絵描きのぼやき

2002年5月

5月31日 (金)

はる 405
 オリンピックの種目で日本のお家芸といえば柔道だ。その代表になった選手たちは可愛そうだ。というのは何だかひとつも楽しそうじゃないんだものなぁ。逆に「勝たねばならない症」にかかっていて悲壮感さえ漂わせている。サッカーの発祥の地が何処なのか知らないけれど、その国の代表はどうなんだろうか?
 W杯の各国の代表のことが新聞に書かれていたけれど、例えば日本の代表の監督はご存知のフランス人・トルシエさんだ。韓国の監督も自国の監督ではない。どうして自国の監督では戦えないのかということも考察しても面白いけれど、今回はちと違うことを考えてた。
 もし日本も勝ち進んでいけば当然フランスと戦うということも考えられる。今フランスと戦っているセネガルの代表選手のほとんどはフランスのプロのチームに属しているらしい。何処かの国の場合、自分の息子が属しているチームと戦わなくてはならないこともあるそうだ。何処の国が発祥の地かはもうこの時点では関係のないことだ。もしサッカーの発祥の地が「お家芸」みたいなことにこだわって自国のみが勝つ事を考えていたとすれば、サッカーは世界のスポーツにはなっていなかっただろう。
 難しいところだけどグローバル化するところと、守るべきことろを考えなきゃならんところだね。

更新時間 : 22:10:52

5月30日 (木)

はる 404
 さぁワールドカップが始まる。基本的にはスポーツにほとんど興味はないのだが、これだけ騒げばアホでもそこそこ気にはなるでしょう。
 隣国との共同開催ということで、本当によかったなぁと本心からそう思っている。この件が引き金になってか、我々よりも若い世代に隣国に対する妙な思い込みや、いわれの無い優越感など無くなりつつあるような気がする。
 もともと近いがゆえの反発だったり、意見の食い違いだったりするのであろうが、あまりにも我々を含めて両国の不幸な歴史を知らなさすぎた。この際色々な意味でお互いのことをよく知り合うことができればなぁと思う。
 「白か黒か」「0or1」の二者択一のアメリカ発のグローバル・スタンダードではなく、あくまでも「あいまいな選択も有り」の東アジア発の新しいサタンダードをこの際日韓を中心に考えてもらいたい。
 そんな諸々なことを考えさせる、日韓共催の「世界茶碗」(sawada訳)でした。

更新時間 : 16:33:02

5月29日 (水)

はる 403 
 「絵は好きか、嫌いか」なんだよなぁ、そこのところに文句の付けようが無いのだけれど、どうもすんなり納得できないところがある。何なんだろうか?
 「好き、嫌い」にかなりの個人差がないか。例えば自分に置き換えて考えてみても分かるけれど、子供の頃に好きだった音楽や絵が全て今も好きかと問われると、たぶんそのほとんどが気に入らないと思う。もし全く変化ないとすれば、全然成長していないということにならないか。まぁそれが「良いか、悪いか?」と言われると答えに詰まってしまうけれど。
 例えば、春爛漫でさくらが満開の頃、ただ単に「花が満開だ」という以上の感慨は子供には期待できないだろう。たぶん私もそうだったと思う。ところが「この満開の桜を後何回見る事ができるかなぁ」と思ったとたんに、桜はただの満開の花ではなくなってしまうだろう。昔のことが色々と頭のなかをめぐる。「ことば」は簡単でこれもまた人によって素通りしてしまうのだろうけれど。
 「聞いても聴こえず、見ても観えず」という。同じ風景を見ても、同じ音楽を聴いても感じる心は同じではない。想像できない人は何を経験しても見えないのじゃないのかなぁ。人はある程度経験しないことには何にも本当に理解はできないのじゃないかなぁ。そう思う。
 それでもやっぱり「絵は好きか嫌いか」なんだ。どう思う?

