2004 6月

6月30日 (水)

はる 1120
 夜から雨になりました。まだ梅雨は明けてないのかね。

 最近はほとんどテレビもラジオも新聞さえまともに読まなくなって久しい。世間の情報から外れてしまっているようだね。でもまぁ、それでももれ聴こえてくる事柄というものがあってね、世間から隔絶された山にこもっている人間じゃない限り、そこそこ俗界から抜け出る事はできないようだ。

 以下削除

 今日はここまで。

更新時間 : 23:51:43

6月29日 (火)

はる 1119
 う〜帰って,飯食ったらこの時間になった。とても何かやる気力はない。ではでは

更新時間 : 22:39:37

6月28日 (月)

はる 1118
 夕暮れ時にいつもの散歩道とは反対側を歩いた。今は一年で一番日が長い時だ。いつまでも空に明るさが残っていた。

 このところ車の中でずーっとアート・ペッパーを聴いていた。この人のアルトサックスはまさに天才だ。ジャズのアドリブというのは演奏家でないと良く分からない領域なんだろうけれど、聴いていて滞りがない、流れるように、湧き上がるように音が繋がって出てくる。気持ちがいい、すかっとする、と言う表現で理解してもらえるだろうか。

 テナーサックスに比べるとかなり小さく、その分音も高く小回りがきく。ナベサダが使っているサックスといえばわかりやすいかな。我々は豪快なアドリブが好きなのかな、だから例えばテナーサックスの巨人といえば、コルトレーンとかソニー・ロリンズの豪快なアドリブをすぐに思い描くけれど、アルトサックスの名手はあまり知られていないなぁ。私もソニー・スティットぐらいしかしらない。でもまぁ超絶技巧派が多いな。(ソニー・スティットはテナーでした。そうそう偉大なチャーリー・パーカーを忘れていました。後日編集)

 ただどうなんだろう、上手すぎてどちらかと言えばポップスとかイージーリスニングに近いと感じさせる所があってね、なかなか難しい。一時例えば70年代にヒュージョンとかクロスオーバーとかいう新しいジャズが出てきたときに、ピアノのチックコリアとかキースジャレット、ギターのジョージベンソンやアールクルーなんかが「あれはジャズではない」と一部の批評家に非難されていたけれど、いい悪いは別にして、何となく今になって分かる気がする。ただいいものはいいのだけれどね。ジャズでなくても。

 で今は全く反対の、セルニアスモンクを聴いている。聴けばわかるけれど、一種現代音楽につながつようなところがあってね、そうまったく新しい奇妙な感覚に陥る。ほとんど壊れたピアノかオモチャのピアノをたたいているそんな懐かしい,ほろ苦い感覚を呼び覚ます。超絶技巧になれた耳には超新しい。神戸の個展で使いかもしれないよ。お楽しみに。

更新時間 : 19:46:53

6月27日 (日)

はる 1117
 暑かった。
 今日はこれだけ。

更新時間 : 21:21:04

6月26日 (土)

はる 1116
  「ワカメ博士」
 そのビルの屋上には農学部の坂田博士の水耕ハウスが所狭しと設置されていた。水耕栽培というのは、字のごとく全く土を使わずに循環する水の流れのみで栽培する農法のことで、聞いた所によると博士は海の水でそれをやろうとしていた。

 「生物の先祖は海から生まれた、それ故に海で取れた植物,具体的に言えばワカメを食べていれば死ぬ事はない」というのが博士の持論だった。例えば食料危機が突然やってきたとしても、ワカメさえ養殖できれば、日本中の人が飢える事はないだろうと考えていた。

 一度隣の住人の農学部の学生の宮田君と連れ立って博士の家に遊びにいったことがある。予想通り、ワカメスープから始ってワカメのワイン、ワカメステーキ、食後のワカメ珈琲には驚いた。噂に聞いたワカメづくしである。

