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絵描きのぼやき

5月31日 (金)

はる 6603
 イタリアの個展当時の写真、どうもにも若いな。

更新時間 : 20:41:43

5月30日 (木)

はる 6602
 個展で一番印象に残っているのは何と言ってもイタリアで開催した個展(1995年)かな。履歴には奨学金を貰って留学のように書いてあるけれど、実際は渡航費ぐらいしか援助してもらっていない。ほとんどが自費でまかなった遊学だった。今ではたぶん留学ビザか就労ビザがなければ同じ国に3か月以上滞在できない。当然当時もそうだった。けれど、長く滞在していた絵描きの経験者に聞いたら3月ごとに海外に出ればいいんだと教えてくれた。本当は見つかれば違法で悪くすれば強制送還になってしまう。まぁ当時はけっこういい加減だったな。一度だけイギリスの空港で止められたけれど、その時たまたま帰国のチケットを持っていたので無罪放免になった。

 今でもあるのかなオープンチケットといって一年間有効の世界一周航空券だった。航空会社は何処でもよかったとおもう、西回りにゆくには何度でも乗り継いでゆくことが出来た。まぁこれが一番安かった、だから帰りは西回りでニューヨーク経由で帰って来たんだ。若かったから何でもできた。

 せっかく異国に滞在しているのに部屋にこもって制作しているのじゃもったいないので、一年間はアトリエ制作は全くしなかった。戸外を歩いて、外国を旅してスケッチするという日課にした。その成果を町の小さな劇場のホールで展示した。

更新時間 : 23:15:04

5月29日 (水)

はる 6601
 95回目の個展が終了した。このままで行けば来年あたりに記念すべき100回展となる。第一回は1983年に今は無い県民会館地下展示場で開催した。大きな会場だったので学生の時に描いた大きな作品も含めて自分の今までの回顧展のような形になった。何しろ生涯で初めての個展だったのでかなり興奮していたのを覚えている。今から35年も前の事だ。

 東京で初めて個展したのは1988年。これは第三回展。同じ個展を開催するなら東京・銀座でやりたかった。前の年の夏に資料を持って銀座の画廊を手当たり次第に回った。まぁ今から考えると貸画廊なんてお金さえあればどこだって借りいることができるんだけどね。おのぼりさんが一大決心をして画廊周りしたんだな。肝心の支度金が心細かったのでどこでもという訳にはいかなかった。たまたま自分の予算と合ったところが中央画廊だった。これも今は無い。


更新時間 : 23:37:13

5月28日 (火)

はる 6600
 人は自分の生きてきたように死んでゆくらしい。彼は偉大な祖父に憧れて、やがては大きな権力をもつようになった。想像するに彼は勉強が嫌いだった。何故なら周りの人がみんな高学歴で優秀な頭脳の持ち主だったからだ。小さい頃から多くの人にかしずかれて育った坊ちゃんは、自分に異を唱えるものが大嫌いだった。追い詰められれば適当にその場しのぎの嘘をついていれば、周りの人が何とかしてくれた。嘘つきの習性で嘘と本当が分かちがたくなってしまった。お小遣いは使い切れないほどあった。そもそもお金を稼ぐという発想はなかった。気に入った連中にはどんどん分け与えた。そうやって自分の取り巻きをつくっていくのが自分の処世術となった。他人のものと自分のものの区別さえ曖昧になってしまった。今もそうやって莫大なお金をばらまくことで、おこぼれに預かろうとする取り巻きに囲まれてちやほやされることが自分の政治手腕だと思っている。それを世界中でやるからたまったものじゃない。その下についている人々はバカだから誰もそれを糾弾しない。それでますますずに乗って坊ちゃんぶりを発揮できるというわけだ。気にそまない憲法は変えちゃうもんね。爆撃機でも軍艦でも何でも買っちゃうもんね。そのうち徴兵制にして私の国を守ってもらうもんね。それのどこが悪いの?

