2005 8月

8月31日 (水)

はる 1536
 今日も一日パートタイムでした。

 仕事が忙しくなると、何も書く気になれないなぁ。それだけで一杯になってしまうというのが分かる気がする。忙しいとは心が亡ぶと書く、字の通りかもしれない。

 ではまた明日。

更新時間 : 00:19:05

8月30日 (火)

はる 1535
 久しぶりにパートタイムで働いた。疲れたなぁ。

 ということで、何もかけません。また明日。

更新時間 : 22:31:36

8月29日 (月)

はる 1534
 今日はこれから若いお客さんが来ます。ですから更新はこれだけかもしれません。

 あしからず。また明日。

更新時間 : 19:23:16

8月28日 (日)

はる 1533
 トップが重くてなかなか開かなかった。ウイルスに感染したのかと思ってスキャンをかけたり色々やってみたけれど、改善されなかった。

 思えば二三日前からそんな状態が続いていたようだった。

 ホームページのトップはそのサイトの顔である。兎に角、初めて訪ねてくれる人もいるわけだから、一瞬にそのサイトの全容がわかるような表紙が望ましい。それで興味を持ってくれたら、しめたもので、後はどんなに重たくてもじっと我慢でひらいてくれるだろう。

 看板であるトップページが重くて開かないのはホームページとして最低だな。どんなに素晴らしい内容であっても、だれも観てくれない。

 この際だからトップを作り直そうかと考えた。で一つ一つコピーして移し始めたときにひらめいた。こういった時は本当に頭の中に電球が輝く。チカチカひらめくのだな。

 コンテンツの一つずつ移してはネットでプレビューしてみるのだ。例えば「あそびべのはる」のタイトルを移してはプレビュー。「日々好日」を移してはプレビューと言う具合。

 で、結局分かったことはサイト内検索が諸悪の元凶だったというわけだ。今までは上手く働いていたのだから、しばらく様子を見てみましょう。

 で、今は軽くなりました。お楽しみくださいな。ではまた明日。

更新時間 : 20:32:17

8月27日 (土)

はる 1532
 トップの表示が遅くなった。待ちきれずに通り過ぎてしまう人もいるかもしれないな。理由がわからない、少し待っていると表示されるようだけれど、私だけかな?分かりません。

 昨日は午前様でした。ネットで知り合いになった京都の画家、今尾さんの個展や二三の用事が重なったため、お江戸に行ってきました。深いブルーを基調に涼しげな絵が並んでいます。30日までですので、銀座に用事のある方は是非お出かけください。

 閑話休題

 例えばものの表示なんかでも「駅から3分」とか「新宿から1時間半の別荘地」なんて書かれることが多い。この場合駅から徒歩で三分、電車で一時間半の意味で、まさかバイクでなんてことはないでしょう。

 距離を時間で表すことはよくあります。宇宙空間の表し方も結局同じようなもので、1光年は光で一年かかる距離という意味ですね。ここからは私の空想、想像が入るので、でたらめです。

 徒歩で三分と言えば、大体その距離は想像できます。歩幅が多少違う程度で、それほど大きな違いはないでしょう。ただしこれの前提には「時間は誰でも同じように一定に刻まれている」ということがある。一秒はどこで計っても一秒のはずだ。

 ところが我々には実感として体験できないけれど、時間は伸び縮しているらしい。

 ちょいと想像してみると面白い。一秒が一分になって一時間に伸びて、さらに一日になって一年になった。もっと伸びて伸びて永遠に伸びきったとしたら、時間は進まない。止まったままだ。

 限りなく遠い星が光速で遠ざかっているということは、「あ〜」といった声が「あ〜〜〜〜〜」と伸びきった状態ではないだろうかね。ということは時間は止まっている。要するに我々は永久に宇宙の端っこには行けないのだな。時間がとまっちゃっているんだも行きようがない。

 反対に今度は縮まって行くことを想像してみよう。一年が一日になって一時間になって一分になって一秒になって、限りなく小さく0に近づいてゆく。一点に全てのことがギュ〜と凝縮されると、一瞬が永遠になる。我々には感知できないけれどね。

 で少し前に戻って、アインシュタインさんは空間はゆがんでいるといったとか、で実際に実験でそれが確かめられたと言う話。空間がゆがむと言うことは、まぁ時間が伸び縮みすると言うことが確かめられたということでね。

