5月31日 (水)
はる 8059 学校 更新時間 : 22:33:15
|
5月30日 (火)
はる 8058 けっこう麻雀というのは人間性がでるな。あの人たちはあまり愉快な人間ではない。 更新時間 : 18:30:55
|
5月29日 (月)
はる 8057 麻雀 覚書 今回の村上春樹の「壁・・・」の話のこと。彼の物語にしてはわりとすんなりと腑に落ちた。何故なら「あちらの世界」と「こちらの世界」ということを常に考えていたからだ。実際この言葉がでてきて驚いた。なにか相通じるようなものがある気がしたからだ。自分の表現ということを考えて行くと、いつの間にか「あちらの世界」に入り込んでゆく。例えばここにリンゴがあるとする。これを寸分たがわぬように描写したとする。リアルに描けば描くほど称賛されて「写真のようだ」と言われる。普通写真というのは現実の世界を切り取ったものだ。そのルールは我々の暮らしている現実の世界と同じだから分かりやすい。天は天であり地は地となる。雨は空から降って太陽は東から昇る。光が左から当たれば影は右に出来る。そういう共通の認識の上に我々は暮らしている。作られた世界もそうであろうという前提で出来ている。それを疑うことはない。だけれども、そうではない世界というのもあるのではないか。自分が創造した世界では雨は地から降って太陽は西から昇るかもしれない。そういうルールを自分でこしらえたわけだから。ただし、その世界は現実の世界から隔離されていなければならない。だから結界をはる。それが額縁だな。・・・ 更新時間 : 18:37:33
|
5月28日 (日)
はる 8056 裸婦クロッキー 2023/5/28裸婦クロッキー コンテ ・・・・ コンテというのは5cmぐらいのスティック状のチョークでそれ自体にほとんど固着力はない。それ故に仕上がったものは定着液を吹いておかないと飛んでしまう。画用の木炭と鉛筆の中間ぐらいの描画用具だといえる。 クロッキーは線が大切だ。ほとんど線によって成り立っている絵画と言っても過言でない。よって描画材としては鉛筆が一番適している。私は長い間10Bの鉛筆だけでクロッキーを行ってきた。即興的な線など鉛筆での表現は多様性があってそれはそれでとても面白かったのだが、線だけではどうしてもボリュームの表現がむつかしい。 コンテを使う事で一気にそれが解決できるようになった。最近はどちらかといえば最初に大きな明暗というのか、空間を作ってしまう。これはデッサンの表現にちかいのかもしれないが、そうすることでもっと線が生きてくるように思う。何十年もこんなことをやって今更気づいた。 線というのはわりと先天的なもので、練習したから上手くなるという事はないように思うな。字をみると大体その人の持っている癖というのかバランス感覚みたいなものが分かる。字が綺麗な人は線の感覚がいいように思うな。 私は小学生のような字しか書けない。今はこうやってキーボードがあるから普通に文章がかけるけれど、これが生の字だとそうはいかないだろう。そう思っている人は割と多いのじゃないだろうか。 昔読んだ藤島武二の言葉に「絵画の妙は複雑なモノを簡単にする事である」とかなんとかあったのを思い出した。クロッキーの妙もそれのように思う。身体の線は微妙に複雑に変化している。それをそのまま追ってしまっては全体のバランスが壊れてしまう。反対に余りにも単純化してしまうと人体のまろやかさを損ねてしまう。そこのところの兼ね合いが 難しい。 更新時間 : 18:36:29
|
5月27日 (土)
はる 8055 Taoでした。 更新時間 : 20:01:25
|
5月26日 (金)
はる 8054 デッサン会会合1 更新時間 : 20:40:50
|
5月25日 (木)
