絵描きのぼやき

2002年6月

6月30日 (日)

はる 434
 地方新聞の企画で今日から展覧会が始まる。そのため一日お手伝いで美術館に缶詰。どうもこの企画で描いた絵が気に入らないので早く終わらないかとイライラしている。毎回こうやって本になって残る絵にろくな絵が描けないでいる。もっとましな絵もあるとおもうのだけれど。今回は失敗した。

 今からワールドカップの決勝戦だ。それでは後ほど。

更新時間 : 19:53:51

6月29日 (土)

はる 433
 ヨーゼフ・ボイス(抄訳) えかきのきさんの掲示板より抜粋

『創造』はアーティストの独占販売品ではない。わたしが切実に訴えかけてきたのはまさにこのことであり、またそれこそがわたしのアートの中核をなしている。

すべてのひとがアーティストだ。だれもかれもがそれぞれの分野で、絵画や音楽やエンジニアリングや看護や経済や、なんでもいいじゃないか・・それぞれの人生を表現することができる。生きているということの叫び声は表現されなくてはならない。

ところがわたしたちの社会においては、あたかもそれが『アート』として表現されなければならないかのようにとりちがえている。美術館をはじめとする文化的機関の大きなまちがいが、まさにそこにある。文化や教育、そしてメディアまでもが、『アート』という巨大な『象牙の塔』を築きあげている。そしてそれはあらゆるもののアーティスティックな質を低下させ、美術館などを日常生活から浮き上がった感動のないものにしている。

 えかきのきHP・http://www.ekakinoki.com/?
 bbsがとても面白い、かってに紹介しました。

更新時間 : 10:53:49

6月28日 (金)

はる 432
 このところの話を整理してみたい。結局堂々めぐりで一番言いたい事がまだ言えていない気がする。
 結論からいえばなんだろうか?人は好むと好まざるに関わらず自らの母国語の「音」や「リズム」を元にした「音楽」をもっているのだろう。一番自然なかたちで無意識にでてくる「歌」はそういった歌に違いない。それ故に極端な話をすれば後に習ったり、学んだりした音楽では自らの本当の「歌」を唄う事はできないのではないか?ということだ。
 で絵の話しに戻って、絵なんかの場合この「母国語の音楽」に相当するものってなんだろうか?このところずっと考えていて上手いアイデアが浮かばない。一つはその生まれた環境や風俗習慣みたいなものかなぁと思うのだけれど、それを民族の文化というのかな。よく分からない、うまいアイデアはないものか?
 

更新時間 : 19:33:14

6月27日 (木)

はる 431
 さぁ自由に描いていいですよ、と言われてすいすい描ける人はまれじゃないかなぁ。それは何でも即興で唄ってくださいみたいなもので、まず唄えるひとはいないだろう。
 子供がその国の言語をしゃべれるようになる段階を観察していると、「あいうえお」から覚えていくわけではない。何となくそれらしい音をまねして発しているうちに次第に意味ある言葉を習得していくという感じだ。昔タモリが四カ国マージャン実況放送なんて芸をやっていたけれど、意味は通じないけれどそれらしい音をまねしていくというのは言語の習得方法として定石らしい。
 そうやって考えてみると、我々の中にはある程度日本語の音というのかリズムというのかそういった「ある種の音楽」が植え込まれているわけで、例えば韓国の大衆音楽を聴いてなんとなく日本の演歌ににているなぁ、俺でも唄えるなぁと思うのは、俺たちの中に潜在的に似た歌があるからだと思う。
 さて昨日の続きみたいになってしまったけれど、最近西欧の有名なコンクールで日本やアジアの若い演奏家が上位の賞を取ることが多い。そのことはもちろん賞賛されるべきことだとはおもうのだけれど、もともと土壌が違う我々がそこからどうやって自分の歌を唄って行くのか、ここから先を、おじさんはうんと聴いてみたいのだ。

更新時間 : 14:09:49

6月26日 (水)

