20016/13〜20016/30
絵描きのぼやき

            2001「まれびと」
 
  はる135    2001/Jun/30(Sat)

   昨日は個展の搬入、飾り付けで朝から東京に出掛ける。仕事は夕方からなので、ついでに銀座の画廊をまわる。暑いのでかなりへばる。いつものアフリカンアートのギャラリーと二三の画廊で打ち止め。後はいつもお世話になるギャラリー惣でお茶にする。現在個展をやっている「神谷 徹」さんには喫茶店がわりに使われて迷惑だったかなぁ、ごめん。

 7:00頃から飾り付けに入る。今までの画廊という空間と違いメインは喫茶店。お客さんが気持ちよくすごせてその上で絵が観れるという場の設定。オーナーの加々美さん自身も絵を描かれる作家で、この地で画廊喫茶を経営されて15年のベテラン。充分にその事は考えられている様子。

 本来絵はそういった生活のなかで鑑賞される方が自然である気がする。四季折々の花を飾るように気分にあわせて空間を演出する。そのことの面白さは元来日本人が一番良く知っていたはずだったのにね。晴れの間としての床の間とか坪庭とか、無駄な物不必要な空間、間。「人生を楽しく生きる」という大前提からすればここのところが一番大事なことで、学校教えるものでもないし教えられるものでもない。それはその国の文化というやつで親が子に子が孫に伝えていくものなのだ。そんなことを話し合いながら飾り付けを終わった。家に帰って来たのはもう真夜中だった。あ〜くたびれた。



  はる134    2001/Jun/28(Thu)

   声の大きな人とか影響力のある人物からはどうしても逃げ出したくなる。兄弟の多い人ならこの感覚はわかってもらえると思うのだが、物心付いた時には兄弟はもう大人でとてもかなわない存在であった。何とかその影響力から逃れるためのこれまでの人生だったかもしれない。

 長じてどんな組織に入ってもいつも片足外に出している状態でべったりその組織に入ることができない中途半端な人格を作ってしまった。孫悟空の話で彼が暴れ回ってどんどん遠くまで飛んでいって宇宙の果てを見たと思ったら、お釈迦さんの手の中だったという話があるけれど、この年になって気付くことは結局自分の成り立ちを決めているのは、原点の親とか兄弟などの家族と自分との関係だったりする。もうそれは一生つき合ってゆくしかないだろうけれど、三つ子の魂はここでも生きている。

 ところで何を書きたかったというと時の政権が80%以上の支持率を得て力を持つことは、親や兄弟が絶大な力を持つのに似て怖いなぁと思う。半分ぐらいがちょうどいいのじゃないかね。



  はる133   2001/Jun/25(Mon)

   「まれびと」という言葉を何処かで読んだことがあって意味を探していた。

 まだ仏教ももちろんキリスト教もない、暗闇には「まっくろくろすけ」が闊歩していた古い古い日本でのこと。たとえば村から村へ渡り歩いて芝居をしてみせたり、笛や太古で人々の気持ちを昂揚させたりする芸能民や、今でいうところの巡礼さんや、絵描きや大工などの移動しながら仕事をしていく職人集団や、乞食や漂白者を総して、稀に来る人=「まれびと」といったらしい。それは一種さげすみの眼差しでもあるし、またどこか憧れのニアンスも含んでいるようだ。

 日本人は何故か「ありがたいもの」は何処か遠くからやってくるものだと信じているところがある。それは昔から影響力のある文物は遠い外国から渡ってきた事実があるからだが、さしずめ今の世では外国のスタープレイヤーあたりが「まれびと」にあたるのかもしれないなぁ。いずれの世でも絵描きなんかはアウトサイダーでまともな人種ではないということだ。若人よ。



  はる132    2001/Jun/23(Sat)

