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絵描きのぼやき

6月30日 (土)

はる 4022
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更新時間 : 23:03:18

6月29日 (金)

はる 4021
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    6月29日19時〜官邸前アクション空撮ライブ
    http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1379
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広瀬隆さんの呼びかけによって、6月29日(金)夕方〜夜にかけて
行われる官邸前での再稼働撤回アクションを空から中継します。
航空法の関係で、疑似生となります。
官邸上空にヘリが滞在するのは、18時10分〜30分、19時10分〜40分の2回。
配信時間は19時頃からとなる見込みです。

◎官邸まで来れない方にぜひお知らせください。
◎官邸前に行く方はぜひ光の出るものなどをご用意ください。
 (懐中電灯、ペンライト、ケミカルライト(コンサートなどで腕に巻くヤツ)
  警備員などが使う蛍光ベストやタスキ、携帯電話、スマホなどなど)

ーヘリコプターの飛行スケジュールーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎1回目の飛行
リポート:山本太郎さん(俳優)
新木場ヘリポート離陸  18時
官邸上空到着      18時10分頃
官邸上空から新木場へ  18時30分頃
新木場へリポート    18時40分頃
 
◎2回目の飛行
リポート・スチル写真撮影:野田雅也さん(フォトジャーナリスト)
新木場へリポート離陸  19時
官邸上空到着      19時10分頃
官邸上空から佐倉へ   19時40分頃
佐倉へリポート     20時頃
 
ーライブ配信ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎OurPlanetTV
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1379
◎Ustream(上記でアクセスが殺到した場合)
http://ow.ly/bStd1

◎1回目配信:19時頃〜19時40分
リポート:山本太郎(俳優)
配信:OurPlanetTV/IWJ
 
◎2回目配信:21時頃〜21時40分頃
リポート:野田雅也(フォトジャーナリスト)
配信:IWJ
 
プロデュース:綿井健陽(ビデオジャーナリスト)
配信技術:古田晃司(IWJ)・高木祥衣・小川直也(OurPlanetTV )
リポーター:山本太郎(俳優)・野田雅也(フォトジャーナリスト

更新時間 : 22:06:07

6月28日 (木)

はる 4020
 知り合いがコンビニに雇われた話を聞いた。時給何百円の世界だ。いざ困れば、私がやれる仕事は旗振りかコンビニかと思っていたけれど、これもなかなか難しいようだな。大体60を越えたら雇ってはくれないだろう。

 コンビニほど精一杯働かされるところはないという、お客さんを5秒待たせてはいけないそうだ。今まではお客としてこちら側にいてそういったサービスが当たり前と思っていたけれど、反対側から見ればなかなか苛酷な仕事が見えてくる。誰でもができそうだけれど、これはなかなか難しい。周りをみるとアジア系の外国の人が多い。今の甘やかされた若い日本人では勤まらないように思う。

 コンビには良くも悪くも小商売の最前線だな。どこでも同じような商品が同じようなスムースさで極当たり前のように便利に利用できる。百円ショップとこれ一軒がそばにあれば大体の用事は済んでしまう。色々あるけれどやっぱり便利に利用してしまうのだな。

 それに比べてあの銀行のサービスの悪さ。同じような振込みがどうしてあれだけ手間隙かかるのだろう。高い手数料を取るし、危なくなったら公的資金で救ってもらえるし、馬鹿にした話だ。

 どこでも旧態依然の大きな企業は同じだな。危機感がまるでない。あれほど大きな事故を起こしながらまるっきり反省しない東電という企業はつぶした方がいい。




更新時間 : 23:18:42

6月27日 (水)

はる 4019
 今回の山口画廊の個展がなんと60回記念なんだな。私の還暦に合わせたわけではないが、上手い具合にぞろ目になった。ここ最近は年間に4〜5回の個展を開催するので順調に回数は増えている。数やればいいというものではないのだけれどね。

 一番最初の個展は30年ほど前(83)まだ県立の美術館も無い頃で、地元の県民会館というやたら広い地下展示場で卒業制作などを並べた。二度目は86年だからその間三年もある。ほとんど絵描きとはいえない。その後どうせ個展をやって行くなら東京でやろうということで、88年に思い切って銀座の貸し画廊で小さな作品を集めて個展を開催した。まだ何者でもないただのフーテンだったな。

 それから毎年銀座で個展が開催できているのは、そうやって生きてもいいということなんだろう。だめならさっさと止めているからな。そうやっていつもとても大事なことを他力にまかせてしまうところがある。是が非でも、何が何でもとは考えないことにしている。そんなスタンスが合っているように思うな。自分の今の絵のスタイルとやや似ているかな。

 年に4〜5回も個展をやるので、疲れませんかとよく言われる。まぁそれはそうだけれど、ある意味それが仕事だからなぁ。個展会場でお客さんと話をするのは楽しいよ。けっして嫌いではない。そらそうだ、個展に来てくれたお客さんは一応私のファンなんだものな。嫌なはずが無い。

 全国にそうやって拠点ができて放浪の絵師のような生活ができれば本望だ。



更新時間 : 00:15:58

6月26日 (火)

はる 4018
 帰ってきて今日は久しぶりの授業。生徒を連れて近場をスケッチする。私などは絵が好きだったから苦も無く絵を描いたけれど、嫌いな人間にとっては苦痛かもしれない。それを色んな手を使ってやる気にさせるのはなかなか難しいね。

