8月31日
(土)
はる 490 中学校の音楽の時間にはじめてバイオリンを聴いた。もちろんそれまでにも聞いたことはあったのだろうけれど、意識した事はなかった。たぶん「名曲を聴く」とかなんとかのコーナーだったきがする。 なんとも不思議な曲で誰かが傍でしゃべってるのではないか?そんな気がして振り返ってみたりした。(後で知ったことだけれど、実際に演奏家がしゃべっている録音だったそうだ)今では知る人ぞ知るの名曲でクラシックの中でもメジャーな曲の筆頭だけれど、中学生の耳にははや過ぎたし、当然今までに聴いた事が無かった。 サラサーテの「チゴイネルワィゼン」はジプシーの民謡から取ったらしい、もちろん詳しくはしらないけれど何処か哀愁のあるあのメロディーは一度聞いたら離れない。ガキの頃からけっこう耳は年増好みだったらしい。 で、もう何年か前だけれど、よせばいいのにこの年になってバイオリンがやりたくなった。簡単なセットの楽器が手ごろな値段で売っていたのが悪い。ぜったい途中で投げ出すことは見えていたのに買ってしまった。それでも何ヶ月はやったんだよ。今じゃ完全に私の頭の中でオブジェとなり、今回の絵のモチーフと化した。全く無駄でもなかったかな。 更新時間 : 22:35:27
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8月30日
(金)
はる 489 まだまだ暑いけれど、確実に季節は変わっている。秋の虫が気持ちのいい声で鳴き出した。不思議なのは同じように日中暑いのに、夜になればどこからとなくコロコロとこおろぎが鳴き始めることだ。こんな世知辛い世の中でも彼らは鳴く事を忘れずにいるようだ。えらい。 ということでまた明日。 更新時間 : 22:05:25
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8月29日
(木)
はる 488 サルデニアに行った時、お世話になった家の親父さんが畑に果物を取りに行くと言うので、連れて行ってもらった。道具というのが不思議なもので、竹の棒のようなものが先のほうで三つに分かれている、ちょうど昔あった避雷針のかっこうににているかな。で果物畑というのが、何だと思う?これがサ・ボ・テ・ンなんだ。よく知っているサボテン公園に小さいやつではなくて、そうだなぁ大きいものは三メータくらいある。例のうちわ形に次々と連なっているのだけれど、果物というのがそのうちわにポツポツと噴出したようにオレンジ色のかわいい実をつけた物だった。 でどうやってそれを取るのかといえば、サボテンだから当然イガイガが付いてるわけで、素手では取れない。そのさおの三又にひっかけてもぎ取るっていうわけだ。味の方はこれがけっこう甘くておいしい。 なぜそんなことを突然思い出したかといえば、今日の空が真っ青に晴れててサルデニアの空を思い出したからだ。さてみんな元気かなぁ。 更新時間 : 20:52:17
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8月28日
(水)
はる 487 今日は久し振りに教壇にたつ。 それゆえ今日は疲れて何もする気になれず、これにて終了。あしからず。 更新時間 : 21:54:19
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8月27日
(火)
はる 486 良くは知らないけれど、日本画の公募団体って日展系と院展系と創画会系になるのか。私が個人的に興味があって面白いと思うのは大体創画会系が多い。伝統的な日本画家からは批判もあるのかもしれないけれど、この会派の絵には我々洋画をやって来た人たちのも共通に訴えかける何かがある。事実私の個展にも時々創画会系の若い作家が興味をもって来てくれたりする。その共通するものが何なのか検証してみたこともないので分からないのだけれど。 反対に伝統的な日本画にはほとんど興味がわかない。唯一いいなぁと思うのは日展の重鎮の高山辰雄ぐらいだ。彼の絵も伝統的な日本画という立場からみれば若干ずれているのかもしれないね。 デッサンの達人はそれほど多くはないだろう。デッサンだけで人を魅了させる絵が描ける人はそういない気がする。もしそうなら他に何かしらの魅力が必要なきがするのだが、多くの日本画人は未だに伝統的なデッサンに縛られている気がしてならない。どうですか。 全くの素人の意見です。間違っていたらごめんなさい。それではまた。 更新時間 : 22:42:52
