2003 3月
3月31日
(月)
はる 690 古い家は嫌だねぇ。せっかくいいところまで「日々好日」を書いていたのに、電子レンジが、「チン」といったところでブレーカーがバシッと落ちた。すべてが元の木阿弥、何処かに消えてしまった。また同じ事を書く気などさらさらないのだ。 ブレーカーなんて洒落たものがない昔、ヒューズといった、知ってる?これにも色々な種類があってね、同じモノを用意していないと一晩暗い中に居なければならない。どこの家庭でも台所かその付近に、白い瀬戸物でできたヒューズボックスがあった。丸いピンが付いていて、強く引っ張ると半分に割れた。鉛色のヒューズが二本入っている。大抵の場合そのうちの一本が焼き切れていた。中学生ぐらいになって少し電気のことを知ってくると、取り合えず適当な電線で代用した。大体電気で悪戯してヒューズをとばしたりするのは私ぐらいだったから、けっこう慣れていた。 最近は楽だねぇ。ブレーカーをひょいと持ち上げればいいだけだ。 マイナーな記事だけれど、フラクタルの話が新聞に取り上げられていた。興味のない人にはあくびの出る話なので飛ばしてくださいな。 随分前になるけれど、アインシュタインの話で「世界は簡単な数式であらわすことができる」なんて話を書いたおぼえがあるのだけれど、彼は結局それに成功することは無かった。 でフラクタルの話だけれど、ワルシャワ生まれのマンテンブロという数学者は、複雑に見える多くの自然現象にも、共通の性質があることに気が付いた。例えば木の枝、好き勝手に枝を伸ばしていると考えがちだけれど、そこには何か共通の法則が隠れていると考えた。 我々が絵を書く場合、例えば樹を描くとしよう、何かを見て書く場合はそれはそれでいいのだけれど、空想で描いたとすると、これがなかなか難しい。自然に見えるように、そろわないように描くにはコツがいる。大理石の模様、シマウマのシマ、エトセトラ。 昔は勘と経験でそういた複雑なものを処理してきたのだけれど、このフラクタル理論を応用すれば、簡単に極自然な地形や風景が描けるらしい。だからまず一番最初にCGに応用されたようだ。 あと色々応用例がでていたけれど、また今度。 更新時間 : 20:05:38
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3月30日
(日)
はる 689 何だかねぇ、柄にもないことを始めちゃってどうにも収集が付かなくなってなってしまった、というのが本音だ。一応区切りがついたので終わりにしたけれど、書き足りなく思っていることが後から後から出てきて困った。また機会があればということで。 相変わらず戦争は続いている。この間の新聞写真がなかなか今回の戦争の様子をよく表していたので、上手いなぁと感心した。 完全武装した米兵、手には機関銃、頭には夜でも見ることができるゴーグルをして、物々しい装備をかついだ兵隊さんが、イラクの砂漠の遊牧民を追い立てている。数人の部落の青年がうつろに歩いている、一人の青年はよれた山羊にまたがって蹴り立てている。その対比が不遜だけれど、面白かった。 戦争は人が死ぬ。自分を含めてかけがいのない周りの人が死ぬ。そのことがなかなか分からない。「人は何故人を殺してはいけないのか」というテーマで議論されていたことがあったけれど、単純に「私は殺されたくない」からだろう。そんなことまで教えなければならないほど、我々は人として動物として何かが退化してしまったのだろうか。自分や自分を含めた愛するものを自分の命をかけて守る、その気概がなくて生きて行く権利などない。 力を持った者は我儘だ。できるものなら自分に歯向かうものを根絶やしにしたいと願っているものだ。何かしらの大義をつくって戦争を始める。多くの場合歴史はそうやってきたことを伝えている。もう一つは、やられた方は恨みをもってやがては何かしらの報復にでる。というわけでギャング映画のテーマのようにやったり、やられたり永遠に繰り返されることも変わらない。馬鹿は死んでもなおらない。 戦争によっては何も解決しない。終わらない。どうしてそのことが分からないのだろう。 もう眠いので寝ます。又明日。 更新時間 : 23:17:22
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3月29日
(土)
はる 688 「絵を描く材料 7」 「油の沈殿物を取り除き、太陽の光に当てれば、その作用によって自然に油が澄んでくる(特に一年のうちでも三月は、太陽の紫外線が最も多量なので、この月に晒しておくことをすすめる)」(前出p200) 加熱処理する時にニンニクのかけらを放り込んで、鳥の羽がかさつくまでかき混ぜろ、しかる後に三月の太陽に晒せばオイルは日の光で純化して澄んでくるとか、これにはけっこうはまった。しかしせっかちな私には適さない処方だとみえて、気が付いた時には晒したはずのオイルは、埃をすってカリカリに固まっていた。 それでも一度気になったオイルの組成は、既成のペインティングオイルでは満足できるものではなくなっていた。現代は便利な世の中で自分で加熱処理しなくても、もうすでに加工されているオイルが手ごろな値段で売り出されたいた(スタンドオイルという)それと東京の画材やさんからコーパル樹脂を取り寄せて、本を参考に自分のオイルというのもを調合した。この自家製のオイルは意外に使いよく最後までこの自分の割合で調合したオイルを使っていた。 ファン・アイクによって完成された油彩画の技術は、おなじフランドル出身のルーベンスによってより完全なものになった。 もし時間があってネットで調べる事ができるならば観て欲しいのだけれど、ファン・アイクたちの完璧なまでのグレードの高さは、全く開いた口がふさがらない。