20012/10〜20013/31
絵描きのぼやき

  はる75    2001/Mar/21(Wed)

   共通の美しさというのはないのかもしれない。ある時代で「美」とされたものがこの時代では「醜」だということはある。

 しかしどう考えても河原に流れついた、ビニールの紐や缶やぺットボトルが美しいと感じる人はいないだろう。テレビのCMで美しい風景の中をさっそうと走る車のシーンなどで多くは外国の町並みだったり風景だったりする。そんなことを考えあわせると、何が快くて何が不快であるか大方の人の認識は一致していると思う。それにもかかわらずどうして平気な顔をしてゴミを何処でもすてるのだろう、不思議だ。

 もっと不思議なのは使い終わったらゴミにしかならない、そしてけっして自然にはなくならない物をどんどん気にせず平気な顔して作りつづける企業と、その企業から金をもらって私服を肥やすことのみを考えている政治家と、地元の有利に働いてくれることのみを優先する、小市民たちとでどんどん自分たちの首をしめていることに気付きながらも、いっこうに変えようとしないことだ。ゴミを捨てるのは悪いだから決められたルールを守って捨てましょう。いっけん正しいがそうじゃないと思う。はっきりいってゴミにしかならない物を作った企業が悪い。責任とって最後まで回収すべきだ。そのことをどうしてもっと大きな声で主張しないのだろう。

 循環しないものは作らない、買わない、使わない、そのことを世界に先駆けて実践した低成長国家を売りにしてもカッコいいと思うけれどね。



  はる74     2001/Mar/18(Sun)

   ラジオのFM放送を聴くことが多い。ものを考える仕事以外つけっぱなし状態だ。それで感じることは人の声はじゃまになる、特に民放のやたらとうるさいDJは騒音以外のなにものでもない。

 我々の世代はラジオを生活の中で聴いた最後かもしれない。まだテレビがなかった頃、ラジオの相撲の実況中継が楽しみだったし、歌謡曲より浪曲や長唄、三味線や琴が普通だった。

 中学生の頃、鉱石ラジオ(ゲルマニュウムラジオ)を知って飛びついた。初めて自分の小遣いで買えたまっとうなメカかもしれない。今でこそ当たり前だがラジオの深夜放送の始まりはその頃からだ。オールナイトニッポンなどのDJにユーミンなどのスター未満が出演しだしたのはもう少しあとだ。関西ではフォークソングが全盛でフォーククルセダース、高石ともや、岡林信康、西岡たかしなど彼らの深夜放送に熱中した。学生紛争が我々の高校にも波及し、ベ平連やら何やらで学園祭が中止、全学総会なるものが開催されたりで時代は騒然としていた。

 山下洋輔や坂田明の前衛ジャズが一世風靡して,私もFMのジャズをエヤーチェックするようになる。土曜日は渡辺貞夫の「マイディヤーライフ」新宿のピットインには一度行きたかった。NHKの「ラジオ深夜便」ってご存知か?最近は夜更かししなくなったので聴かなくなったけれど、よく聴いていた。ご老人をターゲットした番組だったけれど、若い人もよく聴いてるようだ。今日はしまりのない文章だけどこれでおしまい。



  はる73    2001/Mar/17(Sat)

   美大の大学院をでたばかりの若い作家の個展を観にいく。汚れを知らない初々しい印象を受けた、反面この子はこれからどうやって生きて行くのだろうと余計なことだけどちょっと心配になった。美大にしろ音大にしろ世の中に芸事を教える学校は星の数ほどあり、この時期にいっせいに卒業していく。生活のことを考えなくていい人は別にして、多くの人は何らかの仕事をしていかねばならない。

 多くの作家予備軍は大学に入ることでほとんど燃え尽きてしまう、若干残った作家のたまごも卒業をピークに作家活動を止めてしまう。正確にいえばやり続けることが困難になる。これから後の長い人生をどうやって生きればよいか、ただでさえ難しい問題を、芸事を続けることでさらに難しくする。他人事ながらがんばれよと一声かけたくなる。

 反面世の中にはそれほど多くのアーチストはいらないわけだから、どうにもならないと思ったら速めに諦めろ。生き方は一通りではない「人生いたるところに青山あり」だ、生きて行けさえすればいいじゃないか。そんなふうに思った。