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8月26日
(月)
はる 485 全国的にはどうなってるのか知る由もないのだが、町中にあるセレモニー・ホール(葬祭やさん)はこれからどんどん増えていくような気がする。この街でもここ数年で4,5つ出来た。この不景気で全く不謹慎だけれど、鼻息が荒い。 少し前に気付いたことなんだけれど、世の中は我々団塊の世代をターゲットにして商売をしている。例えば我々が学生だった頃は教育ブームとかで塾や大学などの教育関係に群がっていた。その後我々が適齢期になった頃、結婚式場が一大イベント産業に発展した。しかしいい時はそう続かない適齢期の人口も頭打ちとなってきたからだ。 しかし頭のいい人はもうすでにもっと先を見ていたということだ。団塊の世代も含めてその親が今度はそろそろ現世から引退するころだからねぇ。なかなかするどいと思わないか! この調子でいくなら今度は墓地のブームがくるよ、これ絶対だ。 更新時間 : 20:36:23
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8月25日
(日)
はる 484 今日は午後からご近所の葬儀の手伝い。何だかんだで明日も含めて二日の仕事。大事な夏休みの最後の二日がこれで終わってしまった。グスン。 都会に住んでいる人には田舎の葬儀のわずらわしさが理解できないだろう。いやこれでも随分と簡略化されたそうだけれどね。 戦前戦中の「隣組」ではないけれど、この地方には「組」というある種の自治組織がまだのこっていている。いい悪いは別にして町内のお祭りから有価物の収集、ゴミ場の清掃などなど、色んな事でこの自治組織が活動する。その「組」には「役」というのがあって何年かに一度は「組長」にはじまって一通りの役をこなさなくてはならない。まぁそれらは当然ここの住人であればやらなければならないことが多いのだけれど、またわずらわしい事でもあるのだなぁ・・。 冠婚葬祭もこの「組」を中心に行われる。簡略化されたとはいえ丸々二日仕事も休まなくてはならない。特に重要な仕事の場合不参加はやぶさかではないのだけれど、やや肩身の狭い思いをする事になる。まぁこれがあるとご近所の付き合いが当然増えるわけで、都会暮らしでは味わえない楽しさがなくはないけれどね。 ということで明日は、本葬で一日つぶれるのだ。それではまた、明日。 更新時間 : 21:13:21
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8月24日
(土)
はる 483 山梨に来てもう二十五年になる。ここに来た頃は見たこともない尖った山々や風景が珍しくよくスケッチに出掛けた。元来海辺に育った人間だったので反対に山に対して何かしら憧れのようなものを感じていた。 今でこそ小海線沿いの清里や野辺山は避暑地としてメジャーになったけれど、私が来た頃はまだまだ何も無い本当に美しい山の里だった。それがあっという間にとんでもない張りぼての、世界でも珍しい情けない姿になってしまった。これは誰の所為でもない、結局我々の中にそれを是とする何かがあるのだということだろう。 イタリアにいたとき、鉄道を使って乗り継いでいく楽しい旅をした。その際にユーローパスという切符があって便利だということを誰かから聞いた。日本でいえば「10日間北海道の旅・周遊券」みたいなものでヨーロッパの何カ国かの国を乗り継いで、それも全てグリーン車というリッチな割安クーポンであった。意外に空いていて車掌さんなんかの応対も丁寧だったので、すこぶる快適な旅ができた。しかし後で知ったことだけれど、それを利用するお客さんは日本人の他は、長い間勤めて年金生活になってやっと自由に旅ができるお年より夫婦が多いということだった。 私達は若い頃に美味しいものをたくさん手に入れる習慣を何時の間にか作ってきてしまった。お店も情報も何もかも「若い人」たちをターゲットにしてきた。確かに今自由にお金を使えるのは「若い人」たちかもしれない、しかしその結果何とも鑑賞に堪えないくだらない街を全国に作って来てしまったのだ。この後始末どうする? 更新時間 : 21:42:37
