オリジンの話
はる 2095
 「ナンバーワンよりオンリーワン」という歌があったけれど、何かにつけて、オンリーワンのオリジナリティが問題にされる。この間のW氏の盗作問題もそうだけれど、表現活動に関わっているとどうしてもその問題に行きつく。

 オリジナルという意味は普通、「独創の」とか「唯一の」という意味で使われることが多いけれど、本来の意味はどういうものだったのだろうか。

 本当は全くの独創というのはありえなくてね、例えばどこかの孤島にでもいて、全く情報が入らない状態ならいざしらず(いやそれでも言葉でもって考えているということ自体、何かしら文化的に影響を受けているということだろう)こういった情報化社会に生きていれば、自然と色んなものに影響される。どこまでが独創といえるのだろうか?

 問題が起こった場合、考える方法は一つではないけれど、有効な手段として、一つ前に戻って考えるということがある。どういうことかといえば、上手くいえないかもしれないけれど、やってみよう。

 例えば「あそびべ」という言葉がある。何処でその言葉にめぐり合ったのか、定かにはおぼえていないのだけれど、白川静さんの本を読んでいて、「遊」という言葉の源泉にふれたことが、きっかけの一つであった。彼の解説は驚きに満ちていた。

 詳しいことはHPのアバウトのところにリンクしてある「伊藤さん」の解説を読んで下さいな。簡単に言えば「遊」という字の象形的な意味は、人が旗を持って歩いているかたちだというのだな。

 何故、旗など持っているのかといえば、古代の人にとって自分たちの住んでいる所以外は異郷の地であって、魔物が住んでいると考えられていた。故にそこから離れることは何かしら身を守るご神体に代わる守護神的な「旗」が必要だったのだ。

 また「あそぶ」とは神がかって「忘我」の状態をいうらしい。そういわれてみれば、真剣に遊んでいる時は「私」はない。「・・あそばせ」という言葉には本来そういった意味があるらしい。

 とか、自分の仕事の本来のかたちはどういったものなんだろうか?と考えていると、絵描きとか役者とか芸人やテキヤとか香具師、宗教家とか山師、医者みたいなものは本来一所に住んでなくて各地を放浪してその土地で何かしらの仕事をして暮していた。

 昔は多くの人は土地に縛られて暮していたわけだから、情報も限られていて、案外そういった流れ者は優遇されていたし、ありがたがられる存在だったりした。まれに来る人、客人(まろうど)まれびとという言葉もここらあたりで知った。

 また、職能てきには古代からそういった音楽とか舞とか謡曲を担当する職人たちが存在して「遊部」といわれていたらしい。などなど、そうやってどんどん後ろに戻って考えて行く。そしてどうやらそれ以上戻れなくなったところが「源泉」=オリジナルというのではなかろうか。



 では絵を描く人にとってオリジナルとは何か?考えてみたい。


はる 2097
 オリジナルの話。とりとめもなく・・。

 originalは形容詞だから、名詞でいうとオリジン(origin)ということになる。

 中国には想像上の動物というのが結構たくさんいて、有名な所では竜や鳳凰なんかもそうだな。前に麒麟をモチーフに絵を描いた時に気付いたんだけれど、麒麟も実際には存在しない動物だ。

 まぁ不思議なことに鳳凰は西欧に行けば不死鳥フェニックスとなる、ここらあたりはどこがオリジナルなんだろうか。

 で、想像上の動物というのは考えてみれば、そのときの人間の理想や希望を表しているわけで、ただの絵空事だから無意味なことだとは言えないんだな。

 じゃあ、麒麟というのはどういった思いが込められているのかと調べてみた。

以下(はる 654から蔵出し)

 麒麟は物凄く頭のいい動物とされている。もちろんこれは人が作り出した想像上の動物であるから何とでもいえるわけだけれど、反対に考えてみれば、だからこそ人間の理想、願望というのがよく表現されているといえるのじゃないかと思う。
 麒麟は絶対に人を傷つけないとされている。その角は他を傷つけないために丸く肉付いている。一説によると蟻さえも踏まないように注意して歩くとか。これはいってみれば徹底的な「非暴力」、理想的な「平和主義」といえるのじゃないか。

 もう一つの特徴は麒麟が現れる時は理想的な哲学者、政治家が出てくるときで、この前に出現したのは孔子が生まれたときだとされている。孔子の母は麒麟の足跡を踏んだ時に彼をはらんだとか。馬鹿な大統領の言いなりになってないで、今まさに真の指導者の出現を待つということを考えれば、これも一つのメッセージになるのかもしれない。