  はる72    2001/Mar/16(Fri)

   大金持ちは昔から金貸しと相場がきまっている。洋の東西を問わず金貸しは嫌われ者の代表格で、小説でも芝居でも悪役をいってに引き受けている。

 ルネサンスのパトロン,メディチ家(メジスンの語源)ももともとは薬屋だったけれど、途中から悪く言えば金貸し業で財をなした。物を作ってちまちま売っていたのでは、どうやってもたかが知れているわけで、一番健全だけれど一番ドン臭い銭もうけの方法だと思う。

 資本主義は最終的に、財を持った資本家が金が金を生む投資に走る。投資は言葉を変えると博打だ。アメリカには投資(博打)を是とするお国柄があり、小学生が学校の授業で投資の勉強を堂々とやっていて、成績のいい生徒は表彰されていた。根本的に博打はやくざか博徒が隠れてこそこそやるものだという健全な日本人とは違う。貧乏人が慣れない大金を持ったがために,前後の見境もなく世界で投資に走り、いいかもになったというのが今日の日本の状態だろう。

 ドン臭いけれど日本は物を作って売っていく職人国家になるしかない気がするがね。高い授業料はらったけれど。



  はる71     2001/Mar/15(Thu)

   詩人とか芸術家なんて職業はない。他人からみて「あいつは詩人だから」とか「芸術家の気持ちはわからんよ」とかある意味で非難めいた言葉として使うことが多い。だから「職業は画家です」とはなかなかいいずらいものがある。

 「絵描き」というと「作詞家」とか「作曲家」と同じように単に絵を描いて生活しているんだなぁ、という感じがあっていい易い。「作画家」という言葉があればいいのかもしれないが、注文を受けるイラストレイターとか挿絵画家を指す感じがしてちょと違うきがする。

 芸術家というのは生き方の問題である。宗教とか哲学に近いものだ。ただし宗教にも学問にも属さず、聖と俗、インサイダーとアウトサイダーのはざ間にいて、どちらにも自由自在行ける特権を持ち、表現する義務がある。そうやって人々の精神を解放し癒す使命がある。ただし時々脱線する愛嬌もあり憎めない、そういった生き方をいう。(この話は前にも書いたのだが、なぜか消えてしまったのでひつこいけれどもう一度書いて置きたかった。)



  はる70    2001/Mar/14(Wed)

   私の絵は下地作りから始まる。作業が始まると前にも書いたようにさながら鳥の巣状態になる。アトリエの真中にどかりと腰を据えパネルにボロ布を張りこんでいく、チョンチョンとコテにのりをつけパネルにしっかり塗らしたボロ布を空気が入らぬように,しわにならぬように張り込んでゆく、ちょっとした職人だね。

 前にテレビで見た下駄屋のおやじとか昔よく回ってきた傘の修理屋のおっさんの仕事とよく似てる。まんざら嫌いじゃないんだな、これが。絵を描くのはしんどいけれど、まだまだ先の話だ、ここらへんは楽しいね、鼻歌でも歌いながらチョチョチョイノチョイはい一丁あがり。絵など描かずにこれだけやっていた方が幸せな気がするがね。もっとも絵描きも職人の端くれでね、なんでもできなきゃいけなかったのよ、昔は。



  はる69    2001/Mar/13(Tue)

   CTスキャンを受けたことがあるか?簡単にいえばレントゲン連続断層写真とでもいうのだろうか。肝臓なら肝臓を1cm間隔でスライスしたように透視できるというわけだ。

 人間のからだというのは同じようでいて顔と同様にまったく同じという人はいない。もっといえば一つや二つかなり人と違っていたりする、はやくいえば奇形だ。生きて行く上で全く問題ないので普段は無視されているのだが、詳しくしらべるとぼろぼろとそんなものまででてくる。私の場合心臓はど真ん中にあって、大静脈が二本に枝分かれしているそうだ。 

  閑話休題、この間テレビを見るともなく観ていると、韓国の音楽事情みたいなことをやっていた。突然韓国語のラップが聞こえてきて,日本の若者と同じようなことをしているんだなぁと思ったのだが、アメリカの植民地でもないのにどうして我々はそんな格好だけをまねするのだろうか。アメリカの歴史の中で虐げられた黒人たちがいて、つらい労働があってそんな中からブルースが生まれたり、ジャズが生まれたりラップ音楽が生まれたりする事情はわかる、でも我々の血の中にはないものだからなぁ、どうやってもかなり無理があるのじゃないか。