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8月23日
(金)
はる 482 何だかすっかり秋の気配。 中庭のニセアカシアも今年は元気がない ここに来てはらはらと黄金色の葉を落とし始めた。 まだ少しばかり気が早いヨ。 夜になって雨も降り出した。 また明日。 更新時間 : 20:54:11
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8月22日
(木)
はる 481 知り合いに付き合って病院に行く。九時半の予約で診察は十一時頃、で全て終わったのは十二時を越えていた。何のための予約なんだろう。 最近は自分のこと以外で病院に行く事が多い。まぁご多分にもれず周りが歳とってきたということも関係していると思うのだけれど、けっこう浮世とは違う世界を見るようで面白い。 そこで元気に活動する胸に病院ボランティアと書かれた名札を下げたおばさんを見かけた。こういった活動がもっとひろまれば世の中住みやすくなるのになぁと自分のことは棚に上げて思った。 慈善事業やまぁこういった年取って尚且つ余裕のある方のボランティア事業なんかは、どうも我々は「偽善事業」のようにとらえて、それならばやらない方がましかなぁ、なんて遠慮してしまう。これは根本の所には「嘘はいけないことだ。まだまだ自分のこと以上に人のことなど考えられないから、ボランティアなんてできないわ」ってことだとかってに考える。(今日病院の雑誌で「町田康」を読んだのでなんか文体が変だ) しかしまぁ自分のことより人のことを考える奴なんていないわけだし、そうなるのを待っていてもだぶん一生ならんだろう。もっと楽に考えて「損得」で始めてもいいと思うなぁ。 例えばさぁ、散歩に行くとするでしょ、ジュースの缶が落ちていたとする。「だれだこんなとこに、缶捨てやがって」と文句言うことは誰でもできる。で一歩進んでその缶を拾って帰る、これができるかどうかだと思うなぁ。さてどうするか? 更新時間 : 07:47:56
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8月21日
(水)
はる 480 今日の朝方はもう寒かった。気温の変わり目というのがやっぱりはっきりあるのだなぁ。まぁこのまますっかり秋になるとはおもえないのだけれど。 小品もかなり仕上がってきたけれど、これはこれで何処で手を置いたらいいのか難しいところだ。手元にあればどんどん手を加えてどうにもならなくなって潰してしまうことがよくある。一番いい状態でストップをかけるのがいいわけだけれど、それがなかなか出来ない。作品の良い悪いは前にも書いたけれど、その人のある意味度量で決まる。そこまでしか見えなかったということだ。 筒井康隆だっけ「末端にも本性がある」って格言をいったのは。これはなかなか言いえて妙だ。どんな物にもその人なりが出ますよ、ということだと思うのだけれど、絵なんか描いているとまさにそのことを実感して、とても恥ずかしい思いをする。 トップの晒した絵ももうすでに存在しないものもあるわけで、これは最初に書いたように途中経過をみせているわけだから悪しからず。まだもう少し新作があるので楽しみにしていてください。 今日新たに大きい作品のパネルを注文した。そろそろまた大作にかからねば。それではまた。 更新時間 : 07:47:21
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8月20日
(火)
はる 479 今日は台風一過の気持ちのいい一日だった。夕方、必要に迫られて川沿いをドライブする。金色に輝く雲は孫悟空のきんとん雲か!東の空にはうすぼんやりの上弦の月。今夜は薄い布団を出さなければねぇ。 それじゃ、また明日。 更新時間 : 22:51:08
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8月19日
(月)
