おおいなるものの意志

はる 2071

 多分人の心の奥深くには「おおいなるものの意志」が隠されているのだろう。なぜなら宇宙が始まって何万年経つのかしらないけれど、今私がここにいることは単に偶然ではなく、その時から決まっていたことなのだ。

 このところ考えていることを言葉にしたらこんな風になった。まだ少し違和感があるな、しっくり言い切ったという感じにはならない。まぁだらだらと書いて行くことにする。まとまらないけど付き合って下さいな・・。

 というのは「美」ということを考えていた。まずもって人は例えば美しい風景とかきれいな花を見て「きれいだなぁ・・」と感動する。でそれをカメラなり絵なり言葉でもって何とかあらわそうとするわな。

 一元的には「美」は自分より外側にあって、まぁそれを美しく表現するのが、表現者の仕事だと考えられている。その場合できるだけ忠実にそれらを写し取ったものが「よい」ということになっている。

 しかしだなぁ、実際の問題はそんなところにはなくてね、何を「うつくしい」と感じたのか、そこのところを問い掛けることが、一番大事なところなんだな。

 実は「美」というのは千差万別、人によって違うのだけれど、その「何に」の部分にその人の人生観やどう生きてきたか、何を是として何を非としてきたか、経験してきたことや、夢や希望、その他諸々が隠されている。

 突きつめていうなら、「美」は自分の中にあって、それを解き明かすというのか、捜し求めるというのが我々の仕事であって、単にきれいな風景やお花を描くことではない。

 で、ここでいう「美」というのは「うつくしい」ということではなくて、「真理」とか「ことわり」といった類のもののようなきがするのだな。

 例えば、我々がアフリカの土俗の祝祭の仮面や衣装、ダンスや音楽に心揺さぶられるのは、それは単に「うつくしい」からではない。もっといえば彼らには文明人のいう「美」という意識さえない。

 言葉でいうならダイレクトに「おおいなるものの意志」ということにならないかな。

 んじゃ、それを捕らえるための方法を考えよう。続きはまた。

はる 2083
 そのことを知る道には大きく分けて二通りある。

 普通に考えるのは直接努力してそのことをつかむということだろう。世の中の学習とか訓練とか修行とか、いわゆる真っ当な社会で正統と認められている方法だ。

 技術とか技といったものは、そういった長い時間かけることによって得られるとされている。

 有為の奥山、今日越えて
 浅き夢見じ、酔いもせず

 わき目もふらず努力せよ、それが成功の秘訣だというわけだ。

 とここまでが自力本願てやつ。そりゃあその通りなんだけれど、とあまのじゃくな私が言う。そんなやつぁ技術屋でね、コツを掴んだとたん大事な物を見落としてしまうんだ。大体そんなに時間をかけてりゃ死んじまうよと。

 自力じゃなきゃ他力本願でね。自分じゃ何もやらない。全面的に任せてしまう。「捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」ってわけで、なるようになれ、ケセラセラというわけだ。

 まぁここまでになれば本望なんだけれどね。間違うとただの怠け者か世捨て人になっちまう。難しいところだな。

 けれどね、よくはわからないのだけれど、探しているものはみつからないものなんだな、探しているうちは。探すのをやめた時にはたと気がつく。自分の中にそれがあることにね。

 何やら禅問答

はる 2084
 ミクストメディアなるものを自分なりに訳してみた。異種材料混成技法というのはどうだろか。

 混合技法・という言葉は伝統的な西欧絵画であるところのテンペラ画と油彩画の混合というところで出てくる。

 絵画とは、紙や布、板などの上に何らかの顔料(色の粉)でもって描かれたものということなんだな。それをどうやって定着するかで色んな言い方が出てくる。

 まず我々の住んでいる東洋では墨をはじめとしてニカワを定着剤として使うようになった。ニカワは優れたのりで、乾けば人の力でははがせないほど固着力は強い。しかるに暖めることで簡単に柔らかくもなる。

 日本画といわれる絵画はこのニカワをつかって岩絵の具という顔料をとめて行く、まことに古風な絵画である。元来自然の中に存在していた色のついた岩石は、ほとんどが今宝石の部類に入るので、純粋な日本画はある意味で非常に高価な砂絵ということができるだろう。

 また簡単な水彩絵の具はのりの材料としてアラビアのりを使っている。乾けば一応定着するけれど、簡単に水に解けてしまう。それが使いやすいところでもあるけれど、堅牢性ということでは少し落ちる。

 西欧では絵画は科学の一部だった。如何に自然をそのまま写し取るかということに苦心した。正確な形ということでは遠近法が考えられて、光と影でもって立体を表現するという方法が考えられた。

 それからどうすれば永遠性のある強い堅牢な画面が得られるかとか、濡れたような生々しい色彩をどうやって得られるのか、というようなことが大きな関心事だったようだ。

 多分偶然からだろうけれど、濡れた石灰のうえに水でといた顔料で直接かけば、漆喰が乾いた時に自然に色を取り込んで固まってしまうということを発見した。そこから「新鮮な」というラテン語の「フレスコ画」ができた。

 まぁ西欧の教会やほとんどの壁画はこの方法で描かれている。何世紀も経ってもほとんど退色もせず残っているということは、これが技法的にも理屈にあった技法だということだろう。

