[HOME] [MASTER]
絵描きのぼやき

8月31日 (土)

はる 8601
 2024「夏休み」f0
再掲
、、、
 今日で夏休みも終わる。夏休みのあった子供の頃が懐かしい。

 三十歳になった時に絵を描いて行くと決めた。何か目論みがあったわけではない。絵など一枚も売れたことがなかった。学校の先生をしていたので同僚は辞めないでも絵は描けるのじゃないかと心配してくれた。多くの人はそうやって折り合いをつけて生きて行く。元来小心者の私がよく決心できたなと未だにそう思う。
 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
「・・自分の命を捨てる覚悟で物事に当たれば、はじめて活路が開け、成功する道もおのずからできてくることをいう。水におぼれかかったとき、へたにあがけばいよいよ深みにはまりこむが、ひとたび運を天に任せて身をゆだねると、浮き上がることができる・・」
 ある時に一切合切捨てて流れに身を任せるというのは風羅坊の風羅坊たるゆえんかもしれんな。上手い世渡りは出来ない人間の最終的な身の処し方のように思う。命預けてしまえばもう何も怖くない。
 例えば一枚の絵の中にもそんな時がある。もうどうにもならなくてえいゃ!と捨ててしまう。水を掛けて鉄ブラシでこすって流してしまう、いつもではないが上手く行く場合もある。それが私の行きついた作画方法だし、生き様だ。嘘をつかないというのは、そういうことだ。
 だれも真似はできないし、まねしても意味がない。これは生き方だから。

更新時間 : 22:39:05

8月30日 (金)

はる 8600
散歩道 台風の雨上がり、水たまりを避けて少し歩く。大きなキノコがニョキニョキ生えていた。見た目は食えそうだが、調べてみると毒キノコらしい。それにしても今は便利なものだ、写真撮ってgoogleさんで検索かければすぐにわかる。
、、、
オオシロカラカサタケ(大白唐傘茸[1]、学名: Chlorophyllum molybdites)は、ハラタケ科カラカサタケ属の菌類である。子実体は強毒で、摂取すると嘔吐や下痢の激しい胃腸症状を引き起こす。食用きのこのカラカサタケに類似しており、北米では最も誤食が多い毒キノコとして知られる。

更新時間 : 07:16:05

8月29日 (木)

はる 8599
 パス

更新時間 : 20:28:10

8月28日 (水)

はる 8598
 2024
「いのりのかたち」f3
未発表
、、、、
 私は今年72歳だから後元気で活動できる時間は10年あるかどうかだな。いやもちろんそれ以上あるかもしれないし、以下かもしれん。それは天のみぞ知るでどちらでもいい。
 それでまぁ、何処までいけるのか自分でも楽しみにしている。芸のことだから他の人にはなかなか分かってもらえないのだが、ありがたい事に、それでもいいともらってくれる人がいるので何とかやれている。作品の良し悪しは突き詰めると作家の生き様であり、覚悟の問題だとおもうな。嘘をつかないというのはそういう事だ。まあ、いいか。
 この間画廊のオーナーと話をしていてこんな事を呟いていた。人はどんどん老いて行く。作家も例外でなく、若い時と同じことはやがて出来なくなる?細かい仕事は根気も続かなくなる。そういった時に頼りになるのは作家の経験値だというようなことを言っていた。
 リルケのマルテの手記のなかで語られていたけれど、技術などというものは経験をつめば誰でもがそこそこのレベルになる、問題はそれを直接表現することではなく、発酵させていつの間にか自分そのものになって初めて表現になるのだということだな。まぁそれも含めて芸といえるな。
 何が出て来るか分からない、そこが面白いのだ。
 ・・・・


更新時間 : 00:06:42

8月27日 (火)

はる 8597
2024「サンマルツァーノ」f0
未完
、、、、
 この間画商さんの話を書いた。画廊さんとの付き合いも色々ある。今回の大阪の画商さんとの付き合いはなかなかドラマチックな始まりだった。それまでにもデパート系の画商さんからのコンタクトは何回かあった。どれもこれも詐欺まがいとはいわないが、不愉快な思いをしたことも一度ではない。最初に電話があった時はまたその類の話かと適当に話を聞いていた。折を見て伺いますというような話だったかな。それから一ヶ月くらい後「今から新幹線をとって伺います、ご都合はいかがですか?」こんなのは初めてだった。その熱意たるや尋常ではなかった。話を伺うと私の神戸での個展を誰かの紹介で見ていたようだ。
 見つけて欲しいと見つけたいの願いが思わぬ邂逅をうむ。時々画廊を紹介して欲しいといわれることがあるけれど、大体上手くはいかない。なぜならそこには一方通行の願いしか無いからだな。男と女の恋愛関係に例えると分かりやすいかな。だからこころ苦しいけれどお断りしています。悪いな自分で探せ!