 経済の上でグローバル化とかいって、いままでの日本のやり方は間違っている、この世界基準に合わせなさいといってスタンダードを押し付けてくるけれど、単にそれはアメリカ化じゃないのかなぁ。人のからだがそれぞれ違うように,我々の中を流れているアジアの血は変えようがなく、単にカッコイイからといって単純にその国の文化まで真似するのは,竹に松を継ぐみたいなものでどうしても本物になりきれないチャチなものしかできないと思うがどんなものか。



  はる68    2001/Mar/12(Mon)

   「悲しくなったらご飯をたべて、またおなか減ったらご飯たべて、先のことは考えんのよ」(藤山直美主演 「顔」より)このせりふに涙腺が開いた。気が付くと横の家人もうるうるきていた。何のこともないせりふなんだけれど、我々二人のつぼに入ったということかな。

 人は歳とると涙腺が柔になるという、ずうっとそう単純にそう思ってきたけれど、本当はそうじゃなく積み重ねた悲しい経験が引きがねになるのじゃないのかなぁ。喜びも悲しみも同じ数だけあるのだけれど、どうしても悲しい思い出だけが残っていってしまうようだ。「悲しい人しか見えない」どこかで聞いたせりふだけれど、私はどんなことでも感じないより感じた方が人生豊かになる気がするがどんなもんだろう。



  はる67   2001/Mar/10(Sat)

   家の近くに大型のスーパーマーケットができたのは小学生の頃だった。「せいきょう」とは何のことか訳もわからず、10円のものが9円に20円のものが18円になるのが不思議だった。「けったいな名前やなぁ、でもええわ安いから」と深く考えることもなく、明るく大きな店内いっぱいにお菓子からおもちゃ、日用雑貨、電化製品、晩のおかずまで所狭しと並んでいるのを、なんとなくうきうきとながめ回っていた。

 今でこそ当たり前の風景だが、買い物かごを持たず、好きな物をお店の備え付けの籠に適当に入れ、その場で金を払うのでなくレジで清算するというやりかたも、当時は革新的でアメリカやヨーロッパ(当時はよく知らなかったけれど)のようだとカッコよく思った。反対に今まであった昔ながらの市場は見る影もなく、シャッターを下ろした店も多くなって、最後にはなくなってしまった。

 うんと小さい頃市場は楽しみの一つだった。魚屋なら魚屋の独特の掛け声があり、雑踏と店の主人と客とのやり取りがあり、どことなく生き生きとした活気があった。昔がすべていいはずはない、それは当然のことだ。しかし便利、効率がいい、安い、速い、と経済的なことだけを考えるとそれが至上命令なのだが、そのために我々は何を失ったのかよーく考える必要があると思う。

 私が一番問題にしたいのは、仕事の質の変化だ。多くの職業からプロ=職人が必要でなくなった。パートタイマーは労働を売ってるのではなく、その人の時間をうっている。コンビニの店員はどうやっても売り子でそのことに生きがいを持つことは難しい。魚屋のおじさんは魚屋としてプロの職人だ、ただの売り子ではなかったはずだ。我々はもう一度家内制手工業ぐらいからやりなおす必要があるのじゃないかね。



  はる66    2001/Mar/7(Wed)

   おおげさじゃなく、本当に十何年ぶりに床屋へ行く。今までは自分で風呂にはいった時に、適当に剃刀でカットしていた。後ろの方などうまくいかないだろう?と疑問におもうかもしれないが、なれればうまくいくって、誰でも。ただカットするだけならそれほど技術はいらない。それに失敗しても誰も怒りゃしない、自分が一ヶ月ほど我慢すりゃいいのだから。今まで行かなかったのになぜ急に床屋にいったのか、そのことが今回のテーマだ。

 昔詩人の富岡 多恵子さんが「年をとるということは、体力をカバーするお金が必要だということだ」と何かで語っていたが、まさにその通りだ。真冬の風呂場でさむいおもいをしながら剃刀で自分の髪をカットするその行為と三千幾らかのお金とを天秤にかけて、十何年ぶりに前者が負けた。そのことの意味は大きいかもしれない。