更新時間 : 20:50:19

5月27日 (月)

はる 6599

昨日の虹雲

環水平アーク(かんすいへいアーク、英語:circumhorizon arc、circumhorizontal arc)とは、大気光学現象の一種で、太陽の下46度の水平線上の薄雲に虹色の光の帯が見えるもの。水平弧、水平環 とも呼ばれる。大気中の氷晶に太陽光が屈折して起こるもので、太陽高度が58°以上の時にしか出現しない

更新時間 : 20:23:05

5月26日 (日)

はる 6598
 何かの都合で虹色に輝く雲を見た。これはなんだろう。地震雲などあまり信じないけどな。

 千葉の山口画廊の個展が終わった。三週間あるのだけれど、済んでしまうとあっという間という気がする。他の画廊だと大体一週間単位で入れ替えが行われる。考えてみるとかなりハードスケジュールだな。一週間に一度休むとすれば6日しかない。毎週企画をやって入れ替えもやるなどほとんど一人では不可能だな。それを真面目にやるとほとんど画廊なのか展示屋さんなのかわからなくなってしまう。

 画廊も商売だから兎に角1企画終わった段階で黒字になっていなくてはならない。そうでなければ続いて回って行かないわけだからね。まぁ少なくとも最低一週間分の経費は出さなくてはならない。これだとまだ趣味の段階だな。

 最近山口さんの周りには若い人が集まって新規に画廊をやりたいと真剣に準備している人たちが何人か出てきた。それも貸しスペースではなく、企画展示販売をする本来の画廊を目指している。山口さんを見ていると一見好きな絵画やオブジェに囲まれて、それを売り買いして食っている優雅な商売に見えるのだろうな。思っている以上に続けていくのはしんどいと思うな。なんとか応援したい。



更新時間 : 19:22:01

5月25日 (土)

はる 6597
 夏日になった。

更新時間 : 22:30:36

5月24日 (金)

はる 6596
 山口画廊個展無事終了しました。お忙しい中をありがとうございました。最近はFBの告知からか随分遠くからいらしてくれる方が多くなりました。作家冥利に尽きます。出来たら会ってお話しできればよかったのですが、申し訳ありませんでした。またの機会に是非ともお会いしたいと思います。とり急ぎおれいまで。次は
2019 10/1〜10/6
兵庫県西宮のギャラリーSHIMAです。

更新時間 : 22:00:34

5月23日 (木)

はる 6595
 パス

更新時間 : 22:00:27

5月22日 (水)

はる 6594
絵の具にしろ、光にしろ 三原色というのは面白い。誰が発見したのだろうか、その色さえあればすべての色がカバーできるというのは、なかなか意味が深い。

 世の中は色んなことで出来ている。ものすごく複雑だわな。当然。であるにもかかわらず色という特殊な分野だけ取り出してみれば、すべての色が三つの原色で出来ている。これって凄い事だな。景色っていう。色に出にけりという。この場合色というのはありとあらゆる世界の現象をいうのじゃないだろうか。そう考えるなら反対に世界は三つの出来事がからみあって出来ていると考えられる。

森羅万象すべての事は三つの原理で出来ている。それが何なのか、今の私には分からないけれど、ひょっとするとこの宇宙が存在したりすることもこの三つの原理(元素)の適当な絡み合いかもしれんな。

 私が一番最初にパネルを三原色に塗り分けるのは、この世の出来事は三つの原色で描き分けることが出来ると思っているからだ。ありとあらゆるものがここから出発する。源泉(オリジン)だからだ。


更新時間 : 22:39:43

5月21日 (火)