はる 430
 この間車のなかでラジオを聴いていたら、ドイツ歌曲の伴奏をしている人のインタビューが聞こえてきた。聞くとはなくきいていたのだけれど、なかなか興味深かった。
 人の伴奏をしていて何が面白いですか?と言うような質問だった。それに答えて、ドイツに留学したての頃は譜面に忠実に伴奏することがそれなりに面白かった。それでもやがてどうしても超えられない何かがあることに気付く。それは民族的なものというだけではない、何かなんだ。そのうちにドイツ語がだんだんに理解できるようになってあることに気付いた。歌曲に限らず音楽というものは全てその国の言葉で唄ってるいるのではないかということ。ベートーベンなどの大上段にかまえた交響曲なんかでも、本当はその国の言葉が分からなければ理解できないのではないか、またその事に気付いて、音楽が俄然面白くなった。というようなことを言っていた。
 そのことが正しいのかどうかよくは分からないのだけれど、例えばジャズのアドリブなんかでも、口でハミングできないものは楽器でも出来ないのだと聞いた。反対に即興で唄えるものは譜面など読めなくても演奏できるということだ。(ジャズの巨人の中には譜面の読めない演奏家もたくさんいる)自分の中に「歌」があれば唄えるということだ。
 何事に限らず我々は西欧の文化を「よく学んで」来た。でもジャズのいいフレーズをどれだけおぼえてもそれは「うまいね」で終わってしまうと思う。私たちは自分の中にある本当の「歌」を唄わない限り本物にはなれないだろう。

 さてどんな「歌」を唄おうか。

更新時間 : 16:31:27

6月25日 (火)

はる 429
 中田選手がすごいと思ったのは、一年くらいたったときにもうイタリア語をしゃべっていたことだ。日常会話の暑いや寒いといったあいさつではなく、テレビの簡単なインタビューに通訳もなく答えていた。これは簡単なようでなかなかできないことだ。サッカー選手としてだけ活動していてはこうはいかないだろう。しっかりとどこかで勉強していたのだと思う。また、でなければイタリアではやってはいけないだろう、なぜなら彼らにとってしゃべれない人間は(観光客を別にして)いないと同然だからだ。
 欧州の人に限ったことでないのかもしれないが、彼らの言語能力はかなり高い。何がといわれるとちょっと答えにこまるのだけれど、やはりEU諸国の言語はそれなりに近い言語だということから来ているのかもしれない。我々漢字文化の人間が欧州言語を一から学習するのとではかなり違う気がする。それともっとも大きな違いはその環境だろう。彼らは隣り合う国と境界線一つで共にして暮らしてきたということだ。会話すること、他人と意見を分かち合うこと、コミニケーションすることがとにかく一番大切なことだと肝に銘じられている。このことの意味は大きい。
 ことここに及んで我々に一番欠けていることは、自分のことを人に伝えるという「表現」の能力だと思う。この間教育の原点は、「読み,書き、そろばん」なんて話をしたけれど、これからは「読み、書き、話す」かもしれないね。
 それではまた明日。

更新時間 : 19:41:40

6月24日 (月)

はる 428
 心理学ではどうなんだろう、色に関して調べてみた事はあったきがするけれど、もう忘れてしまった。それほど意識していないといった方が自然かもしれないね。しかし長いスタンスで見ればけっこうある傾向があることが分かる。色の感覚というのは(好みといってもいいか)は生まれてから死ぬまであまり変化がないそうだ、洗練されるということはあるのだろうけれどね。
 しかし我々のような仕事をしていると、意識してある色を使うということがあるので、たとえば色判断とか色占いみたいなものはあまり当てにならないと思う。
 聞きかじりなので間違っているかもしれないけれど、東洋にはこんな色彩の法則があるようだ。前に書いたことがあるきがするのだけれど、方角に四つの方角神がいる。それぞれに空想の動物を含めて東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武(亀に蛇だそうだ)これを四神というのだそうだけれど、そういえばこの間発掘された(キトラ古墳?)の壁にもこの四つの神獣が描かれていて話題になった、おぼえてる?でこの青、朱、白、玄(黒にちかい)を古代の代表的な色とするそうだ。余談だけれどこの色は四季にも関係していて、そう青春、朱夏、白秋、玄冬となる。なるほど、なるほど。
 で私はある時からこの四つの色に黄色を加えておもに描く事にしている。それがどうしたといわれてしまえばそれまでだけれど、西洋の科学的な色彩学だけが正しいのではなく、東洋にはこの地域独特の考え方があるのだということを言いたかった。
 それではまた。

更新時間 : 21:15:03

6月23日 (日)