はる 8053 甲府朝日町イルクラソーレ イタリアンジェラート 地方の商店街が軒並みシャッター街にうらぶれて行く。人がいないという事もあるけれど、ある意味成り行きに任せて工夫がなさすぎるという事があるのじゃないか。田舎なら田舎なりの工夫で面白いことが出来るのじゃないか、などと門外漢は思ってしまう。小さなディズニーランドのような郊外型のショッピングモールばかり元気になっても地元の小さな商店街がさびれてしまったんじゃ意味がない。大資本の言いなりになっているから国がさびれてゆく。同じことだな。朝日通りの商店街は500mほどの小さな商店街だけど、街路樹が綺麗にそろっていてなかなかかわいい。パン屋さんとか昔ながらの和菓子屋さんとか未だに有機的に住民とつながって生きている。ここにイタリアンレストラン(チリンドロン)とジェラート(イルクラソーレ)やさんが共同でお店を出した。なかなかかわいいお店だ。少しなら路上駐車も許されだろう。 更新時間 : 20:13:15
|
5月24日 (水)
はる 8052 一日家 更新時間 : 19:00:42
|
5月23日 (火)
はる 8051 1986「ほうき星」油彩F3 個人蔵 ・・・・・・ 「街とその不確かな壁」村上春樹 村上春樹の最新の長編を読んだ。大体において彼の作品は長編が多いのだが、今回の著作もご多分にもれずかなり分厚い。それも細かい字でびっしりと書かれている。長い物語が不得意な読者はそれだけで食傷してしまうだろう。私は自分の土俵に置き換えて読んでゆくので、普通の読書ファンとは少し違う読み方なのかもしれない。 主人公とその彼女が想像上つくった架空の街がある。架空の街だから何とでもできるのだが、実はそれがそうでもない。架空だからこそしっかりとしたルールが必要である。でなければ架空上でも存続できなくなってしまう。まぁありとあらゆる創造の世界というのは、本人だけのルールで出来ているのだが、それを説明することが案外難しい。ここでは夢とか潜在意識といった領分に入り込んでゆく。夢というのは全く自分の知らない世界ではない。たぶんどこかで読んだり、観たり、聴いたりしたことが、複雑に混ざりあって不思議な世界を見せてくれる。それは自分の作り出したものであるにもかかわらず、自分の自由にはならないという摩訶不思議な世界だ。そんな「あちらの世界」と「こちらの世界」を行ったり来たりする話だといえば乱暴すぎるか。 この村上春樹独特の世界を私はどう読んだのだろう。 私の作画法は、最初何も考えずにでたらめに下地を作って行く。派手な色のついたプリント地をあえて貼りこんだり、こんなところにこんな厚手の生地を貼りこんでは後で困るだろうなと思う事をあえてやる。そうすることで予定調和ではない工夫が何かしら面白い、今まで考えつかなったようなアイディアが浮かんだりする。そういった場合参考になるものはなにもない。あるのは自分の勘みたいなものだろうか。勘といってしまえば身もふたもない。その勘にも一定のルールがある。誰かがつくったルールで描くのはそう難しいことではない。難しいのは自分が作ったルールで描き始めたら、最後までそのルールで描かねばならないということだ。そこのところが難しい。私の絵は具象画に見えますが、正確な意味で具象画ではありません。実は何も描写していません。ではどんなルールで絵を描いているかということですね。 話は遠いのですが、私たちの元は星屑です。この宇宙の組成と同じもので出来ています。反対に考えると私たちの中に宇宙があります。どこをとっても例え髪の一部でも宇宙の組成というのか、同じ原理原則でできている。実は我々の頭の中にそっくりそのまま宇宙があるといってもいい。絵を描く場合、それとは一切関係のない閉じられた世界を構築しなければならないわけで、他の一切の影響を受けない完全に独立した空間である必要があるんですね。何故なら自分が作った世界だからです。 話がだいぶ我田引水になってしまいましたが、この「街とその不確かな壁」の話も、結局人は自分の創った不確かな壁(ルール)の中で生きてるという物語ではないのかな。 更新時間 : 20:22:21
|
5月22日 (月)