  はる65 追加    2001/Mar/6(Tue)

  五里夢中は五里霧中の間違いです。誰か気が付いたのかなぁ。



  はる65      2001/Mar/6(Tue)

   大阪には学生時代も含めて2,3年いた。10代の後半から20代の前半の記憶はもう恥ずかしいことばかりで、もう一度時間をあげるからやりなおしてみろといわれても、あまり気が進まない。何をやったらいいのか、自分には何ができるのか、皆目見当もつかず暗中模索、五里夢中、あっちこっち顔出しては、恥じかいてすごすご引き返す、そんなことの繰り返しだった。

 大阪などの都会の雑踏の中にいると、自分がいかにも小さくて、無力で、意味のない存在かに気付かされる。初めて他人と意味のない殴り合いのけんかしてボコボコにされて、映画やテレビのようにはいかないカッコ悪い自分に嫌気がさした。大阪というと自分のそういった青春時代の傷を見るようでつらい。唯一の救いは、淀川沿いの淀屋橋や天満橋の垢抜けた洋館たちで,中央公会堂はよくスケッチした。



  はる64     2001/Mar/3(Sat)

   実にゆっくりと、でも確実に沈んでいっているんだろうなぁ。私は政治的人間じゃないし、なにも偉そうなこといえる立場でもないけれど、ここに来てこの国は大きく傾いてきていると思う、もう取り返しがつかないかもしれない。

 特に政治がもうだめだ、こんなになっているのに誰も本当のことを言わないし、何も変わらないし動かない。もともと最近の政治には多くを期待していなかったけれど、それでもそれなりに一目置いていたところもあった。明治以降親方日の丸でここまでやって来これたというのもその理由だけれど、もうだめだ。

 だいたいこれだけ借金していて未だに借金しょうという政策が信じられない。普通まず借金返すよ、それでなきゃこれから何年かかって返すよというビジョンを示すよ。国民もばかじゃないから「これこれの理由で年金は少し我慢してくれ、消費税は少し上げるよ」とちゃんと説明すれば納得すると思うけれどなぁ。いつまでも大本営発表で、今まで通り公共事業はやる、ばら蒔きやって景気をつけよう、金は借りまくってそのうち徳政令で帳消しにしてくれるだろう、そんなんばっかりやってるから国債のランク下げられて二等国になってしまう。変に今内向きになってるし、憂国が愛国になって戦争に向かって行くことを杞憂するなぁ。今日は少し雄弁だ。



はる 63      2001/Mar/2(Fri)

   ある大学のオケラの卒業演奏会に行く。こういった感想はとても失礼なんだろうけれどあえて書く。とにかくブルックナーは長すぎる、最後は時計を見ながらはらはらしていた。 田舎から出て行った人間にとって最終に乗れるかどうかは、けっこう大切な選択肢だと思う。それ故とてもゆっくり音楽を聴いてる気持ちになれなかった。

 クラッシクのコンサートにいっていつも思うこと。どういった鑑賞の仕方が正しいのか、それがよくわからない。たとえばジャズやロックの場合からだを揺すり,調子をとるのが普通でしょう、あくまでもノリとかスィング感みたいなものが第一だと思うのだけど。クラシックの会場ではほとんどの人が直立不動じゃないけれど,お行儀よく椅子におさまっている。首を振る人もあまり見かけない。ああいう状態じゃ二時間は苦痛なんだけど。

 私は邪道かもしれないが他の人に迷惑にならない程度に首を振り,指揮者になったつもりで手を小さく振る、あれって隣にいる人は気になるだろうね。この場を借りてあやまっておきます、すんませんでした。それにしても交響曲は私には荷が重過ぎるようだ。音の厚みとか音色の違いによる音の立体感みたいなものの良さは理解できるし、構築性とかある種の昂揚感みたいなものも理解できるけれど、やっぱり面白くない。西洋の油絵に感じた違和感みたいなものと同じものを感じる。三重奏とか四重奏のような室内楽なら楽しめるのだが。坪庭とか盆栽みたいな小さな世界に親近感をかんじるのと同じかもしれないね。



はる62     2001/Feb/28(Wed)