更新時間 : 19:24:27

8月26日 (月)

はる 8596
思いついたまま。
 基本何でもいいから表現したいという欲がある。言葉でもいいし、もちろん絵でも音楽でもいい。こうやってPCに向かって何やら書いているのはしがない表現者の性だな。
 誰かが書いていたけれど、自分がやってきたことを後世に残したい、自分が存在したことが消えてしまうのは空しいというようなことを書いていたけれど、私は作品を後世に残したいという欲はほとんどないな。だから本音を言えば自分が亡くなってしまえば作品は廃棄されても余り痛手だとは思わない。薄情なのかな。自分に子供がいないというせいかもしれない。墓もいらないし、いずれ死ねば夫婦そろって骨は山か海に撒いてくれればあとくされない。
 先にも書いたけれど、とにかく自分とは何か?なぜ自分はこんな風に感じるのか?とにかく今ある自分というものに人一倍興味がある。人間に興味がある。それを何かの手段でもって探りたい、さがしたいというのが作品を作る大きな動機になっている。作品は結果であって目的ではないな。どこまで深く探れるか行けるところまで行くつもりだ。そいう意味ではFBはなかなかにいいツールだと思う。

更新時間 : 23:02:36

8月25日 (日)

はる 8595
今日のアトリエ
、、、、
デパートで個展を開催する方法には二通りある。一つは何らかのコネを使って直接デパート交渉する方法。これだとある程度の実績を上げないと二度目はない。もう一つはデパートのに入っている画商さんの企画に入れてもらうという方法。これもある程度実績を上げないと間に入った画商さんに迷惑がかかる。ただし、この場合画商さんの力が大きく左右する。一度や二度の失敗ですぐさまダメになることはない。結構長いスタンスで取り扱ってもらえるメリットがある。
 絵を生業にする場合、基本は出来るだけ活動を見える形で世の中にアピールする必要があるのだが、作家個人が出来ることはたかが知れている。一人一人のファンやコレクターも大事なんだけれど、専門家である画商さんからどれだけ声がかかるかというのが最も大事な事のように思う。まぁ、どの世界でもすきあらば騙してやろうと待ち構えている輩はいっぱいいるので、見極める必要がある。

更新時間 : 20:56:38

8月24日 (土)

はる 8594
2024「広場」f4
未発表
、、、、
詩書画一致

「・・・西洋の絵画観では、絵画の余白に詩や文を書き込むということは、絵画の表現を詩や文が補っているということになり、造形芸術としての絵画の純粋性の放棄ということになりかねないが、中国の伝統絵画は西洋絵画とは全く異なった歴史的・文化的背景、異なった原理に基づいて制作されている。中国には「詩書画三絶」という言葉があり、詩作、書道、絵画の3つに通じていることは文人の理想であった。・・・」

・・・・
 自分の作品が芸術だとは思っていないけれど、くちはばったいけれど本物だと自負している。またそう思わなければ人様に勧めることもできないし、恥ずかしくやってはいけないな。ここでしか言わないので、この傲慢さは勘弁してほしい。
 ここでいう、本物というのはウソを付いていないということだ。絵が上手いとか下手くそであるというのではない。いろんなところでちょっとずつ嘘はついているけれど、こと絵に関しては、正直に真っ当に嘘をつき倒す覚悟だということだ。なんだ?よくわからんな。

更新時間 : 19:30:54

8月23日 (金)

はる 8593
 2023「街場のソリスト」f3
未発表
、、、、

更新時間 : 21:40:50

8月22日 (木)