はる 6593
 私の方法は○○画という方法ではない。例えば絵を描きたいと思えば本屋さんに行って「何々の描き方」という本かって基礎から学ぶ。ある程度修練を積むとそれなりの物が描けるようになる。まぁ普通はそこで良しとする。多くの学校やカルチャーでは講師の技法や技術を学ぶことがすなわち絵を学ぶことだというふうに理解する。でもそれはあくまでも「何々の描き方」どまりなんだよな。当たり前だけど、そこからは自分で探り出さなくてはならない。表現するということになると自分の生い立ちから今まで経験してきたこと、観てきたこと、趣味とか嗜好、そんなところまで掘り出して行かねばならない。それは「何々の描き方」といった誰からか教えてもらうものではない。私の描き方は私の生い立ち、生きてきた道のりを表している。だから何も隠すものがない。どうぞ真似してください。しかし、これは私の人生の表現であって真似しても全く意味をなさないということに気付くはずだ。

更新時間 : 21:51:12

5月20日 (月)

はる 6592
「鳥飼い」などという商売があることを知らなかった。この絵もほとんど何も見ないで落書きから始まったものだ。たまたま下の写真を見つけてビックリした。ほとんど同じような構成でさらにびっくりした。舞台はアジアのどこかだな。カンフーの達人のような爺さんが鵜のような鳥を担いでいる。もうこんな風景はないのじゃないだろうか。本当の幸せはこんな生活のように思うのは私だけかな。

更新時間 : 22:23:04

5月19日 (日)

はる 6591
 今日はチェロのレッスン日朝から憂鬱。

更新時間 : 22:16:41

5月18日 (土)

はる 6590
 覚書 いつも不思議におもうことですが、事故を起こした企業に事故処理を任せておいていいのでしょうかね。どんな仕事でも絶対にやってはいけないことってあるでしょう。例えば裁判官が法を私情をはさむとか、オマワリが泥棒するとか、消防士が放火するとかね。原発の事故を起こした会社が事故処理をするというのは一見正しそうだけれど、何かおかしい。誰かが言ってたけど、審判を味方に付けた野球みたいなものか。どうやっても、何をやってもセーフだ。もともとどうやっても人間業ではどうしようもない代物だものな。身内ばかりでやるとまぁいいかとなるよな。それにかかった費用は使用者に上乗せで自分たちは腹が痛まない。自分達の保身のために莫大な献金をするわけだ。絶対にずるいよな。やっぱり自分だけ、金だけ、今だけのトップが全てに影響しているよな。ズルい不公平嘘つき。そのうちに世界中から袋だたたきに合うのじゃないかと危惧するよ。

更新時間 : 21:44:55

5月17日 (金)

はる 6589
イタリア行きの準備をする。

更新時間 : 22:06:00

5月16日 (木)

はる 6588
 ぱす

更新時間 : 13:03:19

5月15日 (水)

はる 6587
 この動画を観ると何故か泣けてくる。ちょうど犬の鳴き声や、散歩やジョギングする風景が自然に入っていて作為がない。途中シャボン玉が飛んできたりして、なかなかいい雰囲気だ。もともとこの小さな女の子と知り合いではなかったらしい、通りがかりに突然踊りだしたらしい。

 最初のこの動画を見た時に日本じゃないと思った。どこか日本人が欧米を旅した時にたまたま通りがかかった少女が踊りだしたんだと思った。それほど自然に見えたのだな。幸せな瞬間。誰でもがとても幸せを感じる動画だと思う。

 人はどんな時にしあわせをかんじるか 。まぁ色々だけどね。

 すべての人が弛緩した休日の午後の公園。様々な格好で休日の最後を楽しんでいる。少し日が傾きかけてそんな中に一人の若いシンガーが唄い出す。それに合わせて踊り出す少女。絵になるなぁ。

更新時間 : 22:22:29

5月14日 (火)

はる 6586
 20年も前になるか、バブルが終わりかけたころ千葉の川村美術館でキーファー展(1998)をやっていた。それはバブルの頃に世界中からそれこそお金が集まってきて、訳も分からない日本のキュレーターや成金たちはたちは世界中の詐欺師たち憧れの的で、莫大な資金で世界中のゴミのような現代美術を売りつけられてストックしていた。ジャパン アズ ナンバーワンと言われた絶頂期が過ぎた頃の話だ。どこかの馬鹿がゴッホのひまわりを買って自分の棺に入れてくれとか言ったとかいわなかったとか。普段持ちなれない莫大なお金を持つと世界中からカモにされる。という話だ。