これを観てしまったら、だれもこれ以上のことは出来ないと思うだろう。ファン・アイクたちの方法は、物質的にゆるぎない完璧な作品を作った。 その後ルーベンスたちがやったことは下書きにテンペラのモノクロのデッサンをすることを止めて、いきなりオイルの薄塗りで荒描きを始めた事(これは作品の即興性が増して、修正がよういになったことを意味する)などが新しいのだけれど、結局油彩画の技術というのはこのあたりがピークで、その後は次第に壊れていく。 最初に戻って考えて欲しいのだけれど、油彩画の特質というのはリアルな空間とその濡れた美しい色にあるわけだ。でその色だけをとって考えても、油彩画の発色というのは直接その絵の具の色を見るのではなく、何層も重ねられた透過された光をみるために考えられた画材であるということ。そのためにはオイルは艶があり、乾けばグラス状になる必要がある。 よく言われるように印象派のように、野外に出て即興的に濡れた絵の具をグイグイキャンバスに殴り書きしたような技法というのは、油彩画としては一番不得意でまたやってはいけない方法だということだ。なぜなら乾きが遅いし、そのために薄汚れてしまうからだ。もしそういった描き方をするのであれば、水性のガッシュか最近ではアクリル絵の具の方が向いているということになる。 私が油絵を止めてしまった大きな理由は、私はもともと視覚的に粉っぽいつや消しの絵肌が好きだった事、長い時間をかけて風化したそういった風味に限りない愛着を感じる事、ツルツルもすきだけどガサガサのほうがより好きだった事、自分の足元をみると油性より水性のほうが合っていると思ったこと、などなど。1997年以降油彩の道具は使っていない。 取り合えずこの「絵を描く材料」のシリーズは終わります。ではまた。 更新時間 : 15:35:32
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3月28日
(金)
はる 687 今日はいい天気だった。故にちょいと野暮用。 又明日。 更新時間 : 19:13:28
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3月27日
(木)
はる 686 「絵を描く材料 6」 こういった材料に興味を持ったのは、当時流行っていたということもあるけれど、ある種の祖先返りのようなところがある。油彩画を多少なりとも真剣にやってみようと思った人間にとって、誰でもが一度は通ってみる道筋だ。 勘違いしてはいけないのは、これらの事を知ったからといって絵が上手くなるわけでも、偉いわけでもない。絵は鉛筆一本、筆一本あれば可能なあそびだからだ。しかし知る事によって自分の表現に何かしらのプラスになることは確かなような気がする。 セザンヌによって遠近法は一つじゃないことを知った私は、段々とモチーフを解体、そして再構築することに興味を持ってきた。更に進んで実際の写真やモノをコラージュする面白さに目覚めた。ピカソやブラックのキュビズムの考え方に共感を持ってくる。卒業制作は100年遅れのピカソの総合的キュピズムのマネッコだった。そのうちにギャラリーに晒しましょう。 とまぁ、ここまでは順当に進んでくるのだが、そこからが難しい。ちゃんとした油彩画の伝統の上に現在があるのであれば、自分なりの方法というのもそこから導き出せるかもしれないけれど、我々にはそういった伝統もなかった。で、一斉に祖先返りしたというわけだ。 このことは多分絵画だけの話ではないのじゃないかと思う。明治維新以後多くの西欧の科学技術が取り入れられ、一心不乱に学んで来てここまでやって来た。さてこれからどうするかと考えた時にその足元を見つめる時にきたという事だろう。 自己流ではありながら油彩画の技術を勉強していたのだけれど、結局のところ全て止めてしまった。けれど、そのことが全く無駄だったとは思わない。パネルに布をはりつけ、下地塗料を塗りこんでオリジナルなキャンバスを作ったり、弁柄やとのこをつかった自家製の絵の具を作るようになったのも、この油彩画の技術を勉強したからだと思う。「人生万事塞翁が馬」というわけだ。 さてオイルの話はまた今度。 更新時間 : 21:22:34
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3月26日
(水)
はる 685 (絵を描く材料5) 琥珀色といいますが、この琥珀とは何かご存知だったでしょうか。私などはただ単に色の名前だと思っていたのですが、確かにネズミ色にしても桃色にしてもさくら色にしても、実物があるわけですから、考えてみますと琥珀というものがあって当たり前なわけですね。まぁ簡単にいってしまえば松脂みたいなものが固まって化石化したものです。 樹脂にも色々種類があってうんと硬い物から柔らかいものまであってこれが油彩画の重要なメジュウムとなる。基本的に乾燥が速く艶がある、反面もろくこわれやすという性質がある。ゆえにこれからいうところの植物性の油と混合して利用するというわけだ。ちなみにニスというのはこの樹脂を揮発性の油で溶かしたものだ。 「亜麻仁油を1/2リットルとり、陶器の壷に入れて火にかける。ニンニクのかけらを三個加えて、ガチョウあるいはニワトリの羽がちぢれるまで加熱する」 これはスペインの画家パチェコ(1564〜1654)が書き残した油の加熱処理する方法を述べたものだ。(「油彩画の技術」ド・ラングレ著p199)これを最初に読んだ時に、錬金術師という言葉が頭をかすめ、油絵というのは何と摩訶不思議な技法かと思った。そしてそのおどろおどろした技法書にのめり込んでいった。 油彩画を完成させたのは15世紀フランドル地方のファン・アイク兄弟だとされている。しかし当時多かれ少なかれそういった技法で絵が描かれていたのじゃないかと思う。