絵画の平面性1〜3
はる 2201
 「絵画の平面性 1」
 デッサンは苦手だ。うまくない。だから裸婦デッサンもこうやって何年も続いてやれるのだと思う。うまい人はすぐにマスターして飽きてしまうのだろう。私などいまだに鉛筆の持ち方はどういった持ち方が一番いいのか、などと研究?しながらやっている。
 何でもそうだけれど、簡単にうまくゆかない方が続けられるということがある。いろいろと工夫するからだろうな。そういうと謙遜にとられるけれど、そうではない。
 字を見るとだいたいその人が器用か不器用かわかる。その人の生来の癖や気性みたいなものが、ぎゅーっと凝縮されているように思う。ペン習字などで矯正したり、意識して書かれた文字からはその人の個性を見つけるのは難しいけれど、素の意識されない文字の中にその人の多くの情報が入っている。
 私の字は小学生の低学年ような字だ。こうやってパソコンで文章が書けるようになってやれやれと思うのは私だけではないだろう。漢字も知らないことが多い。だから基本的に書けない字はここでもひらがなで書くようにしている。だからやたらとひらがなの多い文章になる。
 話は戻ってデッサンについて。
 私は本格的に受験用のデッサンの修行をしたことがない。まぁほんの少しそれらしきことをやったことはあるけれど、幸か不幸か、美大受験のデッサン修行と言われるほどの苦行をしたことがない。
 洋画のデッサンはどちらかといえば立体を如何に平面に表現するかということの方法だ。なぜならこの立体を表現するということに、洋画の伝統のすべてが入っているといっても過言ではないからだ。
 遠近法から始まってその立体の構造とか、面の方向、流れなど徹底的に理論的に組み合わされる。またそれがよく理解できない人には洋画風のデッサンはできない。
 はっきり言って私にはこの立体を把握する力というのが極端に弱いきがするなぁ。だから把握できないものは描けないわけで、洋画には向いていない。何年も裸婦デッサンにかかわっているけれど、いまだにコツが理解できないのはそういった能力が欠落しているということだろう。
 反対にというのか、どこまでも線的、平面的、に解釈しているところがある。絵画というのはセザンヌではないけれど「一定の秩序によって置かれた色の集まり」と考えれば、確かにそうであって結果的には立体に見えるけれど、意識としては「点の集まり、奥行きのない面の集まり」と考えてもいい気がする。
 日本の漫画・アニメーションが世界で評価されるというのも、印象派が日本の版画に影響されたというのも同じ原理だと思う。つまるところ西欧の立体表現というのと、日本の線的、平面的な表現との違いということだろう。
 少し前に書いたけれど、我々がなかなか自分の考えで表現というところまで行けないのは、たぶんに大事な時期に無理やり、西欧型の受験デッサンを押し付けられているからではないかと思う。
 我々のDNAにはないものであって、反対にそういった眼をもった人間は自分たちを異国人の目で見てしまうのではないかな。
 自分の言葉で自分のことを表現しようと思うならば、自らにあったデッサンの方法を獲得する必要があるのではないかと思う。

はる 2203
「絵画の平面性 2」
 学生の頃、大学の教授が「絵画の平面性」ということをやたらと強調していた。それで、まだキュビズムの入り口あたりにいた私などは、一もにも無く感化された。
 セザンヌからはじまって、ブラックやピカソの評論や書かれたものをあさるように読んでいたけれど、そのたびに美術史をさかのぼる快感に酔いしれた。
 今までただのピカソでしかなかった絵画の巨匠が、あたかもキュビズムの誕生の瞬間に立ち会った気分になり、すごく身近に感じられ、絵画することはこういうことなんだと夢中になった。
 その頃は何の疑いもなく「絵画の平面性」を受け入れていたのだけれど、なぜ「平面性」なのか?という疑問にはだれも答えていない。
 多分どこかで述べられてはいるのだろうけれど、そこのところにはひっかかりを感じなかったということだろうか。
 で、デッサンのところでたまたま行き着いたのだけれど、洋画の立体表現と我々の線と面の平面表現との感覚の違いみたいなことは、けっこう大事なことが隠されているように思う。
 ここからは探り書きです。
 物がリアルに有る。ということを表現することは難しい。洋の東西を問わず、それぞれの手法でそのリアル感を表現しようと試みる。
 我々は左右の眼で違う映像を観ている。多視点でそれを頭の中で無理やり一つの像に結合している。物が立体的に見えているというのは、ある種バーチャルな幻想だということになる。
 ………………
 横道にそれるけれど、少し前にアメリカのホイックニーが京都の竜安寺の石庭を連続撮影して、それを彼なりの秩序で並べて展示していた。多視点も多視点で百くらいの眼で捕らえたということになる。
 まぁ今をリアルに生きている状態を表現するというのであれば、そういった時間差の多視点の方法もありかなとは思った。多分記憶というメモリーもそういった連続した多視点の映像として我々のハードデスクに仕舞い込まれているのかもしれない。
 ………………
 西欧の遠近法は科学から出発した。物を如何にすれば実際に見えたとおりに再現できるか、というのが大きな命題だった。しかしまぁ、実際の我々が見ている画像が二重写しのダブル映像だとしたら、その通り再現することはできないことになる。
 透視法はカメラの原理からきている。針穴から入った光は後ろの壁に外界とそっくりな映像を映す。これを見た多くの人はこれだ!これこそ真実だ!と膝をたたいたに違いない。
