「永遠の故郷」 

 はる 2462「永遠の故郷1」
 吉田の爺さんの話が今日新聞に出ていた。読んでるだけで泣けてくる。94歳だからなぁ・・、こうやって自分が老いてゆく姿を何かしらのかたちで発信できれば理想的な死に様だな。

 耳が聞こえなくなりゃ聞こえない事を、見えなくなれば見えないことを、何の装飾も無く淡々と表現してゆければそれでいいなんて思う。

 音楽はもちろん、美術、文学など雑多な知識と今まで生きてきた諸々の事を織り交ぜて、夢のような文学に一番近い、スレスレのところをやってみたかったらしい。なぜなら「もうすぐ死ぬから」と。

 よく考える事がある。生きる事に何の目的も無いのなら、神は何故人間なんて、いやこの私をこの世に送り出したのだろうか?たかだか百年生きるだけだ。それほど遠い所へ行ける訳も無い。

 まだまだ分からないのだけれど、まぁ一つの解答が芸術というのか、音楽とか美術でもいいのだけれど、究極の形というのがそこにあるのでは無いかなと思ったりする。なぜならこれだと思うものがすべてそちらの方向を向いているからだ。言いたい事が上手くいえないのだけれど。

 優しい故郷というのか、吉田の爺さんは「永遠の故郷」といってるけれど、我々は多分みんなそちらの方を向いているんだろうな。

 音楽ではバッハだ。モーツァルトでさえ僕が、僕が、という声が聞こえてわずらわしいそうだよ。
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 はる 2464「永遠の故郷2」
 挿絵など臨時の仕事をしながら130号を少しずつ仕上げていた。というのか私の絵の場合カタチが決まればほぼ仕上がったようなもので、後はお得意の絵にする作業というわけだ。

 この絵にする作業というのが出きるかどうかというのが、イラストレーターと絵描きの違いじゃないかと思う。部分を説明する事ではない。言葉でいうのは難しいんだけれど、簡単な言葉で言えば「宇宙を創る」ということかな。

 この間の吉田の爺さんの話とつながるように思うけれど、全ての物、事の存在の仕方と言うような事なんだけれどね。まだ上手い言葉で言えていないなぁ・・。考えながら書いてみる。

 私というものも宇宙のひとかけらである。私が存在する理由と宇宙が存在する理というのは、どこかで必ず重なっているいるはずだな。凡人の我々には感じられないのだけれどね。

 ところがまれに天才がそんな宇宙の理を目に観えるカタチにしてくれたり、音にして聴こえるようにしてくれる事がある。まぁそれも我々が心を澄ませて、観ようとしたり、聴こうとしなければきこえないものなんだけれどね。

 もっと簡単で美しいことばのはずなんだけれど、うまく説明できていないね。
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はる 2465「永遠の故郷3」
 始まりのあるものは必ず終わりが来る。けれど終わりは始まりの始点でもあるわけだ。何のこっちゃですが、多分今の世もいつかは終わると思うんだ。それはまぁ人間の時間ではないでしょうがね。ところが今の世が終わったら、新しい世というのが始まる。そんなことを永遠に繰り返しているんだろうな。まるで仏教の涅槃の話のようですが、これは宇宙の話です。

 実際に物理学ではエネルギー保存の法則というのがあって、必ずプラスがあればマイナスがあるようになっている。プラスばかりじゃいつかは宇宙は物質でいっぱいになってしまうし、マイナスばかりだと何もなくなってしまう。こんな話をどこかで聞いた。宇宙の温度は絶対0度ではない。少しほろ暖かい。なぜならそれはビッグバンの余熱だとさ。

 自分には不幸ばかりが押し寄せてくる。幸せは私には関係ないと思っているひとがいたとする。でもねぇ世の中は裏腹でね、禍福は表裏いったいなものだ。考え方次第で不幸が一転幸福にもなりえるのだな。

 自分がここにいるということは、宇宙が始まってからもうすでに決まっていた事、もし私が存在しなかったとしたら、何かどこかで不具合が生じることになる。ジグソーパズルのワンピースがなくなったように世界はいずれつじつまが合わなくなって混沌に戻ってしまう。