 で結局、宇宙というのは時間軸をもってくれば閉じられた有限の空間というのか、世界だということだ。この世界は実際はゴミ粒ぐらいの大きさで、本当は一瞬の出来事なのかもしれないな。

更新時間 : 23:00:08

8月26日 (金)

はる 1531
 今日はお江戸に出てました。で今帰って一風呂あびたところです。

 すみません報告はまた明日ということで。ではでは。

更新時間 : 01:35:47

8月25日 (木)

はる 1530
 久しぶりに雨らしい雨が降っている。台風がやってきているらしい。夕方近くの川を見たら、けっこう水かさが増えていた。この川はね、昔はいわずと知れた暴れ川でね、治水工事に為政者が一番頭を使ったものらしい。

 最近はそういった技術も進んでいるから、氾濫したということは聞かないけれど、以前もう少し下流の知り合いの家に行った時に、家の土間を入ったところの天井に小船がくくり付けられているのをみて、今は大人しいこの川の昔を知った。

 ありふれているけれど、こういった自然の猛威の中じゃ、じっとして通り過ぎてゆくのを待つしかない。

 ではまた明日。

更新時間 : 22:10:27

8月24日 (水)

はる 1529
 きのうの続きみたいなもの。興味のない方はとばして下さい。

 宇宙が有限か無限かという話は、我々の様な三次元的な考え方の中では無意味で、あえて言うなら無限でしょう。ただもう少し別な角度からみれば有限ということになると思う。

 分かりやすくするために次元を一つ下げて考えます。例えば我々が住んでる世界が漫画や映画のように平面的な二次元の世界だったとします。ここの住人を仮に春さんとします。

 春さんの世界では立体は認知できません。見えるのは限りなく無限に遠いまっすぐな平面です。この世界でも光はまっすぐにすすみます。宇宙の果てはないように思えます。

 ところがどうでしょう。たとえば平面だと思っていた世界が実際は少しずつ曲がっていて、ちょうど大きな球のようなものだったとしたらどうでしょう。

 春さんはおもいたって世界の果てを探しにゆきます。とするとやがては出発点に戻ってきてしまったということになるのです。無限に見えていた空間が実は有限だったということになります。

 三次元の話に戻ると、我々の住んでいる空間が曲がっているということです。これを言い出したのは例のアインシュタインさんですが、当時はだれもそんなことを信じる人はいませんでした。しかし何年か後に実験でそれを確かめた人が出てきたんですね。

 空間が曲がる。収縮する。空間は変わらないと錯覚しているものだから、我々には認知できない。周りの世界全てが一定の比率で収縮すれば我々には分からないということだな。空間というのを時間に置き換えてもいい。今現在時間が一億年止まっていたとしても我々にはそれを知ることができない。連続して感じる。

 これは実は昨日の話にもつながるのだけれど、この世界に住んでいる人間には三次元以上は感知できない。二次元の世界の住人が三次元の空間を認知できないと同じ理由からですね。

 四次元の世界から見れば三次元の空間は有限に見えるとおもいます。閉じられた完璧に完結した空間なのではないでしょうか。

 

更新時間 : 22:24:12

8月23日 (火)

はる 1528
 今日は久々に雨が降りました。といってお湿り程度だったけれどね。

 台風が来ているようだけれど、その影響かな。

 閑話休題

 きのうの続きのようなもの、理論的ではないのでつじつまがあってないかもしれない、そこのところ適当に読み飛ばしてください。

 宇宙は無限だという。ならばその無限の外はどうなっているのか?というのが素人の考え方だ。その外があれば有限ということで、時間も空間もないから無限なんだろう。

 ビックバン宇宙論なるものが流行って、猫も杓子もみんな分かった様に「宇宙は膨張している」などと言う。風船が膨らむように膨張しているならば、風船の外がわが存在するわけだけれど、宇宙の場合その外側というのが存在しない。三次元的なイメージでは追いつかない。

 ところで膨張しているのであれば、時間を逆回しにすればいつかは宇宙の始まりに遭遇するはずだ。今宇宙に存在する全てのもの、それは空間も時間もあらゆるものが含まれている、たった一つの点に集約されるはずだ。