   昨日から最後の額あわせ、そして梱包。(今回は数も少ないし、大きな作品がないので宅急便で前日にまでに送りつける。)梱包はけっこう面倒くさい。作品の数が少なくても額縁を装丁するとけっこうな量になる。東京までの車の運転をとるか梱包をとるかの判断だけれど、私は大抵面倒な方をとる。車の運転は嫌いだ。

 取ってあったダンボールを何とかアレンジしてぴったりと荷物にあった梱包に仕上げると、梱包の作家クリストではないけれど「うん、いい梱包だ。」とけっこう嬉しい。コンクールなどで返品された自分の作品を見て下手な梱包だと妙に寂しい。(落選したという落胆も兼ねてはいるのだけれど)今日は午後から車に乗せて宅急便の集配場まで搬入。帰りにDMもだしてこれで当日の飾りつけまでなにもない。終了。

 今回は昨年末の個展のつづきみたいなものだけれど、近くに買い物でも来た時寄ってみて下さい。詳細は個展情報にて。



  はる131    2001/Jun/22(Fri)

   額縁は現実世界と作品世界との境界みたいなもので、私の場合必ず必要なものだ。作品のふちにテープを張って展示する人もいるけれど、何となく頼りない気がするのは私だけか。

 あっち世界とこっち世界とよく私は使うけれど、具体的な確信があっていっているわけではない。ただ何となく絵画とか音楽などの芸術が目指す「美の世界」とか、宗教でいうところの「悟りの境地」とか、科学が目指している「究極の真理」とか、心理学で言うところの「無意識の世界」とか、ものすごく大胆で乱暴なくくり方だけれどあっちの世界だな。

 それに反して我々が日常生活している日々刻々変化しつづけている混沌とした雑多な世界はこっちの世界かな。額縁はこっちの世界に空いたあっちの世界ののぞき穴みたいなもので、かなり頑丈な結界を張らないと破れてしまうのじゃないかと心配してしまう。元来額も絵のうちで自分で作るべきなんだなぁ。反省。



  はる130    2001/Jun/21(Thu)

   昼からなじみの画材店に出掛ける。個展のために足らない額を購入するためだ。このお店とは学生時代からの付き合いで、私の人生で唯一つけのきくお店だ。ここに用事で出掛けると10分で済む用事が少なくとも一時間はかかる。なぜそんなに掛かるのかその訳を順を追って述べましょう。

 まず店には正面からはいらず横の玄関から入る。そして奥の居間に上がりこんでまず熱いお茶をご馳走になる。ない時には何の抵抗もなく自分で沸かして入れる。そこに先客がいれば話はもっと長くなってほぼ半日はでてこれない。話が一区切りついたところで、本来の目的である買い物をするのだが、直ぐに代金の合計が出ると思ったら大きな間違いがある。我々のような常連には(つけで買う客といってもよいか)専用のノートが有り、なにやら複雑な計算をして合計がでてくるのだが、運悪く他のお客さんがくればさらに益々遅くなる。

 また途中でピロピロとよく電話が鳴る、そのたびに計算は中断する。急いでいる時は口頭で適当なことを言ってどんどん持って行ってるようにさえみえるのだが、不思議なことにこれでけっこう商売になっているようだ。牧歌的というのか落語的というのか誠に平和な世界だ。こんな世界はここしかないだろうなぁ。末永くお付き合いのほどをお願いします。



  はる129    2001/Jun/18(Mon)

   けっして犯罪者を擁護するつもりはない。気持ちとして事故でもない限り一人殺せば死刑だろう!と言う気もする。また外国には懲役300年とか500年とかあるそうだ、単に死刑にするより罪の意識を自覚させ悔い改めさすにはいい方法かもしれない。

 私が擁護しなければと思うのは精神障害者のことです。人間はそれほど強いものではない。今健康でなんの障害もないと思っているひとでも、なんのきっかけで精神を病むか分からない。そのおそれは誰でも持っている。百人いれば一人、百回あれば一回その可能性は充分にあるのだ。意識された健康な世界と意識されない病んだ世界とを比べてみれば無意識の世界の方がはるかに大きくそして深い容量を持っている。