はる 478 アーチィストはその作品なのか人物なのか?と何処かのサイトで問題になっていたことがあった。その作家の説だと「アーチィストはその人間が全てで作品は経過にすぎない。作品は作家の極一部であって大事なのはその作家の生き様そのものだ。」と言い切っていた。その説は多くの人が納得できる説得力があるのだけれど、でもやっぱりそれでも作品が全てではないだろうか。 現代美術に明るいわけではないけれど、この百年で絵画の意味は大きく変わった。印象主義が「革新的な絵画」であった頃はまだ絵画にとって平和な時代だったんだなぁ。その後の変化はもう途方も無いくらいに変わってしまった。「表現されたもの」よりも「それを考えたこと」のほうがアートだという時もあった。 今はまた少し揺り返しがきているのかなぁと思うのだけれど、けっして昔の「平和な時代」へは戻らないだろう。で問題は「アート」はその作品なのか人物なのかということにもどると、確かにアートを追求する姿勢なり考え方は限りなく求道的で、一見すると宗教者のそれと勘違いするのだけれど、あくまでも芸術家は「俗」な人間でけっして「聖」なる者には至らない。それが芸術家の宿命だと思う。 何だか話がピーマンになってきた。続きは又今度だな。そんじゃ 更新時間 : 22:12:08
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8月18日
(日)
はる 477 パソコンの周辺の機械を買いに、まぁよくテレビなんかで宣伝している量販店にでかける。 しかし前にも書いたことがあるけれど、こういったお店はだいたい何を商っているのか良く分からない。そこに居る店員さんはただの店番の丁稚であって、電卓もっていくらになるか、どれだけ他の店より安いか、そんなことだけを競っている、ただの店番さんに過ぎない。例えそれが芋を売っていても帽子を売っていてもその人にはまったく感心が無く、少しばかりパソコンの知識があるに過ぎない感じがする。 「仕事」というのはそんなもんでいいのかなぁ、彼らは何が面白くてそんな仕事を選んだのだろうか?一年やっても十年やってもなんら変わらない、そんな「仕事」って面白いのだろうか。最初はまぁ一生懸命やるだろう、成績がのびて面白いかもしれない、そのうちにただいかに手を抜くかそのことに自分の能力を使うようになってくる。そうなったらもう仕事は単に苦痛でしかない。 難しい。「仕事」に関してはよく考えた。結局人間にとっての仕事は農業を含めて「職人仕事」に行き着くのじゃないかなぁ。どうだろうか。 それではまた。 更新時間 : 22:54:37
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8月17日
(土)
はる 476 夏休みももう今頃になれば終わったみたいなものだ。何となく寂しさだけが残る。それにしても今年の夏は暑かったなぁ、久し振りに夏らしい夏を感じた。今はもう午後の十時近くなのにまだむしむしと暑い。 アトリエの窓から半月のおぼろ月が見える。こうやってパソにむかって一日が終わるのも恒例になった。 長い間大学ノートに万年筆で製作日誌なるものをつけていた。誰に見せるものでもないのだけれど、ほぼ毎日の習慣になっていた。何事かを考える事は楽しい時間だということをそのことで知ったし、自分とは何なのかを問い掛けるいいきっかけでもあった。それもこの「ぼやき」を書くようになってから書かなくなってしまったけれどね。しかしこれは明らかに違うものだなぁ。 今日も一日終わってしまった。また明日。 神戸の小品展は明日までです。お近くの人は是非行って下さい。それでは。 更新時間 : 21:59:11
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8月16日
(金)
はる 475 世の中はお盆休みの真っ最中らしい。というわけで午前中墓参り。カンカン照りの境内でした。 というわけで今日はお終いです。また明日。 更新時間 : 20:35:55
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8月15日
(木)
