絵を描く材料
 (絵を描く材料1)
 子供の頃、はじめて買ってもらった画材はクレパスだった。よく知らなかったのだが、クレパスというのは商標らしい。一般的にはただのパスでいいようだ。それはともかく、幼稚園だったか小学校だったのか定かではないけれど、兎に角、学校から帰ってくると茶の間の机の上に十二色のクレパスとスケッチブックが置いてあった。前にも書いたことがあるけれど、我が家には子供のために学用品以外買うという習慣がなかった。それ故に、いやそれだからこそ、そのことがとても印象深く私の脳裏に残っている。それほど私が絵を描くことが好きだったと言えば、この話はめでたく終わるのだけれど、そういった話は特になく、この話はこれで終わってしまう。

 油絵を本格的に勉強し始めた頃、「本格的な油彩画」とはどういったものか、次第に興味を持ってきた。その頃時代的にちょうど古典画法が見直され始めていたときで、美術雑誌なんかもそんな事を盛んにとりあげていた。ご多分にもれず私もそれに興味をもった。

 その頃是非読まなければならない油彩画のバイブルというのが、グザヴィエ・ド・ラングレという作家の「油彩画の技術」という厚い本だった。多くの若い作家はこの本に感化されたと思う。今日はこの本の話をするつもりだったけれど、導入で終わってしまった。いずれ機会があれば、続きを。

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 (絵を描く材料2)
 西欧の油彩画というのは科学だという話は前にした。要するにどうすれば現実の立体の世界を平面の世界に定着させるか、そのことの歴史だ。今では中学生でも知っている遠近法などもそこからでて来た。「油画」とは言わなかったけれど、植物性の油脂を使った絵画は東洋にも随分と昔から伝わっていた。つまり漆をつかった工芸的な絵画のことで、これだけに限ってみれば東洋の方が歴史があるようだ。

 西欧の油彩画の目指していたところは、東洋のそれとは違って、リアルな空間の表現だった。奥行きのある空間と共に一番重要だっただったのは、美しい濡れた色をどうすれば実現できるかだと思う。油彩画の最も得意とする領域は、実はこの部分なのだ。

 ラングレイの「油彩画の技術」が注目されたのは、我々がよく知らなかったこの部分に注目したからだ。それまで油絵といえば何も考えず、画材やさんに出掛けてチューブにはいった、重々しい絵の具を買って、ペインティングオイルといわれる琥珀色の美しいオイルを買ってくればそれで全てだと思っていた。しかしこのオイルには油彩画の長い歴史が隠されている。

 このペインティングオイルの話をしようと思ったけれど、また時間になってしまった。又明日。

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 (絵を描く材料 3)
 絵を描く材料は基本的に古今東西そう変わるものではない。簡単にいってしまえば顔料(色の粉)をメジュウム(のり)で岩や板や紙、布にくっつけるというわけだ。
 常識的に考えてまず一番最初は泥や樹木の汁を手近な物になすりつけていたものだろう。そういった何の接着材を含まない材料で描かれた絵は、ほとんどが残っていない、たまたま石灰質の岸壁に描かれたものだけが、偶然に残っている。
 これは興味のある人は調べて欲しいのだけれど、濡れた状態の漆喰の壁に色をさすと、不思議なことにその漆喰が固まるのと同時に色も閉じ込めてしまう、そんな性格があるということだ。人類が一番最初に発見した最も簡単な耐久性のある画材はたぶんこういった石灰質に描かれた壁画だと思う。これを(フレスコ画)という。西欧の教会や建物の壁画はほとんどこの方法で描かれている。日本でいえば高松塚の古墳の壁画などこれに近い。

 我々が学生だった頃、ちょうど絹谷幸二がこのフレスコ画をひっさげて画壇にさっそうと登場して来た。彼は奈良県の出身で高松塚の古墳の修復も手がけてきたようで、そういった意味では登場して当たり前の人物だったのかもしれない。

 日本ではその接着材として動物の膠(プリンなどを作るゼラチン)をつかった。これがようするに(日本画)と後からいわれている絵画のことで、現在まで色々変化はしているかもしれないが、材料的には(膠絵)といっていいと思う。
 他に水溶性のノリを使えば(水彩絵の具)(ガッシュ)ということになる。

 もうわかったと思うけれれど、油彩画はこの接着剤に植物性の油や樹脂を使った。しかしそこに至るまでに(テンペラ)のことに少しふれなければならない。

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(絵を描く材料4)
 安価で手軽に尚且つ丈夫な画材は何か。このことが絵を描く人間にとって重要事項であった。中でも一度かかれたものが多少の水がかかったぐらいでは剥がれないくらいの耐久性は持って欲しい、と願うのは無理ないことだ。
 フレスコ画はそういった点で非常に優れた性質を持っていたのだけれど、(フレスコ)とは文字通り(フレッシュ)な間だけ、生乾きの時のみしか書き込めないというハンディがある。充分に時間をかけてゆっくり描くということが望めない画材だった。