 最初の一時間ぐらいはおとなしく描いているようだけれど、その後は飽きてしまう。そうなんだよな、上手くないことに気がついてしまうとなかなか集中して絵など描いていられない。ついつい手いたずらしたりうろうろ人の邪魔をしたりしている。バカヤロウと大声を出しても、まぁそうだろうな面白くないのかなと思うと可愛そうにもなる。それ以上はその場につなぎとめておく事はむつかしい。

 絵を描く事は長い人生の中でもここだけ、今しかやらない大事なことなんだよと言っても、彼らにとっては臨場感ないね。それがどうしたってなもんだ。そんな事より腹減ったと事の方が重大なことだ。わたしもたぶんそうだった。ここらあたりが限界かな・・。

 けっこう空しい想いを感じたな。




更新時間 : 22:08:38

6月25日 (月)

はる 4017
 帰宅

更新時間 : 21:23:40

6月24日 (日)

はる 4016
 昨日は寝てしまったので、更新がシャメだけになってしまいました。お会いできた方、わざわざどうもありがとうございました。また来年お会いしましょう。展示はまだまだ7/9まで続いています。ぜひご覧になって、絵のこと人生のことなどオーナーとお話になってみてください。きっと何か得ることがあると思います。

 私は今日帰宅します。



更新時間 : 21:23:19

6月23日 (土)

はる 4015
 千葉泊一日目
 個展は楽しいけれど、疲れます。明日は一日画廊にいます。訪ねてみてください。



更新時間 : 21:22:45

6月22日 (金)

はる 4014
 明日、明後日、と千葉の山口画廊にいます。もし都合がつくようであればお越し下さい。どんな野郎か見てみるのも一興かも知れません。御待ちしております。



更新時間 : 20:42:19

6月21日 (木)

はる 4013
昨日は寝てしまったので
 4012続き
 補助金とか奨学金、奨励金とかお上の予算なんかもそうかな、生活保護なんかもややそれに近いか。正統な労働で得られる報酬でないお金というものは、まぁ悪く言えばあぶく銭みたいなもので、最初はありがたくいただくのだけれど、段々にふてぶてしくなってもらうのが当たり前のようになって、やがては居直ってそれに頼ってしまって自ら腐ってゆく。

 何のことかと言えば、原発のことだ。誰かが原発のお金は麻薬のようだと言っていた。確かに人間はみんな欲があってね、目の前にお金を積まれれば、ましてそれで生活の糧を得るようになってしまえば、もう断ることはできない。

 原発だけではない。道路公団やどこそこの公共事業、ダムの建設とか何とか公団の始めに予算有りきの仕事というのは、どれもこれも胡散臭い。悪く言えば末期の社会主義の親方日の丸のどうでもいい予算食いつぶしやっつけ仕事の匂いがする。

 一度その味をしめてしまうとどうやってもそこから抜けられなくなってしまう。それがヤクザ企業のヤクザなるゆえんだ。

 こんな事を偉そうにほざいている本人でさえ、そんな上手い話が転がり込んでくればきっぱりと断れるかどうか自信が無い。今は貧乏絵描きだから誰もそんな上手い話をかけては来ないけれど、例えば原発のPRポスターを一点1000万で引き受けませんかと言われれば、はいはいと受けてしまうかもしれないな。毅然とことわれるかどうか、それがまぁ全てだ。

更新時間 : 18:57:15

6月20日 (水)

はる 4012
 補助金とか奨学金、奨励金とかお上の予算なんかもそうかな、生活保護なんかもややそれに近いかな、正統な労働で得られる報酬でないお金というものは、まぁ悪く言えばあぶく銭みたいなもので、最初はありがたくいただくのだけれど、段々にふてぶてしくなってもらうのが当たり前のようになって、

更新時間 : 12:16:46

6月19日 (火)

はる 4011
 今日は台風で定時制の授業がカット、そのままDVDを借りて映画鑑賞した。

更新時間 : 23:37:17

6月18日 (月)

はる 4010
 今日は運転手で松本までドライブ。元々運転は好きではない。特に日が暮れてからの運転は出来るだけしたくないので、用事が終わればどこにも寄らずにすたこら帰って来た。それでも昔は体力に任せて、面白がって関西の実家までスバルサンバー360で帰ったこともある。あれはあれでけっこう面白かったのだけれどね、今はそんな元気は無い。



更新時間 : 23:13:24

6月17日 (日)

はる 4009
 パス

更新時間 : 23:18:42

6月16日 (土)

はる 4008
 何と馬鹿な話だ。何で止められないのだろう。紳士面しているけど、あいつらはヤクザ者だ。金と恫喝で相手を黙らせる。これで日本は理想を掲げて変る事ができる最大のチャンスを失った。同じ過ちを何度繰り返せば分るのだろう。


更新時間 : 23:05:53

6月15日 (金)

はる 4007
 明日は午前中に山口画廊のオーナーが自ら車を運転して絵を取りに来ます。朝から雨らしいからどうも憂鬱だな。個展が始まる前はどうも毎回ブルーになる。もうどうあがいてもなる様にしかならないのは分かってはいるのだけど、それでも気持ちはブルーだな。