 これはまだ序の口で、なんとワカメからはある種の未知のエネルギーが出ていて、将来これを何とかまとめる事ができれば、世界のエネルギー危機も難なくクリアーできると熱弁をふるっていた。

 宮田君は密かに博士の娘さんの若芽さんに好意を持っていて、それもあって博士の研究に人肌脱いでいるというところもあった。このところ三年ほどワカメ以外のものは口にしていなく、この間の健康診断でも折り紙をつけられたのはいいのだけれど、一つだけ博士にも言えない悩みがあった。

 明け方近くになると、体がかゆいのである。心配になって皮膚科の先生の診断をうけると、「まぁ心配ないでしょう、今はやりの(乾燥わかめ肌症候群)でしょう。水に漬かれば元に戻りますよ」

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【創作】(明け方、ビルの屋上で、隣の住人が)のお題で作ったお話です。
 (後日編集)


更新時間 : 15:25:11

6月25日 (金)

はる 1115
 ブラッド・ピットの「トロイ」を観た。

 最後まで「パッション」にしょうか、「トロイ」にしょうか迷ったのだけれど、「パッション」は観た人によるとけっこう辛いということなので、単純に楽しめそうな「トロイ」にした。

 こういうのはあまり期待して観に行かない方が、後の印象がいいのかもしれないなぁ。ほとんど何も期待していなかった割には面白く観た。

 最近の例えば「マトリックスU、V」とか、「ロード・オブ・ザ・リング」などのようなオタッキーなお話。一度観ただけではほとんどその物語のあらすじさえわからないような、こりに凝った話の展開や物語。こりゃ一体誰のために作られたものかと疑いたくなる。そういった意味では分かりやすい物語で楽しめた。まぁ元々が良く知られているストーリーということもあるのだけれど。

 話は変わるけれど、こういったエンタメ系で一番面白かったのは、ハリソン・フォードの出世作「インディージョーンズT」かな。最初にこれを見たときはビックリした。今じゃ当たり前になっているSFXだけれど、始めて見たときは度肝を抜かれた。ストーリーの展開も速く,分かりやすかった。そういった意味では観客も段々目が肥えてきて難しくなるのかもしれない。

 不落のトロイの町の城門を木馬の木偶で難なく破るのだけれど、丸太で出来たこの門をみると、ハリウッド映画の初期の名作「キングコング」を思い出す。詳しい事は忘れてしまったけれど、コングが怒って砦を襲った時に、この城門を破るのだけれど、子供心にドキドキしたものだ。こういったものの原点はここらあたりにあるのじゃないかな。今じゃ単純過ぎて満足しないだろうけれどね、難しいものだ。

 まぁ☆☆半かな。

 (昨日は眠くて話がピーマン、後日編集)

更新時間 : 10:33:18

6月24日 (木)

はる 1114
 神戸の個展のDMが上がって来ました。出来は昨年より数段いいように思います。絵がいいというのではなく、DMの出来の話ですよ。希望があればメールください。

 今日は頼んであった額が出来たというので取りにでかける。東京のグループ展のDMをだしたり、神戸の画廊にDMをまとめて送ったりで、一日がたがたと過ごす。大家になれば、普通はこういった細々した雑用は画商がやってくれるのだろうけれど、我々のような零細企業はしこしこと自分でやらなければならない。

 絵描きは絵だけかいていればいいのかもしれないけれど、負け惜しみじゃなく、こういった雑用も含めて大いに楽しんできた。

 ただどうなんだろう、二十年来、自分で企画実行してここまでやってきたけれど、一人でやっている限りここまでかなとも思う。もっと人に任せる部分があってもいいのかもしれない。でなければ、人を巻き込むことは出来ないだろうな。これも作家の度量ということになるのだろうか。

 私にはもう変えようがないけれどね。

 何だか面白くない話だ。又明日

更新時間 : 23:19:59

6月23日 (水)