はる 8050 買い物、あと仕事した。 デメリットを考える。そうだな、デメリットというのか弊害は一年の発表がそれだけになることかな。まぁ趣味で絵を描いているのであればそれでもOKだけれど、一応作家というのであれば、年に一度団体展に発表するだけで作家でございというのはちょっと違うかな。大作というのは対外的なパホーマンスのようなところがあってね、自分の心の中を吐露するのは案外小さい作品の方が向いている気がするな。公募と個展、大作と小品を適当に組み合わせてやるのが作家ではないだろうか。それから一番良くないのは、どうしても徒党ができることだな。日展なんかその最たるものだけれど、どこでも同じようなものだ。人間の心情として仲間内は大事にする、そうやって人類は発展してきたから仕方ないのだけれど、何となく悲しいね。一般、会友、準会員、会員と階段を上がって行くのだが、本来 更新時間 : 00:24:21
|
5月21日 (日)
はる 8049 チェロ 更新時間 : 22:41:13
|
5月20日 (土)
はる 8048 わたなべゆう展5月21まで 甲府 あさひギャラリー ゆうさんはもっと評価されてもいい。 美術館収蔵級の作品が値段がついて展示されている。欲しい作品がいっぱいあった。 (一応撮影許可は取りましたが、他に盗用されないために、画像に無粋な斜線を入れました。あしからず) ・・・・・ ゆうさんとの想い出 あれは私が銀座で初めてか二回目の個展の頃だから90年のころだと思う。当時私も色んなコンクールに出品していたので、ゆうさんの名前は知っていたけれど面識もなくもちろんDMなど出した覚えもなかった。銀座の歩道をでかい男がぼろい布袋のようなものを担いで悠然と歩いていた。誰だろう?ホームレスにしては小奇麗だし、とにかく他を圧倒するようなオーラ―を出していた。かっこいいなぁと観ていたら、何と私の個展会場に入って行くではないか。慌てて会場にはいって挨拶を交わしたのを覚えている。それから銀座で個展を開催した時は毎回来てくれた。今年表をみると歳は私とさほど変わらないのだな。 それから二三年後の活躍は目を見張るものがある。上野の森で大賞をとって安井賞まで、気が付くととんでもない大物になっていた。しかし、大器は最初からそんな雰囲気を備えているもので彼は無名の時から変わらなかった。時代が追いついただけだな。 更新時間 : 12:01:15
|
5月19日 (金)
はる 8047 ドルを売った。新報原稿。松屋版下製作 更新時間 : 19:46:06
|
5月18日 (木)
はる 8046 学校 更新時間 : 21:51:20
|
5月17日 (水)
はる 8045 学校 更新時間 : 22:00:25
|
5月16日 (火)
はる 8044 今年の国展が終わった。お金もかかるし手間もかかるのでそろそろ辞めようかとも考えていたけれど、今年色々仕事をやってみて、面倒だけどもう少しやってみるかという気になった。その理由を少し考えてみたい。 一つは大作を描く動機になるということ。これは大きい。国展に出さなくなれば大作は描かなくなるだろう。別に描かなくても小品だけで個展をやっていれば食ってはいける、でも自分の中ではそれは違うというのがある。売ることを目的にしないで描く時間というのも大事だな。自分の立ち位置を決めるということか。 二つ目は会を辞めると存在も消えるということだ。たった年一回の発表だけれど、それがあるのとないのでは違うのだな。人に会うということもあるけれど、具体的に活動しているということが存在として見えてくるということか。 三つ目は、ただ単にそこに仲間がいる楽しさというのがある。段々に会の重鎮がいなくなって我々の世代が会を具体的に動かしているようになってきた。そうすると会の中心的なメンバーがほとんど知り合いというのか仲間になってくる。国画という歴史的な会が自分の手の内にある楽しさって大きい。本来ならとても近づけないような作家でも身近な仲間内になる。まぁだからもっと私が会の顔になるくらいに活躍すればいいのだけれどな。もう少し時間がかかる。でもそう遠くないきもする。 更新時間 : 13:17:41
|
5月15日 (月)
はる 8043 国画撤収 更新時間 : 21:12:38
|
5月14日 (日)
はる 8042 ぱす 更新時間 : 18:56:11
|
5月13日 (土)