 日本は物凄いお金持ちの国だった。そんな実感はまるでないけれど、たぶんそうなんだ。今はその残り香が多少ある程度だな。一気に貧乏国に成り下がってしまった。その責任はもちろん権力を好き勝手に使っている政治家や資本家にあるのだが、それを許している我々一般の国民にも大いにある。持ちなれないお金を持ったがゆえにその使い道が分からなかったと言うべきかな。

 なんだろうな。我々の基本的な経済感覚は「宵越しの金はもたない」という刹那主義経済だと思う。一見カッコいいけれど、長い目で見れば結局何も残らない。あれだけ世界中からお金が集まってきていたのに、結局手元には何も残ってはいない。

 例えばそうだな、生き方そのものが刹那的だ。蓄積されたものをいとも簡単に捨ててしまう。


更新時間 : 22:35:23

5月13日 (月)

はる 6585
 千葉から帰宅しました。
三日ほど不在にしていました。まぁこれからは事後報告というカタチにさせてもらいます。よく見れば色んなところで個人情報が洩れています。探す気になればネットで検索掛ければ住所も電話番号も出てきますね。いやそれは危ないです。もう隠しようがありませんね。

 山口画廊の個展と六本木の国展を同時に開催というカタチに昨年からしました。なかなか両方観てくれる方は少ないのだけれど、これは私にとっては手間が一度ですんで楽ですね。個展は小品が主ですし、国展は大きい作品という見せ方が出来ます。

 最近山口さんの影響で俄かに新しいブームというのか風が吹き始めて面白い。今のただ綺麗なだけの絵画ではない、心の糧になるような作品を観たい、手元に置きたい、扱いたいという人が増えてきた。これが本来の画廊の仕事だよな。地方ならではの新しいスタンスの画廊が出来てくれば嬉しい。

 小さな集まりだったけれどとても楽しかった。どうもありがとう。



更新時間 : 00:28:56

5月12日 (日)

はる 6584
パス

更新時間 : 21:36:25

5月11日 (土)

はる 6583
千葉1日め

更新時間 : 23:37:30

5月10日 (金)

はる 6582
 このブログもそうだけれど、無料で借りている以上何らかのCMが入るのは仕方ないのかもしれないが、最初の頃と比べるとどんどんエロ系のイラストや写真が増えてきた。それに私はパソコンで観ることが殆どだが、たまに携帯で観ると周りをはばかれるようなエロいCMが入っている。それを何とかクリアーしないと本文が読めなかったりする。どんなに小難しい文章を書いてもおっぱいブリブリでパンツが見えているようなイラストの隙間から読んでいると思わず周りを見渡してしまう。何なんだ。このえげつないコマーシャルは。これはそろそろ有料のブログを借りないとエロ親父がばれてしまう。


更新時間 : 19:24:05

5月9日 (木)

はる 6581
 新作の準備にかかる。毎年どれくらいの作品をかいているのだろうか。仕上がらなかった、または潰してしまったリメイク作品も多い。それでも半分以上は下地から作り上げて行く。ざっとカウントすると百点以上描いている。

 昔は油彩画を描いていたので、まずキャンバスを買ってきて地塗りしてといった方法だった。何の疑いもなく、それが普通だったのだな。それが今の混成技法になってからまったく変わってしまったわけだ。最初の頃はキャンバス地を裏表逆にはったりしていたのだけれど、色んな画材をコラージュするようになってくるとキャンバスである必要がだんだんなくなってきた。もっと堅牢な支持体が欲しくなってきたわけだ。