   小さい頃ちょっとお腹が痛くなったりしたときに「くまのい」なるものを飲まされた。それが(熊の胃)なのか(熊野猪)なのか今となっては分からないが、とにかくやたらと苦いもので子供心に(熊の胃)は苦いものだと思った。あと熱さましの赤い丸薬のとんぷくや歯の痛みを止める根治水など、お多福とかだるまの絵が描かれた小さな紙袋に入れられてくすり箱にはいっていた。

 一ヶ月か二ヶ月おきぐらいに大きな風呂敷づつみを担いだおじさんが、色々な話をしながら減った薬を補充していった。薬はそうやって何処からともなくやってくるおじさんが、ただで配っているものだとかなり大きくなるまで思っていた。小学校であれが「富山の薬売り」だと教えられたとき何だか少し暗い気持ちになったのをおぼえている。



  はる61                       2001/Feb/25(Sun)

   「ものつくり大学」なんて聞いたこともない学校が泥まみれになっている、まだ一人の学生もいないのにすでに先が見えてしまった。ドイツの職人学校のマイスター制度を真似したのだろうけれど、こういった件だけでなくバブルの頃に浮かれたように,何の計画性もなくただの思いつきで次々と実行された巨大プロジェクトがこのところバタバタとつぶれている。

 地道にものを作って商売していくのではなく、金が金を生むようなまやかしが大手をふってまかり通っていたあのバブルとはいったいなんだったのだろう。冷静に考えれば誰だっておかしいとわかるはずなのだが、当時まじめに家業を捨てて投資に走ったおっさんも多かった。右肩上がりの成長が当然で,給料は必ずアップするものだと誰もが信じて疑わなかった、それは一種の信仰に近かった気がする。

 怖いのは新聞やテレビのマスコミもだれも本当のことは言えなくて、浮かれた人々をくいとめることはできなかったことだ、たぶん戦前の軍部の独走を良くないと思いつつも誰も止められなく、あれよあれというまに全面的な戦争にのめり込んで行ったこととよく似ている気がする。たぶん人間はその時代の空間に身を置いた場合、何も見えなくなってしまうのだろう。

 歴史的な事実を事実として記録し、責任の所在を明確にして二度とそういったことがないようにしっかり反省しなければまた忘れた頃に同じ過ちをおかすだろう。しかし日本人にとって一番にがてとすることだ。今日は少しかたいなぁ。



  はる60    2001/Feb/24(Sat)

   新聞の折込広告を見ていると案外時代の流れがわかる。最近はエステの記事や健康に関する(一部眉唾ものの薬など)広告に混ざって、電気屋さんの広告が多い、同じような安売り店のしのぎをけずった争いも我々消費者の利益になるのであれば大いにやってもらってけっこうだが、あれだけ毎日広告を入れればそれだけで膨大な費用だ。当然それが価格にはねかえってくるわけで、なんだか本末転倒だなぁと思う。

 電気屋さんといえば我々が学生の頃は,オーディオ機器が花形の主力商品で、プレイヤーだけで5,6万もした。ダイレクトドライブという今の人はほとんど知らないとおもうけれど、モーターで直接レコードをまわすプレイヤーが初めて市場にでた時で、ワウフラッターいくらなどという回転むらを表す数字に一喜一憂していた、高級機になると赤いストロボが付いていて水の波紋のような干渉波が現れ,回転むらが起きると波が乱れてわかるようになっていた。あの時プレイヤーの回転むらにあれだけこだわっていたのに、CDプレイヤーがでたらほとんどきにしなくなった。

 熱にうなされたようなあのこだわりは何だったのだろう。今電気屋さんにいってパソコンのコーナーをみると当時のオーディオコーナーを思い出す。



  はる59    2001/Feb/23(Fri)

   本なんかの場合タイトルってとても大切だと思う。ほとんどの本屋では背表紙しか見えないのだし、それによってだけ人の気を引くのだから。最近の言葉でいうならキャッチコピーっていうのだろうか、まぁ新聞の下の週刊誌の見出しにはのタイトルだけでも中身が想像できるうまいコピーもあるね。

 もともと日本人には俳句や短歌などの伝統があるので短い文章で世界を表現するのはうまいはずだけれどね。絵画にはもともとタイトルなどなかったのかもしれない、後世の人が便宜上名前をつけたものも多い。レンブラントの有名な「夜警」など時代焼けしたニスを洗い流したら昼間のように明るかったという逸話もある。