はる 1113
 今日も一日学校に缶詰だった。疲れました。

 このところ何となく流されているなぁと感じる。何事か、考えてはいるのだけれど、とてもかたちのあるものにならない。こうやって日々何かしら書くことは、なにもない日常にあえて、刻みをいれるようで意味のあることのように思う。くだらない一言でも後々のなぐさめにはなるかも。

 子供の頃の三年は驚くべき変化をする。子供だった体が目に見えて大人の体になっていく。それとは対照的に、毎日があれだけ退屈に感じていた日々が,後から眺めてみれば一番はげしい変化の時代だったなんて信じられない。もっとじっくり観察しておくべきだった。その真っ只中にいるときは誰しもわからないものかもしれない。

 もう日々はそう変化しない。間延びしたような日常だけれど、今は見えないけれど何か貴重な「お宝」が含まれているやもしれん。見逃さないように、それはそれはじっくりと眺めて暮らしてゆきたい。

 

更新時間 : 23:45:54

6月22日 (火)

はる 1112
 まだ学校にいます。今さっき授業が終わったところ。暑いし疲れました。学校で生徒となんだかんだつき合うから、社会人としての自覚が出来るのだ、これがなくなればただの風来坊だと家人に言われるけれど、そんなものかな。あまり自覚も自信もない。

 今から帰ります。時間があればまた書き込みましょう。ではでは

更新時間 : 21:16:07

6月21日 (月)

はる 1111
 何だかめでたいぞろ目になったぞ。

 さて、台風もここらあたりは大した事なくて、三時過ぎ頃が一番風も雨も激しかったかな。皆さんのところはどうだったでしょうか?

 東京のグループ展に出品する作品が仕上がらなくて、四苦八苦していたのだけれど、まぁそこそこ切りがついたので終了とします。これは並べてみなければ分からない、他のメンバーもいる訳だから、けっこう楽しみにしています。

 7/6からですので、よかったら覗いて見て下さい。私はオープンの日(7/6)の午後から伺います。多分他の作家もオープニングには顔をそろえると思いますので、是非来てくださいな。(詳しくはトップページから、DMもあります。メール下さい)

    四つの壁による惣展U

     東 直樹
     大石洋次郎
     横島庄司
     榎並和春
  2004 7/6〜7/16 日曜休廊
  ギャラリー惣 中央区銀座7-13-1
     03-5565-6039

 神戸の個展のDMも明日あたりに出来るそうなので、まだまだ日にちはありますけれど、一度来られた方にはそのうちに行くと思います。どうもあやしい、確実に欲しいという方はメール下さい。

 単に事務的な連絡でした。では

更新時間 : 20:53:48

6月20日 (日)

はる 1110
 今日は暑かった。台風が来てるようです。みなさん気をつけてくださいな。ということで、今日は何も書けません。ではでは

更新時間 : 21:40:40

6月19日 (土)

はる 1109
 「美術の窓」の2004・七月号の国展評 p221

 「こたえてください」
 ここ数年、榎並作品はじつに素朴な調子で描かれている。素朴に、そしてナチュラルになったぶん、作品から発せられるエネルギーは強くなったように思う。以前から人物をモチーフにしていたが,説明的な要素が後退して、普遍的な人間が描かれるようになったと思う。ここに描かれている人間の形はひとつの器のような役割をはたしている。目には見えない人間の感情に、輪郭線をほどこすつもりで、人間の形を導いているようだ。「感情」を魂ということばに置換えてもいいだろう。うなだれた人間と、その人を腕に抱きかかえて諭す人。簡略化された二つのフォルムから,感情が滲み出ている。目、鼻,口、などのディテールは省かれているが、強い感情の拮抗がうかがえる。感情と感情の交差が、強い波動となって伝わってくる。土を練り込んだような絵肌の、プリミティブで荒削りな感触も,強いメッセージを発信してくる。(功刀知子)

 作品は「制作過程」で観ることができます。

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 何だか他人事のようで、気恥ずかしい。本当か?