はる 8592
 2024仮題「古い井戸のある処」f10部分
制作途中
、、、、
 サーカスとか旅芸人など定住しない人々のことをノマドという。何故ピエロなどサーカスの芸人などを描くのですか?と聞かれる。
 少し考えながら書いてみよう。
 剣術に道場剣術と実戦剣術があるらしい。道場剣法はとにかくカタチとかスタイルを重視する。勝てばいいというのが一番嫌われる。一本取られても死ぬことはない。ところが実戦となるとそうはいかない。切られれば血も出るし負けは死を意味する。真剣勝負とはまさにその事だな。
 人生はサーカスのようなものだ。堅実に生きているつもりでも、実は一本のロープの上を歩いている綱渡りのようなものだ。

更新時間 : 19:50:19

8月21日 (水)

はる 8591
 麻雀大会

更新時間 : 17:29:40

8月20日 (火)

はる 8590
パス

更新時間 : 19:07:16

8月19日 (月)

はる 8589
2024「しかられて」SM
未発表
、、、、

更新時間 : 19:33:30

8月18日 (日)

はる 8588
 裸婦クロッキー

更新時間 : 19:25:35

8月17日 (土)

はる 8587
今日から甲府駅の東側、踏み切りの近くにあるマイヅル会館の二階ギャラリースペース夢の柿落とし展で展覧会です。
 大変な数のメンバーですので、8号の作品一点だけ出品しています。街中に出かける御用のある方は是非寄ってみてください。

更新時間 : 19:59:23

8月16日 (金)

はる 8586
地塗り
混沌とした宇宙、何にでも成れる、何かが見える、何かがいる。
・・・・
 IPS細胞というのがある。専門家ではないのでほとんど想像で書く。間違っていても責任はとらない。
 基本的に生物を構成する細胞はどれをとってもほとんど同じもので出来ている。それが何かの指示で例えば耳のカタチになったり、目の網膜になったりするらしい。そうなると、いままでの治療のカタチが変わって病気を治すというより、悪い処を入れ替えるというようなカタチに変わってゆくだろうことは容易に想像できる。
 話が違う方に入ってしまった。もとに戻すと、生物の最小の単位である細胞は人であっても動物であっも変わらない。それはたぶん極最初の単細胞生物であるアメーバあたりから変わらないのではないかな。
 そうやって元をたどっていくと、生物発生の起源みたいなものたどりつく。原始的な色んな元素を含んだスープがあちらこちらに出現していたのだろう。ただ、いくら濃縮されてもそこから有機的な生物は発生しない。「光あれ!」とキリスト教ではいうけれど、たぶん宇宙的な光(超新星爆発による光)が必要だったといわれている。何か大きなきっかけがないと何も始まらないという大きな暗示のようにおもえる。
 宇宙の創生みたいなことにかかわってくるのだけれど、有りとあらゆるものが一つの点のなかにあった。物質もそうだけれど、時間や空間も何もかも含まれていたというのだから、その混沌は想像することさえ出来ない。
 しかし、我々はもの末裔であるわけだから、我々は同じことわりで出来ていて当然なわけだ。ことわりは見ることも感じることも出来ない。しかし、、、
続く

・・・・・・・・
京都大学IPS細胞研究所
人間の皮膚や血液などの体細胞に、ごく少数の因子を導入し、培養することによって、様々な組織や臓器の細胞に分化する能力とほぼ無限に増殖する能力をもつ多能性幹細胞に変化します。 この細胞を「人工多能性幹細胞」と呼びます。英語では「induced pluripotent stem cell」と表記しますので頭文字をとって「iPS細胞」と呼ばれています。

更新時間 : 20:47:04

8月15日 (木)

はる 8585
 パス

更新時間 : 21:55:23

8月14日 (水)

はる 8584
「わたしは私」
イメージスケッチ
、、、、
 こういったイメージはそのまま作品としてして仕上がることもあるけれど、ほとんどはボツになる。普通はエスキースとして他の紙などに描くのだろう。昔はそんなふうにやっていた。どれだけエスキースを描くのかが、作品の質を上げるのだと信じていた。しかし、一番面白いのはこの試行錯誤の段階で、仕上がった本画にはこの面白さはない。未完成だけれど、作家の生の感情が出ている。これを捨てるにはあまりにももったいないと気がついた。以降下絵は描かない。
 作家は職人して物を作っているわけではない。出てきた物に何の用途もない。それよりも浅薄であろうが俗悪であろうが、作家の試行錯誤の過程、思索、思考そんなものの方が面白いのではないか。作家は学者でも高尚な趣味人でもない。ただの人だ。
 私はこうやって生きてきた。「わたしは私」そんな絵があってもいいかな。