はる 427
 久し振りに面白い映画を観た。まぁ面白いといっても予定調和でそう期待に反してという面白さではなかったけれど。
 「ショーシャンクの空」だっけ、それと同じ監督の作品ということで、結構期待して出掛けた。
 「マジェステック」何だろうアメリカの大義名分「自由と独立」そんなものがチラチラ見え隠れした典型的な恋愛映画だろうか。でも充分楽しめたので星三つ。
 それではまた明日。

更新時間 : 23:54:53

6月22日 (土)

はる 426
 インターネットで知り合いになった作家さんが一人は京都でもう一人は沖縄で個展を開催しています。ぜんぜん関係のない面識もない作家どうしがこうやって知り合っていくのはインターネットならではのことで面白い。
 もしご覧になれる機会がありましたら是非ご覧になってください。
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         〜虚と実の狭間で〜   


          今尾栄仁 個展


2002年  6月18日(火)〜 23日(日)
      12:00〜19:00(最終日〜17:00)


ギャラリーヒルゲート 京都市寺町三条上がる西側
              (075)252-1161.231-3702
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     ■ わたし 夢みる あなた ようこそ 展

       2002.6.25(Tue)〜6.30(Sun)

 一番自由なものを探したら「夢」だった。

「ああしなきゃいけない」とか「こうじゃなきゃいけない」のない

さわだやまもとワールドへどうぞお越しください。

尚初日はpm7:00より、会場にてアーテイストトークがあります。


         sawada yamamoto 個展

 前島アートセンター
 那覇市前島3-16-2
 098-862-0244



 
 

更新時間 : 22:47:30

6月21日 (金)

はる 425
 野球が日本に入ってきてからどのくらいになるのだろうか。詳しくはもちろん知らないけれど、まぁ高校野球が戦前からあったことを考えると七、八十年経ってるだろうね。で最近になってやっと大リーグで活躍できる野茂とかイチローなんかが出てきた。それまでは全く日本の野球はアメリカのベースボールに歯が立たなかった。そういったことを考えるとサッカーはまだまだ日本では途上のスポーツかもしれないね。
 イチロー選手なんかを見ていると今までの大リーグの選手のイメージとは程遠くて、とてもこれほど大リーグで活躍できる選手とは見えない。むろん日本でのそれまでの活躍を考慮すればそこそこやれるだろうとはおもっていたけれどね。彼の成功は「日本の野球」もやり方によっては世界で通用するということを示した。それにしても五十年以上の時間が必要だったということだ。
 今日の新聞に日本と韓国の監督の話がでていた。自国の監督ではなぜ戦えなかったのか、何が違うのかということだ。彼らがまずやったことは、もう我々の中にはないと思っていた「儒教精神」を取り除くことだというようなことが書かれていた。具体的にいうならば「個の主張」ということだろうか。「失敗を恐れる」この傾向は「個よりも全体」を重んじる東洋独特の「儒教精神」だというようなことが書かれていた。
 しかし私はそのことが全く悪い事だとは思わない。イチロー選手を持ち出すまでもなく、我々日本人にあったサッカーがそのうちに確立されるのではないかと思っている。それにはやっぱり時間がかかるだろうなぁ。
 今日はここまで。
 

更新時間 : 22:48:37

6月20日 (木)

はる 424
 きょうはあさからあめ。
 しごともやすみで
 いちにちいえにいた。
 
 
 
 

更新時間 : 23:20:40

6月19日 (水)

はる 423
 子供の頃、部屋の明かりは裸電球だった。寝る前になると親子電球の小さい方になってやがては真っ暗な闇になるのが普通だった。あのころはあのほの暗いような電球のあかりが嫌いだった。どうもあの明かりのために夜の雰囲気が暗くなる気がした。今より月を見たり星を見たりする機会も多かった気がする。特に月は青白く美しい光を放っていた。
 網戸なんかなかったけれど、縁側の窓は開け放たれていた。風呂から上がってスイカを食ったり、「渡辺の粉ジュース」を飲んだりした。蚊も今以上にいたんだろうけれど、どうしてたのかあまり記憶にない。扇風機などしゃれた物はもっと後になって普及してきたもので、当時はウチワで扇ぐらいだった。しまって置いた蚊帳のかび臭いにおい。日本の夏の懐かしい風物詩。こんなのもなくなってしまった。
 いつの頃からか部屋の明かりが蛍光灯に取って代わって、世の中から闇が消えた。闇はなくなったのではなく、人々の心の奥底に隠されて見えなくなっただけではないのかな。