 であるから、私たちは気付かないけれど、私の中にはこの宇宙ができてからのこと、そしてやがては終末を迎えるまでのことがプログラムとして組まれているはずだ。今は生命遺伝子などという生命のプログラムが解き明かされようとしているけれど、我々の身体のまだ知らない部分にそんな「宇宙の遺伝子」があるように思うな。

 言いたかったことはそんなことではない。「永遠の故郷」の話をしたかった。続きはまた。
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はる 2467
 「永遠の故郷4」
 宇宙の遺伝子ということで思い出したのがフラクタルの理論という魔法の話。まぁあまり難しいことは分からないし間違っているかもしれないけれど、行きがかり上聞いてくださいな。
 この考え方は自然の山の形とかくもの形など本来何の法則性もないと思われているものが、何かしらの法則で成り立っているというもので、パソコンのゲームの背景やその他のことで利用されているらしい。
 どういうことかといえば、簡単にいえば雪や鉱物の結晶などのように部分と全体がおなじカタチになるというようなことなんだな。自己相似性というのだけれど、最近ではグーグルの航空地図などを見ているときに感じることなんだけれど、道とか建物とかそういった人工物がなければどれだけ拡大しても結局同じように感じる。
 どんどん近づいてそれがミクロの世界に入って分子とか原子電子の素粒子の世界に入っていっても、反対にどんどん引いて行って地球をどんどん離れていって太陽系とか銀河とか宇宙の果てまでいったとしてもそこに何かしらの類似性というのか、グーグルの航空写真を見たときと同じようなものを感じる。
 それにやや似ているものにフィボナッチの数式というのがある。1,1,2,3,5,8,13,21,34,55……(前の数字を順じプラスしてゆく)と続いてゆくのだけれど、やがてその比率は1.618の黄金比に近づいてゆく。もっとも物事は反対で自然の成り立ちを調べていったら1.618の比率でできていることが多かったということだけなんだけれどね。
 まぁだから世界は簡単な数式で表すことができるというのは少し単純すぎるとは思うけれど、昨日の宇宙の遺伝子といい、考えはじめると我々の体の中の出来事と、この宇宙の出来事とは同じ事なんだということが言えないかな。ただその規模が違うだけで、宇宙というのかこの世界の始まりから終わりまで全てがこの私の中にあるということなんだな。

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はる 2468
 「永遠の故郷5」
 静物画のモチーフを組んでいる時に思った事がある。机の上にどう物を配置してもそれは作者の自由なわけだ。ところが自由でありながら、何かしらの法則にしたがっている自分を感じるんだな。それは幼稚ではあるけれど、初めて感じた「おおいなるものの意志」だった。
 多分多くの絵画を学ぶ人が通る道筋だとおもうのだけれど、普通にものを見てかく。描写するところから始まる。やがてそれに飽きてき来るというのと、何かしら自分なりの表現というのを摸索し始める。手がかりとして最初に現れるのがセザンヌだ。
 彼がやっている事は見れば見るほど不可解だ。水平線をわざとずらして描いている、何故なんだ?物をいろんな方向からみて一つの画面にまとめて描いている、どうしてだ?
 彼がやっている事は風景も人物も静物も全て同じ次元で捕らえている。一度吸収して解体して自分の法則で組みなおしている。「セザンヌの塗り残し」が起きる訳は、要するに一つの画面の中でいつもバランスをとりながら仕事が進んでいる。だから一日の仕事が終わった段階で、途中でも終了しているというのが彼の理想だったのではないかな。
 ここから始まった近代絵画の歴史はブラックやピカソのキュピズムにたどり着き、やがて抽象絵画と進んでゆくのは、そう遠いことではない。