更新時間 : 21:33:50

6月18日 (金)

はる 1108
 知り合いの作家のオープニングで、今帰りました。
 ということで、又明日。

更新時間 : 23:36:28

6月17日 (木)

はる 1107
 考えなければならないことが、頭の中をめぐっている。けれどやらなければならない事の方を優先させているために、考えが前に進まない。まぁ今すぐどうなる、こうなるという問題じゃないのだけれど・・。こういったことは「旬」があって、その時期を外すととんだ間抜けになってしまう。

 グループ展の作品がまだ仕上がらなくて、いらいらしている。本来私のスタンスでいえば、もうすでに終わっていなければならない仕事で、今頃になってあーだこーだ言ってるのは、違うでしょう!

 この間の「たりたくみさん」の
 長岡輝子著
  「老いてなおこころ愉しく美しく」の詩が、こころに引っ掛かっている。

 又明日。



更新時間 : 22:37:05

6月16日 (水)

はる 1106
 これを読んでいる人の中に、ひょっとすると私が何かしらの信仰を持っていると思っている方がいるかもしれない。けれど,今ここではっきりというならば、たぶん、みなさんと同じように特定の信仰は持っていない。

 自分の絵のテーマに「いのりのかたち」とか「こたえてください」というような,ある種宗教的なタイトルをつけることが多いのは、特定の宗教のことを指しているのではなく、人間が根源的にもっている、大いなる者への呼びかけのようなものだ。

 我々はたまたま偶然に知恵を持った人間に生まれてしまったけれど、ひょっとすれば、動物や昆虫や植物だったかもしれない。いや生命さえ持たない宇宙を飛び交う星屑だったかもしれない。

 この間の映画「21グラム」の話ではないけれど、生きて行くことは容易ではない。色んな試練が待ち構えてはいるのだけれど、私がここにいると言う事は、それなりの意味が用意されているのだろうか?
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 ちょっと出かけます。また後ほど書けたら。

 

更新時間 : 21:16:29

6月15日 (火)

はる 1105
 (はる 450)転載一部追加

 昼から野暮用で久し振りに先生のところに出掛ける。私には絵画上の特定の師匠はいない。あえていうなら上手い年の取り方の師匠とでも言ったらいいのだろうか。

 先生は今年83歳になる。長く学校の先生をなさっていて最後は小学校の校長先生を勤められた。退職後、勤め先に請われて知的障害者の教育たずさわっていて、私が初めて会った頃は養護学校の先生をやっておられた。早い時期に奥さんを癌で亡くされて、その喪失感をつづった悲しい文集をずいぶん前にもらった覚えがある。

 いつもは玄関先で追っ払われるのだけれど、今日は二階の居間まで通された。もうずいぶんと長く一人暮らしをされていて、自宅の前の敷地にはお孫さんたちご夫婦が住んでいるということだけれど、日常生活は食事も含めて独立してやっているということだった。この間もエジプトまでツアーで行って来たと自慢されていたように、本当にお元気で朗らかで楽しいお年よりを絵にしたような方だと思う。

 信仰の話になって、こんなことを言っておられた。少し前のNHKの番組でインドの信仰の話をやっていて(ベナレスだったけ)、人の「死」に対する考え方の日本との相違が浮き彫りにされて考えさせられたというのだ。

 その中である年老いた親を看取る家族の話をやっていたのだが、その地にはインドの各地から「死」を快く迎えるためにやって来る。インタビュアーが「死は怖くないですか?」と尋ねるとその老人は「何がこわいものか!この地で死を迎えられるのは最高の喜びなんだ」とささやいていた。

 我々は多くのものを得た。お金で買えるものは。しかし人生の最後になって「死」というものに向かいあった時に、それらはなんの役にもたたない。本当の幸福というのは最後の最後で喜びながらそのときを迎えられるこの人たちではないのかと。

 歳を取るということは、どういうことなのか。ただ老いぼれて、役に立たなくなって、人に世話になるだけなのか、いやもしそうだとしても、そのことが何かしら意味があるように思えるのだ。だとするならば、それは何なのか?