彼らの製作手順は、最初卵のテンペラで白黒のモノクロのデッサンをとりある程度肉つけをして、それからオイルで溶いた顔料を何層もかぶせていく(グラッシー)という方法をとっている。 何故そんな面倒な方法をとるのかといえば、結局最初の頃の話に戻るのだけれど、現実の空間をいかにすればリアルな表現にできるか、ということだった。色というのは普通我々は物の表面の反射光を見ている。しかし反射光を見ている限り美しい濡れ色を見ることはできない。 ステンドグラスや木漏れ日が美しいのは透過光をみているからで、青空が美しいのもそうだ。彼らは何とかこれを実現したかった。 ファン・アイクなどの技法は最初にできるだけ明るい下地で絵を描き、色のグラスを重ねるように透明なオイルで色を重ねていく、そうやって最後に透明なニスをかけて画面を保護すれば完成というわけだ。観る人は表面の反射光を観ているのでなく奥から何層も通り抜けた透過光を観ていることになる。 そして問題はこのグラッシーに使うオイルをどうするかだった。 更新時間 : 19:45:31
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3月25日
(火)
はる 684 (絵を描く材料4) 安価で手軽に尚且つ丈夫な画材は何か。このことが絵を描く人間にとって重要事項であった。中でも一度かかれたものが多少の水がかかったぐらいでは剥がれないくらいの耐久性は持って欲しい、と願うのは無理ないことだ。 フレスコ画はそういった点で非常に優れた性質を持っていたのだけれど、(フレスコ)とは文字通り(フレッシュ)な間だけ、生乾きの時のみしか書き込めないというハンディがある。充分に時間をかけてゆっくり描くということが望めない画材だった。 テンペラの意味はよく知らないのだけれど、絵を描き始めた昔の人たちにとって、卵が接着材の性質を持っていることは経験上分かっていたと思う。尚且つ不充分ではあるけれど、濡れている時は水で延ばすことができ、乾けば耐水性になることに着目した。 今でこそエマルジョンといえば多くの人が知っている液体の一つの状態をさすのだけれど、簡単にいえばマヨネーズ状態のことをいう。マヨネーズは卵を仲介にして水と油がほどよい状態で混じり合っている。普通に考えると水と油は相反する性格を持つモノで、一時混ざり合っても時間と共に分離してくるのだが、卵という仲介者がいることによって安定したクリーム状でいることができるのだ。 テンペラのメジュウムを使った絵画は随分長い間、油絵の下地として使われていた。それはとにかく(水で延ばすことができ、油とも仲良くでき、とても乾燥がはやく、耐水性でもあった)という利便性があったからだと考えられる。反面、腐りやすく、耐久性に乏しく、扱いが面倒だという欠点もあった。 ともあれ、油絵がファン・アイクによって完成されるまでこの卵によるテンペラ画とフレスコ画が絵画の材料として重要な位置をしめていたことには違いない。 エマルジョンといえば最近ではアクリル絵の具や水性の塗料は全てこの合成樹脂と水とのエマルジョンだ。もう少しいえばかたちを変えたテンペラ画ということができるだろう。 次はいよいよ油絵の話となる。 更新時間 : 20:00:44
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3月24日
(月)
はる 683 毎年この時期になると健康診断に出掛ける。というのは時間講師というのも一応手続き上、何年継続してやっていようと、一年ごとの更新で、その時に履歴書や教員免許の写しやら健康診断書が必要だというわけだ。健康診断は、まぁありがた迷惑だけれど仕方ない、しかし毎年免許の写しだ、履歴書を提出させられるのは面倒だ。 戦争が始ってしまえば、もう何を言っても空しく響くだけだけれど、どうしてもそのことに触れないわけにはいかない。 「他人事ではない」というけれど、そういう言葉が出るという事は自分も含めて「他人事」なんだな、やっぱり。 今日病院にいって若い医者の診断を受けた。ほとんど私と目を合わせることなく、会話らしい会話もなく、きわめて事務的にマニアル通りに「異常ありません」と印を押した、「他人事」なんだ。それはそうだろう、自分か自分の家族が病気にならない限り、臨場感もって考えることなどできない。一方的に若い医者だけををせめるわけにはいかない。 「日本が攻められたら、わが国が攻撃を受けたとみなす」と何処かの馬鹿が豪語していたけれど、そんなもの嘘っぱちだ。基本的に自分の身に危険が迫らない限り、マニアル通りに戦うだけだと思う。基本的には「他人事」なんだ。反対にそんなものをあてにしていたのでは、あまりにも幸せな国民といわなければならない。「自分の身は自分で守る」これがやっぱり全ての原則と思うのだけれど、どうだろうか。 平和ということになれてしまって、何事もないことが平和だとインプットされてしまった。教育もそんな可もなく不可もない人間を量産することにやっきになっていた。非戦、反戦はスローガンとしてカッコいいけれど、怒る時には拳を上げて怒らなければ何も伝える事はできない。平和になれて、いつのまにか我々は大きな声さえ上げることができなくなっていることに気付いた。無遠慮に街中で大声をあげているのは、恐れを知らない女子学生ぐらいのものだ。 なんか支離滅裂になってきたので、ここまで。又明日。 更新時間 : 20:00:06
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3月23日
(日)