 グラウンドゼロ=バニシングポイント=消失点これもまた想像することが不可能だ。映画「マトリックス」ではないけれど、実際の話この世界は誰かの頭の中か、高度なコンピュータの中に存在している架空の世界なのかもしれないな。そう考えた方が理解しやすい。

 ところで何故宇宙が膨張しているなどと言い出したのか?といえば、まぁこれも確かなことは何も知らないのだけれど、普通に考えて宇宙の果てはどうなっているのかな?ぐらいは誰でも考える。

 で、地球から観察できる一番遠い星を見ようとしたら、どうやっても波長がね赤みの方向にずれてみえる。救急車のピーポピーポの音とが変わるのとおなじ原理ね。というわけで星はいまでも飛んでいるだ!となったわけだ。それも遠い星ほどよりはやく飛んでるという結果が出た。なんのこっちゃ。

 ここのところがちょっと難しい。今蟻んこが長さ100cmの棒を登っていると仮定する。この蟻は変わっていて必ず一分で残りの半分歩くとする。

 最初の一分では50cm登る。次の一分で25cm。次は12.5cm。歩みは鈍くなるけれど、手抜きはしていない。同じ調子で歩いているのだけれど、半分しか進まないのだ。なぜなら自分の体が半分に変化してしまっているからだ。でも彼自身は全く気付かない。

 半分半分と進んでいけば彼は最後にこの棒を登りきれるだろうか?実は彼は永久に目的地には着かない・・。無限というのはそういうことじゃないかな。

 星の話に戻れば、自分から遠い星ほど速く自分から離れているように見えるということは、充分遠い星はほぼ光速に近くなる。光速の半分のスピードになると体は半分の大きさになる。限りなく光速に近づけばこの蟻君と同じことで、行けども行けども永久に宇宙の端には行き着かないということだ。

 よく分からん。でたらめでした。

更新時間 : 00:08:36

8月22日 (月)

はる 1527
 どうやら夏も終わりに近づいた感じです。今日はもう秋の空だったな。日中はまだ暑かったけれど。

 水の上に浮かんでいるごみは自然に集まって、それなりの大きさのゴミの塊になってゆく。そしてまたそれなりの大きさのゴミがお互いに引き合って、またまたそうとうのゴミの塊になってゆくのだ。

 これは何の法則なのか正確には知らないのだけれど、素人考えでいえば、万有引力ということになるのかな。簡単に言えば物質というものはお互いに引き合っているということだろうか。

 話を大きくして、たとえば太陽系の宇宙が出来上がってゆく過程を何かで読んだんだけれど、まぁ宇宙にただようゴミのようなものが、水の上のゴミのように引き合って、次第に大きな塊になってゆくそうだ。その中心がやがて高温、高圧になって火がついて燃え出す。それが太陽になるそうだ。

 太陽の燃える燃料になった物質は、燃えてしまえばそれで終わりか?といえばそうではなくて、新しい物質に変わるだけらしい。ちょうど炭が燃えて熱と二酸化炭素になるのに似ている。

 それでやがて燃えカスが溜まってバランスが崩れる。段々に大きく膨らんでやがて大爆発をおこす。そういった爆発でそこにできた燃えカスをまた宇宙空間に撒き散らすらしい。

 生物というのはそういったゴミの様な集まりから、自然発生的に生まれるものだとおもっていたけれど、ゴミはあくまでもゴミであっていくら待っても生物にはならないらしい。まぁそこで「神の意志」みたいなものが登場するのだけれど、実際のはなしそういった無機物から有機物に至る奇跡的な発生はまだまだ謎に包まれているらしい。

 宇宙空間に人類意外に知的生物が存在するかという話は、たぶんに好奇心を刺激するけれど、いるともいないともはっきりしたことはいえないなぁ。

 ただね、人類が発生してこうやって今を盛りに宇宙に情報発信しているけれど、人類が存在する間に他の知的生物にコンタクトがとれる確率は物凄く少ないと思う。なぜなら宇宙的な時間と生物的な時間とは大きくずれているからだ。

 なんか、こんな話を書くつもりではなかったのだけれどね。また明日。

更新時間 : 01:01:09

8月21日 (日)

はる 1526
 いやー、めちゃめちゃ暑いでんなぁ。

 午後からコクトーの「オルフェ」を観に行く。昨日の続きで楽しみにしていたのだけれど、うむうむ・・難しい映画だった。

 例えば当時最新のテクニックだったかもしれないフィルムの逆回しなんかにしても、今から観ればまったくの子供だましに感じる。それで気がついたことは、一番新しいテクニックはすぐに古くなるということだな。