更新時間 : 20:00:45

6月18日 (火)

はる 422 
 どうも残念でした。こんな事言えば怒られるかもしれませんがね、私のような素人が見ても、やっぱり実力的には相手の方が上だった気がする。そうじゃないと言う人もいるとはおもうのだけれど。
 戦い方を熟知しているというのか、サッカーがどんなゲームなのかをよく心得ている人たちだと思った。敵陣に乗り込んで、まったく知らないような気候のもとで、周りすべてが敵の応援団のスタジアムでそれでも勝つというのは並大抵のことではないでしょう。
 確かに日本のサッカーは強くなったと思う。昔はパスさえまともに通らなかったからねぇ。見ていてイライラしたものだ。それがホームとはいえ対等に戦えるようになったのだから。正直いってここまで戦えると思っていなかったから、充分に彼らはたたえられるべきでしょう。
 ある意味これからだと思う。先はながいのだし目標は遠いほど楽しいものだから。次回の楽しみにとっておこうよ。それではまた。

更新時間 : 17:57:24

6月17日 (月)

はる 421
 美しいグリーンの芝生の上を、合計22人の若者が走り回っている。いつしか広大な草原の上を一匹の獲物追う姿と重なる。凄腕のヒットマンが一発秘中のシュートで獲物をしとめる。ワッと大きな歓声が沸き起こる。これで今日一日の仕事が徒労に終わらずにすむのかと安堵する。
 この間誰かが言っていたことを思い出した。どうしても我々のサッカーは「よく勉強したサッカーだ」と言っていたことだ。例えばサッカーの強いブラジルとかイタリアのサッカーを見ていると、これは狩人というのか狩猟民族のゲームだという気がする。我々は基本的に農耕民族で集団で作業する事には手馴れているのだけれど、個人的な狩りには向いていない。それは遺伝子レベルで我々のDNAに組み込まれていて、個人ではどうしょうもない。
 個人的な身体能力の差といのももちろんあるのだけれど、我々モンスーン気候に住む民族は基本的に「個の主張」を是としない風潮がある。「和をもって貴しとなす」これなんだよなぁ。やさしさが基本にあるもの、非情になれない。
 しかし、もし「日本のサッカー」というものが出来たならば、これは全く新しいゲームとしてのサッカーの始まりじゃないのかなぁ。
 それではまた明日。


更新時間 : 21:03:47

6月16日 (日)

はる 420
 今日は一日裸婦のクロッキーにいそしむ。普段ほとんど物を観て描くという事がなくなってしまったので、こういった機会は実に楽しい。
 何と言うのか息を止めてモデルさんの体の動きを一発で決めるつもりで一本の線で描ききる。もちろん上手くいく場合もあればまるでお多福になることもある。身体は本当に美しいバランスで成り立っている。一方の輪郭線は必ずもう一方の輪郭線と呼応し、片方が上がればもう一方は下がる。部分は全体の中にあり、全体は部分のなかにあるこれが分かればクロッキーは卒業、もう何でも描く事ができるのだ。
 物が描けるということと、表現するということの間には大きな違いがある。表現するには物がそっくりそのまま描ける必要はない。例えば「羊」を描きたいと思ったとする。そっくりそのままの羊が必要なら写真でも使えばいい、本当に必要なのは「貴方がイメージしている羊」なのだ。自分の中にある「羊」が描ければそれが表現ということになるのではないか。
 このことに気付いたのが遅かったな。


更新時間 : 23:02:37

6月15日 (土)

はる 419
 大学の後輩が個展をやっているというので出掛ける。一度私の個展に来てくれたことがあってここの画廊を紹介した。大学時代はもちろん歳も離れているので卒業してからも面識はなかった。
 私が卒業した大学はこの地方の教員養成大学で、美術の専門の大学ではない。それ故に卒業してからもっぱら教員になる人が多く、ほとんどの人が描く事をやめてしまう。専門の美大を出てもほとんどの人が続けられない仕事だから、当然といえば当然の成り行きかもしれない。だからこうやって続けて何らかの発表をしている後輩を見ると応援したくなる。がんばれ。