はる 474 高校生の頃何かテーマを決めて討論するというのが流行った。ちょうど学生運動が盛んな頃で教師たちも今まで通りの授業じゃだめなのじゃないか、なんて自信をなくし始めていた頃だったので、うまく時代にあったのかもしれない。我々は単純にそんなことで授業がつぶれのが嬉しかっただけなのだがね。 「明日死ぬとしたら何をするか?」なんて突拍子もない思いつきだけのテーマを決めて好き勝手に言いたい事をいっていた気がする。しかし秀才の前田君だけは違って「僕は明日死ぬとしても、今日と同じ勉強します。でなければ今やっている事は全て無駄ということになるので・・」と言い切った。その時は「へぇー変わったやっちゃ、あいつは」と思っていたけれど、今でもはっきり憶えていることを考えると、その「ことば」に結構ショックを受けたんだと思う。 昨日の「メメント・モリ」とつながるかもしれないけれど、西洋的な考え方だと「生」の反対が「死」となる。だけども東洋的な考え方は「生」と共に「死」が有るとする。この一瞬にも生と死があるわけで、生の終わりが死ではないということだ。そう考えると前田君の言った事はまさしく正論で、ぼんくらは今頃になって理解できたというわけだ。 「この一瞬が永遠だ」ということだ。 更新時間 : 20:36:22
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8月14日
(水)
はる 473 この間駒ヶ根高原美術館に行った時、そこの企画展示に藤原新也の「メメント・モリ」の展示があった。彼の作品もそうだけれどその文章が上手くて人のこころをうつ。「メメント・モリ」とは「死をわすれるな」という教訓だけれど何とまぁ多くのことがこの簡単な言葉の中に隠れていることか。 「病・老・死」人が忌み嫌うこれらのことも反対に言えば誰もが避けて通れない絶対の真実だとすれば、ここは一つ真剣に考えてみるのも長い人生の暇つぶしにはなるだろう。 さて明日は私事で一日つぶれます。そのため今日はもう寝ます。おやすみなさい。 更新時間 : 22:10:56
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8月13日
(火)
はる 472 窪塚洋介の「ピンポン」を観てきた。これは原作の漫画もよんでいるのでストーリーはそう楽しいものではなかったけれど、不思議と魅力のある作品だった。それをどう映像化するかとても楽しみにしていた。漫画の方はもう一つ前の「テッコンキンクリート」(間違っているかもしれん)の方が斬新で、大阪のどぶ臭いコテコテの感じが良く出ていたけれど。 さて、「ピンポン」だけれど、軽くきれいな友情ものに仕上げてあって、それに窪塚のキャラクターが主人公のふざけた感じとぴたりとあってなかなか楽しめた。窪塚は個人的にはそう好きな俳優ではないけれど、いい役者というのは若いときけっこうダイコンが多いということを考慮すれば、個性的な役者に成長するかもしれない。乗っているということもあるけれど、一番大切なカリスマ性があるものなぁ。萩原健一・ショーケンなんかも若いときは大きなダイコンだったけれど、今はご存知のような役者になった。 という訳で今日はお終い。 更新時間 : 23:16:52
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8月12日
(月)
はる 471 髪の毛が長くなって襟首にまとわりついてヤナ感じだ。なんとか美容院に行くのを渋っているのだが、そろそろ限界かもしれない。何が嫌なのか知らないけれど、子供の頃から散髪が嫌いだった。三十分なり一時間なり拘束されるのが嫌なのかもしれない。行ったら行ったでけっこうリラックしてしまうのだが、これはお風呂とかに少しにているのかな。 仕方ないので今は夏休み中で学校に行く用もないので、頭のてっぺんと後頭部を二段階で縛っている。家人によればこうやっていると髪が抜けてはげが進むといわれてけっこう恐怖なんだけれど・・。まぁ仕方ない、明日行くかな。 四月頃落ち込んでいたのは、新学期が始まったということもあったのだけれど、もう一つは事故を起こしてしまったということだ。生まれて初めて実際に車とぶつかった。其の時の事は鮮明にスローモーションのように憶えているけれど、「あぁこうやって事故っておきるんだ」と妙に覚めてみていた。実際は警察に連絡したり保険屋さんに連絡したりであたふた、どぎまぎとしていたのだけれど、そばで見ていると落ち着いて見えたかもしれない。実際はパニクッテイタ。幸いお互いに身体の方は何ともなかったのでよかったけれど、何しろ初めてなもので精神的なショックは二日くらい続いた。やっと今頃になってここに書けるくらいになったということだ。それからというものトラウマで車の運転がますます嫌いになった。あぁおそろしや。みなさん注意しましょう。 更新時間 : 21:54:50