更新時間 : 20:03:47

8月13日 (火)

はる 8583
パス

更新時間 : 08:53:05

8月12日 (月)

はる 8582
パス

更新時間 : 19:28:54

8月11日 (日)

はる 8581
パス

更新時間 : 10:42:50

8月10日 (土)

はる 8580
2024「名もなき修道女」f6
混成技法 未発表
、、、、
 昨日の話「瓦礫の聖母」と同じように、墨のシミから突然立ち上がってきた画像。出来たのは昨日ですが、500年ほど時空を超えて来ました。

更新時間 : 20:48:53

8月9日 (金)

はる 8579
先日の記事に対して「猫の後ろ姿」さんがブログで答えてくれました。
・・・・・・・・・
1990「冬の旅」F0 油彩
猫の後ろ姿 2297 一点の絵との出会い
https://ameblo.jp/e-no4765/entry-12862694110.html

 つつましい生活の中から安くはない作品を自腹を切ってそれでも、そばに置きたいと思うのは、観ていると慰められる、一緒に年を取ることで共有する時間が愛おしい、そういった何かしらの切実な想いがコレクションする動機になっていると思う。そういった作品を制作したいと常に思っている。

榎並さん、昨日こう書いておられましたね。これを読んで、僕はずいぶん以前千葉の山口画廊さんで榎並さんの個展を拝見した時のことを思い出しました。
 その時に、山口さんがこんなことを話してくれました。
一人の高齢の女性が毎日、ここに来て、いつも同じ榎並さんの絵の前に立って見つめていた。個展最後の日に、その女性は山口さんに、「他にこれを欲しいというひとがいなければ私が買います。」と言ったそうです。
 ああ本当にその絵をこの方は欲しかったんだなあと僕は思いました。その「切実な想い」が痛いように胸に沁みました。一緒に歳をとって行けるような絵に出会えた人は幸福です。
 僕にとっては、榎並さんの作品「冬の旅」がその一点です。

 僕はこの絵と一緒に生きています。

更新時間 : 14:28:59

8月8日 (木)

はる 8578
パス

更新時間 : 20:04:38

8月7日 (水)

はる 9577
2024「微かな希望」23x15cm
ドローイング
再掲
、、、、
78 看取りの絵(會田氏の「看取りの画」より)
 真夏の個展が終わった。最近の夏は文字通り灼熱地獄のような暑さになる。我々の子供だった頃も夏は暑いものと相場は決まっていたけれど、それでも体温を超えることはなかったように思うな。故に客足は今一つだったな。暑すぎるとか寒すぎるとか、まぁプロであるならいい訳はしないでおこう。全ては自分の力不足ということだ。
何処かの記事で作家は作品を作る場合、それを飾る場所の事を考えないのか?という事が書かれていた。例えばインスタレーション系の作家や空間を使った表現とかの場合、これなんかは明らかに個人がコレクションすることを考慮はしていないな。作家は自由に自分の表現だけのことを考えている。それはそれで大事な事だ。反対に私など絵を生業にしている作家にとっては、美術館や企業のコレクションになることなど考えて制作はしていない。あくまでも個人の小さな家やスペースに飾ってもらう、コレクションしてもらうということを念頭において制作している。それ故に価値判断が極個人的な好みに左右されることは否めない。
 けれどもそうだな、人が感動したり共感したりするのは個人的なレベルであって、歴史的に意味があるとか、価値があるという事ではないきがする。アーティストの語る「私は・・」などいまさら聞きたくない。昔評論家の吉田秀和が晩年、モーツアルトでさえ「僕は‥、僕は・・」とうるさいと書いていた。今ではそれが分かる気がする。絵をコレクションするとはどういうことか?何を思って絵を買うのか?考えてみたい。
 この話をするといつも思い出すエピソードがある。画家三岸節子は1945年の敗戦の年の秋に東京の銀座で個展を開催している。東京の周りはすべて焼野原だ。人々は食うや食わずのその日暮らしだ。これからの人生に夢や希望があるはずがない。文字通りどん底の環境だ。絵が売れた、売れないは知らない。大事なのはそんな時だからこそ心の糧として絵を見てもらう、そばに置いてもらうという心意気だ。また、どんな時にでも絵を欲しいという人はいる。絵を買うとは自分の人生を買うことだ。その絵を受け入れると覚悟することだ。一緒に歳を重ねること共有することだ。そういった何かしらの切実な想いがコレクションする動機になっていると思う。
 ところで今回、画廊のオーナーと食事に出かけることが何回かあった。その時の話。 「この歳になると、人生の最後の時というのをよく考える。最近は自宅で長年連れ添った愛着のあるものに囲まれて亡くなる機会が減って、病院で亡くなる人が多い。足腰も弱って自由に歩けなくなって目も耳もだんだんに衰えてくる。そんな時に身近に本当に好きな絵が1点あれば、随分慰められるのではないか。信仰のある人は信仰が最後の時まで寄り添ってくれるだろう。我々のような信仰のない人間にとってはこういった『看取りの絵』というのが必要なのではないか」