 その後絵を描いている仲間が、田舎のボロ屋を手に入れて自分のギャラリーをオープンしたというので見に行く。終末を利用してほとんど自分で改装したらしい。私がやりたいと思ってたことを一足先に実行してしまった。とても尋常な気持ちでは見る事ができなかった。うらやましい。
 別荘というとお金持ちのお遊びという感覚がまだあるけれど、そうじゃなくて例えば週末帰農とか、趣味の延長としての山荘つくるというのか持つことは贅沢じゃないと思うのだけどなぁ。これからはこういった「楽しい遊び」をする人が増えてくると思う。
 それではまた明日。

更新時間 : 21:59:09

6月14日 (金)

はる 418 G
 ワールドカップ・一次予選突破おめでとうございます。といっても全くのにわかサッカーファンなんだけれど、やっぱりここんところ、日本が世界中からバカにされることが多かっただけに、愛国心が鼓舞されて浮かれてしまう。みんな待ってたんだなぁ、手放しで喜べることをね。
 ところでこの日本代表のメンバーのインタビューなんか観ていても実に堂々としていて、とても二十歳そこそことは思えない。色んなところで「地位は人をつくる」なんていうけれど、こういった選び抜かれた選手なんかもやっぱり人間的にも完成しているなぁ、とおじさんは感心してしまう。中田英寿なんかある種神々しささえ感じてしまうものね。
 彼はこの町の出身で高校時代から注目されていた。詳しくは知らないのだけれど、スーパースターは運や機会も自分の味方にしていくというのが良く分かる。たとえばJリーグが開催されなければサッカーはこれほど盛んにならなかっただろうし、いまここでワールドカップが開催されることもなかったはずだ。そんなことを考え合わせると中田英寿は生まれるべくして生まれてきたわけで、ある種の天才スーパースターはそうやって生まれてくるのであろう。
 後は同じ開催国の韓国がリーグ突破してくる事を応援しましょう。

更新時間 : 23:11:14

6月13日 (木)

はる 417
 なんとなく憂鬱だ。

 今更こんな事も知らなかったのかと笑わないで聞いてほしい。たとえばこの「憂鬱」って言葉、こうやってパソコンやワープロで文章を打つまで「ゆうつ」だと思っていた。普通日常生活でしゃべっている場合、たぶんそれで済んでいたんだと思う。こんなことがけっこうあるなぁ。もう一つあげると、「・・通り」ってあるじゃない、これって常識なんだろうけれどあえて恥をしのんで言えば「とうり」だとずっと思っていた。「とうり」と打っても「通り」がでてこないのでおかしいなぁと思っていたら、間違っていたという訳だ。
 漢字なんかでもけっこう間違って読んでいる場合がある。この歳になるとこれは致命傷になる。バカがばれる。普段けっこう理屈屋で一人前のことしゃべっているのに、こんなところで足元がすくわれる。今更聞けないってこともあるから余計に辛いもんがあるなぁ。
 字がきれいな事、と合わせてこれは是非とも子供の内に訓練しておくべきことだ。「読み、書き、そろばん」これは教育の原点でしょう。
 

更新時間 : 18:17:52

6月12日 (水)

はる 416
 「和春」という名前はけっこう珍しくて,ほかでめったに出会うことがない。時々ペンネームですか?と聞かれるけれどれっきとした本名だ。
 名前というのはおかしなもので、一番身近でほぼ一生ついてまわるけれど、自分では選ぶことができないものの一つだ。「名は体を現す」なんていうけれど、考えてみれば名前の方が先にあったわけで、どうも眉唾もんだなぁ。けれど私に関しては意外に当たってるところもある。「平和な春」だって。
 ところで最近同じ名前の「和春さん」からメールをもらった。ヤフーで検索したら私が引っかかったというわけだ。そういえば随分と前になるけれど、一度大阪の「和春さん」からメールを貰ったことがあった。こういってはなんだけど、少ない珍しい名前だから、何だか結構気になってしまうというのはよく分かる。

 全国の「和春さん」お互いに自分の居場所でがんばってください。

更新時間 : 17:35:39

6月11日 (火)