 何とか多くの人に観てもらいたい。そう願うだけです。

 山口画廊HP
http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/top.cgi




更新時間 : 23:22:28

6月14日 (木)

はる 4006
http://blog.tatsuru.com/2012/06/14_1241.php
より勝手転載
**************
・・略
【野田総理冒頭発言】
本日は大飯発電所3,4号機の再起動の問題につきまして、国民の皆様に私自身の考えを直接お話をさせていただきたいと思います。
4月から私を含む4大臣で議論を続け、関係自治体のご理解を得るべく取り組んでまいりました。夏場の電力需要のピークが近づき、結論を出さなければならない時期が迫りつつあります。国民生活を守る。それがこの国論を二分している問題に対して、私がよって立つ、唯一絶対の判断の基軸であります。それは国として果たさなければならない最大の責務であると信じています。
その具体的に意味するところは二つあります。国民生活を守ることの第一の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、福島のような事故は決して起こさないということであります。福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認されています。
これまで一年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります。もちろん、安全基準にこれで絶対というものはございません。最新の知見に照らして、常に見直していかなければならないというのが東京電力福島原発事故の大きな教訓の一つでございました。そのため、最新の知見に基づく、30項目の対策を新たな規制機関の下で法制化を先取りして、期限を区切って実施するよう、電力会社に求めています。
その上で、原子力安全への国民の信頼回復のためには、新たな体制を一刻も早く発足させ、規制を刷新しなければなりません。速やかに関連法案の成案を得て、実施に移せるよう、国会での議論が進展することを強く期待をしています。
こうした意味では実質的に安全は確保されているものの、政府の安全判断の基準は暫定的なものであり、新たな体制が発足した時点で、安全規制を見直していくこととなります。その間、専門職員を擁する福井県にもご協力を仰ぎ、国の一元的な責任の下で、特別な監視体制を構築いたします。これにより、さきの事故で問題となった指揮命令系統を明確化し、万が一の際にも私自身の指揮の下、政府と関西電力双方が現場で的確な判断ができる責任者を配置致します。
なお、大飯発電所3,4号機以外の再起動については、大飯同様に引き続き丁寧に個別に安全性を判断してまいります
国民生活を守ることの第二の意味、それは計画停電や電力料金の大幅な高騰といった日常生活への悪影響をできるだけ避けるということであります。豊かで人間らしい暮らしを送るために、安価で安定した電気の存在は欠かせません。これまで、全体の約3割の電力供給を担ってきた原子力発電を今、止めてしまっては、あるいは止めたままであっては、日本の社会は立ちゆきません。
数%程度の節電であれば、みんなの努力で何とかできるかも知れません。しかし、関西での15%もの需給ギャップは、昨年の東日本でも体験しなかった水準であり、現実的にはきわめて厳しいハードルだと思います。
仮に計画停電を余儀なくされ、突発的な停電が起これば、命の危険にさらされる人も出ます。仕事が成り立たなくなってしまう人もいます。働く場がなくなってしまう人もいます。東日本の方々は震災直後の日々を鮮明に覚えておられると思います。計画停電がなされ得るという事態になれば、それが実際に行われるか否かにかかわらず、日常生活や経済活動は大きく混乱をしてしまいます。
そうした事態を回避するために最善を尽くさなければなりません。夏場の短期的な電力需要の問題だけではありません。化石燃料への依存を増やして、電力価格が高騰すれば、ぎりぎりの経営を行っている小売店や中小企業、そして家庭にも影響が及びます。空洞化を加速して雇用の場が失われてしまいますそのため、夏場限定の再稼働では、国民の生活は守れません。
そして、私たちは大都市における豊かで人間らしい暮らしを電力供給地に頼って実現をしてまいりました。関西を支えてきたのが福井県であり、おおい町であります。これらの立地自治体はこれまで40年以上にわたり原子力発電と向き合い、電力消費地に電力の供給を続けてこられました。私たちは立地自治体への敬意と感謝の念を新たにしなければなりません。
以上を申し上げた上で、私の考えを総括的に申し上げたいと思います。国民の生活を守るために、大飯発電所3m4号機を再起動すべきだというのが私の判断であります。その上で、特に立地自治体のご理解を改めてお願いを申し上げたいと思います。ご理解をいただいたところで再起動のプロセスを進めてまいりたいと思います。
福島で避難を余儀なくされている皆さん、福島に生きる子どもたち。そして、不安を感じる母親の皆さん。東電福島原発の事故の記憶が残る中で、多くの皆さんが原発の再起動に複雑な気持ちを持たれていることは、よく、よく理解できます。しかし、私は国政を預かるものとして、人々の日常の暮らしを守るという責務を放棄することはできません。
一方、直面している現実の再起動の問題とは別に、3月11日の原発事故を受け、政権として、中長期のエネルギー政策について、原発への依存度を可能な限り減らす方向で検討を行ってまいりました。この間、再生エネルギーの拡大や省エネの普及にも全力を挙げてまいりました。
これは国の行く末を左右する大きな課題であります。社会の安全・安心の確保、エネルギー安全保障、産業や雇用への影響、地球温暖化問題への対応、経済成長の促進といった視点を持って、政府として選択肢を示し、国民の皆さまとの議論の中で、8月をめどに決めていきたいと考えております。国論を二分している状況で一つの結論を出す。これはまさに私の責任であります。
再起動させないことによって、生活の安心が脅かされることがあってはならないと思います。国民の生活を守るための今回の判断に、何とぞご理解をいただきますようにお願いを申し上げます。
また、原子力に関する安全性を確保し、それを更に高めてゆく努力をどこまでも不断に追求していくことは、重ねてお約束を申し上げたいと思います。
私からは以上でございます。
以下略
***********