 しかし、このフレスコ画は小さなものには適さないということや、技法的にじっくり描いて行くといったことができないという欠陥がある。

 壁画のように大きな空間を埋め尽くしたいという願望も人にはあるけれど、極小さい手に乗るような可愛い作品を慈しみたいという願望もあるんだな。

 想像だけれど、最初はのりの材料として卵に注目したんだと思う。顔料を卵の黄身でといたら艶もあるし、乾いてもくっついて取れなかった。これはいいと思ったんだろうな。

 で、完全に乾いたら艶がひいてきたのでその中に植物油を入れたんだな、そうすると乾いてもそこそこ艶が残ったんだよ。描く時は水で延ばすこともできるし都合よかったんだな。

 水と油と上手い具合に混ぜ合わせる(乳化剤)として卵えることを経験で知ったんだとおもう。これがテンペラ画(混ぜるという意味)の始まりだ。

 西欧のグレゴリオ聖歌の楽譜(ネウマ譜)やイコンなどはほとんどこのテンペラ画で描かれている。やがて仕上げにニスを塗るようになって、本格的な油彩画と発展して行く。

 今例えば油彩画を描こうと思えば画材店に飛んでいって、油絵の具とキャンバスとオイルを買ってくればすむことだ。そこのところに何の疑問もわかない。

 しかし、何故油彩画なの?何故キャンバスなの?そこらあたりを疑い始めるといてもたってもいられなくなる。

疲れた、今日はここまで、続きは又書けたら。

はる 2085
 蔵出し(はる40)
 「・・数年前の秋口にめずらしくこの地方にも台風がきた。普段雨戸など閉めないのだが、風台風ということでガタピシと雨戸を引き出した。

 古い家に住んでいる人ならわかると思うが、戸袋がちょうど大きな木のウロのようになっていて、中に鳥の巣が幾重にも重なりあってとても使える状態ではなくなっていた。

 その巣は草の切れ端から針金、ビニールのひも,布のくず、土など、巣の材料になるものならなんでもござれのてんこ盛。下手な「現代美術」より「現代美術」的だった。

 現代に生きて今ここで生活している以上、今ここで手に入る材料で絵を描くほうがより自然な行為ではないか。100年後、当時の人はこんな材料で絵をかいていたのだということも現代を表す重要な要素じゃないかな」

 随分と昔に書いた記事だ。鳥でなくとも自分の棲家は自分で作るというのがあるべき姿だな。まぁそれは無理だとしても少なくともその土地で調達できるもので作るというのが理想だろうな。

 同じように考えて、例えば絵を描こうと思った場合、画材やさんに走って絵の具を調達するというのが当たり前のことになっているけれど、そうなんだろうか?ということだ。

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 絵画は印象派あたりで、画家は絵を描く職人だという概念から自由になった。自由になったはいいけれど、じゃぁ何を描けばいいのかということが、画家本人に託されてしまった。

 まぁいわゆるアーティストになったということだけれど、その「何を」ということを考えない作家はいらなくなったということなんだな。

 で、印象派がやったことは、絵というのは突きつめれば「平面に置かれた秩序だった色の点の集まりだ」と考えた。まぁちょうど科学が発達して印刷や写真その他の出現も作用しているとは思うのだけれどね。で、そこからカンジンスキー やクレー なんかの完全な抽象絵画もでてくる。

 セザンヌ が考えたことは 少し違っていた。西欧の伝統である所の遠近法を考え直した。見たままというより画面上の均衡みたいなものを重要視したんだな。いかにバランスを取るか、ということが彼にとって最重要課題だったわけだ。そこからブラックやピカソ の視点の移動、多視点という考え方が出てくる。

 ピカソのキュピズム までくると、いよいよ物を具体的に描き表すということから離れて行く。彼は生涯にわたって変わりつづけた作家なので一概に言えないのだけれど、画材にこだわらない、今手に入るものが全て画材であるという最初のひとではないだろうかね。

 画面の中に既成の新聞紙や包装紙をコラージュ して新しく「見立てる」という発想は現代の「コンセプトアート 」にまでつながる考え方だと思う。まぁこの「見立てる」という発想は日本のお茶の世界ではお得意の分野ではあるのだけれどね。いまはこれにふれない。


 続きはまた。
はる 2088
 
 「現代美術」という言い方もおかしいのだけれど、例えば絵画が単に色のついた板だという点に立ち返って、じゃ色は絵の具でなくてもいい、板はキャンバスでなくてもいい、ということで色んな他の画材を使うようになった。まぁここらあたりまでは心情的に同じラインにいる。

 ところが、もっと進んでというのか後退してというのか、物を作るのではなく、考えることそのものが即芸術だということになって、例のデシャンの便器をそのまま(泉というタイトルで)出品 したということになると、もう何だか分からなくなってくる。これもまぁある種の(見立て・価値の転換)と言われればそうかなとは思うのだけれどね。

 「現代美術」ということになると、今は設置芸術(インスタレーション) みたいなものが主流だな。まぁここらあたりの最前線になると、私もよく理解できていない、というのか心情的には分からないといった方が近いかな。

 どういうかたちであれ、私は(ものをつくる)というところから離れられないような気がしている。もっというなら、わたしのやろうとしていることは形を変えた(いのりのかたち)であって、何が何でも自己表現という意識は薄いな、まして芸術だとも思っていない。

 自力、他力どちらでもいいけれど、ほんの一瞬にでも「おおいなるものの意識」にふれることができたらいいなとただそれだけのことだ。