更新時間 : 18:03:13

8月6日 (火)

はる 8576
地塗り
何か見えますか?
・・・・
 詐欺にあう?
 昨日昼頃市役所の市民税課から電話があった。今から考えると市民税課というのも変だ。大体昼間掛かってくる電話はほとんどが詐欺でんわかつまらん勧誘がおおいのでほとんど出ないのだが、今回はたまたまでた。内容は政府が光熱費(ガスと電気料)の補助をするので6月、7月の光熱費の領収書をもって市役所に来いという電話だった。8,9,10月の光熱費が援助されるという話だった。何だかおかしいので最初はいい加減に対応していたのだが、ネットで調べると実際に政府の援助があると書いてあった。ということで、領収書と印鑑をもって市役所に出かけたのだが、窓口に行くとその担当の名前をだしてもそんな職員はいないという。単に愉快犯なのか、結局何もせずに帰ってきた??騙されたというのか、実害はなかったのだが、気分が悪い。還付金詐欺みたいなものか。皆さんご注意を。

更新時間 : 19:09:26

8月5日 (月)

はる 8575
アフリカのお土産。
・・・・・
 個展中のエピソード
 最終日3時ごろだったか、もう4時には片付け始めるので気持ちはソワソワしている。はっと気が付くと携帯がない。さっきまでテーブルの上に置いてあったと思ったのだが、忽然と消えた。少し前に休憩した時に食堂に置き忘れたか?盗まれたか?ドキドキだ。まずいことにもうすぐ終了でバタバタと片付け始めなくてはならないし、帰りの新幹線の予約が6:30だ。探して回る時間もない。困った。すぐに携帯を借りてカミさんに連絡、私の携帯に電話してもらう。しばらくするとデパートの係の方が私の携帯を持って奥様から電話がありましたと届けてくれた。実は来廊したお客様が自分の携帯と勘違いして持って行ってしまったようで、格好がつかないのでインフォメーションに預けたようだ。それなら直接持ってきてくれればいいのに、どこで紛れ込んだのか分からなかったのかな。まぁ無事出て来てメデタシメデタシ。
閑話休題
 誰かの記事で作家は作品を作る場合それを飾る場所の事を考えないのか?という話があった。例えばインスタレーション系の作家や空間を使った表現とかの場合、これなんかは明らかに個人がコレクションすることを考慮はしていないな。作家は好き勝手に自分の表現だけのことを考えている。反対に私など絵を生業にしている作家にとっては美術館や企業のコレクションになることなど考えて制作はしていない。あくまでも個人の小さな家やスペースに飾ってもらうということを頭において制作している。それ故に価値判断が極個人的な好みに左右されることは否めない。
 けれどもそうだな、この間の話の続きのようになるのだけれど、人が感動したり共感したりするのは個人的なレベルであって、歴史的に意味があるとか価値があるという事ではないきがする。アーティストの語る「私は、、」「僕は、、」など聞きたくない。それこそ、つつましい生活の中から安くはない作品を自腹を切ってそれでも、そばに置きたいと思うのは、観ていると慰められる、一緒に年を取ることで共有する時間が愛おしい、そういった何かしらの切実な想いがコレクションする動機になっていると思う。そういった作品を制作したいと常に思っている。