更新時間 : 19:23:36

5月28日 (火)

はる 402
 今日は暑い一日だった。
 普段火曜日はパートタイムの仕事が入っているのだが、今週は中間テストで私の授業はお休み。それはそれで結構なことなんだけれど、休めばそれだけ収入も減るというわけだ。何ともせこい話だけれど、事実だからしかたない。本来この時間は何も予定をいれずに空けてあるわけだから、授業があろうがなかろうがちゃんと賃金を払うべきと思うのだが、どうだろうか?何年やっても何のキャリアにもならないし、もちろん健康保険も年金もない。ボーナスもなければ退職金もない。文句言えば切りないけれど、あえてそんな仕事をやっている。表面上は普通の先生面しているけれど、非常勤講師というのはそういった仕事なんだ。
 何だか本格的なぼやきになってしまった。面白くないので飛ばしてください。また明日。  

更新時間 : 20:43:25

5月27日 (月)

はる 401
 400を越えたということで、少し前の「ぼやき」を振り返る。しかし我ながらこれはなかなか読み辛いもんがある。「過去のぼやき」にトータル番号を付けたけれど、そのうちにもう少し整理する必要があるなぁ。それにしても少し手を加えるだけで、半日掛かってしまった。コンピュータの作業というのは、単純作業の繰り返しで途中で止めることができないようになっている。途中でやめたら全てが無駄になってしまう。それゆえ何故か追い立てられるように没頭してしまう。パソコンにはそういった魔が住んでいる。

更新時間 : 21:51:11

5月25日 (土)

はる 400
 おいおい、とうとう400を数えたよ。記念すべきカウントということで表紙を変えてみました、いかがでしょうか?
 デジカメもスキャナーも持っていないので、新しい画像を取り込むのはけっこう手間がかかる。この作品は去年の作品で、ちょうど明日からのグループ展のDMに新しい作品の写真が必要ということで人に撮ってもらった写真があった。でそれを知り合いのデザイン屋さんに頼んでフロッピーに取り込んでもらった。で何とか表紙の更新ができたという訳だ。デジカメがあれば簡単なんだろうけれど、私のやっているデジタルな作業は超アナログ作業だ。
 「まれびと」のことはこのぼやきの欄で何度か書いたので、繰り返しません。(読み返すのが面倒なので、興味がある人は探してみてください。)
 というわけで明日からグループ・スクエアの展覧会が始まります。詳しいことは「個展情報のグループ展情報」をご覧下さい。

更新時間 : 23:07:42

5月24日 (金)

はる 399
 一時自画像ばかり描いていた。他に手ごろなモデルがいなかったということもあるけれど、突き詰めて言えば現在もまだ自画像の延長上にあるといえる。
 この間「書画一致」などという話をしたけれど、結局すべからくその作家の分身である。どんなに取り繕っても、すましてみたところで出てくるのが、その人の個性というものだろう。ピカソの絵をじっくり眺めていると、どの絵からもあのピカソの顔が浮かんでくるではないか。
 「私には才能がないから・・」という人がいる。上手く描くにはあるいは売れる絵描きになるには才能がいるかもしれない。けれど自分自身であることならだれでも可能なわけで、そのことに何ら才能は関与していない。もし違いがあるとするならば、そのことを意識しているかどうか、また難しいけれど、もう一回忘れる事ができるかどうかが才能というものかもしれないな。(あ〜ややこしい)

更新時間 : 18:18:03

5月23日 (木)

はる 398
 リンクしている作家さんのページを読んでいたら、ソローの「森の生活」なんて懐かしい本の名前が出てきた。我々の世代のある雰囲気がこの本の題名によく表れている気がする。
 ある時期真剣に「森の生活」を志向した記憶がある。たぶんそれを本当に実行に移した者は希だと思うけれど。しかし当時確かに我々の周りの人間はそれを熱望していたような雰囲気があった。それは同じ嗜好を持つ者同士で「理想的な共同生活をする」・コミューン幻想みたいな物と一緒になって、アンダーグラウンドに広まっていた気がする。
 「政治の季節」の過激な共同幻想になじめなかった、我々のような軟弱の徒が夢見たのがこういった「新しい社会」だったのかもしれない。連合赤軍の浅間山荘事件が社会に強烈なショックを与え始めた頃、同じようにこういった「共同生活・コミューン志向」も消えていったように思う。
 もともと「流れて行く者」にそこはかとない愛着を感じる私にとって、ここらあたりの「隠者」や「漂泊者」は手の内みたいなものだった。宮沢賢治の世界ともつながっている通奏低音だ。

更新時間 : 20:43:39

5月22日 (水)

