデジカメで撮ってそれを一度pcに取り込むなどということをやっていると、無論画像は大きくきれいだが、面倒くさい。めんどうなことは続かないという原則がある。

 今私が、ここで見た映像がすぐさまパソコン上とはいえ世界中で見ることができるというのは、凄いことだ。

 以前サイボーグの話をしていたけれど、直接脳に電気信号として伝えることができれば、個人の経験なり体験が瞬時に多くの人が共通の疑似体験できるということだ。

 今はまだ便利だなぁ・・という程度の話だけれど、やがて例えば「アフリカ冒険旅行体験記プログラム」とか、個人的な「経験や体験プログラム」が売買されるようになるかもしれない。経験したことがないことも、脳が情報として経験してしまえばそれは「経験した」ということになる。

 学習とか経験ということがバーチャルになり売り買いされるということだな。

 何だろ、人類もいよいよ神の領域に踏み込んだということか・・。

 ということで何が言いたいのか分からなくなった。ということでまた。

更新時間 : 22:58:56

11月10日 (金)

はる 1968
 午前中かねがね行かなければと、思っていた県立博物館に「祈りのかたち」を観に出かける。このケンパクや考古学博物館は県立美術館、文学館と共にまぁその時々の為政者の記念碑的なところもあってね、内容はともかく箱物は立派なものだ。

 元々こういったものは営利的に成り立つものでなく、ある種の研究機関であるから、お客さんが連日連夜押しかける面白い企画を催しているというものでもない。じっくりゆっくりやればいいので、その地方のふところの深さみたいなものが問われるのだろう。

 まぁそうした訳で、子供たちがワーワーキャーキャー走り回っていたけれど、その他のお客はお年よりの団体が一組いただけだった。平日の午前中にしてはにぎわっていた方かもしれないな。

 先日上野の「仏像」展を観てきたばかりだけれど、こういった信仰の対象である仏像や絵画というものはどれも何か独特な心に響くものがある。そういえば若い頃はこんなもの(失礼)がいいとは全く思わなかったのだから、変われば変わるものだ。

 段々に見えてきたのは「祈り」の対象としての絵画とか壁画、オブジェ(偶像)とか祈りそのものの「音楽」、踊りとか歌、そんなものがストレートにいいなぁと思うようになってきた。他のものは私の範ちゅうの外にある。あしからず。

 


更新時間 : 22:56:12

11月9日 (木)

はる 1967
 1967年は高校受験の年ですね。私たちの頃は5年生の高専というのが注目されていてね、やたら色んなところで開学されていた。近くに神戸工専というのがありましてね。工業系の学校ですが、まぁかなり優秀な生徒しか受け入れないと言われていました。

 工作少年だった私は何を間違ったか、そそのかされたか電気技師でもいいかなぁ・・などと考えて受験したおぼえがある。みごと落っこちましたがね。

 中学時代は部活(ブラスバンド)ばかりの毎日だった。音楽好きというのか楽器を演奏するのが好きだったんだな。いまでもそれは変わらない。

 まぁところがね、部活の顧問が途中で変わってしまって、熱心でない先生が顧問になったものだから、急激に熱が冷めてしまった。三年生になったら受験ということもあるけど、ほとんど行かなくなった。まぁあのまま続けていたら当然高校でもやっていただろうけれど、そこらあたりから横道にそれてしまったようだ。

 絵を描くなんてことは全く考えになかったわけで、中学の担任が美術の先生だったということはあるけれど、ボーっとした普通の中学生だった気がする。

 さて、また明日。

更新時間 : 22:46:27

11月8日 (水)

はる 1966
 いい天気だった。

 今日はマラソン大会とかで授業はありません。ということで私は無給休暇でした。嬉しいような悲しい話です。

 この月曜に東京の個展のDMも上がってきて甲府のDMと一緒に郵送しました。今日ぐらいについているのではないでしょうか。まだついていないという方は、どこかで漏れてしまった可能性があります。DMよこせとメール下さい。

 額入れをした。まだ少し早いけれど、アトリエの中がガヤガヤと落ち着かないので、すっきりとまとめるためには額入れした方がいい。後はまぁ細々とした準備を整えればおしまいだ。会場でならべてみなければ具体的には分からない。どんなもんじゃろか?