更新時間 : 09:30:22

8月4日 (日)

はる 8574
 いゃー暑いですね。
手前のスイカのオブジェは松田百合子さん。
・・・・
 いままでデパートの中の会場にずっといたので下界がこんなに暑いとは知りませんでした。いや本当に地獄のようにあついですね。昔も夏は暑いものと相場が決まっていましたが、体温を超えることはなかったような気がしますね。どうなんでしょう。これほど暑い中を出かけてくれたということで、本当にありがとうございました。
 閑話休題
 画廊のオーナーとしばし話をする。彼はあまたいる作家の中から何故か私を拾い上げてくれた恩人なのだが、デパートで個展をやるという事は明らかに商品として売れると見込んで声をかけてくれたわけだな。もう20年近く前になるのだが、当時の私はほとんど何のキャリアもなく暗い絵を描いていた。一度聞いてみたかった。何故私に声をかけてくれたのか?答えは「私はあなたの絵が好きだから」という事でした。今回も決して期待に応えられる結果は出せませんでしたが、売れるというだけならもっと他にそれこそきら星のごとく作家がいるでしょう。何とか期待に応えられるよう精進したいと思う。
 その中で話が出てきたのは絵の物語性ということでした。私が自由気ままに色んな所から題材をとって奔放に話をでっちあげるそんな様子が面白いらしい。例えば花なら花を人物なら人をデッサンしてエスキースを作って作品を作り上げる。それがオーソドックスな制作の手法だな。ところが私のやり方はほとんど何も見ない、見本もスケッチもない。描写する方法で絵を作っていないからだな。自分の中にある何かを探り出して表現するというようなことをやっている。まぁ絵を描かないで絵を作る方法というのかな。年取ってキャリアを積んでそれがやがて発酵して作品になって行く。誰でも出来る事だけど、私を真似しても意味がない。自分の源泉(オリジン)をたどる事だ。それをオリジナルという。

更新時間 : 09:28:59

8月3日 (土)

はる 8573
朝飯は毎日私が作る。
キノコ雑炊 ルッコラトマトにんじんサラダ キューチャン漬け
キノコ以外ほとんどが我が菜園のものです。

更新時間 : 19:44:44

8月2日 (金)

はる 8572
いゃー暑いですね。
手前のスイカのオブジェは松田百合子さん。
・・・・
 いままでデパートの中の会場にずっといたので下界がこんなに暑いとは知りませんでした。いや本当に地獄のようにあついですね。昔も夏は暑いものと相場が決まっていましたが、体温を超えることはなかったような気がしますね。どうなんでしょう。これほど暑い中を出かけてくれたということで、本当にありがとうございました。
 閑話休題
 画廊のオーナーとしばし話をする。彼はあまたいる作家の中から何故か私を拾い上げてくれた恩人なのだが、デパートで個展をやるという事は明らかに商品として売れると見込んで声をかけてくれたわけだな。もう20年近く前になるのだが、当時の私はほとんど何のキャリアもなく暗い絵を描いていた。一度聞いてみたかった。何故私に声をかけてくれたのか?答えは「私はあなたの絵が好きだから」という事でした。今回も決して期待に応えられる結果は出せませんでしたが、売れるというだけならもっと他にそれこそきら星のごとく作家がいるでしょう。何とか期待に応えられるよう精進したいと思う。
 その中で話が出てきたのは絵の物語性ということでした。私が自由気ままに色んな所から題材をとって奔放に話をでっちあげるそんな様子が面白いらしい。例えば花なら花を人物なら人をデッサンしてエスキースを作って作品を作り上げる。それがオーソドックスな制作の手法だな。ところが私のやり方はほとんど何も見ない、見本もスケッチもない。描写する方法で絵を作っていないからだな。自分の中にある何かを探り出して表現するというようなことをやっている。まぁ絵を描かないで絵を作る方法というのかな。年取ってキャリアを積んでそれがやがて発酵して作品になって行く。誰でも出来る事だけど、真似しても意味がない。

更新時間 : 20:13:04

8月1日 (木)

はる 8571
 八月

更新時間 : 22:13:57

[BACK] [NEXT]

エース