はる 682 (絵を描く材料 3) 絵を描く材料は基本的に古今東西そう変わるものではない。簡単にいってしまえば顔料(色の粉)をメジュウム(のり)で岩や板や紙、布にくっつけるというわけだ。 常識的に考えてまず一番最初は泥や樹木の汁を手近な物になすりつけていたものだろう。そういった何の接着材を含まない材料で描かれた絵は、ほとんどが残っていない、たまたま石灰質の岸壁に描かれたものだけが、偶然に残っている。 これは興味のある人は調べて欲しいのだけれど、濡れた状態の漆喰の壁に色をさすと、不思議なことにその漆喰が固まるのと同時に色も閉じ込めてしまう、そんな性格があるということだ。人類が一番最初に発見した最も簡単な耐久性のある画材はたぶんこういった石灰質に描かれた壁画だと思う。これを(フレスコ画)という。西欧の教会や建物の壁画はほとんどこの方法で描かれている。日本でいえば高松塚の古墳の壁画などこれに近い。 我々が学生だった頃、ちょうど絹谷幸二がこのフレスコ画をひっさげて画壇にさっそうと登場して来た。彼は奈良県の出身で高松塚の古墳の修復も手がけてきたようで、そういった意味では登場して当たり前の人物だったのかもしれない。 日本ではその接着材として動物の膠(プリンなどを作るゼラチン)をつかった。これがようするに(日本画)と後からいわれている絵画のことで、現在まで色々変化はしているかもしれないが、材料的には(膠絵)といっていいと思う。 他に水溶性のノリを使えば(水彩絵の具)(ガッシュ)ということになる。 もうわかったと思うけれれど、油彩画はこの接着剤に植物性の油や樹脂を使った。しかしそこに至るまでに(テンペラ)のことに少しふれなければならない。 更新時間 : 18:33:15
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3月22日
(土)
はる 681 (絵を描く材料2) 西欧の油彩画というのは科学だという話は前にした。要するにどうすれば現実の立体の世界を平面の世界に定着させるか、そのことの歴史だ。今では中学生でも知っている遠近法などもそこからでて来た。「油画」とは言わなかったけれど、植物性の油脂を使った絵画は東洋にも随分と昔から伝わっていた。つまり漆をつかった工芸的な絵画のことで、これだけに限ってみれば東洋の方が歴史があるようだ。 西欧の油彩画の目指していたところは、東洋のそれとは違って、リアルな空間の表現だった。奥行きのある空間と共に一番重要だっただったのは、美しい濡れた色をどうすれば実現できるかだと思う。油彩画の最も得意とする領域は、実はこの部分なのだ。 ラングレイの「油彩画の技術」が注目されたのは、我々がよく知らなかったこの部分に注目したからだ。それまで油絵といえば何も考えず、画材やさんに出掛けてチューブにはいった、重々しい絵の具を買って、ペインティングオイルといわれる琥珀色の美しいオイルを買ってくればそれで全てだと思っていた。しかしこのオイルには油彩画の長い歴史が隠されている。 このペインティングオイルの話をしようと思ったけれど、また時間になってしまった。又明日。 更新時間 : 20:00:24
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3月21日
(金)
はる 680 お彼岸ということで久し振りに墓参り。たぶん自分たちは何処にも墓など持たないだろう。たとえ持ったとしても早々と無縁仏になってしまう。 終の棲家(これってお墓の意味なのかなぁ)をどうするのか、この間、新聞のあるコーナーでやっていた。自分は特別に宗教など持っていないのだから、どうしなければならないなんてことはない。考えてみると何も指定しなければ自然に戒名などつけられて、普通に葬られてしまう。まぁそれもいいか、とも思うけれど、生き方にけっこうこだわったのだから、ここの所も少しこだわって考えてみたい。 樹木葬なんていうのがあった。散骨の一つのバリエーションだけれど、骨も土に帰してやる。で目印にたとえば桜の木を植えておく、春になれば満開の花を咲かせる。いづれは誰のものか定かではなくなるのだけれど、当座は知っている人は楽しめる。そしていつかはそれも土に帰っていく。恨みもねたみも何にもなくて、さらりとしていて美しい、最後も少しはすましていたい。 更新時間 : 22:02:43
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3月20日
(木)
はる 679 今日という日が人類にとって「最悪の事が始った日」として記録されない事を祈ります。 更新時間 : 21:02:57
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3月19日
(水)
はる 678 「方舟4」1992 F130 作品を観る 桜の咲く頃になると、思い出すことがある。普段は何気なく見ている桜の花が、その年は限りなくいとおしく思えた。神はこれを見せるために、私にこの時を与えてくれたんだなと感謝した。 方舟のシリーズは大小あわせて全部で10点ぐらい描いた。当時世紀末ということもあって、そういった気分が世の中を支配していた。だからといってそれをそのまま描いたのでは知恵がなさすぎだと、今ならそう思う。 この20時間以内に「アメリカの戦争」が始る。何かしら胸騒ぎがするのは、私だけなのだろうか、こんなことで戦争を始めてしまっていいのだろうか、今こそ本当に方舟が必要な時で、人類は未曾有の災難に巻き込まれるのではないかと心痛める。これが杞憂に終わればいいのだけれど。 戦争反対 更新時間 : 22:41:55
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3月18日
(火)