 テンペラの意味はよく知らないのだけれど、絵を描き始めた昔の人たちにとって、卵が接着材の性質を持っていることは経験上分かっていたと思う。尚且つ不充分ではあるけれど、濡れている時は水で延ばすことができ、乾けば耐水性になることに着目した。

 今でこそエマルジョンといえば多くの人が知っている液体の一つの状態をさすのだけれど、簡単にいえばマヨネーズ状態のことをいう。マヨネーズは卵を仲介にして水と油がほどよい状態で混じり合っている。普通に考えると水と油は相反する性格を持つモノで、一時混ざり合っても時間と共に分離してくるのだが、卵という仲介者がいることによって安定したクリーム状でいることができるのだ。

 テンペラのメジュウムを使った絵画は随分長い間、油絵の下地として使われていた。それはとにかく(水で延ばすことができ、油とも仲良くでき、とても乾燥がはやく、耐水性でもあった)という利便性があったからだと考えられる。反面、腐りやすく、耐久性に乏しく、扱いが面倒だという欠点もあった。

 ともあれ、油絵がファン・アイクによって完成されるまでこの卵によるテンペラ画とフレスコ画が絵画の材料として重要な位置をしめていたことには違いない。

 エマルジョンといえば最近ではアクリル絵の具や水性の塗料は全てこの合成樹脂と水とのエマルジョンだ。もう少しいえばかたちを変えたテンペラ画ということができるだろう。

 次はいよいよ油絵の話となる。

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 (絵を描く材料5)
 琥珀色といいますが、この琥珀とは何かご存知だったでしょうか。私などはただ単に色の名前だと思っていたのですが、確かにネズミ色にしても桃色にしてもさくら色にしても、実物があるわけですから、考えてみますと琥珀というものがあって当たり前なわけですね。まぁ簡単にいってしまえば松脂みたいなものが固まって化石化したものです。
 樹脂にも色々種類があってうんと硬い物から柔らかいものまであってこれが油彩画の重要なメジュウムとなる。基本的に乾燥が速く艶がある、反面もろくこわれやすという性質がある。ゆえにこれからいうところの植物性の油と混合して利用するというわけだ。ちなみにニスというのはこの樹脂を揮発性の油で溶かしたものだ。

 「亜麻仁油を1/2リットルとり、陶器の壷に入れて火にかける。ニンニクのかけらを三個加えて、ガチョウあるいはニワトリの羽がちぢれるまで加熱する」
 これはスペインの画家パチェコ(1564〜1654)が書き残した油の加熱処理する方法を述べたものだ。(「油彩画の技術」ド・ラングレ著p199)これを最初に読んだ時に、錬金術師という言葉が頭をかすめ、油絵というのは何と摩訶不思議な技法かと思った。そしてそのおどろおどろした技法書にのめり込んでいった。

 油彩画を完成させたのは15世紀フランドル地方のファン・アイク兄弟だとされている。しかし当時多かれ少なかれそういった技法で絵が描かれていたのじゃないかと思う。彼らの製作手順は、最初卵のテンペラで白黒のモノクロのデッサンをとりある程度肉つけをして、それからオイルで溶いた顔料を何層もかぶせていく(グラッシー)という方法をとっている。
 何故そんな面倒な方法をとるのかといえば、結局最初の頃の話に戻るのだけれど、現実の空間をいかにすればリアルな表現にできるか、ということだった。色というのは普通我々は物の表面の反射光を見ている。しかし反射光を見ている限り美しい濡れ色を見ることはできない。
 ステンドグラスや木漏れ日が美しいのは透過光をみているからで、青空が美しいのもそうだ。彼らは何とかこれを実現したかった。
 ファン・アイクなどの技法は最初にできるだけ明るい下地で絵を描き、色のグラスを重ねるように透明なオイルで色を重ねていく、そうやって最後に透明なニスをかけて画面を保護すれば完成というわけだ。観る人は表面の反射光を観ているのでなく奥から何層も通り抜けた透過光を観ていることになる。

 そして問題はこのグラッシーに使うオイルをどうするかだった。


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 「絵を描く材料 6」
 こういった材料に興味を持ったのは、当時流行っていたということもあるけれど、ある種の祖先返りのようなところがある。油彩画を多少なりとも真剣にやってみようと思った人間にとって、誰でもが一度は通ってみる道筋だ。
 勘違いしてはいけないのは、これらの事を知ったからといって絵が上手くなるわけでも、偉いわけでもない。絵は鉛筆一本、筆一本あれば可能なあそびだからだ。しかし知る事によって自分の表現に何かしらのプラスになることは確かなような気がする。