 自らの「老いざま」を考えてみたい。

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 「死」というものを無用に恐れ遠ざける気持ちがある。日常生活の中でほとんど場合、「死」は語られない。唯物論的に言えば「死んでしまえばお終いだ」ということになる。「生か死」といった考え方で言うならば、確かに死は生の終りである。

 しかし、こんな風には考えられないだろうか。「今」というのは「過去と未来」を共有している。というのは、今は過去の私の集大成であるし、今の延長上に未来があるからだ。何もなくなるから「死」というのではなく、「生」のなかには「死」を内在しているということなのかな。

 眠くなったので、明日つづきを書くつもり。


更新時間 : 00:17:28

6月14日 (月)

はる 1104
 こうやってほとんど毎日何かしらの文章を書いている。絵を描かない日はあっても、文章を書かない日はない。

 よく続きますね,と言われるけれど,私にとっては日常のことで、特に無理しているとか、気にしている感じではない・・。というと多少無理があるか・・。

 日記はもう30年ほどのキャリアがあるけれど、ここにこうやって何かを綴るようになって、本編の日記を書く習慣は終了してしまった。ホームページに日記を晒している人は良く分かると思うのだけれど、これは本来の日記ではありませんね。けれども、自ずから何かにじみ出てくるようで、けっこうこれで自足してしまっているようだ。

 HP上に沢山の書き物のサイトがあるけれど、ほとんど行った事もない。元来書き物をするタイプの人間ではなく、視覚的,触覚的な、言ってみればより直接的、具体的な種類の人間として育ったように思う。

 ゆえに「言葉」は思考するための道具として使ってきたわけで、多くの文学的な文章とは成り立ちが違うように思う。綺麗な文章,美しい文章というより、よりわかりやすい、じぶんの言葉というのを意識してきたように思う。それがいいのかわるいのか良く分からないのだが・・。

 絵に関しては一見すれば大体のレベルが分かる。これは池波正太郎の「剣客商売」ではないけれど、刀の構え方でその剣客がどの程度かわかるのに似ている。ただし自分より上のレベルについては分からないようだ。

 が、しかしこと文章に関してはまったく素人で何にも見えないな。だからひょっとすると、物凄く恥を晒しているのかもしれない。

 まぁしかたない、お付き合いくださいな。では

更新時間 : 21:41:30

6月13日 (日)

はる 1103
 ナイトキャップで読んでいる池波正太郎の「剣客商売」が今読んでいる16巻で終了する。

 主人公の秋山小兵衛が59歳の時から始ったこのシリーズを、書きはじめたのは作者の49歳の時だったらしい。そして、この16巻を書き終えたのが67歳であったから都合18年。エンターテイメントをこれだけつづけることは難しいと思う。

 もし存命であれば17,18巻と書き続けられていたのであろうけれど、読み進んでいけば、一人の人間の老境に至る何とも言い難い、寂しさ、憂鬱な気分というものが作品に投影されていて、物語とは別に興味深く読んだ。

 

 う〜眠たい。意味不明。またあした。

更新時間 : 23:46:01

6月12日 (土)

はる 1102
 映画「21g」の感想

 選ばれるということはこう言う事なのか。

 いつもは絶対に通らない交差点を,その日に限ってたまたま選んで通った。それに、自分は用心深くて時間には正確であると思っている。にもかかわらずその日に限って寝過ごしてしまった。で、たまたま子供たちがその時間にその交差点を通った。

 免許書を持たなければ車を運転する事はなかった。トラックを誰かが貸してくれなければ、無論乗らなかった。その時に友達とお茶を飲まなければ、その時間にそこを通ることもなかった。よって事故を起こす事もなかった。