はる 397
 たばこは好きだった。ここだけの話、高校時代からヘビースモーカーだった。もちろん親には内緒で、夕食の後など散歩に行くふりをして喫煙タイムを楽しんだ。
 高校も高学年になってくると自分の部屋で堂々と吸っていた。お袋は、もちろん知っていただろうけれど、何にも言わなかった。部屋には煙草のヤニと臭いはもちろんのこと、吸い殻が山とたまった。ある時、部屋の灰皿が綺麗に掃除されていて、びっくり。それでもお袋は何も言わなかった。けれど無言の忠告のようでその方がこたえた。
 たばことコーヒーは切っても切れない関係がある。たばこを吸うとコーヒーが飲みたくなるし、逆もしかりだ。お酒は全く飲めないけれど、たまにお酒の席に誘われるとたばこがないと全く間がもたない。
 煙草を止めてからもう三年近くなった。止めるのはもっと大変かなぁとおもっていたけれど、案外と簡単にやめられた。しばらくは「休煙」という名目で、封を切った煙草をいつもそばに置いていた。それがよかったのか、その後一本も吸っていない。
 煙草を止めてその効用は、「紅茶」が美味いと思うようになったことだ。コーヒーよりも断然種類も多いし、その味、風味、その奥深さは比べものにならない。それでもやっぱり煙草のけむりは好きだ。

更新時間 : 22:20:20

5月21日 (火)

はる 396
 偉そうなことを書いてしまった。絵を描く理由は何なのか?なんてね。ハッキリ言っていまもって私にも分からないというのが本当のところじゃないのかなぁ。すみません。

 ただ私が今興味をもっているのは、きっちりとアカデミックに教育を受けた作家の作品より、自らの自然な欲求にしたがって作られた作品というのか物・オブジェの方に興味があります。
 たとえばアフリカの原住民が生活の中で、ほぼ日常的に使う穀物倉庫の扉とか階段とか、その他お祭りに使うお面とか武器や盾などなど。インドのある地方では日々の暮らしの中で、玄関や壁その他あらゆるところに絵を描いて、その日一日の無事や健康を祈ったりするらしい。鳥や象や人間がモチーフとしてでてくるのだけれど、それがものすごくいい。たぶんクレーなんかはきっとこれを見ているのじゃないかと推測したりする。日本の地方でもお祭りに使う民具なんかに素晴らしいお面があったりする。
 共通しているのは、どれもこれも全て名もないただの人が、日々の暮らしの中で静かなそれでも深い「おもい」の中で作ったものだということだ。
 できれば私の作ったり描いたりしたものたちも、そういったものたちと心情的に同じものでありたいと思う。
 

更新時間 : 15:26:05

5月20日 (月)

はる 395
 雨が降ったり止んだりで妙な天気がつづく。もう梅雨なのかなぁ。

 油絵の道具をアトリエの隅っこに押しやってからもう五年ほど過ぎた。たまにあの独特な油絵の臭いが懐かしいなぁと思うことがあるけれど、どうしても油絵に戻りたいという意識はない。もし油彩画に戻るとするならば、それなりの必然性がなければならない。今のところそういった欲求はない。
 そもそも油絵を始めた理由もすごくあいまいで、単に西洋にたいする憧れから「カッコいい」と思っただけにすぎない。だからたまに生徒から「油絵をやりたいのですが」と言われると「止めた方がいいよ」などと味もそっけもない答えをしてしまう。
 西欧の油彩画の技術はある種科学であって、「いかにすれば三次元の世界を二次元に表現できるか」というところから始まっている。そういった意味からいえば、ルネサンスの巨匠の頃に一つのピークがあって、ルーベンスやレンブラントでもう一つピークを迎えて終了したのではないだろうか。さらに写真やコンピュータの時代になって視覚的なダマシの役割もすでに終わってしまったと思える。
 ならば絵を描く理由はなんだろうか?何を描けばいいのだろうか?つづきはまた今度、聞きたい?

更新時間 : 20:43:16

5月19日 (日)

はる 394
 昨日の夜だったかな、突然このページが開かなくなった。たぶん私の方のトラブルではなく、このシステムをお借りしてる方のトラブルだと思う。それでも一瞬これまでの「ぼやき」がもう読めなくなるか?とひやりとした。朝になってトラブルが解消していたのだけれど、あわててバックアップをとった。とは言ってもこういった雑文は書いてしまえばそれでお終い、ほとんど読み返すことはない。自分にとって書くという行為が何らかの発散になっているわけで、書いてしまったものにたいして興味もない。
 絵もそうかかもしれない。大切に思ってくれているのは案外自分ではなくて、共感して持ってくれている人だったりするのだろう。自分にとっては作品はもうすでに済んでしまったことであり、今の私はもうそこにいない。
 本来の姿というのは自分には見えない。間接的にでてきたものでその姿を推し量るしかない。多くの人は日々の暮らしの中で何に自分を投影しているのだろうか。仕事だったりまた子供の成長だったりするのだろう。私のような者は書いたものや描かれた物で自分の姿を確認するしかない。それ故残された物には大きな意味はないのかもしれないなぁ。