 油彩画以前のイコンなどのように絵というより一つのオブジェとしての作品を作りたかった。そこら辺の事は何度もかいてきたことだけれど、絵画の需要というのはまぁ一つはインテリアとして飾るというのも大事な要素だとは思う。でもなぁ作家として一生かけてやる仕事としてインテリア工芸作家じゃいやなんだ。何とかもっと切実な観る人のこころに食い込むような表現にしたかったわけだ。そう考えるとどうしてもイコンのような観る人の心の拠り所としてのオブジェでなきゃならない。それならば一生かけ甲斐がある。

 キャンバスに描かれる絵というのはどうも飾り物、インテリア風なんだな。物としての抵抗感、存在感が薄い。昔旅人が長い旅をする時に、魔除けというのかある種のお守りとして手のひらにサイズの小さな護符や仏さんを持って歩いたそうだ。人はやはりそういったモノが必要な動物じゃないのかな。信仰、宗教というほどいかめしいものじゃなくてね。自分がここに居ることを確かめる、確かにここに居るんだと確認するみたいな。

 時代はどんどん仮想世界になってゆくのだけれど、人間が人間である限り、やっぱりしっかり物が存在する、そんな確かなモノがほしかった。

 こうやってパネルを綿の布でくるんでさらに麻布を貼りこんでジェッソで地塗りしてというふうにやっていく過程で、段々とただのパネルのベニヤ板が掛替えのないモノに変わって行く。そこの工程を経なければパネルはただのパネルでしかない。そこが面白い。ただキャンバスを買ってきて絵を描くだけでは絶対に得られないものだ。


更新時間 : 22:55:57

5月8日 (水)

はる 6580
 ぱす

更新時間 : 22:18:27

5月7日 (火)

はる 6579
上手な絵には全く興味がわかない。あまりにも違いすぎるからかな。どういった絵に嫉妬を感じるかといえば、全く作為のない捉えどころのない絵を何気なくひょいひょいと描く人または絵だな。どういう修行をしているのだろう。究極の目標がそこにある。

 パッと見て何か違和感があるのは何処かに破綻があるからだな。それは正確なデッサンということではない。囚われているということだ。そこのところが難しい。

更新時間 : 21:34:48

5月6日 (月)

はる 6578
 パス

更新時間 : 19:49:31

5月5日 (日)

はる 6577
 いよいよ始まりました。
山口画廊との巡りあわせも不思議なもので、最初の個展から一回も休まず今回の個展で11回目になります。

 画廊には大きく分けて貸画廊と企画画廊の二つがあります。二つの体裁は一見よく似ていますが、中身は全く違うものです。前者は字のごとく貸しスペースであり、後者は画商の画廊です。欧米の画廊はほとんどこの画商の画廊であって、貸画廊というスペース貸しは画廊とは言わないようですね。この山口画廊は企画画廊です。

 絵描きは絵を描きます。しかし、それだけでは親類縁者、友人知人にしか売れて行かないのですね。最初はそれでも助かりますが、やがて売れなくなります。どうしても一緒にやってくれる画商さんが必要なんですね。

 ただこの画商さんとのめぐり合いというのがなかなか難しいですね。焦ると何だか詐欺みたいな話に引っ掛かります。預けた絵が戻ってこないとか、いろいろトラぶった事もあります。

 絵描きが絵で食べて行けるかどうかは二人三脚でやって行ける画商さんが見つかるかどうかで決まるきがするな。画商さんを本気にさせる、それだけ熱量が必要ですね。まぁあまりお互いに頼りすぎるのもよくないけどね。あくまでも仕事として付き合うという面も必要でしょうね。

更新時間 : 20:24:32

5月4日 (土)