 時代が下がって抽象全盛の頃はタイトルに一切の文学臭を排除してクラッシク音楽のように「作品1」「作品2」とかつけるが流行ったこともある。私はタイトルも作品の一部だと考えている、だって多くの人はタイトルから見るものこれを使わないのはもったいないね。ない知恵をしぼってタイトル考えるのも楽しみの一つだ。



  はる58    2001/Feb/23(Fri)

   森 茉莉(漢字はこれでいいのか)の小説に「貧乏貴族」ってなかった?「贅沢貧乏」だっけ。詳細は違うかもしれないがこんなシーンがあった。ラムネやサイダーなどの綺麗なビンや小さなキャラメルの箱や缶の隙間に、もう色が変色して定かでなくなってしまったボッチチェリの「プリマベラ」(ビーナス誕生かもしれん)の切り抜きを飾り、どんな宝物より美しいと一人納得するところがある。

 当時貧乏学生だった私は毎日静物画ばかりを描いていた。大学生としてはけっして優等生ではなかったけれど、絵描きのたまごとしてはまじめだったと思う。どこからか集めてきた大小のガラクタを自分のイメージを元に組み直す、ピカソやブラックが考えた立体派の手法を夢中になって追体験していた。何でもないただのガラクタがある時、周りの空間と完全に調和して心地よく響きあう美しい瞬間がある。そんな毎日とどこかでリンクするところがあったのだろう、そのシーンだけおぼえてる。



  はる57    2001/Feb/21(Wed)

   毎年50点ぐらいの小さい作品を作る。たぶんそれが全部売れたとしても絵だけで食べられるか微妙なところだ。そういう訳で週の前半は出稼ぎに出る。これがけっこう憂鬱の種なんだけど人に言わせると、案外ストレスの発散になっているのじゃないかというのだけれどね、どうかなぁ。

 人とうまくやれないわけじゃない、話をするのも好きなんだけれど、どうしてか人を緊張させてしまうところがあるみたいだ。そうならないようにと考えること自体もう不自然だものね、そういったオーラが出てしまうのだろう。最近はそれも私のパーソナリティーだと思ってるけれど。それ故当分この出稼ぎ仕事は続き憂鬱から解放されることもないだろうね。



  はる56    2001/Feb/18(Sun)

   「今ある問題は全て少しずつ自分に似ている」いつ頃からだろうか、絵描きになりたいと想ったのは。イラストレイターとか挿絵描きみたいな仕事としての絵描きではなく、いわゆるげいじゅつ家として表現者として絵を描いていけないだろうか、あわよくばそうして食べてはいけないだろうか。

 若い時、どんながりがり亡者の守銭奴も芸術家にあこがれる時がある、やがて時と共にしだいに忘れ本来の自分に戻ってゆく。あの巨人のピカソでさえ若い時は甘い感傷的なブルーな絵を描いていた。多くの人は大人になる前に通り過ぎてしまう、そのことを未だ性懲りもなくやっている、ある種青春の残り香みたいなものだ。作品が売れたりするのも案外多くの人のそこの所をくすぐるからかもしれない。そうであったとしても、どこかで少しそんなマイナーな絵描きの存在もいいかなと思う自分がいて問題は自分に戻ってくる。



  はる55    2001/Feb/17(Sat)

   今日の朝刊に北村 薫さんのこんな記事が載っていた。小学生のころの事、歯をみがみながら考えた。「毎日やって来る、こんな平凡な瞬間なんて、絶対記憶に残らないだろうなぁ」

 そういった気持ちって良く分かる。毎日繰り返される、まったくなんでもない日々、時、瞬間、過ぎてしまえば、もう二度とは振り返らないありふれた日常、そんなものの積み重ねが私の人生なのだが、そういった何気ないひと時がただただ無性にいとおしく切り取って置きたくなる時ってあるよなぁ。

 作家というのはそこのとこをうまい具合に「ことば」にする、あぁこの感じっておれにもあるなぁと共感させれば、もうその作家の手の内に乗ってしまったも同然だ。自分のことを語りながら、いつのまにか広く一般的な普遍に至る、これがプロの作家というものだ。画家でいうならだれだろう、たとえばクレーとかピカソとかだろうか。子供の様でありながら大人も充分に満足させる絵。あぁ本当に豊かないい絵を描きたいものだ。