はる 8041 すくえあ例会 これは地塗りの段階ですが、これと上の作品とは何の関係もないように見えますが、基本的には同じことをしています。コーヒーポットがあるので具象絵画のようで分かりやすく見えますが、そこだけに注目していると、この絵は描けません。何も描写していないのです。形としてはポットがありますが、ポットである必要はありません。では何を支えに絵を描いているか?ということですね。感覚といってしまえばそれで終わりなんですが、出来るかどうか分かりませんが言葉にしてみましょう。 話は遠いのですが、私たちの元は星屑です。この宇宙の組成と同じもので出来ています。反対に考えると私たちの中に宇宙があります。どこをとっても例え髪の一部でも宇宙の組成というのか、同じ原理原則でできている。我々の頭の中にそっくりそのまま宇宙があるといってもいい。絵を描く場合、ここに閉じられた世界を構築しなければならないわけで、他の一切の影響を受けない完全に独立した空間である必要があるんですね。「どこをとって私」というのが究極の目指すところだと思います。 更新時間 : 20:32:11
|
5月12日 (金)
はる 8040 TAO 再掲 自分なりの解釈なので間違えているかもしれません。あしからず。 親鸞の「悪人正機説」というのは有名ですね。善人はいい人なんだから当然救われ手当たり前、そこで終わったんじゃ仏さんも度量が狭いじゃないか、俺たちのような悪人でさえ救われるというのでなきゃ本当の信仰じゃない。まぁ一つの心理だわな。人間なんて間違いを犯す動物なんだから、そんなに聖人のようにはいかんわな。皆がどこかで嘘や方便を垂れ流しているわけで、他人は騙せても自分自身は騙せない。そんなことだろうと解釈している。 それとキリスト教の「放蕩息子の帰宅」などとどことなく似ているな。放蕩息子の帰宅ってそれだけじゃ何も意味はない。でもその逸話を読むと何となく理解できる。兄弟が居て親は財産を等分に分けるわけだ。兄は真面目で優秀で親父の跡を継いで仕事を続ける。出来の悪い弟は旅に出て全財産を使い果たしてしまう。それで最後には親父を頼って帰るしかなくなってしまう。そこまでなら「アリとキリギリス」の話みたいだけれど、そうじゃない。親父はその出来の悪い息子をあたたかく迎えるんだな。出来の悪い人間ほど本当は救いが必要なんだ。出来のいい人間は放って置いても何とかなる。そうやって信仰の必要性を語っている。 「沈黙」の話もどことなくつながる。人格的に優れた人間とか、正直で真っ当な人間はもちろんこの社会では称賛されるし信頼も厚い。優等生なわけだ。信心で言うなら全く疑いもせず、それ一筋に信じ切るそんな人間の方が人間として優れているとされる。ゆるぎない信仰心は人間としても格が上なわけだ。だけどね、人間てそんなに上等な人ばかりだっけ、もっとこうカッコ悪くて嘘つきでだらしなくてでたらめでいい加減なんかじゃないか。例えばキリスト教徒なら踏み絵を踏めと言われればひょいひょいふんでしまうような、とりあえず嘘をついて言い逃れしてしまうようなそんな弱い人間の方がまともじゃないのか。でもそれでも救ってくれるのが信仰なんじゃないか。というのが大きなテーマだという気がする。弱い人間はけっして美しくもないし、かっこよくもない。そんなことを言ってる気がした。 更新時間 : 20:45:45
|
5月11日 (木)
はる 8039 学校 更新時間 : 21:35:33
|
5月10日 (水)
はる 8038 学校 更新時間 : 22:20:02
|
5月9日 (火)
はる 8037 若い頃から公募やコンクール用の大作ばかり描いていたので、小さい作品が上手く描けなかった。小さい作品は大作の縮小版や部分ではないのは理解できるのだが、だからといってどう描けばいいのか皆目わからなかった。見て描いた風景などスケッチなら手頃な大きさの作品も描けるのだが、きっちり独立した作品としての小品は大作と同じかそれ以上に難しい。小品は安直な手抜きの作品のことではない。大作は対外的だが小品は内に向かっている。ハガキサイズの大きさに魂をこめなけば人の心を打つことはない。最近になって分かったことは、大作のアイディアも一つなら小品のアイディアも一つで同じだということだな。アイディアはどんどん汲みだすことだ。アイディアの泉は枯れる事はない、ただし汲みだすことを怠ると消えてしまう。結局すべては自分の中にある。どう生きてきたかが問われるのだ。 更新時間 : 21:42:49