更新時間 : 22:41:07

6月13日 (水)

はる 4005
 http://www.geocities.jp/marebit/TOP.html
より勝手転載
********************
告訴宣言

福島原発事故の責任をただす!告訴宣言

福島原発事故から1年を過ぎた今なお、事故は全く収束せず被害は拡大の一途をたどっています。美しい自然と豊かな生命をたたえたふるさと、何ものにも代え難い共同体を失った私たちは、地域社会の分断という重荷を背負い、いつ終わるともしれない苦難の中にいます。

福島原発事故は、すでに日本の歴史上最大の企業犯罪となり、福島をはじめとする人々の生命・健康・財産に重大な被害を及ぼしました。原発に近い浜通りでは、原発事故のため救出活動ができないまま津波で亡くなった人、病院や福祉施設から避難する途中で亡くなった人、農業が壊滅し、悲観してみずから命を絶った農民がいます。

このような事態を招いた責任は、「政・官・財・学・報」によって構成された腐敗と無責任の構造の中にあります。とりわけ、原発の危険を訴える市民の声を黙殺し、安全対策を全くしないまま、未曾有の事故が起きてなお「想定外の津波」のせいにして責任を逃れようとする東京電力、形だけのおざなりな「安全」審査で電力会社の無責任体制に加担してきた政府、そして住民の苦悩にまともに向き合わずに健康被害を過小評価し、被害者の自己責任に転嫁しようと動いている学者たちの責任は重大です。それにもかかわらず、政府も東京電力も、根拠なく「安全」を吹聴した学者たちも誰一人処罰されるどころか捜査すら始まる気配がありません。日本が本当に法治国家かどうか、多くの人々が疑いを抱いています。

生命や財産、日常生活、そして「健康で文化的な最低限度の生活」さえ奪われた今、すべての人々がそれを奪った者への怒りを込めて、彼らの責任を追及し、その罪を認めさせなければなりません。そのために、最も深刻な被害を受けている福島でまず私たちが立ち上がり、行動しなければなりません。告訴団を結成した理由もここにあります。

私たちは、彼らに対する告訴を福島地検で行うことを決めました。自分たちも放射能汚染の中で被曝を強要されながら存在しなければならない矛盾、逃れられない厳しい現実を背負う福島の検察官こそ、被害者のひとりとして、子どもを持つ親として、この事故に真摯に向き合うべきだと考えるからです。

私たちは、自分たちのためだけにこの闘いに踏み出すのではありません。日本政府は、あらゆる戦争、あらゆる公害、あらゆる事故や企業犯罪で、ことごとく加害者・企業の側に立ち、最も苦しめられている被害者を切り捨てるための役割を果たしてきました。私たちの目標は、政府が弱者を守らず切り捨てていくあり方そのものを根源から問うこと、住民を守らない政府や自治体は高い代償を支払わなければならないという前例を作り出すことにあります。そのために私たちは、政府や企業の犯罪に苦しんでいるすべての人たちと連帯し、ともに闘っていきたいと思います。

この国に生きるひとりひとりが尊重され、大切にされる新しい価値観を若い人々や子どもたちに残せるように、手を取り合い、立ち向かっていきましょう。

2012.3.16

福島原発告訴団結成集会参加者一同
 以下略・・

 福島原発告訴団 http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/




更新時間 : 19:42:02

6月12日 (火)

はる 4004
 基本的に色は三原色と白と黒しか使わない。まぁそれでも赤は弁柄とか顔料とか、金、緑青など混ぜて出来ない色は持って入るけれど、基本は三原色だ。なぜそうなったか、そうだな多くの色を持っていると混乱してしまうからだ。色というのは欲と似ているきがするなぁ、これは私の独断だけれどやっぱり色香に惑うというけれど、色というのはそういうところがあるきがする。そう魅力的なんだな。色に遊んでしまうと本質を見失ってしまいそうだ。まぁそれも芸の一つと言えばそうなんだけれどね。

 どんな色でも三原色と白と黒で作る事が出来るというのはなかなか魅力的だ。特に私のような理屈やにとって、様々な複雑な色味も元をただせば三原色と白黒だと言われると、すごく説得力のある理論におもえる。少し大げさだけれど、万物の組成を言い得ているようにおもえるのだ。

 「永遠の故郷」というのは吉田秀和の著書のタイトルだったけれど、物質は最終的に光のような素粒子に分解されてこの宇宙を飛びまわる。我々が見ることが出来る範囲で言えば光は七色に分解される。間違っているのだろうけれど、永遠の故郷というのはそんな光の集まりのようなものではないかと夢想する。

 具体的な色の話から、なんだか話がとんでもない方向に来てしまった。ということで又明日。



更新時間 : 21:54:54

6月11日 (月)

はる 4003
 段々に私の好みの状態になった来た。


更新時間 : 23:01:49

6月10日 (日)