更新時間 : 18:07:21

5月17日 (金)

はる 393
 この6月からアメリカに留学する若い人の送別を兼ねて食事に出掛ける。たぶんしばらくは食べることがないだろう日本食でお祝いした。
 考えてみると日本ほど世界の料理が食べられる国はないだろう。それも全て日本人の口に合わせてアレンジしてしまう、強烈に貪欲なしたたかな民族だともいえる。またそうやって何でも寛容に受け入れてやってこれたから、こうやって世界の中でもまれにみる成功をおさめることが出来たのかもしれない。
 多くのことは知らないけれど、日本語は中国から漢字をもらってさらに独自の平仮名やかたかなを創造した。そのことによって外来語を中国のように意味をとった漢字表現するのではなく、そのまま表記できる特徴がある。何気ない事だけれどこのことは日本人の特徴をよくあらわしているように思える。というのは新しい言葉をどんどん加えることや省略が簡単で、あたらしい事への対応がスムースにできるということだろう。反対に言えば独自のものを見失ってしまう可能性もあるということかな。
 まぁそんなことも含めて、若い人が世界にでて見聞を広めるのはいいことだろう。しかしあくまでも日本人であることを忘れないで欲しい。
 いい旅を!


更新時間 : 20:38:18

5月16日 (木)

はる 392
 ありきたりな表現だけれど、毎日が飛ぶように過ぎて行く。何をどうあがいてもこの勢いは止められそうにない。こうやって日々のよしなしことをつづっていくことのみが、寂しいけれど今日の確認になっているのかもしれない。
 このところ新学期が始まったということもあるかもしれないけれど、精神的にも多忙でゆっくりアトリエにこもって絵を描くということがなかった。展覧会にはけっこう参加していて盛んに仕事しているようにみえるけれど、その実仕事は滞りぎみだ。今日久し振りに描き掛けの100号を見ると、何だかつまらなくなってやり直すことにした。アイデアそのものはもう一ヶ月も前から考えていたことだけれど、何だか間延びしてしまった。
 切実なものを描かなければ、誰も観てはくれないだろう。自分が感動しないようなものが人を取り込めるわけがない。今頃になってもなんら進歩していない自分に唖然とする。才能がないのならもっと努力しなければ。もうそれほどたっぷりと時間もないのだから。

更新時間 : 23:14:57

5月15日 (水)

はる 391
 絵は「いいか、わるいかどちらかだ」といわれる。確かにそうだとは思うのだけれど「その判断の基準は何なのだ」と聞きたい。そこのところがあいまいで、よく勘違いされるのは「なんでも鑑定団」で鑑定してもらえば分かるなんて言ってる奴がいるけれど、骨董的価値と芸術的価値とはちょっと違う。骨董的な価値は需要と供給で成り立っていて、希少であればあるほど価値が高くなるわけで、ここでいう「いい、わるい」とはほとんど関係ない。
 昔よく言われたのが「同程度だと思ったら相手のレベルはかなり高い。こいつには負けたと思ったら相手は遙か彼方にいる」と。学校を出たからとか何々会の会員とか何々賞を取ったとかも関係ない。子供の絵も大人の絵もプロもアマチュアも関係ない「いいものはいいし、わるいものはわるい」。これだけ一刀両断に言えるのに自分の絵だけは何にも見えないのだなぁ。情けないけれど。
 人が何かを行うというのは全て何かしらの「意志」が働いている。まぁ無意識という意識もあるけれど。で絵を描くという行為はある種意識された「作為的な行為」の典型のような気がする。それが大人になればなるほど、色々な付随したものが付いてくる。「いい絵」というのはこの「作為的」なものが出来るだけ少ない、もしくは感じられないものじゃないのかなぁと最近思う。「絵を描かないで描く」というのは禅問答のようで難しいのだけれど、それが今の「判断の基準」にならないだろうか?どう思う。