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はる 2470  「永遠の故郷6」
 今日も又吉田の爺さんの話が新聞に載っていた。1930年ごろの学生の頃の話。バッハの「パッサカリアとフガ」のレコードを恩師の蓄音機で聴く。何と一緒にいたのが中原中也だというのだから凄いな。感想を聞かれて「神様がいて何かを指しているようだ」といったとか。ふ〜ん……何か出来すぎだけど、あの94歳の爺さんだから許されるんだな。
 「音楽展望」というタイトルでありながら、もうほとんど小学生が書いたぐらいの簡単な文章になっていて、うつらうつら、あっちにいったりこっちにきたり、語り口は優しくて快い音楽を聴いているようなんだけれど、内容は芸術の本質をずばりと言い当てている。あそこまでになればもう何を言ってもカッコいい、そうなりたいものだ。
 ということで話を戻そうか。どこまでいったのかな、「おおいなる意志」の話からだった。
 絵画というのは一見自由な空間に見えるけれど、これも自分の意識内にあってある種の宇宙の理の範囲の出来事なんだな。神がこの世界を作ったように今度は私が彼に代わって世界を作るというわけだ。
 まぁこれに似た話も幾度となくここに書いたから新しくもないけれどね。でその理というのはいったい何じゃということだな。口で言うのは簡単だけれど、じゃどんなもんじゃ説明してみろといわれると、はたと困ってしまう。それが上手く説明できれば私はノーベル賞でももらえるのじゃないだろうかね。
 もう永い付き合いのお店がある。このお店は最初は四畳半ぐらいの大きさだった。色んなものが所狭しと積み上げられていて、無い物はないというのが自慢であったけれど、いつもどこにあるのか探すところから始めなければならない。長年の夢は店を大きくしてきれいに商品が並べられることだったんだな。
 で、何年か後、念願かなってお店が何倍も大きくなった。倉庫も出来てきれいに商品が並んでいる。けれどそれもさいしょの数ヶ月の話で、やがては最初の四畳半のお店が四つ分広がったかたちになって落ち着いた。まぁ私は気に入っているのでそれでいいのだけれど、話はその事が主ではない。
 自分の将来の姿というのは今の自分の中にある、ということなんだな。見えないかもしれないけれど、未だ眠っているのかもしれないけれど、その多くの場合は今の自分の延長上に将来の私がいる。
 昨日の話とつながるのだけれど、一日というのは自分の一生に似ている。で自分の一生は人類の寿命に似ているし、地球の誕生から終わりまでだし、この宇宙の始まりから終わりまでと似ている。
 で、この話は例のフラクタルの法則に似ていないか。自己相似性というやつ。この法則、簡単に言えば「部分と全体が同じ理でできている」ということなんだな。
 今の統計学なんかもそれを使うんだけれど、そう例えば商品の抜き取り調査でも、全部を調べないでもある程度ランダムにそこそこの数量を調査すれば全体が推量できるというもの。これは全体は部分と同じ確立で出来ているということの応用だな。選挙の当確予想も似たようなものだ。
 で、話は少しずれてしまったけれど、その理論から推測すれば私は小さな宇宙の模型ということになる。
 話は続きます。

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はる 2473
 「永遠の故郷7」
 昔読んだ筒井康隆の本に「末端にも本性がある」と言うようなことが書かれていた。まぁこれも幾度かここに書いた記憶があるのだけれど、まぁいいやな。
 どんな些細なことでもその本質が隠れているということなんだけれど、これっていままで語っていたフラクタルの法則を分かりやすく説明したものじゃないか。なかなか含蓄のある言葉で面白い。
 スターダストというじゃない。訳せば「星屑」だ。星ができる方法は最初は宇宙に漂っている塵がどこからとなく集まって、凝縮して核になる。それから文字通り星の燃えカスや屑が急速に集まり出して、やがては圧縮されて高温になり核融合が始まって輝き出すというわけだ。だからまぁ我々はすべて元は星屑だったというのは間違いではない。
 ちょっと規模が違うけれど、池のゴミや川のゴミを見ていて、なぜゴミは集まるのかなぁ、と考えた事無い?無い所には全くないのに、集まる所にはあたかも意志があるかのように集まってくる。
 これはさぁ、お風呂のゴミでも同じでね、どうやら同じ法則が働いているように思えないかい。万有引力なのかな。ニュートン力学もある意味でフラクタルだ。
 で、どうやっても、ある所にはあって、ない所にはないという空間に粗密ができる。これもまた宇宙も同じでね、銀河みたいな星雲がやたらと密集しているとことと、ガラガラの所があるらしい。一様に散らばっている訳ではないのだ。これもまたフラクタルだな。
 で私が絵の空間を描く時に考えることは、こういうことなんだ。これは一つの閉じられた世界だ。だれの影響もうけないけれど「おおいなるもの意志」は避けられない。いやちがうなぁ、おおいなるものの意志に身をゆだねることだろうな。そうする事によってのみ可能なんだろな。
 (永遠の故郷、一応終わりだな )
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はる 2800
 「続・永遠の故郷1」
 なかなかいいカウントになった。今年中には3000の大台にのる。楽しみでもあり、何となく寂しくもある。なぜならカウントはいつか止まる時が来る。5000なのか6000なのか、それは神のみぞ知る。