はる 677 テレビを見ていないので、詳しい情報がわからないけれど、かなり緊迫した様子になってきているようだ。どうなるのだろうか、このまま戦争になってしまうのだろうか。 振り上げた拳をみんなが納得いくように収めるのは、殴ってしまうより勇気がいるし、難しいだろう。もしそんなことが出来る人なら(それだけ分別がある人なら)最初っから拳を振り上げたりしなかっただろう。殴ってしまえばつかの間満足するかもしれないけれど、殴られた方はそれだけではすまないだろう、子々孫々まで恨みつらみが伝わって「負の遺産」としてDNAに刻まれてしまうだろう。そうなってしまえば、これはなかなか消す事は難しい。 日本もその一端をになっているのだと思うと、このまま何もしないで見ていていいのだろうかと思ってしまう。いつのまにか我々は(戦争放棄した)という美名の下に、真剣に考えることを止めてしまった、考えることさえ(放棄)してしまった。他国にすべてお任せして、それで済ませてしまっていいのだろうか。ここのところよく考える必要があるだろう。最善の選択という方法を。 まだ今なら間に合う、戦争反対。 更新時間 : 21:28:21
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3月17日
(月)
はる 676 さて、何だかごたごたと忙しい。生きているという事はそういうことなんだなぁ。人生に雑用はないのだと理解した。 (絵を描く材料1) 子供の頃、はじめて買ってもらった画材はクレパスだった。よく知らなかったのだが、クレパスというのは商標らしい。一般的にはただのパスでいいようだ。それはともかく、幼稚園だったか小学校だったのか定かではないけれど、兎に角、学校から帰ってくると茶の間の机の上に十二色のクレパスとスケッチブックが置いてあった。前にも書いたことがあるけれど、我が家には子供のために学用品以外買うという習慣がなかった。それ故に、いやそれだからこそ、そのことがとても印象深く私の脳裏に残っている。それほど私が絵を描くことが好きだったと言えば、この話はめでたく終わるのだけれど、そういった話は特になく、この話はこれで終わってしまう。 油絵を本格的に勉強し始めた頃、「本格的な油彩画」とはどういったものか、次第に興味を持ってきた。その頃時代的にちょうど古典画法が見直され始めていたときで、美術雑誌なんかもそんな事を盛んにとりあげていた。ご多分にもれず私もそれに興味をもった。 その頃是非読まなければならない油彩画のバイブルというのが、グザヴィエ・ド・ラングレという作家の「油彩画の技術」という厚い本だった。多くの若い作家はこの本に感化されたと思う。今日はこの本の話をするつもりだったけれど、導入で終わってしまった。いずれ機会があれば、続きを。 更新時間 : 19:59:41
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3月16日
(日)
はる 675 午後から雨になった。冬の雨と違って、どことなくやさしい雰囲気がする。 さて今日は朝から裸婦のデッサン会に久し振りに出掛ける。先月は例の「街中ギャラリー」の個展で出席できず、裸婦を前に無心に鉛筆を走らせる。やっぱり下手くそだ。 このクロッキー会も段々女性方が増えてきて、最近は女性の方が多い気がする。まぁこれはどちらでもいいことだけれど、生き方の上手な人は、断然女性の方だということかな。高齢化で時間を持て余した男性は、どうするのだろう。趣味や嗜好、教養にこれだけ差がついてしまうと、離婚されないまでも、全く相手にされなくても仕方ないかもしれない。酒ばかり飲んでないで少しは考えて欲しい。 「麒麟」の「麒」は雄のきりんさんで、「麟」は雌のきりんさんだって知ってました?鳳凰もまたこれと同じ雌雄で一組になっているらしい。ちなみに鳳凰も想像上の動物で、これまた西欧の不死鳥=フェニックスとつながっていく。まだ調べてないけれど、次は不死鳥あたりを絵にするか。朱雀、鳳凰、不死鳥、フェニックス、面白そうだ。ではまた。 更新時間 : 22:55:50
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3月15日
(土)
はる 674 今日は野暮用で外出、今帰りました。故に又明日。 更新時間 : 23:27:33
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3月14日
(金)
はる 673 私はあまり政治的な人間ではないし、今までもこれからも政治には一定の距離を置いて接しようと思っている。けれど今回の戦争に関してはあまりにも理不尽な戦いのように思えてしかたない。だれがどう考えても、アメリカが侵略戦争をやろうとしているように見える。圧倒的な軍事力を持つ国が、信仰が違うから、考え方が違うからといって潰そうとしているようにみえる。 じゃ現実問題として、北朝鮮が攻撃をしかけてきたらどうするのだといわれると、ことはそう簡単ではない。今の我々にはないもできない、というのが現実だろう。アメリカと安全保障条約を結んでいるのは、なさけないけれどアメリカに頼るしかないからだ。それゆえ今回の事では、政府として協力しませんとは言えないだ。 だからといって我々が個人としてこの戦争に反対をとなえることとは別問題と思う。あの悲惨な敗戦からもう二度と戦争はいやだと思った、その気持ちが「戦争の放棄」という理想的な美しい憲法を生んだ。その気持ちにはたぶん嘘はなかったのだろう。今まさにその気持ちが問われている。 個人的にはガンジーのような完全な非暴力、無抵抗主義に賛同するのだが、現実問題として自国の防衛をどうするのか、人に守ってもらううちは独立国家とはいえない。この際、日米安全保障条約を破棄して、NATOのような独立したアジアの安全保障条約みたいなのをつくる時がきたのかもしれない。(15日一部修正) 更新時間 : 14:50:54