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8月11日
(日)
はる 470 昨日車の中から雲を見ていたら飛び魚がとんでいた。区切られた窓から見た空は、ちょうど水族館の魚の様に見えた。この遊びは私の絵の作り方と似ている。誰でもができる空想のデッサンだ。これで遊ぶ事ができるかどうか、長い人生の時間つぶしの大事な要素だ。 空想は誰でもできると思ってる、実はなかなかそうじゃないのだ。実際にやったことがないことは空想でも限界がある。なんでも好きなように描いてもいいのだよ、と言われてもそうそう描ける物じゃない。自分の中にあるものしかやっぱり出てこないのだ。反対に言えば、描かれているものを見てその作者の持っているものや、潜在意識がわかるかもしれない。 もう眠いので寝ます。また明日。 更新時間 : 23:09:57
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8月10日
(土)
はる 469 どうも久し振りです。実は昨日の夜復活したというメールをもらった。喜んで、まずお祝いの一文を書いて送信。これが何かのトラブルでアップ出来ず。またしてもおあずけを食った形になりガックリ、とりあえず昔の「ぼやき」のバックアップのみ急いで取る。 今日は前から行こうと思っていた長野の「駒ヶ根高原美術館」に行く。車の運転を好まない私にとって、車で一時間はかなり遠いところということになる。覚悟が必要だ。 朝からいつものように好天、快晴。車の中は地獄のような暑さ。つい最近まで私の車にはクーラーがなかったのだが、すこし出世して今は冷房がききます、快適、快適。街中でときどき窓を全開したクラシックカーをみかけるけれど、「やせ我慢は一種のダンディズム」だと思う。私の場合単に経済的な理由でもあったのだが・・。 さて駒ヶ根美術館で国画会の大先輩で国画に出品し始めてから何かとお世話になった女流作家の「山寺重子」さんが「こんなにも自由な・・・表現」と題して個展を開催されています。もし機会がありましたら出掛けてください。 中央高速の駒ヶ根インター出てすぐです。 * 山寺重子展「こんなにも自由な・・・表現」 2002 6/29〜8/20 駒ヶ根高原美術館 長野県駒ヶ根市管の台光前寺前 0265-86-5100 http://www.avis.ne.jp/~kkam/ 更新時間 : 20:49:29
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8月5日
(月)
はる 468 東京の公募展に出品しているからなのか、いろんな所から展覧会のDMが郵送されてくる。それはそれでなかなか楽しみの一つなのだが、最近感じる事はどうも「これは!」と思う絵が少なくなってきている事だ。自分の目が肥えたとか、作品の質が下がったとかの問題ではなく、明らかに作者のピントがずれているのだ。 絵を描く人はどうも自分の技術に酔ってしまう傾向があるようだ。今、世の中で何が流行っていて何が必要とされているのか?などという世俗的なことにはまるで関心が無い、またはそういったことに疎い事を「げいじゅつか」だと勘違いしているふしがある。山奥で人間社会とまったく切り離された生活をしているならいざしらず、現代のこういった情報社会でそりゃないだろと思うのだ。それに「アーチィストは同時代の表現者」であるわけだから、自分だけ孤高で済ませる神経がもう古い。それからコンピュータの時代でありながら尚且つ一点一点てがきするその意味をよく考える必要があると思う。 すべて自分自身に言ってる事なので悪しからず。 更新時間 : 21:17:08
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8月4日
(日)
はる 467 大学の後輩に付き合ってギャラリーを三つばかりはしごする。彼は卒業後世界中を旅してまわり、その後青年海外協力隊で三年ばかり中南米に行き、現地で焼き物のかまを作り、何も無い所から焼き物の指導をして来たつわものだ。彼がこれからどういった方向に進んでいくのか見守りたい。 夏の風物詩、花火の音が遠くで聞こえる。 更新時間 : 21:06:29
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8月3日