更新時間 : 20:14:32

5月13日 (月)

はる 390
 人は悲しい生き物だね。

 


更新時間 : 19:20:52

5月12日 (日)

はる 389
 今日はいい天気だった。それとは全く関係ないけれど、今日は一日裸婦クロッキーにいそしむ。もう10年以上毎月やっている恒例行事だけれど、それにしてもなかなか上手くはならないものだ。

 「書画一致」なる言葉があるけれど、なるほどなぁと最近そう思う。というのは例えば上手い字を書く人の絵はやっぱり人並み以上に上手い。だからデッサンの達人といわれる人の字もとてつもなく上手いのじゃないかと推測する。見たことないのだけれど。だから反対に字を見ればその人がどんな絵を描くのか大体想像できるのではないだろうか。
 ところで書家の字は面白くない。それはあまりにも当たり前過ぎるからだ。面白いのはたとえば作家の字とか、役者の字とか専門外の人の字が見ていて面白い。というのは字にその人の人間性が出るからで、専門家が取り繕ってすました顔した字を見せられても何も面白くない。
 絵描きが上手い絵を描いても面白くない。(上手くない者のひがみだと思って読んでくれ)それはあまりにも当たり前だからだ。人は絵描きの絵に何を期待するのだろうか。そこのところがメインテーマだなぁ。下手くそな絵の方が面白いと思う。違うかな?
 
 

更新時間 : 22:06:28

5月11日 (土)

はる 388
 半年ぶりに散髪にいく。面倒だけれどこれから暑くなるのでとても伸ばしてはいられない。頭がけっこうでかいので髪が伸びてくるとなおさら大きく見える。最近の子供たちは顔が小さくて羨ましい。
 我々の世代はちょうどヒッピーの全盛期のころで、ご多分に漏れず私も肩の下までのロングヘアーだった。(このロングヘアーという言い方も年代を感じさせるけれど)今じゃちょっと信じられないけれど、あの天下のNHKは髪が長いというだけで出演させないなんていってたことがあったのだよ。今じゃ当たり前のへっちゃらなのにねぇ。
 髪を長くする、というのは結構根性がいる。途中必ず「もう切ってしまいたい」という欲求がむらむらとおきてくる。髪を洗うのが面倒だ。髪を結構きにするので普段のしぐさがなんとなく「おんなっぽく」なる。バイトがほぼ肉体労働にしぼられる。今の茶髪にピアスとにてるかもしれないねぇ。

 今日の新聞に「ユニークフェイスの会」のNPOの会長のコメントが出ていた。まぁ簡単にいえば「顔などにアザなどがある人たちの会」ということだけれど、ほとんどの人たちにとってこのことは自分とは関係の無い事のように考えている。
 何でもそうだけれど、我々は実は物凄く住みにくい社会を知らず知らずのうちに作ってきてしまったということだ。街の中に例えば眼の見えない人とか車椅子の人だとかが自然に自由に歩けますか。お年寄りや小さな子供たちがゆっくりくつろげるスペースがありますか。いっけん全く関係ことのように見えるこのことは実は深いところでつながっている事のように思える。
 マイノリティ「少数派」に対して実に巧妙に冷たい社会なんだなぁということだ。多くは無視される。隠される。無いことにされる。だけど結局、これからの社会は、こういった「他とは違う自」というものをマイナスの要因として隠してしまうのではなく、反対にユニークなパーソナリティとして生かしていく、そういった何でも有りのプラス思考社会でなければやっていけないのじゃないかなぁ。どう思う。
 

更新時間 : 23:41:44

5月10日 (金)

はる 387
 奥歯が欠けた。

 小学校高学年になると乳歯から永久歯に抜け替わる儀式がある。その頃は誰でもそうだったけれど、ほとんどの歯は虫歯だらけで治療してもすぐに虫歯になった。前歯だけが抜けて「まぬけ面」がさらに間が抜けた。歯は抜けるといつでも下から新しい歯が生えてくるものだと思っていた。
 今でもやっているのだろうか、上の歯が抜けると「いい歯が生えますように」と祈りながら縁の下の土に埋めた。下の歯が抜けると屋根に放り投げた。カラカラと乾いた音がして神様が聞き届けてくれた気がした。ある時樋がつまって掃除したら、腐葉土化した木の葉に混ざって誰かの歯が出てきたことがあった。「俺の歯か?」
 