 あるいは、神は全てのことを知っていて、自分にその道を選択させたのではないか。我々は自分の人生を選んでいるかのように錯覚しているけれど、実際はもう生まれる前からそうなるように設定されていて、そこに向かって留まることなく進んでいるに過ぎないのじゃないか。

 で、そのことで、神は私に何を期待しているのか。その事実に耐える事なのか、それでも尚且つ神を信じろという試練なのか。それでも尚且つ「生きろ」ということなのか。などなど

 何かそんな諸々を感じた。もしそれがこの映画の目的であったなら充分に成功しているのかもしれないけれど・・。☆☆☆

更新時間 : 10:10:49

6月11日 (金)

はる 1101
 
 映画「21g」を観た。

 前回「ミスティック・リバー」で主演男優賞をとったショー・ペンが主演だから、まぁ大きく外れる事はないと期待した。後味というのか,観終わった後の開放感のない映画だなというのが、第一印象かな。明日でも感想書ければ書きましょう。とりあえず、☆☆半。

 お休みなさい。

更新時間 : 00:37:11

6月10日 (木)

はる 1100
 「サウンド・オブ・サイレンス」

 土曜日の昼下がり、武士は学校から帰って誰もいない家の食卓でいつものように、簡単な食事をした。食事の後は昼寝をすることにしている。誰もいない土曜日の午後、受験勉強から解放されてまどろむ快感は、味わった人でなければ分からないだろう。

 午後四時半にセットしたラジオから、サイモンとガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」が流れてきた。

 映画「卒業」は我々の世代のバイブル的な映画で、ストーリーはありきたりな陳腐なものだったけれど、このサイモンとガーファンクルの究極的なハーモニーに騙されて二度三度観た覚えがある。考えてみれば映画好きはあの頃から始っていたのだな。

 ところで、中学学校の頃からギターを弾き始めた武士は、高校生になった頃から幼馴染の清志君と「武と清」というフォークデュオグループを作っていた。口さがない級友は演歌の「ぴんから兄弟」だの、「こまどり兄弟」だの言っていたけれど、当の本人たちはいたって真面目にサイモンとガーファンクルをやってるつもりだった。

 当時の高校は昼休みになると、中庭がフォークソングの同好会のステージになった。皆は関西フォークの伝統でクルセダーズや岡林信康、高石ともや、などなどコテコテの関西フォークをやっていたけれど、我々「武と清」はあくまでも正統な男性デュオをやっているつもりだった。

 ついこの間、「無音の音楽」というタイトルでコラムを書いた。どこかで聞いたことのある題だなぁと思っていたのだけれど、ある時「あっ」と気が付いた。

 「サウンド・オブ・サイレンス」
                                        後日編集
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【創作】
「午後四時半、中庭、武と清」というお題で作ったお話です。



更新時間 : 12:23:44

6月9日 (水)

はる 1099

最上のわざ         作者未詳 ヘルマン フォイヴェルス訳

この世の最上のわざは何?
美しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう―。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること―。
老いの重荷は神の賜物
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために―。
おのれのこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事―。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ―。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために―。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と―。

長岡輝子著
  「老いてなおこころ愉しく美しく」 草思社 より

          たりたくみさんの日記より抜粋・許されたし



更新時間 : 19:57:23

6月8日 (火)

はる 1098
 もう目一杯、お疲れです。
 又明日。

更新時間 : 22:34:55

6月7日 (月)

はる 1097
 さて、昨日の文章を少し変えました。まだ変わる可能性はあります。
 そろそろ、色んな準備もしなければなぁ。

 まずはDMの制作です。何点かの作品の写真を撮って、候補を決める。まだもう少し待ってと思っていたのだけれど、これ以上待つと6月中にDMが出来ないということになる。結局、今回の神戸展のために描いた新作となった。また,少したったらトップに晒しましょう。楽しみにしていて下さいな。