 永遠というのは無限と解釈される。ところが永遠であっても有限である場合もある。宇宙というのは無限の広さの代名詞のようなものだけれど、案外それはちっぽけな点に過ぎないかもしれない。

 少し理屈っぽくなるけれど書いてみます。興味がなければとばしてくださいな。

 例えばここに1mのひもがあったとする。それを半分にして残りの半分をさらに半分にして(もとの1/4)つなぎ合わせてゆく。さらにまたその半分(1/8)をつなぎ合わせる。そうやって次々とつなぎ合わせて行くと、理屈的には永久に増え続けるわけだから無限大に大きくなるはずだわな。ところが当たり前のことだが最初の1mを越えることはない。加えているにもかかわらずある一定値を超えないのは常識の感覚として不思議だ。

 1/2+1/4+1/8+1/16+・・・・=∞ではなく限りなく1に近づく

 無限とはこういった錯覚ではないかと思う。

 また、時間で言うなら例えば2時間の映画を早送りして1/2の1時間で観たとする。我々の時間では1時間であったとしても、映像のなかの人間はその短縮に気付かない。無論その中に人が住んでいたとしての話だけれどね。次元が一つ上がると元の次元の人間には気付かないということだ。

 それをもっと進めて1/10にするとか、1/100・・限りなく0に近づけて行くこともできる。理屈的には10年とか100年間を1時間に凝縮することも可能だ。もしそうだったとしても我々には察知することはできない。無限だと感じている時間は実はほんの短い有限の時間の可能性もある。

極端なはなし、宇宙の始まりから現在までを一瞬に凝縮したら外から見れば時間は止まって見えるし、中の人間には無限の時間に感じる。

 実際に我々から一番遠い星は我々から光速に近いスピードで遠ざかっているように見えるそうだ。そこから「宇宙膨張説」が出てくるわけだけれど、それは三次元の我々から見た錯覚に過ぎない。

 光速で遠ざかっているということは光は外にはでないわけで、そのことは時間は止まっていることを意味する。宇宙の始まりにビッグバンから今現在までのすべてがそこに凝縮しているわけで、その一点に上でいった永遠がそこに閉じ込められている。

 空想は難しいのだけれど、これだけは言える。時間は一定ではないということだ。止まった時間を我々がみれば「永遠」に見えるということだな。

 なぜこんな話に興味があるのか考えた。結局我々はこの一瞬にしか実際は生きてはいない、けれどこの一瞬に過去から未来のすべてが凝縮しているように思うんだな。

 私がここに存在することは過去のどこからか決まっていて、そのために色んな偶然やら出来事が必然的に起きてきたわけだ。そのどれひとつとして無駄なものはなく、絶妙に組み合わされた結果今私はここにいる。大げさに言えば積み木のワンピースだけれど、それが無かったらどこで不合理がおきてこの世界も消えてしまうのだ。

 私の体の中には、ビッグバンの宇宙の創生からの記憶がどこかに残っていて、この一瞬に「永遠があるのだぞ」ということを伝えてくれと言われている気がする。
 
「永遠の故郷」は文学的なにおいがするけれど、理論宇宙物理学とも不思議に交錯している。
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はる 2801
「続・永遠の故郷2」
 何の根拠もない夢想のつづき。

 宇宙の果てはどうなっているのだろう?というのは小学生でも考えるロマンチックな空想ではある。昔の人は大きな天蓋があって星や太陽はそれに張り付いていると考えた。まぁ今でもそれはかなり説得力がある。で、その天蓋の向こうは天国があるのだろうか。

 大地は大きな亀に乗っているだとか象に乗っているだとか、昔の人は大いなる空想で考えた。どうやっても我々が今住んでいる大地が丸くなって、まっすぐに進んでゆくとやがてはもとあるところに戻ってくるなど考えもつかない。

 地球があまりにも人の感覚からすれば大きいので、次元的には我々は大地と言う平面に暮らしているようなものだ。分かりやすくいえば地面に投影された影みたいなものか。伸びたり縮んだりするけれど、周りの木や家も同じ比率で拡大縮小するのでわからない。