 閑話休題

 今回のテーマは「うつろふもの」ということで和風のイメージが強いのか、オープニングの古楽の演奏会を日本の雅楽と勘違いする人がけっこういて驚いた。そうか、古楽といえばそちらもあったんだなぁとあらためて知らされた。

 私のテーマそのものはいいかげんなもので、その時に感じたことや、思い付きを言葉にしているだけで、ほとんど毎年変わらない。

 今回はじめて仏像のようなものを描いたのだけれど、具体的に仏像の決まりごとみたいなことをあまりにも知らないことに今ごろ気がついた。

 私の描き方というのが、何かを見て具体的にそれに近づけるというのではないので、自分が今まで見てきた仏像の総体が形になって出てくるという「他力本願」的な描き方だ。だからまぁ専門家から見れば間違っていることも多いだろうと思う。

 仏像もあればキリスト教のピエタのようなものもある。今興味あるのが、そういった東西の文化が混ざり合うシルクロードのあのバーミアンの石窟の壁画だったりする。(bbsにリンクしてあるので興味のある方は行って見て下さい)

 というわけで、すこぶるいいかげんであるということが、暴露された。んじゃまたあした。

更新時間 : 00:29:23

11月7日 (火)

はる 1965
 今日は一日出稼ぎです。と言うことでまた明日。

更新時間 : 19:34:02

11月6日 (月)

はる 1964
 1964年といえば東京オリンピックだった。私はといえば小学校の五年せいだったかな。

 聖火が来ると言うので近くの町まで見に行ったおぼえが。ある日の丸の国旗を振ってやや興奮した気がしたなぁ。あれは何っだたのかしらねぇ。日本中がお祭り騒ぎではしゃいでいた。

 柔道の無差別級で日本の代表がオランダのヘーシンクに押さえ込みで負けたときは、このまま日本は立ち直れないのじゃないか、とさえ思った。後日ヘーシンクがプロレスに転向して日本にやって来たけれど、以外に弱っちくて驚いた。こんな奴に負けたんだとがっかりしたな。今で言う曙みたいなものかな。

 昔はいいとは言わないけれど、何故か懐かしいな。

 バレーボールが最後にソ連に勝ってりゅういんを下げた。当時の女子選手は怒られるけど、どこか山から掘り出してきたような凄い顔してた。「東洋の魔女」などとたたえられていたけれど、別の意味で「魔女」に近かった。ごめん。それに比べると最近の女子選手は美しいひとが多いなぁ。

 というふうな馬鹿なはなしで今日はお終い。明日は出稼ぎだ。んじゃ。

更新時間 : 21:30:37

11月5日 (日)

はる 1963
  二年ほど前から成人相手に少し絵を教えている。実は三年前に美術館の実習講師をした流れで、そのまま何人かの有志が残ったかたちだ。その生徒たちの展覧会がTOPに紹介している「道(TAO)展」だ。今月の25日に旗揚げする。

 学校を卒業して何年かした頃、ちょうど県立美術館もオープンした。美大などをを卒業して地元に帰ってきて画塾をひらいたり、学校の先生になったり、アルバイトしながら絵を描く道を摸索していたり、まだ多くの仲間が独り者で、人生そのものを摸索していた。

 何でも出来る気がしていたし、何も出来ない気もしていた。自信もあったけれど、不安も混在していた。

 そんな時に美術館の方から同じ世代が集まって展覧会をやらないかとお誘いがあった。個展をやるには広すぎたし、準備も大変だ。グループ展なら費用も安くすむということで、一もにも無くなく賛同した。

 自分たちで展覧会を企画することに意気を感じたし、楽しかったな。

 今回は自分たちの展覧会ではないけれど、まぁそんな前夜の雰囲気を再び味わっている。お時間が取れましたら観て下さいな


更新時間 : 23:16:54

11月4日 (土)

はる 1962
 本日休業

更新時間 : 21:28:16

11月3日 (金)

はる 1961
 そうそう、1961といえば思い出すことがある。前にもどこかで書いた気がするけど、無視します。

 もう45年も前になる。私はといえば当時九つ、小学校の三年か。1960年から61年になる大晦日のSEIKO社のCM、鶏が出てきて1961は180度ひっくり返しても1961だ、という風なことをやっていた。なるほど!とビックリして未だにおぼえている。大事なことは何もおぼえていないのになぁ・・。

 白川静さんが亡くなった、96だそうだ。彼の存在を知ったのは個人的には随分と遅かった。絵に使う自分のサインを落款風に描きたいために、古い漢字を調べていてその著者である白川さんを知った。

 「春」という字の成り立ちを知って、なかなか感動したことをおぼえている。草を表す「艸」の下に太陽をあらわす「◎」を書く。地面の下にまだ太陽が隠れていて、やがて草が芽生えてくる。それが「春」なんだよ、といわれると凄く納得しないか!