 メッセージの文章も甲府展・東京展とは変える事にした。基本的には毎年そう変わるものではない。いままで自分が何処まで歩んで来たかということであるのだからね。またそれでいいと思っている。

 後は、まだ少し大きめの作品が仕上がらないので、四苦八苦しているところだ。

 明日は学校だ。


更新時間 : 21:45:34

6月6日 (日)

はる 1096
         2004年個展によせて(下書き)

          「こしかたのき3」・こうべ
                       榎並和春

 いつの頃からか、私は絵を描く事を止めてしまった。あわあわとした色と形と言の葉のたゆとう海の中から、何かを見つけることが私の仕事になった。「いいと思った」のはそこに何かを見つけたのだろう。見えないものは描けない。
 
 ある詩人の「手記」のなかに「一篇の詩の最初の言葉」ということばがある。そのなかで彼はこう語っている。

 ・・・・・
 追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり
 名まえのわからぬものとなり
 もはや僕ら自身と区別する事が出来なくなって
 初めてふとした偶然に
 一遍の詩の最初の言葉は
 それらの思い出の真中に思い出の陰からぽっかり生まれるのだ。
 
 何を見つけたかは、「どう生きてきたか」ということでもある。
 「こしかた」をふりかえり、ささやかだけれど、みる人のこころにひびく詩をうたいたいと思う。

             榎並和春個展
          〜こしかたのき3〜
        2004 7/22(木)〜7/27(火)
        神戸・ギャラリー ル ポール
   650-0001 神戸市中央区加納町4-6-4 細坪ビル1F
            電話078-332-3755



更新時間 : 10:26:47

6月5日 (土)

はる 1095
 午後、グループ展の搬出でした。ご来場いただいたにもかかわらず、私事でお目にかかれなかった皆様すみませんでした。これに懲りず来て下さいね。

 夕暮れ時は少し肌寒かった。夏になりかけのこの頃の季節の感覚はどうだったのか、けっこう忘れているものだな。この頃は午後七時頃になっても、まだまだ空には明るさが残っていて、見上げるとジェット機が金色の光を受けて白い糸を吐いていた。

 「男と女」というフランス映画を思い出す。クロード・ルルーシュ監督で音楽はフランシス・レイじゃなかったかな。当時結構このペアで映画撮っていた気がしたけれど、最近はあまりきかないな?「白い恋人たち」なんかも耳に残る美しい旋律だった。監督は違うかもしれないけれどね。

 普通の恋愛映画なんだけれど、どうも残っているシーンが絵画のようなんだな。海辺のシーンで陽炎がゆらゆらしている中を犬を連れた、ジャコメッティの彫刻のように引き伸ばされた男の人が散歩している。たったそれだけのことなんだけれど頭の何処かに残っている。

 幸福のイメージというのはなかなか形にできない。できないけれどなんとか伝えたいなと思う。

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 どうも中途半端になってしまったな。もう眠くなったので、又明日。

更新時間 : 23:34:57

6月4日 (金)

はる 1094
 少し欠けていたけれど、大きな月が出ていました。見ました?

 ゴザンスという書き物を専門に募集しているサイトがある。私など全くの門外漢で,素人の楽しみ、暇つぶしでこの「日々好日」から適当に選んで投稿している。(トップの「小春本舗・メールマガジン」から入れます)

 へんなもので、時たま選ばれて表紙のピックアップに取り上げられたりすると、それはそれで嬉しいのだな。私と言う人間は、どこまでも浅はかで図に乗りやすいタイプのようだ。

 図に乗りついでに初めて「物語」を書いてみた。お題が「6月9日、水族館、妊婦」というものだった。(はる 1092)

 落語に三題話というのがある。お客さんから適当な題を貰って、それを即興でお話を作って行く。落語だから当然落ちも必要なわけで、噺家さんの真の実力が問われる。まぁそれとよく似ているかな。