 世界の果てを探しに旅立った影君には地球の丸さが理解できない。どんなにまっすぐに立ってもほんの少しカーブしている。なぜなら大地そのものが少しずつ曲がっているからだ。宇宙船の時代になって地球という大地から離れてやっとそのことが理解できる。

 時間というのも同じようなものではないかと思っている。今日より昨日はほんの少し圧縮されていても我々にはわからない。時間そのものが圧縮されているからだ。遠い過去は限りなく0にちかづいてゆく。

 同じように未来もそうなっているのではないかと想像する。もうすでにすべてが分かっている観察者・おおいなるものにとっては過去も未来も同じように見渡せるのだろう。

 今という時空を中心にして過去の方へ次第に圧縮され、未来の方へも同じように圧縮されているとすれば、感覚的には大きな球体を真横から眺めているような感覚だろうか。目線のあたるところを中心に緯度も経度も同じ比率で圧縮されてゆく。

 過去・現在・未来というのはこんな構造になっているのではないかと空想する。

 もうひとつ付け加えると、地球上をまっすぐにどんどん進んでゆくとやがては元あった位置に戻ってくる。地球が丸いからだけれど、同じように考えてどんどん過去に戻ってゆくとやがて現在に戻ってくるのではないだろうかね。未来も同じだな。そして仏教の教義ではないけれど我々は何度も同じことを繰り返しているのではないかと思う。面白くないか!
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はる 2821
「続・永遠の故郷3」
(以下のことは確かなことではありません。あしからず)
 数学の難問「ポアンカレ予想」の話をNHKで観た。実はこの問題は2006年に解決済みのことで真新しいことではなかったんだな。そんなことはまったく知らなかったので随分と面白く観た。数学のことかと思ったら、実は宇宙の成り立ちの話で私はいつも考えている「永遠の故郷」の話と通じるところがあったので驚いた。

 ロシアの数学者ペレリマン博士が解いたのだけれど、そのおかげで一種のノイローゼ状態になってしまったらしい。まぁ詳しくはNHKの番組を6回に分けてyoutube観る事が出来るのでそれをお勧めします。
http://www.youtube.com/watch?v=Ep-9RQo7zb8

 これによると、宇宙は「おおむね丸い」というのか閉じられた世界であるというのが証明されたということなんだな。この間の「続・永遠の故郷」の話のところでは知らなかったので、随分と遠回りしてしまった。テレビでは「おおむね丸い」と説明していたけれど、それは宇宙は有限で閉じられた空間だということを証明したということだ。まぁ我々三次元の人間が認識している有限とは少し違うけれど、時空を含めて有限だということだな。これは画期的なことだろうな。

 数学者は凄いなぁ、頭の中で宇宙の成り立ちを空想して予想を立てて実際に証明してしまうのだから驚いてしまう。考えることはぼんくら頭でも出来るけれど、それを数学的に証明するのは天才しかできない。これで宇宙は閉じられた世界だということになったわけだ。

 絵描きである私がなぜこのことに興味があるのか、実際の話本質的なことは何一つ理解は出来ていないのだけれど、この宇宙の成り立ちというのか理ということに興味がある。多分こういった数学的な命題もどんな難題であれ解かれたものを見ると実にすっきりしたものだろう。真理というのは単純な形をしていることのようだ。そういう本質てきなこと、普遍的な事柄に興味があるわけだ。

 繰り返しになるのだけれど、実は宇宙の話は私自身の話でもある。どんなに気宇壮大な宇宙の話をしても、とどのつまりその宇宙は私の頭の中にある、そのことがとりもなおさず愉快の源だ。我々は全て「星の子」であるから、からだの細胞一つ一つに「宇宙の遺伝子」として宇宙のかけらが残っている。だからまことにとんでもない遠い存在だと思っていた宇宙の創生の話が、最も身近な私事でもある、そのことがとても面白く感じるところだ。

 (永遠の故郷4・はる2467)「フラクタルの理論」のところでも書いたけれど、結局大きすぎて空想も出来ない宇宙という存在も突き詰めてみればミクロ的な私の心の中身を考えるということと同じだということなんだな。

 画家が一筆をキャンバスに置く。そのことは宇宙の理とつながっているように思うのだ。 
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