 セザンヌによって遠近法は一つじゃないことを知った私は、段々とモチーフを解体、そして再構築することに興味を持ってきた。更に進んで実際の写真やモノをコラージュする面白さに目覚めた。ピカソやブラックのキュビズムの考え方に共感を持ってくる。卒業制作は100年遅れのピカソの総合的キュピズムのマネッコだった。そのうちにギャラリーに晒しましょう。

 とまぁ、ここまでは順当に進んでくるのだが、そこからが難しい。ちゃんとした油彩画の伝統の上に現在があるのであれば、自分なりの方法というのもそこから導き出せるかもしれないけれど、我々にはそういった伝統もなかった。で、一斉に祖先返りしたというわけだ。

 このことは多分絵画だけの話ではないのじゃないかと思う。明治維新以後多くの西欧の科学技術が取り入れられ、一心不乱に学んで来てここまでやって来た。さてこれからどうするかと考えた時にその足元を見つめる時にきたという事だろう。

 自己流ではありながら油彩画の技術を勉強していたのだけれど、結局のところ全て止めてしまった。けれど、そのことが全く無駄だったとは思わない。パネルに布をはりつけ、下地塗料を塗りこんでオリジナルなキャンバスを作ったり、弁柄やとのこをつかった自家製の絵の具を作るようになったのも、この油彩画の技術を勉強したからだと思う。「人生万事塞翁が馬」というわけだ。

 さてオイルの話はまた今度。


はる 688
 「絵を描く材料 7」
 「油の沈殿物を取り除き、太陽の光に当てれば、その作用によって自然に油が澄んでくる(特に一年のうちでも三月は、太陽の紫外線が最も多量なので、この月に晒しておくことをすすめる)」(前出p200)
 加熱処理する時にニンニクのかけらを放り込んで、鳥の羽がかさつくまでかき混ぜろ、しかる後に三月の太陽に晒せばオイルは日の光で純化して澄んでくるとか、これにはけっこうはまった。しかしせっかちな私には適さない処方だとみえて、気が付いた時には晒したはずのオイルは、埃をすってカリカリに固まっていた。

 それでも一度気になったオイルの組成は、既成のペインティングオイルでは満足できるものではなくなっていた。現代は便利な世の中で自分で加熱処理しなくても、もうすでに加工されているオイルが手ごろな値段で売り出されたいた(スタンドオイルという)それと東京の画材やさんからコーパル樹脂を取り寄せて、本を参考に自分のオイルというのもを調合した。この自家製のオイルは意外に使いよく最後までこの自分の割合で調合したオイルを使っていた。

 ファン・アイクによって完成された油彩画の技術は、おなじフランドル出身のルーベンスによってより完全なものになった。
 もし時間があってネットで調べる事ができるならば観て欲しいのだけれど、ファン・アイクたちの完璧なまでのグレードの高さは、全く開いた口がふさがらない。これを観てしまったら、だれもこれ以上のことは出来ないと思うだろう。ファン・アイクたちの方法は、物質的にゆるぎない完璧な作品を作った。
 その後ルーベンスたちがやったことは下書きにテンペラのモノクロのデッサンをすることを止めて、いきなりオイルの薄塗りで荒描きを始めた事(これは作品の即興性が増して、修正がよういになったことを意味する)などが新しいのだけれど、結局油彩画の技術というのはこのあたりがピークで、その後は次第に壊れていく。

 最初に戻って考えて欲しいのだけれど、油彩画の特質というのはリアルな空間とその濡れた美しい色にあるわけだ。でその色だけをとって考えても、油彩画の発色というのは直接その絵の具の色を見るのではなく、何層も重ねられた透過された光をみるために考えられた画材であるということ。そのためにはオイルは艶があり、乾けばグラス状になる必要がある。
 よく言われるように印象派のように、野外に出て即興的に濡れた絵の具をグイグイキャンバスに殴り書きしたような技法というのは、油彩画としては一番不得意でまたやってはいけない方法だということだ。なぜなら乾きが遅いし、そのために薄汚れてしまうからだ。もしそういった描き方をするのであれば、水性のガッシュか最近ではアクリル絵の具の方が向いているということになる。

 私が油絵を止めてしまった大きな理由は、私はもともと視覚的に粉っぽいつや消しの絵肌が好きだった事、長い時間をかけて風化したそういった風味に限りない愛着を感じる事、ツルツルもすきだけどガサガサのほうがより好きだった事、自分の足元をみると油性より水性のほうが合っていると思ったこと、などなど。1997年以降油彩の道具は使っていない。

 取り合えずこの「絵を描く材料」のシリーズは終わります。ではまた。