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3月13日
(木)
はる 672 小学校の先生は全ての教科を教えるので、今でもそうだけれど、大変だと思う。クラス担任が誰になるかというのは、当時の我々にとって、それこそ一大事であって、考えてみれば一年間というもの、ほぼ毎日、四六時中鼻を突き合わせているわけで、相性が悪いと一年間、泣くような毎日が続くわけだ。 間が悪いというのか、私はいつもこの先生以外だったら誰でもいい思った先生のクラスになることが多かった。これは何かの因縁、運命の赤い糸としか思えないぞ、と自分の強い逆のオーラーに憤りを感じた。 そういった中でも、音楽と美術は専科の先生がいらっしゃって、その先生のときは、俄然やる気になったものだ。なぜかこういった特殊な先生には受けがよかった。ということもあるけれど、自分が好きだったということが大きいだろうなぁ。 他の先生の名前はほとんど忘れてしまったけれど、小学校の美術の先生(大西先生)の名前は今でもおぼえているから、よっぽど印象深かったのだろう。この先生は私のことを思いっきり誉めてくれた。模範作品としていつの取り上げてくれた。そういったことの延長が今の私を作っているのだなぁと思うと、まぁ学校の先生の役割というのは大きい。いいか悪いかそりゃわからんけれどね。 そういったことが頭のどこかに残っているのだろう。今、美術教室の前には「美術科ギャラリー」なるものがあって、毎回優秀な作品をセレクトして展示している。やんちゃな工業高校の学生でも、ここに展示されるとけっこう嬉しそうだ。「芸術は爆発だ」なんて茶化していっているけれど、内心相当嬉しいのだろうと思う。そういったものなんだろう。それでいい。 更新時間 : 20:01:17
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3月12日
(水)
はる 671 「若い音楽家」1990 F100 作品を観る 今見ると気に入らないところがかなり見えるけれど、描いた当時は会心の作だった。 私はなかなかストレートに物事が進まないように出来ていて、一度は何事も頭をぶつける。それでけっこう痛い思いをしてまともな道に帰っていくというパターンが多い。だから人よりも何事も時間がかかるようだ。 団体展などどこに出品しても似たようなものだと思われているけれど、実際はじつに様々な会派がある。よく知られているのが日展だけれど、政党でたとえると一番分かりやすいかな、これがいわゆる政権党の与党。与党には色んな政党が参加しているのだけれど、たとえば最大派閥の自民党にあたるのが、光風会という団体。後最近では白日会というのも力を持ってきた、有名な新人作家も多い。後色々、これらを総称して「日展系」という。一番のメリットはまぁ田舎のデパートなんかでは「日展作家」として売れる人もいる。画風は穏健派、で面白くもない風景描いたり、人物描いたりが多い。 それに対抗して在野団体というのがあって、政党でいうなら民社党みたいなのが独立美術協会っていう団体で、今じゃ一番力があるだんたいかもしれない。多くの有名作家がこの団体に属している。それと相拮抗しているのが、私の出品している国画会というわけだ。 まぁやっとここまで話を持ってこれたのだけれど、私は最初5,6年この日展系の光風会に出品していた。なぜなら大学の先生がこの会の重鎮だったからで、ほとんど何も考えずにそのまま会に出していたというのが事実だ。ところが段々に自分の絵が変わってきてこの会に合わなくなってきた、で落選したのをきっかけに会を変えた。ことはそう簡単じゃないのだけれど、まぁそういうことだ。国画会に初めて出して入選したのが、この絵だ。嬉しかった。 更新時間 : 23:35:18
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3月11日
(火)
はる 670 今日は免許の更新でした。昨年じこったけれど、対物だけだったので御とがめなし。一時間の講習で新しい免許になった。それにしても交通安全協会というのは何をしているところだろう。入会は自由ということだけれど、ほとんどの人が何の疑いもなく入会する。手続きとして更新手数料だと勘違いする。更新のはがきが来るのはありがたいけれど、それだけのことじゃないのかなぁ。オマワリさんの天下り先じゃないかと勘ぐってしまうのは、いけないことだろうか。 さてそんなわけで今日は終わってしまった。また明日。 更新時間 : 23:23:35
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3月10日
(月)
はる 669 老子の言葉にこんなのがあった。(私のかってな訳です) 天下を取ろうと思って他国を攻めたとすると たぶん、貴方はそれができないことが分かるだろう。 世界というものは、神が作ったもので、 ちっぽけな人間が何とかできるものではない。 何とかしょうととすれば、かえって滅茶苦茶になるだろうし、 取ろうとすれば、無くなってしまうものなんだ。 万物は、色々で先に行く人もいれば、後からついて行く人もいる あるいは、ゆっくり過ごす人もいれば、急激に動く人もいる。 あるいは、強かったり、弱かったり、 あるいは、育てたり、こわしたりする。 本物を知っている大人は、何事もかたよりなく、 あるがままでいいとするものだ。 西暦で紀元前6世紀というのだから、今から2600年前の人ということになる。広大な国土に色んな民族がいて、戦争を繰り返していた。日本はまだ石器時代くらいか、もちろん文字などなかった。色んな賢者がいて面白いのだが、同じ漢字を使う文化を持つ民族として、この国のことをもっと知りたい。二百年かそこらの歴史しか持たないかの国の大統領が、何やらいっているのが恥ずかしくなるよ。ではまた。 ギャラリーに過去の作品5点アップしました。コメントは今からのもあります。見て下さいな。 更新時間 : 22:16:55