 しかし、考えてみると「写真」と言う命名には嘘がある。この画像は自分たちが見たものの半分しか再現されていないのである。片目をつぶった状態の画像だ。「写真」は真実の半分だから、「半写真」といってもいい。
 絵画に詳しい人なら描かれた肖像画と写真のポートレイトとは微妙に違うことが分かると思う。まぁ私程度の人間でも写真をモチーフにして描いたか実際の物見て描いたかは何となく分かる。
 絵画の場合、自分の眼で観た二つの画像を微妙に調整して一つの物として表現されているからだ。この西欧型の立体の表現法というのは、まさに西欧の絵画の伝統なんだと思う。
 西欧型のデッサンの手法をみると、如何に見えない裏側まで描くのか、そういった物がリアルに存在することを表現するのだ、という真摯な態度、あくまでも真実を追究するのだという態度が、西欧の絵画を作ってきたんだなという気がする。
 で、例え印象派の絵画や、キュピズムのピカソなんかでも、そういった西欧の伝統の上に彼らの表現がきっちりとあるように思う。根本にあるのはどうすれば真実を伝えられるか、表現できるかということだ。
 だからこそ、反対に写真の出現には驚いた。写真の画像には裏がない。スーパーフラットなこと、ボリュームのない平面性、あくまでも見えたまま。全ての色や面が対等に自己主張している画像。これが西欧の画家たちに与えた影響は大きいだろう。それが日本の版画の出現で裏打ちされた。こんな表現もあったのかと思ったようだ。
 まぁちょうど時代が大衆消費時代に入ってきた頃とぶつかったということも大きいと思うのだけれど、ポスターとかデザインとか兎に角宣伝に印刷物が使われるようになったことも大きな原因かもしれないな。
 物がリアルにそこに存在するという命題よりも、如何に効果的に視覚的にアピールするか?ということが大事な仕事になって来た。そうやって考えてみた場合、東洋画の手法、特に浮世絵などの版画がやっていた線と奥行きの無い面で空間をあらわしてしまう考え方は新鮮だった。
 ここで「絵画の平面性」がでてくる。確かに浮世絵などの木版画は平面的ではある。そのことだけを捕らえていってるのではないということだな。そのことだけなら単に事実をいったまでだ。西洋の人達に日本の版画が影響を与えたんだよ。それだけだ。
 事実は、我々には物がリアルにそこにあるなどということはどうでもいいことだったんだということだ。見えないものはないと同じ事だったし、遠いものは上にあるものだった。物の裏側など知ったことではない。反対に変にボリュームがあっては暑苦しいと思った。
 絵は絵空事だったし、事実などそこになくてもよかった。ただ単に美しくてこの世でないありがたいものだったり、近寄りがたいものだったり、もっと身近でお祭りやおめでたい時に使って、ありがたく捨ててしまうものでよかった。
 映像の時代になって、映画はまだ昔の三次元の空間意識をもっている。けれどテレビの画像は言ってみればば印象派の考え方の究極のかたちではないかな。あれは光の点の集まりだ。あそこにはリアルな三次元の空間の意識などまったくない。全てが対等な光の点の集まりでもって表現されている。
 結局言いたいことが分からなくなった。また。

はる 2204
「絵画の平面性 3」
 物が確かにそこに「有る」ということは、百万語を労しても証明することはできない。「無い」ということは存外簡単なことなんだがね。それは「神」が有るとか無いとかというのと微妙に似ている気がするがどうだろう。
 物がリアルに存在するということが命題であるならば、触れることができるような、物の三次元的な立体感というのはどうしても必要不可欠なことだ。西欧の絵画が目指したのはあくまでも物のリアリティであって、物そのものが「確かにそこに有る」ということを描きたかったのではないかな。
 それもまぁルネサンス以降の話でね。それ以前の絵画、例えばジョットの壁画なんかをみても、東洋の壁画と差して変わらないような空間の描き方だ。どちらかと言えば平面的で物のリアリティーよりも物語性とか荘厳な感じとか気分とか雰囲気なんかを第一義にしている。まぁ技術的な問題もあるのだけれどね。
 物をリアルに描きたいという欲求は確かにある。見えたままそっくりに描きたいという気分はわからないでもない。それがいわゆる肖像画的な似顔絵的な写真的なリアルさなのか、洋画風なボリュームを持ったリアルさなのか分かれるところなんだけれど、村上隆や奈良よしとも?などのアニメやイラスト、漫画的絵画が世界的なブームになって来たということを考えると、時代の軍配は明らかなように思える。
 話がまたよからぬ方に入り込んできたので戻すと、「なぜ平面性か」ということだ。
 絵画に物のリアリティーが求められなくなった時にその存在意義が問われることになった。時代は市民の時代になって自由を謳歌するような、明らかに一つ前の暗い時代ではなくなっていたことも、芸術家という何も生産しない高踏遊民族を容認する雰囲気も手伝ったように思う。
 絵画の分解が始まって、最初は色彩について印象派の画家たちによって色の点にまで分解させられた。全ての色が対等の価値をもち同等に主張する。音楽でいえばキーのない音楽でラベルとかドビッシーなどの印象派の音楽ということになる。やがては12音階のストラビンスキーなどの現代音楽に行き着く。
 線や面も同様に解体がはじまった。見えた通りそっくりそのままの形が写真機で再現できることが分かった。それを利用すれば難なく誰でもがそっくりな絵を描くことができることが分かった。その方法はこういうことだ。
 与えられた面をジグソーパズルのように全て不定形の色面に分けたとする。最初は二つにそして次には四つにと段々に数を増やして行けばやがては無段階の写真のような画像ができるというわけだ。