はる 4002
 クロッキーやデッサンというのは物の見方捉え方みたいなもので、運動能力とよく似ていて練習すればそれなりに描ける様になる。もちろんひとによって程度の差はあるのだけれどね。どこにでも達人はいる。どんなに練習しても、だれでもオリンピックに出られるわけではない。

 何々の描き方」というのがあって、それを読めばだれでも一応のものが描けるそんなハウツーものが街の本屋さんなどにはよくある。まぁそれも一種のまやかしだな。いくら自転車の乗り方を本で学習しても実際に乗れないように、ピアノがひけないように簡単な方法などないのだ。

 私は途中経過をほとんど隠し事なく晒している。だから誰かが真似をすればほとんど同じような絵が描けるはずだ。誰かが真似するとしてだな。けれどこれは私がここまでかかって段々に変ってきたもので、その変ってきた過程に意味があるあるのであって、結果というのか、いまの手順そのものには大して意味が無い。

 私が今までに何を見て、どう考えてきたかがそこに投影されているわけで、まぁ十人いれば十通りの技法があるのだろう。まぁ反対に言えば真似されるぐらいの普遍性のある技法を確立したいね。

 宮崎駿がこんな事を言っていた。
「人と違うことが個性なら、個性なんて誰でも持ってるんですよね。個性的な仕事ができるとかね、個性ってことを誤解されてると思うんです。他人と共有できるものをどれだけ持っているか。それが、実は重要な分母なんですよね共有できるものをいっぱい持てば、自ずとその上に、その人間の個性っていうものが反映されてくるんです。共有できるものをちゃんとマスターしなきゃ話にならない。



更新時間 : 22:41:51

6月9日 (土)

はる 4001
 無事4000をクリアーしました。次は5000ですね。約三年かかりますから、健康で毎日更新できれば2015年の三月ごろでしょう。生きている限り続けるつもりです。

 日記文学とか随筆とかエッセイとか、色々表現の仕方はあったのだけれど、こういったブログなどというものは今までになかったもので、これもまた新しい表現のあり方だと思うのだ。全ての人が平等に世の中に発信できるかつてない道具なんだな。だからまぁ玉石混合で膨大な情報から自分の欲しい情報を適宜取捨選択しなければならないのだけれどね。これが又難しい。誰でも出きるという事は、ほとんど無いのと同じだからだ。

 仕事は生きている限り続けるつもりだ。あまり働いているという意識はないのだが、定年の無い仕事だから生きている限り現役だ。もし仮に百まで生きたらそれでも個展をやる。上手いとか下手くそだとか、そんな問題ではないからな私の絵は。どう生きているかというのが問われているわけだから、手が動かなくても足で描けばいい、口が聞けなくても耳が聞こえなくても関係ない、そのことを描けばいい。目が見えなくなったら歌でも唄うかな。なかなか面白くなってきたぞ。 
 



更新時間 : 22:41:14

6月8日 (金)

はる 4000
 上の絵は知り合いがプレゼントしてくれた似顔絵です。賛は老子の「上善若水 上善は水のごとし」だそうです。そうありたいとは思っていますが・・。どうもありがとう。

 ところで、山口画廊の画廊通信を今回も転載します。なにもコメントを付け加える必要はありません。山口さんの感動的なエッセイをどうぞ。
*********

画廊通信 Vol.104       訪れるもの

 冒頭から私事になるけれど、私は中学の頃からクラシック音楽が好きで、今でもヘッドフォンを被ってよく聴いている。暗い人間と言われそうだが、誰に何を言われようと、一人酒を飲みながら、超一流の音楽を超一級の演奏で聴く時ほど、人生の愉悦を感じる時はない。これに匹敵する歓びは絵が売れた時ぐらいで、後は大概あくせくと金に追われながら、灰色の人生を送っている訳だから、最近ふとそんな現状を顧みて、私にとって「音楽」とは「逃避」に他ならないように思えて来た。

 そんな事はどうでもいいのだが、40年近くもそうやってクラシック音楽を聴いておきながら、私はモーツァルトという作曲家にほとんど興味がなかった。中には好きな曲もあったけれど、深く追求するに値する音楽とは、どうも思えなかったのである。確かにあの流れるようなメロディーは、天才の為せる業(わざ)かも知れない。しかしまあ、何と軽く深みのない、ハプスブルグ家の舞踏会みたいな音楽だろう、ベートーヴェン・ブルックナー・ブラームスといった巨人達に比べると、まるでお子ちゃまの音楽ではないか、と言ってしまえば言い過ぎだが、それに近い事は思っていたのである。

 だいたい、みんなが「いい」「いい」と言うのが気にくわない。画廊に見えるお客様にもクラシックファンは多いが、皆さん口を揃えたように「モーツァルトは素晴らしい」「モーツァルトは別格だ」とおっしゃる。それに加えてマスコミでは、トマトや牛までがモーツァルトを聴かせると育ちが違うなどと、臍で茶を沸かすような珍説を言いふらす。じゃ何か、モーツァルトの分らない私はトマトや牛にも劣るのか、こうなったら金輪際聴いてやるものかと、いよいよ決心を固くしていたのだが、最近さすがに不安になって来たのか、あるいは人間が丸くなって来たのか知らないが、ぼちぼちCDを買って来たりして、車の中で聴いたりするようになった。すると面白
いもので、あれほど何十年も興味を持てなかったのに、「おっ、いいねえ」などと、素直に思ったりする事が増えて来たのである。そして先日、あの忘れもしない決定的瞬間が、私に訪れたのだった。