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3月9日
(日)
はる 668 「いのりのかたち3」2000 S100 作品を観る 子供の頃、2000年なる頃は自分は幾つになっているだろうと計算させられたことがあった。多分小学校の算数の時間だったように思うけれど、実感として40を越えた自分を想像する事はできなかった。 小学校の頃の一年は実に長く感じた。確実に一年ごとに年を重ねているという実感はあったのだが、その分色々と新しい刺激があって忙しい。永遠にこんな勉強をしなければならないのかと、うんざりしたものだ。最近の一年はその感じで言うならば、ほとんど変化がない分短く感じるのかもしれないね。 さて2000年は世界中の人にとっても新しい千年紀だったけれど、私にとっても新生の歳だった。色々なことがあり過ぎて、とても今ここには書けない。ただ一つだけ書いておかなくてはと思ったのは、後輩のN君が赴任先の上海で急に亡くなった年だということだ。たぶん30代の後半だったと思う。小学校の先生をしながら、大学院まででてその後、海外の日本人学校の先生をやりながら絵を描いていた。なかなかのやり手で将来を嘱望されていた。正月の年賀状にこれからの夢を語っていたのに、とても残念だ。残念だ。 そんな諸々のことを含めて私の「いのりのかたち」だ。 更新時間 : 19:52:33
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3月8日
(土)
はる 667 ピースアクションということで何年ぶりかのデモに参加した。といっても小さな子供からお年よりまで参加する実に平和な行進だったけれど・・。これでアメリカがイラクを攻撃しなくなるとは思えないけれど、何も言わないと賛成とされてしまう、反対ですの意思表示みたいなものだ。 それにしてもあの団体は異様だ。もう少し普通の人たちの参加を期待していたのだけれど、私がはいってもそのまま馴染んでしまう集団というのは異様な雰囲気がある。ホームレスがついに「めしよこせ」のデモでも始めたかと街の人は思ったのではないだろうか。 それにしても空は青く美しかった。では又明日。 更新時間 : 20:38:39
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3月7日
(金)
はる 666 人と人は面倒だ。 この間の近所の初七日の席での話。初老のおじさんと孝行息子が世間話をしている。 「んだ、親父さんの調子はどうだい」 「えぇありがとうございます、ここんところ調子がいいようですよ」 「ヘルスメーターの調子はどうだい」 「親父そんな話してました?体重も少し減ったぐらいの方が調子いいようですよ」 「いや。なかなか後が大変なんて聞いたもんだから、心臓に入れてんだろ、ヘルスメーター」 「???えっ、あぁペースメーカーね」 隣で聞いていて面白くて笑いをこらえるのに苦労した。兎に角場所が場所だからね。ではまた。 更新時間 : 21:22:47
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3月6日
(木)
はる 665 冷たい雨が降っている。 今日は学期末の成績をつけに学校へ行く。ということで疲れたのでもう寝ます。ではまた明日。 更新時間 : 23:04:56
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3月5日
(水)
はる 664 葬儀屋さんといえば昔のイメージがあってどうも良くない。今はセレモニーホールという。確かにセレモニーには違いないのだけれど、これだけを聞いて葬式を想像できる人はいないだろう。まぁ葬儀やさんのイメージからは程遠い綺麗なしごとになった。 今日は告別式で一連の法要が滞りなく済んでいく。それはそれでとても楽なんだけれど、何となくコンビニとかファミレスのマニアルのサービスをうけているようで、一抹の寂しさを感じる。大手の結婚式場で行われる式に似て、可もなし不可もなしで全てに味気ない。結婚式はまだ本人たちの希望が多少なりとも反映されるのだろうけれど、葬式は本人は夢の中だ。何でもかんでもマニアル通りで済ませるなら、やらない方がいいと思ってしまう。 昨日作家の瀬戸内寂聴さんが、朝日新聞にかなり大きい「戦争反対」の意見広告を出していた。こんなところに意見を書いても見る人は限られているのだけれど、あえて書きましょう。 「戦争反対」 *2003.3.8(土) やまなしピースアクション 13:30〜17:30 ボランティアセンターから甲府駅まで歩きます。(15:30〜) みんなで参加しましょう。 市民ピースネットワーク山梨 0551-36-4694 http://ypa.ne.nu 更新時間 : 23:06:15
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3月4日
(火)