 どうもそんな荒ばかりがめだってね、物語に入り込めなかった。期待していた分、つまらなく思えたのかもしれないな。

 

 まぁそういうことでまた明日。


更新時間 : 20:39:33

8月20日 (土)

はる 1525
 今日も暑かったね。
 
 午前中は近くの公民館でカルチャー講師。まぁ教えるといっても大人相手なので、細かいことはあまり言わない。学校とは違って生徒もなかなか熱心だ。

 午後から美術館でジャンコクトーの映画「悲恋」を観る。今ちょうどコクトー展を開催中、そのいっかんで彼の映画を上映している。詩人として名高い彼のことだから難しい映画かな?と思っていたのだけれど、意外にも普通で楽しめた。

 昔、大学の先生の家で映画の試写会があって「アンダルシアの犬」とか「カリガリ博士」などシュールな映像を観たおぼえがある。今回も半分そういったものを期待して出かけたのだけれど、いい意味で外されたという感じかな。

 明日は「オルフェ」と「美女と野獣」らしい。「オルフェ」は観たいな。

更新時間 : 21:51:42

8月19日 (金)

はる 1524
 さて、一昨日からメルマガのメンテナンスをする。どうもメルマガの発信回数が極端に少なくなった。こういったものは、最初はもの珍しく、わりとスイスイと筆が進むものだ。

 けれど、よくよく考えてみれば。つまらない日々の雑感を発信して読まされる方は迷惑だよなぁ・・、などと考えはじめると気楽に出せなくなってくる。自分でもつまらないと思うに至る。

 で、発信が極端に落ち、やがて廃刊となる運命だ。

 でもまぁ、せっかくメール配信のシステムがあるのだから、なんとか生き残りを考える。で、【お知らせメール】として再出発させることにした。

 素人がやっていることだから、何の義務も責任もないのだけれど、まぁここまでサイトを運営してきて、兎に角トップに画像の更新と日記の更新は続けられている。

 それの更新のお知らせとしてなら、続けられるかと考えた。日記の方はともかく、画像の更新は私のサイトの面白いところだと思うのでね。

 何とかやってみますので、皆さん【お知らせメール】の登録よろしく。

 http://www2.journey-k.com/~enami/osirase.htm

更新時間 : 22:07:29

8月18日 (木)

はる 1523
 今から若いお客さんが来ます。う〜故に書き込めたらまた。

更新時間 : 20:28:21

8月17日 (水)

はる 1522
  メルマガ「あそびをせんと」がトップ画像更新のお知らせメールに変わりました。

 トップの画像が更新される度にメールでお知らせします。リンクされていますのでそのままワンクリックでご覧になれます。

 登録、解除の手続きも簡単です。ロにメールアドレスを入れて、登録を押せばそれで終了、解除も同様です。

 私の【お知らせ】以外に利用することはありませんので、安心して登録して下さいな。多くの方の登録をお待ちしております。ではでは。

更新時間 : 23:30:27

8月16日 (火)

はる 1521
 昼頃に大きな地震。ユッサユッサとかなり長く横揺れを感じた。そうだなぁ、この頃やたらと地震が多い。古い家に住んでいるので、そこのところが怖い。壁を壊したり、押し入れをこわしたり、適当に改造したので、強度はまったく考慮にいれなかった。

 というのか、まわりの家がなんともなくて、私の家だけが壊れたらカッコわるいなぁ、などと揺れている最中に思った。どこまでもエエカッコシーということかな。

 カッコつけるのは悪いことじゃないと思っている。ある種の張ったり、見栄っ張り、やせ我慢は生き方のダンディズムだと思っている。それがなくなりゃただの怠け者になってしまう。何を選択したかということだけれどね。

 さて今日も暑かったね。でもそろそろ夏も終わりだ。ではまた明日。

更新時間 : 23:12:55

8月15日 (月)

はる 1520
 午後からtopにも掲示してある長野のギャラリーのオープン記念展に出かける。

 天気予報によると夕方から雷雨とのこと、まぁ気にはなったけれど、予定通り出かけるつもり。午前中は一仕事、これをやっておかないと後悔する。

 一時ちょうどに出発。北へ北へと向かう。八ヶ岳は黒い雲に覆われて、なだらかなスロープの部分しか見えない。この傾斜のまま高くなったら富士山より高くなっただろうなぁ、などと話しながらドライブは続く。