更新時間 : 15:30:29

5月9日 (木)

はる 386
 中学一年生の担任が美術の教師だった。美術を志す人間は大体もうすでにこの頃にちいさな芽がめばえているものだが、私の場合ほとんどそんな気配はなかった。というのも美術家というイメージが具体的に想像できなかったということもあるけれど、この担任の影響も大きい。
 というのはこの先生、美術の教師という雰囲気ではなく、もろ体育会系の人間で、女子のソフトボールの監督をしており、ほとんど美術室にいたこともなく、放課後は嬉々としてボールをたたいていた。それはそれで教師としては必要なことだったのかもしれないけれど、なんとなく「美術の先生も教師なんだ」という思いを持った。
 子供の頃から物をつくったり、壊したりするのは得意だったけれど、それが具体的な美術と結びつくのはもっと後のことだ。それでもはっきりおぼえているのは、「俺より絵が上手い奴がいる」と悔しく思ったことだ。山本君と坂口君には自分から見てもいつも負けていた。
 山本君は漫画を描くのがすこぶる上手かった。何も見ないでもスイスイその鉛筆から鉄腕アトムや鉄人28号が生まれてくるのを不思議に思った。こいつは天才だ。その後彼は美大に行ったようだけど、詳しくは知らない。
 坂口君は本当におとなしい絵の好きな少年だった。放課後一人でスケッチしている姿をたびたびみかけた。だからといって自慢するわけでもないし、山本君のようにエンターテイメントな絵が描けるわけでもなかった。今でもはっきり憶えている絵は卒業文集の表紙を飾った絵で、学校の校門からボロ校舎をみたスケッチで、「あぁこういった絵もいいなぁ」と思った。
 できたら僕は坂口君のような絵を描きたいと強く思った。

更新時間 : 16:08:26

5月8日 (水)

はる 385
 絵の描き方を教えてくれという人がいる。それは例えば南画風の「四君子」の描き方とか、仏画の吉祥天の描き方とかそういったハウツーものを期待してのことだと思う。それさえ知っていればほぼ何でも描くことができる、魔法の秘術があるなら教えてくということだと思う。
 多くの人は案外そういった技があるのではないかと思っているふしがある。たとえば本屋さんに行けば「漫画の描き方」とか「絵手紙の描き方」とかいろいろなハウツーものが今もところ狭しと並んでいる。しかし実際に買ってその本を隅から隅まで精通しても、けっして漫画がすらすら描けるようにはならないのは、当然のことだ。
 うまい絵を描きたいならいろんな方法があるかもしれない。そういったハウツーものに頼るのもひとつの手段かもしれないけれど。私はまったく筋違いの人間だ。上手いをめざすなら徹底的に上手くなければならない。たぶん上手い人は星の数ほどいるだろう。自分がそこに名を連ねることができるなら、それもいいでしょう。がもしそうでないなら他の方法を考える必要があるのだ。

 何を書きたいのかわからんようになってきたので、今日はここまで。 

更新時間 : 17:43:21

5月7日 (火)

はる 384
 昨日はグループ展の搬入。今回は小品展です。詳しくは個展情報のグループ展の項目を見て下さい。

 今日は一日高校生とお付き合い。彼らに何を話せば共感してもらえるのだろうか。ひょっとして彼らは教師とは生まれた時から同じ土俵には立たないと考えているのではなかろうか、と思うこともある。まぁそれはそれで自分たちにもおぼえがあることだから仕方ないかもしれん。でもほんの少しでも何かのヒントになればいいと思って付き合っている。君たちと付き合っている教師は多分大人として最もいいかげんで、尊敬できない種類の人間かもしれないけれど、反対に最も純真で憎めない善意の人たちであることもわかってほしい。
 これを読む高校生を意識して。
 

更新時間 : 14:14:51

5月6日 (月)

はる 383
 私の画材はホームセンターで買う事が多い。との粉とか弁ガラはある特定の建材やさんで購入する。昔京都で焼き物の絵付けをしていた時、「鉄梅」なるものを描かされた。「鉄梅」とはいかなるものかといえば、画材として酸化鉄(弁ガラ)を使い大きな梅の花弁を器いっぱいに散らす意匠のことで、とにもかくにも明けても暮れてもこればかり描いていた。だから今、弁ガラをつかって絵を描いていると因果応報、めぐりめぐってというのを感じてしまう。
 何屋さんなのか今もってよくわからないのだが、だいぶん前にトイレのタイルを買ったおぼえがあって、その後弁ガラのことで売っていそうなお店を紹介してもらったり、屋根の雨漏りの相談にのってもらったりと、けっこうお世話になった爺さんのお店があった。ほとんどお客さんも来ていないようだし、セメントを袋詰めにして小売したりしていたけれど、なんとなくやばそうな気がしていたのだが、今日なんとなく店の前を通りかかった時、跡形もなく消えていた。あまりにもきれいになくなっていたので気が付かなかった。何という事だ!