|
5月8日 (月)
はる 8036 こうやって団体展で大作を発表しながら個展で小品を発表するというスタイルが定着してきた。最初からこうしようと思ってやって来たことではない。ただ、絵を生業にしようとした場合、大作ばかり描いていたのでは売れるものでは無い。小さい作品が描けなけば生活してはいけない。若い頃から公募やコンクール用の大作ばかり描いていたので、小さい作品が上手く描けなかった。小さい作品は大作の縮小版や部分ではない。見て描いたスケッチやドローイングなら手頃な大きさの作品も描けるのだが、きっちり独立した作品としての小品は大作と同じかそれ以上に難しい。 更新時間 : 22:04:03
|
5月7日 (日)
はる 8035 今回こうやって自分が選んだ作品をアップして思ったことは、作品鑑賞のスタイルの事だ。本来自分の目でみて選べばいいにもかかわらず、案外知人や名前とか受賞歴などで選んでいることが多い。何にもとらわれない真っ新な目で見る事が大事だな。 公募展の紹介をする人は多いけど、会を代表するような作品の羅列やfbfの作品ばかりアップしても仕方ないと思うな。自分なりのベスト3を選ぶくらいのつもりで選んだ方が見ても面白い。 更新時間 : 19:31:21
|
5月6日 (土)
はる 8034 東京 更新時間 : 22:07:45
|
5月5日 (金)
はる 8033 千葉の個展と六本木の新国立美術館の国画会展の仕事から帰ってききました。今回はほぼ地下の搬入出口にいて休憩に会場を回るくらいでした。 私などが絵を始めた頃はまだ公募展が花盛りの頃で、憧れの作家と同じ会に出品することさえ恐れ多い感じだったな。当時国画は入選するのさえ難しいといわれていたので、1990年に初入選した時は素直に嬉しかったな。 何とか30年以上続けてこられたのも会に属していたからで、無所属ならばとうの昔に大きい作品は描かなくなっていただろう。モチベーションをどう維持するか、作家にとってとても大切なことだな。大小を含めて出来るだけ多くの観覧の機会を作ること、それをこころがけるようにしている。それとまぁ、若い同じ志しをもった仲間たちとの交流もなかなか楽しい。 地方の美術団体でもそうだけれど、美術団体そのものが営利団体ではないので会員などの会費で成り立っている大きなクループ展のようなものだ。受賞すれば賞金が出ることもよくあることだけれど、それはもらって当然のことではない。その資金は会費や個人の寄付金で賄っている。歴史もあり会も大きいのでどこから資金の出ている営利団体のように勘違いしがちだけれどそうではない。会の運営はすべて会員などの構成員のボランティアで成り立っている。カタログひとつ取ってみても搬入されて審査されて初日には会場に間に合うように準備されている。これは誰かが営利でやっているわけではなく、すべて上記のメンバーが手弁当でやっていることだ。よく知らない人が何かとクレームを付けるのだが、お金を払ったから載って当然ではないのだな。 それが煩わしいとおもうなら無所属でいった方がいいかもしれません。ただし、個展だけだと自分に関係のある人しかこないので、段々と思っている以上に目に触れる機会が少なくなります。団体展の功罪が色々いわれますが、本人次第だと思うな。会の中だけのヒエラルキー(序列)だけにこだわって、日本の家元制度のような気になって免許皆伝だと思っていると会も本人も腐ってくるでしょう。 更新時間 : 22:36:13
|
5月4日 (木)
はる 8032 夏野菜を植えた。 更新時間 : 22:16:35
|
5月3日 (水)
はる 8031 帰宅しました。 更新時間 : 21:12:50
|
5月2日 (火)
はる 8030 東京二日目 更新時間 : 20:07:37
|
5月1日 (月)
はる 8029 東京1日目 更新時間 : 20:19:23
|