  はる54    2001/Feb/16(Fri)

   「遊」・・・方は旗の意味、それも自分の氏神さまをしるした吹流しの象形。子はそれを手に持ち動きまわるかたちの象形。まだ多くの神が存在していた時代、自分たちのテリトリーを離れるときは氏神様のご加護を必要とした。「あそぶ」とは神とともにあることを意味した、またそういった状態、何者にも囚われない自由な境地をいう。ウンなるほど。



  はる53    2001/Feb/15(Thu)

   団体展の功罪。よく言われるのが「絵画は個人で創造するものだ、それにもかかわらず徒党を組むやからの気が知れない」確かにその意見もわかる。「**会の会員で一年に一作しか描かないで画家といってはばからないのがいるがあれは絵描きか?」その意見もよくわかる。

 団体展はある特殊なピラミットと築いていて、日本独特だとおもうのだが下のものはなかなか意見がいえない仕組みになっている。本当は絵描きは作品だけ描いて発表すればいいのだけれど、いうのは簡単だがやりつづけるのは難しい。なぜなら無名の画家の展覧会などだれも来ないからだ。多くの場合絵より肩書き、人気で足をはこぶからだ。絵の良し悪しなどどうでもいいのだ。一人一人が自分の意見を持っていいものはいい、悪いものは悪いと言える国民になればきっとその時は団体展もなくなっているだろう。

 それにしても人気の芸能人が有名な画廊やデパートでどうどうと個展をやって即日完売してしまう、なんだかおれたちゃ何をやってるのかなぁと思うね。関係ないけど。



  はる52    2001/Feb/13(Tue)

   さすがに神社のお社の中でずうずうしく寝る勇気もなかったので、同じ境内にある物置小屋のやっかいになることにした。こういった旅の場合早寝早起きが鉄則で日が暮れたら早々に寝ることにしている。旅の疲れもあってすぐに寝込んでしまった。ザクザクと玉砂利をふむ音で目がさめた。不思議なことに私のいる納屋の前でぴたりと止まるのだ。「誰かが用事で納屋を開けにきたのか、まずいなぁどう言い訳しょうか」と思案してると、次から次ザクザク、ザクザクと何人もの人がやってくるではないか、こうなったら先手必勝、さきに扉を開けてあやまっちまえと根性を決めてエイッヤッと開けたら、だれもいなかった。

 後日談、四国にはたくさんの巡礼さんがいるが何故か若い坊さんと一緒に旅することになった。その時にその話をするとさもありなんとこんな話をしてくれた。「神社はその地方独特の霊を祀ってあることが多い、良い霊もあれば悪い霊もある。たぶんそれはどちらかの霊が君にいたずらしたのだろう、それだけですんでよかったね。そいいった意味で一番安全なのはお寺の縁の下だよ」と教えてくれた。おしまい



  はる51    2001/Feb/10(Sat)

   占いとかまじないその他霊感みたいなものは私にはないし、幽霊もUFOも見た事がない(UFOの方は一度見てみたいものだが)

 高校を卒業してすぐの春休み、それまでの受験勉強のまねごとから開放されて、どうしても四国一周の巡礼の旅に出たくなった。体力的にまったく自信がなかったので、適当に歩いてはヒッチハイクでと簡単に考え、当時実家の納戸の片隅にあったフーテンの寅さんが持っているようなトランクを片手に精一杯のかっこをつけて出発した。当時はそんな変な格好のフーテンでもけっこううまい具合にヒッチハイクでき、まぁ途中色々な人にごちそうになったり家に泊めてもらったりで、なかなか快調な旅を続けていた。

 室戸岬の手前に中村という小さな漁港がある、昼間のうちにそこに着いて、今日はもうここまでにしょうと銭湯を探して一風呂あびて、一膳飯屋で早いめしをくって、今日の寝場所を探しに町をうろついた。町外れに小さな神社があった。どんな小さな漁港でもそうだが必ず海の安全を祈願する神社がある。お寺なんかと違いはるかに陰々減々として怖い、今ではそう思うが当時の私は何の恐れもしらない青少年だった。 つづく