 先々月の末頃、どうした訳か、夕方まで一人の来客も無い日があった。ただボケッと座っている訳にもいかないので、夕方まで手紙を書いたり電話をしたり溜っていた雑用を片付けたりと、やるべき事は全てやり終え、それでもしつこく誰も来てくれないので、気分転換にパソコンでユーチューブを開けてみた。ちょうど興味も出て来たところだし、「mozart symphony」と入れて検索してみる。その後どういった経緯で辿り着いたのかは忘れたが、私はあるライヴ演奏の映像を見つけてプレイしてみた。曲目は「交響曲第40番」、モーツァルトの数多い交響曲の中で、最もポピュラーな一曲である。指揮はニコラウス・アーノンクール、オーケストラはヨーロッパ室内管弦楽団、あまり関心のない指揮者と聴いた事もない楽団だったので、数ある中でどうしてその演奏を選んだのか、今となっては自分でも定かではないのだが、往々にして忘れ難い出会いとは、思いもかけない所で起るものなのだろう。

 一聴して厳しくもしなやかな、鋭い切れ味を持った音楽である。快い緊張の糸がピンと張り詰めて、強弱・緩急の対比が鮮やかに際立つ。モーツァルトの持つ天性の簡潔な音運びを、精鋭の若きヴィルトゥオーゾ達は、実にキビキビと颯爽と描き上げて往く。それにしても何とみずみずしい、曇りの無い音楽だろう。そこにはアーノンクールという指揮者の真摯な主導と、それを受けるオーケストラのひたむきな演奏が相まって、音楽の純粋な歓びがいきいきと満ち溢れていた。

 交響曲が第4楽章に入った時、ふいに涙が溢れた。その理由は、今もって分らない。客の来ない哀しさを音楽に癒されたとか、演奏家達の一途な姿勢に打たれたとか、理由は付けようと思えば幾らでも付けられるだろうが、一瞬にして激しく心を揺さぶるあの感動に比べたら、そんなものは枝葉末節に過ぎない。私は確かにその時、「モーツァルトのかなしさは疾走する」と評した小林秀雄の言葉を、ありありと体感していたのだと思う。

 その日から私の中で、モーツァルトはアイドルとなった。あの歯切れの良い爽快な音楽に慣れてしまうと、あれ程好きだったベートーヴェンやブルックナーが、どうも鈍重で融通の利かない堅物に思えて来るから不思議だ。いつ聴いてもモーツァルトは、軽やかに疾走し飛翔している、澄み渡る哀しさをそこはかとなく湛えて。


 格好をつけた言い方になるが、私はあの時の「涙」を信じている。理屈などは易々と超えて、思いもかけずに訪れるあの感動、芸術においてはそれが全てだ。私の今まで取り扱わせて頂いた作家は、全てそんな出会いを原点としているし、今回で4度目の個展となる榎並さんも、やはりそんな思いがけない出会いで知り合った作家である。榎並さんの場合は、たまたまインターネットで作品に触れたのがきっかけだったが、それが画廊であれ、どこかの美術展であれ、あるいは美術誌の記事であれ、図らずも心を奪われる事になった出会いは、信じるに足ると思う。理性的な知識や分析に頼るのではなく、むしろ理性というような狭い領域を超えて、自分でも説明のつかないままに心を揺さぶられる体験、そこに基点を置いている限り、その人の「目」は、あるいは「耳」は、正しいのだと思える。考えてみればそれは何も特別な事ではなく、至極当然の事なのかも知れない。何しろその作品を作った当人が、自分でも与り知らない感動を源泉としているに違いないのだから。

 人は芸術を「自己表現」と言う。それはその通りに違いないのだが、それは芸術の半面しか語っていないように思う。自己を表現する事は、ある程度のレベルにある人なら誰でも出来る、しかし、自分の外から来るものを捉える事の出来る人は、極めて限られてしまうだろう。ある意味、芸術家とそうでない人との違いは、そこにあるのかも知れない。「表現」とは文字通り、「表す」事であると同時に「現れる」事でもある。何処からか現れたものを、自分のものとして捉え得る人、その人こそ、真の芸術家と言えるのではないだろうか。


 有名な話だが、モーツァルトは遊びに来た近所のご婦人方と、鶏やアヒルの話、あるいは人の噂話などに笑い興じながら、得も言われぬ名曲を書き上げていたらしい。「構想は、あたかも奔流のように鮮やかに、心の中に姿を現します。しかし、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には分らないのです」、そうやって訪れたものを、ただ書き留めているだけ
なんだと、当人は語っている。もちろんそこには、モーツァルト特有の誇張もあるだろう、しかしそれでも彼は、決して嘘を言った訳ではないと思う。モーツァルトの言葉には、芸術の本質が隠されている。それは、創作の源泉は自己を超えた交感にあるという事実だ。自己表現の権化のように思われているあのベートーヴェンだって、実際は散歩の途中でふと現れたメロディーから、長大な交響曲を書き上げたりしているのだ。そのせいかどうかは知らないが、ベートーヴェンは生涯こよなく散歩を愛したらしい。きっとベートーヴェンも待っていたのではないだろうか、あのゆくりなくも訪れる詩的直観の到来を。