はる 415 Mk
 村上隆とか奈良良智さんの絵がオークション会社のクリスティーズのオークションで落札されたと今日の新聞にでていた。その横の文化面には、今年度の手塚賞を貰った人のインタビューがのっていた。この間のドイツの映画際だったっけ「千と千尋の神隠し」が大賞をとったのは、日本のアニメというのか漫画は世界で認められてきたんだなぁとうらやましく思った。
 奈良さんなんかの絵が、いわゆる漫画だとは思わないのだけれど、世界で認められたのにはそれなりに理由があるのだろう。彼らの絵はいっこうに「いい」とは思わないのだけれど、彼らのインタビューなんかを雑誌で読んだりすると、今の美術教育のもっとも抜けているところや、足らないところをうまく表現していて、共感するところ多かった。
 しかしそのことと作品の良し悪しは関係がないわけで、理解できない私がもう古いのかもしれないなぁ。悲しいね。

更新時間 : 17:55:23

6月10日 (月)

はる 414
 兄貴が昔こんな事をいっていた。「保険ちゅうのはテイのいいネズミ講といっしょや、みんながそれに気付いて止めたらつぶれるでぇ」と言っていた。今さかんに「・・保険」が誰でも入れます。審査はありません。なんてやっているけれど、そんなうまい話があるわけない。結局なんだかんだいって騙されている気がする。
 バブルの前、保険やさんも銀行やさんも国保やさんも調子がよくて、良く考えもせず上手い話に乗ってしまった。「月々幾ばくかのお金を積み立てていけば、貯金するより効率よく更にいざという時の保障までついてお得だよ」なんて話に大方の人が乗ってしまった。確かに景気が良くて右上がりの成長をしている限りその幻想は幻じゃなかったのだけれど、「そんなのウソダ」と誰かが気付いてしまえば、後は「裸の王様」みたいなものだ。高い授業料を払って日本全体が勉強したようなもんだ。
 

更新時間 : 21:01:04

6月9日 (日)

はる 413
 そう、この間のグループ展の時、何回かお会いしたことがあるのだけれど、挨拶する程度で名前も存じてない「先生」がきてくれた。その日は平日ということもあってほとんど入場者もなく、ガラスキの状態だった。「先生」の専門は書で長いこと高校で教鞭をとっておられ、何年か前に退職されて、今は悠悠自適で毎日筆をとっておられるということだった。
 色々なお話をうかがったのだけれど、その中で一番印象に残ったのは、「歳を取るということは経験が増えるということで、その教養が軽んじられる社会は(退屈な社会)になるだろう」ということだった。
 いつの時代も若者は長老の批判の対象だった。けれども今ほど人生の長い経験や教養が軽んじられる時代はなかったのではないだろうか。もし本当にそのことが無用の長物であるなら、人生はなんと無意味な無駄な時間ということになるではないか。
 (ロシア戦がはじまるのでまた後で)
 

更新時間 : 20:02:54

6月8日 (土)

はる 412
 あ〜ぁイタリアが負けてしまった。
 

更新時間 : 22:42:28

6月7日 (金)

はる 411 G
 大きな作品は年4,5枚描いてきた。単純に計算してもざっと100枚以上ある勘定になる。つぶしてしまったものや、さらにその上に新しい作品を描いたりしたものもあるから、多分そのくらいの数だと思う。
 学生の頃は大きな顔をして学校を倉庫代わりに使っていたけれど、卒業して一番困るのはアトリエの確保と作品の保管だ。みんな製作の場の確保にはそれなりに気を配るけれど、長い作家生活(売れない絵描き)を考えると、反対に保管庫の方を重点的に確保して置いたほうがいいのかもしれないなぁ。なさけない話だけれど。
 何処かにまとまったかたちで展示したいという願望はあるけれど、個人的なギャラリーは維持管理が難しい。限りなく夢に近い話だな。
 さて今日も記録的に暑かった。もう、夏だ。
 

更新時間 : 20:07:52

6月6日 (木)