はる 6576
今日は憲法記念日だものな、これをアップしない訳にはいかないな。平成から令和になって何かしらすべてのミソギが済んで新しくなったような浮かれ気分で騒いでいるけど、よくよく考えてみれば何も変わっちゃいない。我が国でしか通用しない目くらましだ。いつも思う事だけれど、この国の為政者は自分たちの都合の悪い事を隠して、無かったことにしたり、責任をあいまいにしてうやむやにしてしまう。「今だけ、金だけ、自分だけ」それは多分、自分たちの問題でもあるんだろうな。臭いものに蓋、長いものには巻かれろ。このままでは確実に破たんしてゆくのが見えているのに、具体的な対策を取らない、取れないというのも昔から変わらない。もし、変わるとするなら、こういった小さなメッセージの積み重ねからではないかと思うのだけれど、どうなんだろう。

更新時間 : 22:27:13

5月3日 (金)

はる 6575
 ・・・
画廊通信 Vol.191            美について

 榎並さんにとっての一年は、毎年11月に開催される
地元甲府の個展に始まる。ここで新しい年度の個展タイ
トルが発表され、以降の各所における個展は、翌秋まで
全て同じタイトルが冠される。ちなみに今年度は「永遠
のゆくえ」というタイトルなので、今回の案内状もそれ
に准じているという具合だ。加えてそのタイトルを巡る
短い随想も付記されるので、当店もそれを短縮して掲載
している訳だが、字数の関係上致し方ない事とは言え、
毎度大幅なカットを余儀なくされ、常々心苦しく思って
いた所なので、たまには省略をせずに紹介させて頂こう
と思う。という訳で以下、今回のテクスト全文である。

         「永遠のゆくえ」

 耳が遠くなれば小さな音を、目がかすんで来れば見え
 たように、飾ることなく淡々と表現してゆければそれ
 でいいなんて思う。
 よく考える事がある。生きる事にたいした目的も無い
 のなら、神は何故人間なんて、いやこの私をこの世に
 送り出したのだろうか?たかだか百年生きるだけだ。
 それほど遠い所へ行ける訳も無い。
 まだまだ分からない事だらけだけれど、一つの解答が
 芸術というのか、音楽とか美術でもいいのだけれど、
 究極の形というのがそこにあるのではないかなと思っ
 たりする。なぜならこれだと思うものがすべてそちら
 の方向を向いているからだ。
 言いたい事が上手く言えないなぁ。

 「美は発見である」

 で、ここでいう「美」というのは「うつくしい」とい
 うことではなくて、「真理」とか「ことわり」といっ
た類のもののような気がするな。
 さて、そんな「永遠のかけら」を拾い集めました。楽
 しみにお出かけ下さい。心よりお待ちしております。

 文脈を整理すれば──神が私をこの世に送り出した意
味を考える時、その一つの解答が「芸術」だと思う。何
故なら、これだと思えるものが全て「美」の方向を指し
示すからだ。それが神の意向なのだとしたら、美とはそ
のまま「真理」であり「ことわり」だと言えるだろう。
ならば私の為すべきは、それを見出す事だ。故に「美は
発見である」──少々の補足を加えさせて頂いたが、お
よそこんな論旨になるだろうか。日頃のざっくばらんな
物言いではあるが、ここで榎並さんは芸術の最も根本的
かつ厄介な問題に触れている。即ち「美とは何か」、こ
と西洋においてこの問題は「美学」という学問分野が打
ち立てられるほど、重要なテーマとして君臨して来た。
その定義が如何に困難であるかは、手っ取り早く辞書を
紐解けば分る。一例として「広辞苑」を引いてみよう。

【美】@うつくしいこと。うつくしさ。Aよいこと。立
   派なこと。B知覚・感覚・情感を刺激して内的快
   感をひきおこすもの。「快」が生理的・個人的・
   偶然的・主観的であるのに対して、「美」は個人
   的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然
   的・客観的・社会的である。