 小学校の頃、国語の宿題のプリントの最後に必ずこの手の短文を作るコーナーがあった。今はどうなっているのか知らないのだけれど、たとえば「・・だとしても」を使って100文字以内で文章をつくってみなさい、みたいにね。

 まぁ子供の宿題と同じレベルかもしれないけれど、こうやって話を考えることは結構楽しいのだなという,新しい発見をした。皆さんもどうですか。

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 スクエア展明日までですよ。午後から居ます。是非どうぞ。

 制作過程で晒してある「こたえてください8・守護神」を出品しています。

 

更新時間 : 22:56:38

6月3日 (木)

はる 1093
 今日は午前中、美術館でグループ展の当番。以前のグループから数えれば、もう22年も毎年展覧会を続けていることになる。それにしても美術館にくるお客さんも少なくなったようだ。平日の昼間はどこか高原のホテルのように、すきすきしている。まぁ考え方によれば、この方が本当の姿なのかもしれないけれどね。絵画そのものに人を呼び込むだけの魅力がないのかもね・・。

 で、ご用とお急ぎでない方は是非御立ち寄りください。できるだけ丁寧に対応させていただきます。

 そういったことで、又明日。

更新時間 : 23:40:55

6月2日 (水)

はる 1092 
 
 我々の子供の頃は、子供同士で行ける公共の場所は、限られたものだった。いつもの空き地か公園ぐらいしか知らない。少し遠出したと言っても、あの標準時で有名な明石の天文台や、須磨の水族館あたりが、思い切った冒険になったぐらいだ。

 もうずいぶん前の話だけれど、幼なじみのさっちゃんとその須磨の水族館に出かけた。誰でもそうなのかはよく知らないのだけれど、成長過程の一時に魚釣りに目覚める時があるようだ。

 当時、どういった動機で海釣りに燃えていたのか忘れてしまったのだけれど、毎日曜日にはさっちゃんと暗いうちから近場の海に釣りにでかけていた。そんな関係で水族館へ行ってみる気になったのかもしれない。

 名も知らない魚たちの涼しげな泳ぎをしり目に、あたりの喧噪とは明らかに雰囲気の異なる場所があることに気がついた。私は好奇心にかられて、するするとそこに迷い込んでしまった。そこには、あの妊婦のお腹の中で子供が成長していく様子と同じような、鯨の胎児の標本が並べられていた。何だか怖くなって、そそくさとその場所を通り過ぎた。

 人の子供は10月10日(とつきとおか)で生まれる。けれど本当はそれだと胎児が大きくなりすぎだとどこかで聞いた。鯨は6月9日(むつきここのか)で若干早産だ。でもそのあたりが一番、母子ともに健康にもよさそうだ。そういえば69は胎児がお腹の中で泳いでいる姿に似ているな。

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【創作】 @がっこ
「6月9日/水族館/妊婦」というお題で、話を作りました。どんなもんじゃろか?

更新時間 : 23:01:28

6月1日 (火)

はる 1091
 今日は一日缶詰でした。

 段々に短気になって行くのか、どうか。そうだな、また久しぶりに熱く怒鳴ってしまった。携帯電話のこと。

 夜の生徒の場合、昼間の生徒と同じようには行かない。彼らは仕事を持っている。仕事場からの電話だといえば、本当は許す必要もないのだけれど、教室に持ち込み禁止とまでは行かない。

 それを言い訳にして、授業中にビービーやられたのではどうしようもない。まぁ普通は、そこそこ素直に言う事を聞く奴らでも、まぁ色んな所ではじかれて来たかれらだから、そういったことで簡単に引き下がれなくなってしまう時があるようだ。

 「だめなものは、だめなんだ」と怒鳴りまくってケンか腰になってしまえば、お終いなんだけれど、20年もやっていても時々切れてしまう。冷静に諭せる自分でないところが、なさけない。

 でもやっぱり「だめなものは、だめなんだ」

 疲れた。

更新時間 : 23:22:35