 諏訪湖あたりで対向車線がすごい渋滞だった。なぜか?8/15は諏訪湖の湖上祭りらしい。知らない人も多いかもしれないけれど、ここらあたりじゃ、かなり有名な花火大会がある。帰りが思いやられる。少しはやめに帰るか、ずっと遅く帰るか選択を迫られる。

 岡谷を越えて中央道は長野道になる。松本をこえて豊科インターで下りる。ここまでくるとかなり涼しい。向かうは穂高学者村、別荘地。間違わずに一発でめざすギャラリー留歩にたどり着く。

 昨日確認しておいたのだけれど、オーナーは仕事で不在。奥さんが笑顔で出迎えてくれた。ギャラリーといってもほとんど個人のコレクションの展示で、普通の企画画廊や貸し画廊とは少しおもむきが違う。

 周りの環境が別荘地ということもあって、鬱蒼とした森の中にあるギャラリーという感じ。都会の画廊では味わえない醍醐味だとおもう。

 避暑がてら、是非一度足をお運びください。

 オープン記念企画・栗原一郎の世界展
  7/22(金)〜8/30(火)
  ギャラリー留歩
 長野県南安曇郡穂高町有明7403-8
  0263-83-6785



更新時間 : 22:08:52

8月14日 (日)

はる 1519
 お盆というわけで帰省している人が多いせいか、何となく町がにぎわっている。

 それにしても今年は雨が少ないなぁ。そのせいで地温が上がって蒸し暑く感じる。

 夜になると遠慮がちに虫が鳴きだした。そろそろ秋だな。

 ではまた明日。

更新時間 : 21:57:00

8月13日 (土)

はる 1518
 寺田ヒロオという漫画家がいた。もう同時代的に読んでた人はこの日記を読んでる人には、いないかもしれないけれど、好きな漫画家の一人だった。

 例の「ときわ荘」の長老的な人物といえば、納得が行くかもしれない。あるときまで盛んに活動していたけれど、晩年は作家活動を止めてしまったということだ。ヒット作は少年野球漫画の「背番号0」かな。

 有名じゃないけれど未だにしっかりと覚えている話がある。タイトルも、何に書かれていた物語なのかも忘れてしまったけれど、なんでもない話だった。

 子供たちが夏休みになって仲間たちと親戚の別荘にゆく。当時のことだから、まぁ山荘みたいなものかな。その家には秘密があって、なんだかんだと子供たちが力を合わせて解決して行く、といった今から考えると全く眠たいような牧歌的なはなしだ。

 けれど子供心にワクワクドキドキ夢中になって読んだ覚えがある。未だにデティールまでしっかり覚えているのは、何かがわたしの琴線にふれたのだろう。特に嵐にあって一本杉に落雷するシーンは本当にリアルにそんな体験をしたように感じた。

 テレビや映画など充分に観ることが出来なかった我々の「少年時代」はそうやってイメージを膨らませて空想して遊んでいたような気がする。

 なぜそんなことを想い出したかといえば、森絵都の短編「子供は眠る」を読んだからだ。「少年時代」というのは、この年になるとなかなか涙腺を刺激する。「あぁあんなこともあったな、そうそうそんな感じってわかるなぁ」というのはもう、その作者の手の内に入ってしまっているのだろうけれど。そんな秀作です。

 暑いお盆休み、ごろんと寝転がってこんな本でもどうですか。

更新時間 : 23:44:25

8月12日 (金)

はる 1517
 午後から予約を入れておいた歯医者さんに出かける。欠けてしまった奥歯の型を取って上からかぶせるらしい。

 予約は待たされなくいいけれど、約束を入れることで一週間も前から何か行動を規制されているようで窮屈だ。たかだか一時間足らずのことなのに、ほぼ一週間このことが頭から離れない。そんなことないですか?