 端的に申し上げて、@は単なる同語反復であり、Aは
元より論外、Bに到ってやっと意義らしき言及となるも
「美」を「快」と対比させる辺り、論拠共々相当に苦し
い。天下の広辞苑をしてこうである。ただ、これは決し
て辞書側に非が有る訳ではなく、上述の如く「美」の定
義自体に難が有るからなのだ。概括して、古来西洋には
「ヴィーナス」というれっきとした美神が居る通り、美
とは普遍的な実在としてのイデアであり、事物が本来具
有する至高の属性であった。それが近世に入ると、実体
としての美は否定され、あくまでもそれは人間の主観的
な認識に過ぎない、という見解が主流となった訳だが、
以降両者の対立は平行線のまま、どちらに軍配を上げる
べきかの決定的な判定には、未だ到らないようである。
 さて、ここからが本題となるのだが、上述のような哲
学論議を「無要な諸観念の跳梁」と、一言の下に喝破し
た思想家が居た。小林秀雄である。またか、という声が
聞えて来そうで、毎度ご容赦を願う他ないのだけれど、
美学の根幹とも言える歴史的な難題を、こうも大胆に切
って捨てるような人は、古今東西なかなか居ないだろう
と思う。つまり、そんなものは無益な水掛け論であり、
よって論議自体に意味がない、という訳だ。それどころ
か、多く「跳梁」とは好ましからざるものの跋扈を言う
のだから、彼にとっては美の学術論議などは空理に過ぎ
ず、無用どころか悪しき観念の遊戯とさえ思えたのかも
知れない。ならば彼は美をどう考えていたのか、それを
率直に語った一節があるので、この機会にご紹介してお
きたい。ちなみに、出典は小中学生を対象に書かれたも
のらしく、とても平易な言葉で綴られているが、どうし
てどうして、その説かんとする所は美の核心を真っ向か
ら突くものである。確か以前にも引いた事があって、繰
り返す事になるけれど、以下は「美を求める心」から。

 美しい自然を眺め、或は、美しい絵を眺めて感動した
 時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経
 験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、何んとも言え
 ず美しいと言うでしょう。この何んとも言えないもの
 こそ、絵かきが諸君の眼を通じて、直接に諸君の心に
 伝えたいと願っているのだ。美しいものは、諸君を黙
 らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。
 これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵 
 や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に
 堪える経験をよく味わう事に他なりません。(中略)
 「美を求める心」という大きな課題に対して、私は、
 小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美
 の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題で
 はなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美
 しさの経験が根本だ、と考えているからです。美しい
 と思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求
 める心とは、物の美しい姿を求める心です。

 この仕事に携わる者として、上記の言葉は正に実体験
として理解出来る。一枚の小さな絵の前で、人はただ為
す術もなく佇む、何故それに惹かれるのかさえ、判然と
しないままに。そんな言葉を失うような感動を、小林は
「沈黙」と呼んだ。それは後で如何ようにでも脚色して
言語化出来ようが、所詮それは沈黙の輪郭を文学的に装
飾したに過ぎない。畢竟彼の語る「美」とは感動の経験
に他ならず、何かを抽象した観念上の用語ではない、よ
ってここに美学は、その意義を失うのである。あくまで
それは、学術が武器とする冷徹な論理とは対極にあるも
のであり、むしろ論理や分析の果てる領域にあってこそ
息衝く、美が感動の体験である限り、体験は常に言語に
先行し、瞬時にして言語を無力化するのだから。思えば
今まで、どれほど多くのそんな感動の姿を、言い換えれ
ば、どれほど多くの「沈黙」を目にして来た事だろう。
その沈黙こそが、美の持つ根本の力であり本質である、
と小林は言う。だからそれを言葉にする必要はない、む
しろ言葉を止めて言葉から離れよ、言葉にする前にしば
し立ち止まって、その沈黙の姿を味わえ、それが「沈黙
の力に堪える」という事だと。正に然りと思う。沈黙を
吟味するほどにいよいよ顕現する「何んとも言えないも
の」、それに「美」という言葉を当てはめるのなら、や
はり美は感ずる事でしか得られない、即ち感得によって
しか捉える事の出来ないものだ。故に学んで知るという
学問の方法、つまり知性に基づいた学究的把握は、美の
前に無効となる。そしてその原則に立脚するならば、美
の定義という難問もまた、自ずから無用となるだろう。