 そして榎並さんもまた、そのように制作をする人である。榎並さんは長年ブログを続けられていて、面白いので私もよく拝見するのだが、そこに制作途中の作品映像が折々にアップされる。大小取り混ぜた色とりどりのパネルが並んでいる光景だが、そのほとんどは地塗りの顔料が塗られていたり、時に壁土が練り込まれていたり、あるいは布地が貼られていたりという段階のもので、未だ作品という形には到っていない。通常は下書きのデッサンがあって、それを徐々に肉付けして行くというのが定番なのだろうが、榎並さんの場合はたいがい弁柄や黄土を塗り込んだり、あるいはせっかく塗ったものを消し潰したり、はたまたその上から金泥をかけ流したりといった具合で、なかなか「絵」らしきものが見えて来ない。しかし、このいつ果てるとも知らぬ作業こそが、榎並さんにとっての制作なのである。だから榎並さんの制作は、ある意味「待つ」作業でもある。画家は幾重にも絵具を重ねながら待っているのだ、何処からか訪れるだろう、何者かとの出会いを。

 ある段階に到って榎並さんは、おもむろに細い白線で何かの輪郭を探し始める。模糊とした何かが、作家の前に現れつつあるのだ。いつしかそれは人らしい形を取り始め、やがて画面に楽師が現れたり旅人が訪れたり、時に水撒きをする庭師になったりする。あるいは人だと思ったものが違う形になったり、一人だと思った所にもう一人隠れていたり、榎並さんは現れるべき何かを探しながら、白い描線を大胆に引き続ける。それはまるで、未知の領域を模索する、精神の触手のようにも見える。

 そして全てが眼前に現れた時、作家は筆を置くのだろう。幾重にも堆積した絵具が、風化した古い壁のような趣を湛える画面、その上にあたかも中世のイコンのように浮び上がる人物達、それら榎並さんの世界に特有のモチーフは、全て何処からか現れて、いつしか画面に降り立った者達である。榎並さんはよく、「自分の中に無いものは出て来ない」という言い方をされる。一見それは、私の言説とは相反するように思える。しかし私も榎並さんも、きっと同じ事
を言っているのだと思う、自分の中に、自分を超えた広大な領域があるのだとすれば。


 先述のモーツァルトに触れ得た日は、結局たった一人の来客だけで終ってしまった。しかし、私の心は安らかに定まっていた。頭が足りないと言われればそれまでだが、私はたとえ逆境の時であっても、良き芸術に出会って心を揺さぶられると、いつも「よし、大丈夫だ」と思えるのである。それが音楽であっても、絵画であっても、文学であっても同じである。芸術の感動は、理由も無く人を励ます。根拠なんて何一つ無くとも、良き芸術に出会うと希望が湧き上がる。その意味で感動とは、蘇生の義に他ならない。どうせそこに理屈など無いのなら、そこから受けた感動にだって、理由も根拠も要らないじゃないか、私はそう思ってここまでやって来た。と言うよりは、そのような芸術の励ましがなければ、とてもここまではやって来られなかったと思う。おかげでここまで来たはいいけれど、いつまで経っても内情は火宅の如し、いよいよ先の見えない灰色の日々、よって一人鬱々と音楽に浸るような、愉悦の逃避に走る訳である。やはり、頭が足りないのだろう。

 今回も榎並さんの芸術は、至福の時間をもたらしてくれるものと思う。「日々礼賛」というタイトルの通り、そこには画家が生きる日々で見つけたかけがえの無いもの、そして図らずも画家の日々を訪れた未知からの旅人達、そんな出会い難きもの達が豊かに満ちて、見る人の内なる扉を叩いてくれる。おそらく礼賛は絵の中で、静かに何気なく為されているだろう、かつてモーツァルトの書き残した、あのさりげないアンダンテのように」


    (12.06.07) 山口雄一郎


更新時間 : 19:05:40

6月7日 (木)

はる 3999
 六月二十日からの千葉・山口画廊のDMが出来てきました。このDMに使った作品「エレジー」は出来上がった時に山口画廊のDMに使う看板にするのだと思った。自分の教室の賛助出品にしただけで個展ではどこにも出していない。

 年間で約百点ぐらいの作品を描くけれど、その中でDMに使ってもいいと思う作品はそう多くない。あまり大きすぎても作者の力量は分るけれど、自己主張だけの独善であることが多いな。特に公募展で出品したような大作は美術館の企画なら分るけれど街の小さな画廊では場違いという感じがする。ターゲットをどこにおいているかということかな。

 全面的に自己主張丸出しで「どうだ上手いだろう、私を見てくれ」といった展覧会も時と場所ではありえるのだけれど、その場合ターゲットは明らかに同業者か美術関係者ということになる。世の中と言うのか、世間一般の不特定の多数を相手にしている。観覧者もそこのところはよく理解していて自分の想い入れなどあまり持ち込まない。