はる 663 今日は近所のおじさんの通夜だった。昨年の夏頃まで、毎朝散歩している時に行き会って軽い冗談を交わしてしたのだけれど、最近は寒いので時間をずらしていたから、会わないのだと思っていたらご病気だったらしい。まぁいずれ人は誰でもいくのだから悲しくはない。最後の挨拶の時に「ありがとうございました」と軽く声をかけた。明日は一日葬儀でつぶれる。まぁこんなときにしかご近所の付き合いもないので、それもまたいいかと納得している。 親父というものは全て怖いものだと思っていた。だから幼馴染の家の親父が、友達のような口の利き方をするのを不思議な感覚で聞いていた。 小学校の4,5年の頃、その彼とはよく天体観測をした。だれでも少年は一時宇宙の不思議にのめり込む時がある。最初は簡単な双眼鏡で満足していたのだが、しだいに大きな倍率の天体望遠鏡が欲しくなってくる。無論子供の小遣いではどうにもならない高額なものだ。ある時その友達が60倍の天体望遠鏡を親父に買ってもらった。「羨ましい」という感覚ではない、ある種のカルチャーショックを受けた。私の家庭では親父が子供のためにオモチャを買うという「発想」そのものが存在しなかったからだ。 自分がじぶんであって「他の人」とは違う存在であることに気付くのは、その次の段階だ。 更新時間 : 00:17:56
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3月3日
(月)
はる 662 最初はこういうことだった。美しい花や風景がありそれを何とか写し取ることに一生懸命だった。構図や遠近法、陰影やデッサン、こんなものがなかなか難しくて思うようには描けない。微妙な色の変化やその表現方法の多様さに目をくらまされてそのことを極めるだけでも一生は掛かると思われた。たぶん絵画とはそういった絵画独自の文法や言葉があって、そのことをマスターしなければ前に進めない、いや進んではいけないのだと固く信じていた。 多分今絵を勉強している人もそう思っている人が多いでしょう。でもねぇ何か違うのじゃないか、そう思っている人もいると思う。私は「これじゃないよな」「これで自分は何を言いたいのだろ」といつも思っていた。ある時個展の取材で「これで何を言いたいのですか?」と聞かれて何とも答えることができなかった。はっきりいって何もなかったのだ。今やっている事と自己の表現の間には大きな大きなギャップが存在する。花を描く事で自分の人生、生き様を表現できればそれはそれでいいのだけれど、多くの場合それは難しい。 表現者になりたいのであれば自分のことをいかに表現するか、もっといえば、「私はこう思う」「自分はこうだ」ということをもっと初期の段階で表現する訓練が必要なのではないかと思う。 ボナールは下手くそな絵描きだとずっと思い込んでいた。彼がなぜ洗練されたパリの人たちに支持されるのか、よく分からなかった。エコールド・パリの作家たちでもデッサンや色だけをとったならもっと上手い絵描きはたくさんいる。彼の伝記を読んでいてこんな部分があった「今日はおもしろい雰囲気の人に電車であった、私はそれを思い出しながらデッサンしています」彼の絵は全て空想で出来ている。自分はこれを表現したいと思う世界があるから絵を描いているのだ。 上手くまとまらないけれど、今から近所の葬儀の話し合いがあるので、続きはまた。 更新時間 : 23:25:56
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3月2日
(日)
はる 661 「こうふ展」が終わってしまった。始るまではけっこう色々とあって面倒になっていたのだが、終わってしまうと寂しい思いがする。街中にあんな常設の画廊があってもいいのじゃないか、街中の風景として溶け込んでいたきがしたけれど、どうだろうか。 今日は街中でイベントがあって多くの若者が行き交っていたけれど、そういった賑わいと私の会場との因果関係はなかった。相変わらず私の会場には若い人は入ってこない。それはそれでいいのだけれど、それにしても集まってくる若者の表情に生き生きとした、気みたいなものが全く感じられないのはどうしてだろう。こういった地方の町のイベントが何処となく「盛り上がりに欠けたお祭り」の感じがするのはそういったためだ。 ハウステンボスが倒産した。全国でこういったテーマパークがどのくらいあるのだろうか。一人勝ちはディズニーだけらしい。我々もそうだけれど、テレビの創生期の頃もうすでにディズニーのアニメがあり、動物の世界があり、おとぎ話があった。こういった一連の世界と後発のテーマパークとは歴然とした違いがあるだろう。どうやってもえせディズニーランドの観がぬぐえない。 さて少し絵を描かねば。ではまたあした。 更新時間 : 23:24:38
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3月1日
(土)
はる 660 三月ですね。 この間久し振りに邦画「たそがれ清兵衛」を見た。期待していたのだけど、今ひとつ作品にのめり込むことができなかったなぁ。途中まではけっこういい映画かもしれないと、楽しんでいたのだけれど、少し間延びして緊張感が途切れてしまった。編集を上手くすればいい映画になるのに残念だ。 宮沢リエと井上陽水の唄がよかった。彼女はいい女優になった。とても辛い時期があったのだろうけれど、それを肥やしにして更に大きな人間になった気がする。俳優というのも因果な商売だ。だれでも人に触れられたくない恥ずかしいことや傷が一つや二つあるものだけれど、彼らはそういった事柄さえも自分の肥やしにしていく。またそういったタフな心があるひとだけが、こういった世界で生き残っていけるのかもしれないね。まぁあまり近づきたくない存在だ。お近づきになることもないけど。 明日で「こうふ展」が終わります。まだご覧になってない人は是非明日のうちに来てください。午後からは在廊の予定です。 更新時間 : 22:45:08
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