(土)
はる 466 ルオーの絵がいいなぁ。画集を引っ張り出してながめている。今ここで人の絵を観ると真似してしまうので良くないのだけれど。 絵を描く場合注意しなければならない事は、気に入った画集や絵の写真をそばに置いておかない事だ。目の端にはいると自然にどこか影響される。これはほんとに不思議だけれどね。それから自分の大きな作品なんかも裏向けておいて置いた方がいい。バックの色にそれが入るとどうしてもそれに合わせて色を置いてしまっていることがる。 まぁ私のアトリエなんか、何でもありの混沌だからかえっていいのかもしれないけれど。どうもすっきりした絵が描けないのはそういった住宅事情によるのかもしれんなぁ。 今日は疲れたのでここまで、また。明日 更新時間 : 22:22:39
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8月2日
(金)
はる 465 さて今日はまた雷が遠くで鳴ってました。この間の雷はすごかった。つい鼻先で落ちたかと思うほど大きな音がして、これは経験したことがない人にはちょっと理解できないかもしれないけれど、これほど大きな音ってあるのか!という音だった。 甲府に来て驚いたことの一つに、このほぼ毎日のように繰り返される夕立と、冬の嵐のような空っ風かな。とくに夕立は印象てきだなぁ。今までかんかんに晴れていたかと思うと、何処からともなく黒い雲が瞬く間に空をおおって、突然風も強くなって天が裂けたとおもうくらいの雨がどさっと落ちる。まさに落ちる。横殴りに落ちるのだ。地元の関西ではこんなのは体験しなかったなぁ。で約30分でまるでうそのように何事もなかったかのように晴れるのだ。これは嘘つき詐欺しの典型だ。 イタリアのウンブリアは甲府に地理的に似ている。ちょうど中央高速で山に向う感じとか、ローマからウンブリアにむかう車窓の景色もそっくりだ。違うのは車線が反対だという事だけだな。ところで似ているのはそこだけではなく、なんとこの夕立の感じがそっくりだった。面白いのはこういった特徴的な気候はぶどうの生産に適しているということだった。それじゃまた。 更新時間 : 22:30:01
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8月1日
(木)
はる 464 八月です。 暑いですね、ではまた後ほど。 「あるかないか」を問われて、「ある」と言い切ってしまった人は楽だよなぁと思う、何でもそのせいにできるから。「いまここにある」ということを証明することはこれほど難しいものはない。古今東西の哲学者や思想家がうんうんうなって考えてもこの証明はできなかった。ところが宗教家だけがいとも簡単に「かみはいる」といってしまった。これは理屈ではなくとにかく最初に「かみはいる」と言い切ってしまう。これは本当に楽だと思う。 論理的というのはこういうことだ。「正しいか間違っているか」「0or1」「あるかないか」の二者択一の方法論だ。西欧の文明は大体においてこの分別の方法で分解してさらに再組み立てる方法で成り立ってきた。科学の発達はこの考え方の正しさを証明してコンピュータの登場で飛躍的に広まった。 立花隆が何かの本で書いていたけれど、何にも無い砂漠の地で夜満天の星空のもと野宿していると「あぁ絶対の神は存在するかもしれない」と言う気になったと書いていた。一木一草存在しない地で生きていると感じられる物が自分しかいないとき案外人はただ一人の神を創造するような気がする。 しかしこの絶対神の創造が後に色々なわざわいを生むことになる。論理的に言ってただ一つしか信じることを許さないからだ。ここに来てこの西欧型の考え方に行き詰まりが見えてきた。 東洋の湿潤な環境のもとでは生物はあらゆる所に芽吹き繁殖する。ほっておけば草ぼうぼうになるこのモンスーンの気候には色んな神様が存在した。大きな木にも大きな岩にも極ちいさな物にさえ神はあった。ここの世界では「あれもありこれもあり」の八百万の正しいものがいる、ごちゃ混ぜの混沌がわれわれアジア人の思想の元だと思う。 現代の我々が信じるにたる新しい思想なり宗教なりが欲しいと思う。 更新時間 : 21:52:02
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