 「闇」や「暗」と言う字に何故「音」という字が入っているのかとか、「風」の話など。私の一昨年のテーマ「かぜのおとづれ」は彼の「風」の話から来ている。

 ある出来事があって何事も感じなければそこに「言葉」は生まれない。そこにある「言霊=気」をかたちにしたのが「漢字」なんだな。だから漢字をみれば古代の(多分それは現代も)人の中にある「こころ」が見えるのだ。

 ここで色々説明するより実際にかれの著作を当たった方がいいでしょう。ご冥福をお祈りします。

更新時間 : 23:19:47

11月2日 (木)

はる 1960
 雨が降って急に寒くなりました。

 左肩がどうにも痛くて定期検診のときに先生にたずねたら、「五十肩」と言われた。理由はまだ良くわかっていないそうだけれど、「老化」現象でどうにもならないそうだ。

 40になった頃も、これも同じように右肩が痛んで、手の上げ下ろしさえまともの出来ないくらいだったのが、いつのまにか痛みも何処にいってしまった。これも「四十肩」というそうだ。

 何でもそうだけれど、真面目に段階を踏む私の性格?と同じなのかね。もう少しいい所を真似て欲しい。

 ネットで調べたら、江戸時代には「長寿肩」と言われていたとか、何でも当時の平均寿命は40台で、五十まで生きたら長寿だったらしい。

 江戸時代まで下がらなくても、例えば夏目漱石なんかも亡くなったのは45,6だったらしい。どうも我々のイメージとしてもっと老成していた感じがする。

 で、今さらながら、わが身の至らなさを恥じ入るばかりである。

更新時間 : 22:40:06

11月1日 (水)

はる 1959
 霜月です。

 私の大学の恩師T先生が昨年、芸術院の会員になった。

 まだ大学の先生ではなく、フリーで活動されていた頃、美術雑誌の「アトリエ」に盛んに執筆されていて、学生の頃構成だとか、マチエールだとか、絵の作り方を真似たものだ。

 ところが、その先生が私の母校に教えに来てくれるということで、飛び上がって喜んだ。とてもこんなローカルな学校に教えに来てくれるような先生ではなかったので、夢のような話で有頂天になった。

 卒業制作はもちろんその頃の絵はほとんどT先生の物真似だ。何も考えずにそのまま先生の属している日展系の大きな団体に出品した。初出品で初入選。先生からお祝いの長い手紙をいただいた。

 その頃、私も新任の中学校の美術の先生としてS県に奉職した。特に夢や希望をもっていたわけではなく、兎に角仕事をしながら絵を描くつもりでいた。

 ご多分にもれず、一年目からトラブル続きでとても絵を描く気力もなくなって、その年は団体展に出品できなかった。

 まぁここで大きな選択を迫られる。このまま学校の先生で趣味で絵を描いて行くのか、それとも今ここで辞めて「絵を描く生き方」を選ぶのか。

 結局は学校の先生を辞めてしまうのだけれど、結局その美術団体も続けることができなかった。先生には長い手紙を書いた。けれど、先生には後ろ足で泥をかけたようで、その後なんとなく顔を会わせるのが辛かった。まぁ師匠不孝というのか、不肖の弟子ということで許してください。

 人生には色んな分岐点があって、今もしそのまま学校の先生を続けていたら、今の私はいないし、そのままその団体に出品していれば先生の弟子ということで通っていたかもしれない。

 私はいつもどこかすねていて正統な道から外れてしまう。もう少し我慢すれば何とかなるというところで、あきらめてやめてしまう。で、結果としてなんだか中途半端な立場に落ち着くことになる。あくまでもマイナーな所から出られない性質のようだ。

 まぁ何が言いたいのか分からなくなったので、もうやめて寝ます。

更新時間 : 23:36:25