 時折、画家が心底羨ましくなる。「言いたい事が上手
く言えないなぁ」と言いつつも、画家は上手く言えない
その「言いたい事」を、制作という行為によって十全に
言い得るのだから。その間こちらはと言えば「美は定義
出来ない」というそれだけの結論を得るのに長々と要ら
ぬ言辞を弄し、感得とは程遠い屁理屈を重ねる仕儀に到
っている訳だ。幸い榎並さんは、自らブログ等を通して
言葉を発信する人だから、その考えを私達は直接聞く事
が出来る訳だが、たとえ当人が自作をどんなに懇切に解
説し、その意図をどんなに詳細に語ろうとも、それでも
本当に言いたい事は、やはり絵の中にしかないだろう。
言うまでもない事だが画家は制作に当って、色や形や線
といった絵画だけの言語(=造形言語)を用いる。よっ
て「絵を描く」という行為において、通常私達の用いる
言語(=言葉)は全く介入しない。分り切った事と言わ
れそうだが、しかし知らず知らずの内に、私達はその事
実を忘れている事が多い。例えば「画家は自らと対話し
ながら描く」といったような表現を、私自身もよく使っ
たりするけれど、この時の「対話」という言葉からは、
つい自問自答のようなイメージを、即ち内省的な自己対
話を連想してしまうのだが、考えてみればそれも言葉を
用いる行為なのだから、制作が言葉を介さない行為であ
る限り、画家はそのような対話はしていない。画家の為
す対話とは、あくまでも色や形や線による、造形言語の
対話なのである。従って制作とは、何らかの思想を表明
するものでもなければ、何らかの哲学を提示するもので
もない、徹頭徹尾、色や形や線による造形でしかない。
むろん、絵画を何らかの思想を表現するための、媒体と
して用いる作家も居るだろう。例えば反戦思想・環境問
題・震災哀悼等々、しかしそういった作品のほとんどは
端的に面白くない。制作が意図や思想を持った瞬間から
表現こそが目的であった絵画は、その意図や思想を表明
するための、単なる手段に成り下がるからである。故に
声高な主義主張を離れ、ひたすら造形言語による表現を
志向する絵画は、概して無思想である、と言うよりは、
思想を拒絶すると言うべきか。絵画が思想を孕むとした
ら、それは徹して絵具と絵筆で語られる、だからこそ其
処には、純粋な表現の自由が脈々と横溢するのだろう。

 上に、画家にとっての制作とは「徹頭徹尾、色や形や
線による造形でしかない」と書いた。その「しかない」
と言い捨てた筈の造形が、思えば何と豊かな想念を、そ
の中に孕む事か。其処には明らかに、その作家ならでは
の或る心象が投影されている。ただ残念ながら、それは
見る方も語る事が出来ない、それこそが「美」だからで
ある。すると美というものは、作家が意図して作るもの
ではなく、自ずから滲み出るものなのか、あたかも人格
が意図して「作る」ものではなく、自ずから「出来る」
ものであるように。ならば「美の創造」という言い方は
誤謬である、それは造形言語との飽くなき格闘の果てに
立ち現れ「見出される」ものだ。いみじくも榎並さんが
「美は発見である」と明言した所以は、まさしくそこに
ある。そして、私達もまた見出すだろう、画家の発見し
て確かに捉え得た、あのかけがえのない「美」の姿を。

              (19.04.19) 山口雄一郎

更新時間 : 10:46:15

5月2日 (木)

はる 6574
令和二日目

更新時間 : 20:41:14

5月1日 (水)

はる 6573
 令和元年
丸忠チェントロ 北千住

更新時間 : 20:42:01

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