はる 410
 私の絵に山羊が登場してきたのはかれこれ10年も前になる。その頃テーマとしていたのは世紀末ということも影響して、「方舟」とか「理想郷」みたいなことを考えていた。山羊はある種、善良な動物の代表として登場してもらった。その後しばらくそのことを忘れていた。
 阪神大震災があって自分の故郷があっけなく崩れていくのを見て言葉は簡単だけれど、心の底から無常観を感じた。その後イタリアを中心にヨーロッパを旅する機会を得て、いろいろと考えさせられた。人は絵画(アート)に何を求めているのだろうかと。
 ヨーロッパの田舎を歩いていると、日本の地蔵さんや道祖神とまったく同じようにマリア像の祠があったりする。こういったものを見るとキリスト教も仏教も神道もない、それは人間本来が持っている「人知を超えたものに対する畏敬」そのものだと思った。
 帰国して「いのりのかたち」というテーマで作品をつくりはじめた。気が付くと忘れていた山羊が自然なかたちで姿を現していた。
 
 「やぁ、お帰りなさい、元気でしたか」
 

更新時間 : 20:52:25

6月5日 (水)

はる 409
 「子供は汚れがなくて純真でいいなぁ」なんていうけれど自分の子供時代を考えてみると、それほど純粋でも悩みがなかったわけでもない。その頃でもそれなりに、背丈にあった「大きな悩み」があって日々暮らしていた気がする。
 大人になると子供の頃がやたら純真で無垢のように勘違いするけれど、それは明らかに誤認で自分の身の丈が多少伸びて、それに合わせて試練の質も変わってきただけで、本質的にはなにも変わっていない。大なり小なり人は同じような試練を背負って生きていかねばならない。幸せなのは多分そういった感受性のない「鈍」なひとだけかもしれないね。
 最近になってやっと少し見えてきたことがある。ならば今までは何も見てこなかったのか、と言われれば困ってしまうのだが、人は「観ようとしないことには何にも観えないのだ」ということかもしれん。しかしこれもまた何年か後には見えてなかったことになるのかもしれんなぁ。何だか難しいことになって来た。
 
 それではまた明日。

更新時間 : 20:41:38

6月4日 (火)

はる 408
 東京オリンピックの時、私は小学生だった。まだカラーテレビがそれほど普及していなかったと思うのだけれど、どうしてかあの開会式の情景はカラーでインプットされている。とても美しく晴れ上がった青空だった気がするのだけれど、それは後から見せられた映画のせいかもしれない。
 さあ今からワールドカップの日本対ベルギー戦が始まる。ではまた後ほど。

更新時間 : 17:55:58

6月2日 (日)

はる 407
 桂米朝のドキメント番組をやっていた。落語そのものはもう名人芸で「あちらの世界」に入っておられるので私ごときが何にも言えない。。それよりも日常の生活でポツリポツリ話される言葉にけっこう感動した。特に弟子が亡くなったところでの話は泣けた。
 落語には「まくら」という部分がある。大抵の落語ではいきなり「ネタ」に入るのではなく、ほぼアドリブでその場の雰囲気を話しにしてお客さんのノリをよくしてから、「ネタ」に入っていく。その部分の話で、弟子の死にふれて「ここは生の米朝がしゃべっているんです。自分の今の気持ちをしゃべって、それで弔いをする。それが芸です」と語気を強めていた。

 今日は暑かった。また明日。

更新時間 : 22:53:45

6月1日 (土)

はる 406
 6月になりました。また後で。

 よく昔「ラブ アンド ピース」なんてお題目を唱えているロックシンガーがいたけれど、確かに誰も反対できないようなお題目は一見正しいように見えるけれど、本当のところ何も考えていないと限りなく近いのだということに気が付いた。
 例えばよく聞かれるのは「今回のテーマは何ですか」といったことだけれど、その時に「世界平和と愛です」なんて恥じらいも無く答えている奴がいるけれど、それがいえる人はお釈迦さまとキリストさんとあと数人しかいないでしょう。我々が言えるとしたらもっと身近なことをテーマにしたものでなければ、何も伝えることが出来ない。
 「徳がある」とか「徳をつむ」なんて言葉がある。字柄からすればずい分と偉そうな近寄りがたい格調を感じるけれど、調べてみると「得」と案外近いところあるらしい。慈善事業なんかでも「人類の平和のために」なんて遠大な目的でなくて、けっこう下世話な自分の「得」になるという動機で始めても充分だと思う。少し話がずれたけれど。
 何事も「自分の言葉で話をする」ということだな。


更新時間 : 22:24:23