 例えば午後一時間の仕事が入っているとする。そうすると他に何かするわけにもいかず、たとえやったとしても中途半端なところで切りをつけなくてはならない。ということで、ほぼ一日の仕事はそれで終わってしまう。非常勤の仕事なんかわりとそういったことが多い。

 話を戻して、虫歯を治療せずに放っておいた訳ではない、いやこのところかなりマメに歯医者通いしていたはずなんだけれど、やはりかなり奥まで侵されていたようだな。

 神経近くまでジーコジーコ掘り進んだために、麻酔が切れかかって何回かし直した。そのために痛みからは開放されたけれど、顔半分がなぐられたように麻痺してしまった。

 家に帰って、その状態でカキ氷を食ったら、妙な異物感があると思ったけれど、かまわずに噛んだら自分の唇だった。お〜イテッ。

 そんなことで、一日終わってしまった。

更新時間 : 22:47:18

8月11日 (木)

はる 1516
 テレビもラジオも新聞さえ読まなくなった。で何をしているのかといえば、ごろごろ寝ばかりしている。

 暇つぶしに池波正太郎の時代小説「その男」文庫本で三巻をよんでしまった。何と言うことはない例によって幕末から明治にかけての動乱物で、この間読んだ司馬遼太郎の「阪本竜馬」と時代的にはかぶる。しかしこちらは創作もので時代の臨場感にはちょっと不満が残った。

 そうそう、その前読んだ山本一力の「あかね空」は面白かった。京都の豆腐やさんの話で、主人公が京都から江戸に出てきて京の豆腐を売って行く話。豆腐が好きなのでふんふんと納得しながらよんだ。これで直木賞を取ったらしい。

 作者の生い立ちを読んだら、小説より面白そうだ。一度も小説など書かなくて、いきなり直木賞を取ってしまったのだから、天才肌かな。

 今晩のナイトキャップは平岩弓枝「御宿かわせみ」タイトルに惹かれてセレクトした。どうやっても藤沢周平の情緒を期待してしまう。どんなもんじゃろか?ではまた明日。

更新時間 : 00:08:26

8月10日 (水)

はる 1515
 いちごいちご、で語呂がいいですね。

 さてさて、テラスも設置が終わって何となくうれしい。新しい部屋が一つ出来たような感じ、と言えばこのニアンスが伝わるだろうか。青空天上で壁もないけれど、これはやっぱり一つの部屋だよな。

 夕飯の後、お茶と椅子を持って夕涼み、これがやりたかった。うっすらとあかみが残った空を眺めていると、そうだな子供の頃はよく夜空を見上げて、流れ星を数えたりしたしたものだ・・などとやや感傷的になる。当分星の観察にいそしむだろう。

 さて、新しい仕事にもかからなければ・・と思うのだけれど、思うだけでなかなかエンジンがかからない。今年は異常に暑い気がする。午後からは昼寝以外ほとんど何も出来ない。

 兎に角、一筆でもすすめること、これが大事だな。ではまた明日。

更新時間 : 21:29:52

8月9日 (火)

はる 1514
 
 屋根にテラスを乗せる事にした。で、朝から職人さんが二人入っている。少し前なら材料を買って来て楽しみながら自分で作っただろうけれど、ちょっと体力がね・・問題だ。特に夏場は難しいかな。

 こういった職人仕事を見るのは嫌いじゃないので、邪魔にならないように、ちらちらと眺める。

 しかし、真夏の屋根の上の仕事はさすがに辛いだろうね。特にトタンだからよけいに暑い。フライパンの上にいるようなものだね。仕事とはいえ頭が下がります。

 古い物干し台が納屋の上に乗っている。ここに引っ越して来たときから使った事がない。というのはほとんど床が抜けていて、足の踏み場がない状態だった。その物干し台の撤去も頼んだので、少々時間がかかるというわけだ。

 ボルトでとめてあったのだけれど、もうさび付いてしまって解体は鉄骨を切るしかない。その音の凄まじいこと。まぁご近所迷惑だわな。

 明日には仕上がるだろう。長年の懸案事項がやっと一つ完了する。これで布団干しが楽になる。

更新時間 : 23:27:45

8月8日 (月)

はる 1513
 回復したようです。

更新時間 : 23:21:42

8月7日 (日)

はる 1512

 中庭にあったニセアカシヤが枯れてしまったことは、どこかに書いたおぼえがある。ここに引っ越してから階段の隅に窮屈そうにはえていた子株を、裏庭の納屋のそばに移植したのは、もう10年以上前になるかな。