 反対に街中の画廊に絵を観に来る人というのはどういった人なのかということだな。慎ましやかな日常生活のなかで、何気にふと気がつかなかったことを気付かせてくれるきっかけが欲しいとか、若かった時には感じなかった過ぎてしまった時間や通り過ぎていった人の思い出を共有したいとか、そんな自分の心の中を見つめなおすきっかけを貰うために、わざわざ出かけて来る。だからそこにある物は作者のものでもないし作品でもない。ある種の天からの贈り物なんだな。できるなら、そうでありたい。




更新時間 : 00:03:18

6月6日 (水)

はる 3998
 京都の町屋は俗に言ううなぎの寝床のようで、縦に長い。何故そうなったかと言えば、昔お店の税金が間口の大きさできまったから、できるだけ間口を小さくして奥行きを長く取ったからだとか、京都の町並みがご存知のように碁盤の目のようになっていて、効率よくお店と住宅を並べるとそうなったとか、たぶんどちらの理由も当てはまるのだろう。

 京都に出かけてうらやましく思うのは、そういった町屋をうまくリメイクして小さなお店兼住宅になおして使っていることだ。その時にどこでも上手に使っているのが、例の小さな中庭で、とても立地条件がいいとは思われない環境なんだけれど、細長いある意味暗くて圧迫感のある空間を、吹き抜けの坪庭を配する事で、一気に解決している。実質的には明り取りだったりするのだろうけれど、そこに自然の雨や風が吹く庭をもってくることで、質と実、両方上手く解決させている。

 上は我が家の中庭だ。レンガを敷き詰めただけの何もない。洗濯物を干したりする実用的な庭でもある。以前は大きなにせあかしやの樹が庭全体をおおいかぶすように茂っていたのだが、春でもないのに突然狂ったように花を咲かせて枯れてしまった。どうもキノコに寄生されたのが原因らしい。私は野原に有るような大きな樹が傘をさした様にに小さな箱庭に茂っている風景は好きだったのだが、それにしてもこの庭には似つかわしくない大きな樹でバランスも悪かった。



更新時間 : 19:28:16

6月5日 (火)

はる 3997
 下は壁土を粘土のように使って厚めの布を貼って出来た凹凸をならした、ほぼ額縁を作るのと同じかな。上は三色の地塗り。赤7、黄5、青3の割合。いつの間にかそんな風になってきた。別にそうしようと決めたわけでもない。やっているうちにそんな割合になってきたということだ。春三彩?と命名しよう。

 いつも書くのだけれど、こういった技法というのはどこかに書いてあったわけではない。こうやった方がいいかな、ああやった方がいいかな、文字通り試行錯誤していまのこの状態があるわけだ。今回やっていることも前回とは少し変わっている。変ってゆく。まったく同じと言う事はありえないのだな。それは今私が手に入るもので何とかしているからだ。

 絵を描くというと、絵の具と画用紙を用意してモチーフを組んでという手順が普通だわな。なぜこんな描き方なのか、実際に絵を描くまで、延々と下地作りの作業だ。いっこうに絵など描き始めないのだ。私が描いている物は絵じゃないのかもしれんな。そう考えた方が分りやすい。

 何を作っているのだろうか。



更新時間 : 23:24:28

6月4日 (月)

はる 3996
 そうですね。4000とはこのブログの訪問者の数と勘違いしている方が何人かいらっしゃいました。紛らわしい書き方でしたね。すみません。4000は記事の数で私が毎日一つずつ書き連ねてきた日記の総数です。大体毎日一つの記事しか書かないので、単純に計算しても365x11=4015ということで11年掛かります。実際は最初の頃は毎日書いていないので、もっと掛かっていますね。

「 はる 1」は2000年の9月25日です。



更新時間 : 21:29:05

6月3日 (日)

はる 3995
 4000まであと少しカウントダウンも後五つですぞ。皆さんふるってご応募してくださいよ。それから意外に住所を忘れている方が多いのですが、まぁ分っている方はいいのですが、お忘れなきようにお願いします。もう一度
ここにhttp://enami.sakura.ne.jp/mailform.htm
です。



更新時間 : 20:34:35

6月2日 (土)

はる 3994
 よく考える事だけれど、生きているということは日々記憶を更新してゆくことだ。あまり代わり映えのしない日常だけれど、確実に日々は移りすぎてゆく。私が今ここにいるという実感はそうだな、この記憶の中にある。私の記憶の容量がどれだけのものか分らないのだけれど、もしすべての記憶をコンピュータに移し変えることが出来たなら、私と言う肉体は消えても記憶は残ることになる。

 DNAの情報がそのうちに全て明らかになると、例えば気持ちの悪いことだけれどコンピュータの中で特別に進化した生物というのが必ず作られるだろう。それはもう既に存在するのかもしれないが、そういった考え方を進めてゆくならば多分、脳細胞の情報をすべて読み込むということは可能になるだろうな。そうなってくると人類が太古から望んでいた魂の永遠、不老不死がコンピュータ上で可能になる。

 少し怖いな。

更新時間 : 22:42:04

6月1日 (金)

はる 3993
 ネットの面白いところは例えば「画家」と検索すると普通なら絶対に知り合う事がないだろう人とめぐり合う事だ。いや実際は会うわけではないので、その人のすぐ近くで眺めて通ったといった程度かな。

 まぁそれでもなかなか面白い。そうやって私のブログにたどり着く人も多いのだろう。通りすがりの訪問者大歓迎です。




更新時間 : 23:00:08

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