 「反戦」「非戦」そんな思いが多少なりとも乗せられるといいなぁと思う。
・・・・・・・・・・・・

 とまぁ、こんな意味がこめられていたんだなぁ。ところで、きりんというのは、一角なんだな。一角獣ということでここでも西欧のユニコーンと関係してくるから面白い。

 ところで、このユニコーン(unicorn)というのは一つの名詞だと思っていたんだけれど、ユニ(uni)+コーン(corn)なんだな。ユニというのはなんとラテン語で一を表す、でコーンは(角)なんだそのままじゃないか!と思うなかれ。

 で(only one)のラテン語は(unicus ウーニカス)、ここからが面白い。この(uni)は(unique ユニーク)(universal 普遍的)とつながってゆく。

 ということは、オンリーワンの元の意味をたどってゆくと、ただ一つのものは個性的であるし、普遍的でもあるということになる。

 でさらにこの普遍的という意味を調べてみると、
 1.すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること。
 2.宇宙や存在の全体にかかわっていること。

 結局言いたい事は、全ての源(オリジン)はすべからく自分のなかにあり、でそれは宇宙や存在の全体にかかわっていることでもある、ということなんだな。

 とりとめもない話で、すんません。まだまだつづく。

はる 2098
 オリジンの話3

 この(unique ユニーク)と(universal 普遍的)の話は、結構本質的な事柄ではないだろうか。

 どういうことかと言えば、まぁ普通に考えて(only one ただ一つの)ということは、掛け替えのない唯一のもの、そんじょそこらに同じ物があってはならない、ただ一つのもの、貴重なもの、という意味が込められているね。まぁだからこそそれが(ユニーク)個性的ということになるわけだ。

 (ナンバーワンよりオンリーワン)の歌詞に含まれている意味も、だから貴方は掛け替えのない大切な人なんだよという、多分そういったことが唄われていると思うんだな。

 ところで、もう一方の(universal 普遍的)の意味は、私は随分と考え違いしていたところがある。言葉の音として(不変的 変わらないもの 一定した)というふうに理解していた。

 絵を描くことは自分の個性をのばすことだ、いかに人と違うユニークな存在であるかそのことを確認する、そのことが一番大切なことだというふうに考えていた。独創性、オリジナリティが作家の生命線だと考えていた。

 しかし、ただ一人の存在であることは当たり前のことなんだな。他と違うことを競うことが最も大切なテーマである仕事など大した仕事ではないのではないか。

 自分のスタイルを作って喜んでいても、そんなものはいずれは真似されるかただの流行で終わってしまう。すぐにもっと目新しい作品に取って代わられてしまう。AのものをBにした程度の違いで個性だユニークだと主張するのもおかしなものだ。本質的に違いはない。

 ところで、普遍とは(すべてのものにあてはまること。すべてのものに共通していること)

 全く正反対のことなんだな。自分にしかないただ一つのものを探して、小さな違いをあげつらって喜んでいたんだけれど、そうではない、みんなに共通の何か、どこにでもある何かを見つけるんだよと言われた気がした。

 これは目からうろこだな。自分の進むべき方向を教えられた気がした。



 つづく

はる 2099
 オリジンの話4
 ところで、同じような言葉で最近よく耳にするのが、「ユビキタスubiquitous」「時空自在」と訳すそうだけれど、まるで孫悟空のようなイメージがあるな。

 これも元はラテン語の(ubique いつでも、どこでも)という言葉からでているそうだ。

 ところで、英語のユビキタスの意味には「神の遍在」という、意味があるらしい。もともと西欧のキリスト教などをみると、基本的には唯一神で他の神は一切認めないという結構厳しい掟がある社会なんだけれど、その神は唯一でありながら何処にでもいるという離れ技をやってのける。

 誰かが言っていたけれど、砂漠の民のような厳しい環境の元では生き残って行くには、そういった激しい排他的な掟(神)が必要であって、我々のような湿潤な生物が生息するに適した八百万神の生息する、アジアモンスーン気候に棲んでいるような人には到底理解できないてなことをきいた。

 そうやって考えると、偏在のありようも西欧型の唯一神的な分裂型の「いつでも、どこでも、だれにでも」よりも、元々我々が持っているアジアモンスーン型の八百万的な「いつでも、どこでも、だれにでも」の方が、我々には分かりやすいね。

 ところで、オリジン(源)の話をしていたら、いつのまにか神の話になっている。そう、結局一つ元にもどって考えるということを繰り返して、もうこれ以上戻れないというところは「これ」なんだ
な。

 「これ」の実態は分からない。見えないしつかめない、けれど確実に「そこに、ここに、どこにでも」存在するものなんだろう。「これ」は誰にでも理解できて、分かりやすくて、またあることが普通で、安心できるものなんだ。

 時々「これ」を掴んだと思うときがあるのだけれど、意識するとすぐにまた元の木阿弥だ。

 ボケてきてあちらの世界とこちらの世界を行ったり来たり出来るようになって、初めて「これ」がつかめるのかな。まぁそう考えるとボケるのも悪くないかな