 一時は春になると一せいに若葉をだし、豆科の植物独特の白い房状の花を枝いっぱいにつけて、ブンブンとミツバチが蜜をあさりに来ていたものだ。

 知らなかったのだけれど、庭木としては不適切だと何処からか聴いた。なぜかといえば、あまりにも大きくなりすぎるということ、深く根を張って例えば水道管などを持ち上げてしまうこと、などなど。

 秋にはいっせいに小判色の小さな葉をハラハラとちらせて、あたりは一面の黄色だった。そこらまでは許容範囲、許された。

 まぁいいやと高をくくってはいたのだけれど、言われたように大きくなりすぎた枝から落ちる落葉は、隣の家の樋まで詰まらせた。何にも言われなかったけれど、それが無言のプレシャーとなった。

 いつ頃からか、私の心の中でも疎ましく思えてきた。彼には責任はない。私の責任だろう。大きく枝を落とした。

 次の春、花のつき具合がおかしくなった。多分天候不順のせいだとばかり思っていた。花が終わって夏に入った頃に、季節はずれの花をつけた。おかしいなぁとは思ったけれど、そのままやり過ごしていたら、根元に大きなキノコが生えた。調べたら、これが出たら二年くらいで木は枯れると書かれてあった。

 ちょうど二年して春になっても葉をつけなくなった。死んでしまった。ごめんなさい、私のせいです。

 昨日、切り倒しました。


更新時間 : 23:20:21

8月6日 (土)

はる 1511
 本家「日々好日」のシステムがトラブっているようだ。という訳でここに直接書き込みます。

 まぁ今日はここまでだな。また明日。


更新時間 : 23:18:35

8月5日 (金)

はる 1510
 今回個展で流していた音楽?は、たまたま京都によったお茶屋さんで流れていた音にした。

 今回旅をして電車にのる機会も多かったのだけれど、気がついたことは、ケイタイとヘッドフォンステレオだ。ケイタイの事は今までもよく書いたのでヘッドフォンステレオのことを書こう。

 普段、私は音楽を聴きながらという生活をしていない。アトリエで仕事する場合でもほとんど音は必要としない。昔から何かしながら音楽を聴くということはなく、聴くときはもっぱら集中して聴いていたように思う。例外は車に乗っているときで、ここが私にとって、今の唯一のリスニングルームかもしれない。

 よく分からないのだけれど、人間の日常生活のなかでそれほど音楽って必要なのかな?と思ってしまう。例えばパチンコ屋さんやゲームセンターなど遊びの場には常に音楽は付いてはいるけれど、自分の日常生活で音楽が、常に流れているというのも奇妙じゃないだろうか。こんなことを言えば、そうじゃないという意見も、もちろんあるだろうけれどね。

 若い人が電車の中などでヘッドフォンで音楽を聴いている姿をみると、例えばソニーなどのオーデオ機器やさんのある種の陰謀にはめられているのじゃないか、などと勘ぐってしまう。というのは、そうしたスタイルが音楽そのものより、ファッションとして売られているのではないかな。

 確かに、僕らの若い頃にも、自分の好きな音楽を持ち歩けないだろうかというのが願望としてあった。ゲルマニュームラジオに始まって、トランジスタラジオそしてカセットレコーダが登場してきたときはとびついた。ラジカセ、ウォークマンときてiPodにいたる。

 でもねぇ、ことここに至って、そんなにいつも音がなくたっていいじゃないのと思ってきた。たとえば外に出れば風の音、鳥の声、蝉の鳴き声、そんな自然の音をふさいじゃって自分だけの音に浸る必要はないのじゃないかとね。どう思う?

 で個展で流していた音は「水琴窟」スイキンクツ。簡単にいえば壷の中にぽたりぽたりと落ちる水滴の音ですな。


更新時間 : 23:20:56

8月4日 (木)

はる 1509
 午前中は定期検診。いつもはほとんど忘れているけれど、あぁそうだったんだなと、あらためて気付く。そういった意味では必要なことかもしれない。とくに異常なし。

 午後は歯医者の予約。この間好物のピーナツを食っていたら、情けないことに奥歯が欠けた。随分前に親知らずを抜いた。これがまぁ大変な治療だった。その後にいつもは入れないのだけれど、義歯をつくってもらった。義歯、ようするに入れ歯でんな。