 我々表現者が心がけなくてはならないことは、強いよりも弱い側に、勝ち組より負け組みの方に、メジャーよりもマイナーに、多数派より少数派、こっちの世界よりあっちの世界のために少なくとも発言しなきゃと思うことだ。ちょっとしんどいけどなぁ。わしも気付けんとあっちの世界いてまうでぇ〜。



  はる128   2001/Jun/16(Sat)

   昨日は私事で一日雨の東京にいた。田舎にいると外出はほとんど車なので、雨もあまり気にしなくて済むのだが、傘さして都会の雑踏の中を歩くのはけっこう難しい。多くの若者は濡れることもいとわず、足元も見ないで私の前を縫うように歩いていく。はったりをかまして傘を捨てて私も歩こうかと思ったが、風邪をひくのが関の山、すごすごと引き返した。

 展覧会を観るのが目的ではなかったけれど、時間があったので青山の根津美術館に寄った。オシャレな町のど真ん中に鬱蒼と茂る雑木林があり、その中に包まれるように小さな美術館がある。小雨にけむった門を入ると美しい別世界。どちらかと言えば個人のコレクションから出発しているこの館は、その存在そのものが美術品のようなおもむきがある。

 企画展示されている茶道具や唐絵の掛け軸よりも、常設展示されている佛頭や北魏の釈迦三尊像の方に興味を持った。名も知れない民衆の静かな「いのりのかたち」は何百年たっても変わらずに人の心を打つ。



  はる127   2001/Jun/14(Thu)

   好きな作家を五人上げよといわれたら、誰をあげるだろうか。歳によって時代によって好みもどんどん変わっていく。何故あんな作家が好きだったのだろうと思うことも多々ある。今ここで上げた作家を生涯好きでいられるか自信がない。しかし今の段階で自分に影響を与えた作家であることは間違いないだろうな。 

 クレー・意外に思うかもしれないが絵を描きはじめた頃から現在までずっと変わらずに好きだな。「子供のような純粋さ」も感じるけれど、意外にこいつはしたたかで計算されていると思うよ。かなり奥が深い。
 
 タピエス・アトリエの片隅に彼の言葉を貼り付けてある。もう10年ぐらいになるかなぁ。「存在としての作品の価値は、イコンに対する祈りと同じくらい強くなければならない」イタリアやスペインには無名だけれど素晴らしい作家がごろごろいる。この人のセンスは誰もまねできない。

  木村忠太・学校を卒業後、先生の絵から抜けたくて四苦八苦していた時に個展を観た。ちょうど仕事のことで悩んでいた時だったから、ドカ〜ンと来た。嬉しかったなぁ。こんな風に描いても絵になるんだ、人を感動させることができるんだ。勇気を貰った。ついでに仕事もやめた。 

 有元利夫・言わずと知れたシンデレラボーイ。時代も彼を後押しした。作り絵、骨董趣味、バロック音楽、テンペラと日本画の中間。オリジナルな物を求めてルネサンス以前の画法にみんな注目しだした。私もご多分にもれず影響される。 小嶋悠司・混沌とした世界。「いのりのかたち」はこの人からもらった。

 もっと書きたいけれど続きはまたの機会に。



  はる126    2001/Jun/13(Wed)

   そろそろ七月の渋谷での個展のはがきを出さなくてはなぁ。今まではけっこう手書きにこだわっていたのだけれどどうなんだろう、貰った人はその違いに気づいていたのだろうか。手書きにも時間的にそろそろ限界がきているので、住所氏名はこの際一気にパソコンにまかせるかもしれない。そのほかに手書きのコメントを加えればいいかなと思っている。単に言い訳だけどね。さて昨日と今日は社会奉仕の日。くたびれた。