 小さな専門店がなくなっていく。なくなってしまえばもう二度と復活はない。そんなことが今いたるところでおきている。困ったものだ。

更新時間 : 21:00:49

5月5日 (日)

はる 382
 今日は夏日だった。まだ五月になったばかりだというのにもう30度を越えたらしい。
 「夏は夕暮れ・・・」という例のフレーズを思い出した。確かに夕飯前のこの感じは忘れていたけれど、思い出した。それにしても子供の頃はいつも腹をすかせていた。そういった空腹感は何時の間にかなくなってしまったけれど、ひょっとしてこのうすら寂しい感覚と「夏は夕暮れ・・」のセンスは似ているかもしれない。微妙だけれど、最近の子供たちには「徒然草」は分からんかもしれんなぁ。
 
 午後から大先輩の葬儀に出掛ける。大人しい目立たない絵を描いていたけれど、私を含めてファンは多かったと思う。個展会場ではほとんど何も言ってはもらえなかったけれど、「絵は競争じゃないんだよ」「絵はいいか、わるいかどちらかだ」といつも言われている気がしていた。二月頃この地方の美術展の会場で元気そうな姿を見ていたのだけれど、あの絵が最後だった。
 ありがとうございました。

更新時間 : 21:25:29

5月4日 (土)

はる 381
 ラッセル・クロウは前作のタイトル忘れてしまったけれど(ローマ時代の戦う奴隷騎士の話)の臭いが強すぎて損をしている気がする。天才数学者という設定にしてはたくまし過ぎてイメージをこわしてしまっている。映画はイメージが勝負の表現だからもうそこで半分失敗だと思うなぁ。物語はけっこう面白く観れたけれど、欲を言えばもう一つ展開が欲しかった。まさかそのままじゃないだろうと思って期待していたら、みごとに外れてそのままの展開だった。

 さて少し仕事しましょう。ではまた。


更新時間 : 14:09:02

5月3日 (金)

はる 380
 話題の「ビューティフル・マインド」を観た。で今帰ったところ。まぁまぁかな。それも含めてまた明日。

更新時間 : 00:06:06

5月2日 (木)

はる 379
 学校の図書館に暇つぶしに行った。そのなかでなかなか面白い本を見つけた。著者が誰だったのか忘れてしまったのだけれど、その本のタイトルは「美術家になるには」だった。高校生相手のある種職業教育のための本なんだろうけれど、今の私が読んで面白かった。
 「画家」というのは仕事であっても職業ではない。とか「団体展なんかに出品して満足してはいけない」などなかなか耳の痛い本当のことが書かれていた。一番的を得ていたのは「人に何て言われてもこれがいいと思ったらやり通す意志が絶対に必要で、それがないなら最初っから止めた方がいい」ということかな。
 代表的な現代美術家が何人かとりあげられていたけれど、共通しているのはバイタリティがあって、自分の仕事のコンセプトを人にちゃんと説明できる「自分の言葉」を持っているということだ。ひと世代前の美術家は寡黙でよかったのだけれど、時代と共に進もうという作家はこの「言葉」が絶対に必要なようだ。でなければけっして世界で認められることにはならない、と書かれていた。

 売れることといい作家として認められることとはちがうからなぁ。でも毎回赤字じゃ続けていけないし、ここのところがみんな悩むところだ。実際みんなどう考えているのだろうか?

更新時間 : 22:57:20

5月1日 (水)

はる 378
 人間は生まれたとき,多くの場合歓迎され,喜ばれ、幸せの絶頂にある。本人は両親を含めてその環境を選ぶことができないけれど、親は自分が望んでその子を授かったと思っている。そこから色々な悲劇や喜劇が生まれる。
 
 さて五月になった。今月はなんとかいい月でありますように。

更新時間 : 22:39:50