 その入れ歯を引っ掛けておく金具があたるところが、ポロリと折れた。看護婦さんの話だと、もうかなりいたんでいてもろくなっていたということらしい。

 いずれにしろ、鉄やカルシュームなど少しずつ不足してくるようだな。

 高校時代にお世話になったM先生が亡くなったという知らせがはいった。ご冥福をお祈りします。

更新時間 : 22:21:34

8月3日 (水)

はる 1508
 昨日の続き。

 絵を描く時、私の場合、ここをこの色にしょうと思って置くわけではない。この色だとおもっても、下にある色や周りの色によって見え方が変わってくる。

 また、ここのところが大事なんだけれど、人の目というものは、ひとつの色だけを見ることはない。必ず周りの環境と一緒にみている。知らず知らずの内にバランスをとっているのだな。

 だから絵を描く場所には、好きな作家の画集や写真、もっといえば色のあるものを置いてはいけない、というのは知らず知らずに目に入って影響されるからだ。

 子供の頃、百色や二百色もある色鉛筆を自慢していたガキがいたけれど、今考えるとそれでいい絵が描けるはずがない。というのは塗り絵ならいざ知らず、ここをこの色にしょうと決めて塗ることはないからだ。

 常に全体を眺めながら、微妙に変わってゆくというのが、生きた絵の面白いところだろう。

 話はもとに戻って、パソコンではがきをかく場合、そこにある例文やイラストを使わない方がいいように思う。何千何万のバリエーションがあったとしても、それは自分のものじゃない。どうやっても手書きにはかなわないのだけれど、少なくともへたくそでも自分の言葉で書いたほうがいいように思う。人と差がつくのそこしかない。

 きれいなイラストや決まりきった常套句を期待しているのであれば別だけれどね。

 ではまた明日。

更新時間 : 23:37:48

8月2日 (火)

はる 1507
 パソコンで礼状を書く。

 例えば年賀状。色んなデザインがあって、本人はそういった数多くの中から選べばいいだけになっている。「明けましておめでとうございます」「暑中お見舞い申し上げます」などなど。

 画像を選んで、文章を選択、それで住所を印刷すればほとんど手を煩わすこともない。きれいな印刷が出来上がってくるというわけだ。パソコンが普及した理由のひとつには、こういったDMが簡単に自作できるということにあるらしい。

 100種類の画像と100の文章があれば、10000種類のバリエーションができる。コンピュータはこういったことがお得意だ。

 例えばこういった手を良く使う。物を勧める場合、二種類以上提示する。「どちらがいいですか?」とたずねられれば、必ずどちらかを選択するわけだ。で、あたかも自分が選んだかのように錯覚する。

 今流行りのブログなんかでもそうだけれど、選択肢はものすごく多くあって、とてつもなく変化に富んでいるように見える。しかし、実際の見え方というのか印象はみんな実に似かよっている。これはさっきも書いたけれど、数学的な(組み合わせ)によるごまかしのように思う。

 絵を描く場合・・

更新時間 : 21:26:38

8月1日 (月)

はる 1506
 八月です。

 昔、小荷物は郵便局扱いしかなく、大きな荷物は駅留めなどということがよくあった。今の人には理解しがたいかもしれないけれど、何日もかかって、結局最寄の駅まで荷物を取りに行くのである。

 そういった流通の不便さを取り払ったのが、佐川急便やくろねこ大和の宅急便業者だ。はっきり言って今更郵便で荷物を送ろうという物好きはほとんどいないだろう。時間とお金の無駄ということになる。

 郵便はどんな山の中でも郵便局があって、地域の人々の役にたってきた。郵便だけではなく銀行や保険としても利用でき便利ではあったのだけれどね。いかんせん、システムが老朽化してしまった。あまりにも非能率、親方日の丸、でありすぎた。どこかの国と良く似ている。

 さて、何を言おうと思ったのか忘れるところだった。そう、銀行の悪口をいうつもりだった。

 銀行に払込に行った。窓口にはきれいなお姉さまが並んでいらっしゃる。確かに振込みの期限は切れてはいるのだが、私はお客様ですよ。何を考えたのか、延々と待たされて延滞金がどうのこうの・・とおっしゃる。ムカムカして帰ろうかと思った。

 延滞金のことで怒っているのではない、慇懃無礼に持って回って遅々としてスムースに進まないから怒っているのだ。銀行はもっともっと潰れてもいい。全く懲りてないぞ!

更新時間 : 23:24:38