4月30日 (土)
はる 7665 千葉2日目 更新時間 : 00:00:43
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4月29日 (金)
はる 7664 千葉1日目 更新時間 : 19:09:42
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4月28日 (木)
はる 7663 明日から旅に出ます。 更新時間 : 19:46:47
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4月27日 (水)
はる 7662 パス 更新時間 : 22:39:15
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4月26日 (火)
はる 7661 少し前は本当かな?でした。でも今はそっくりそのまま今の状態です。是非この動画を観てください。 一部の人が後先考えずに煽っていますが、戦争が始まってしまえば止めることはできません。 もし戦争が起きたら、敵が攻めてきたらどうするのか?そうやって見えない敵を作って煽り立てるのがいつもの手です。敵は殺してもいい鬼畜ではありません。普通の人間なんです。生み育ててくれた親がいて、愛する家族がいる普通の人間なんです。それを見えなくしてしまうのが戦争なんです。反対できない集団催眠状態が戦争なんです。だから戦争を起こしてはいけないのです。20世紀初頭に起きた世界大戦を反省してもう二度と戦禍を起こすまいとルールをつくったのに、ものの見事に覆されてしまった。今こそ戦争放棄、武装放棄すべきだと思います。特使として嘘つきで、厚顔無恥で、妄想狂の役立たずですが、二十何回も一緒に食事して同じ夢をみた人物を派遣しようと思います。 更新時間 : 19:10:45
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4月25日 (月)
はる 7660 ぱす 更新時間 : 20:20:24
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4月24日 (日)
はる 7659 パス 更新時間 : 21:33:50
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4月23日 (土)
はる 7658 パス 更新時間 : 20:23:31
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4月22日 (金)
はる 7657 ドローイング「いのりのかたち」22x15cm部分 更新時間 : 21:30:10
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4月21日 (木)
はる 7656 パス 更新時間 : 20:56:32
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4月20日 (水)
はる 7655 画廊通信 Vol.228 芸術の意義 従来のコロナ禍に加えて、ウクライナの戦禍がいよい よ凄惨を極め、世情は暗澹と混迷したまま、春興とは程 遠い時局に在る。かつての震災時もそうだったが、この ような局面に決まって浮上するのが「今、芸術に何が出 来るか」と云う発問だ。これに関しては去る2011年 の「榎並和春展」が、正に上記の3・11から間も無い 頃であったから、この場に私なりの考えを記した事があ って、その繰り返しになってしまうのだけれど、現況に 臨んで今一度、あらためてその問いを再考してみたい。 まずは「問い」そのものに関して。往々にして問いは 発せられた時点で、既に或る前提を踏まえている事が多 い。例えば「生きる意味は何か」と云った定番の問いを 省みると、この発問には「生きる事には意味が有る」と 云う大前提があって、その上で「ならばその意味とは何 か」と問う訳だから、そもそも生きる事に意味など無い のだとしたら、たちまち発問の基底は崩れて、問いその ものが意義を失う。同様に「芸術に何が出来るか」と云 う設問の底には「如何なる危機においても、芸術には何 かを成し得る力が有る」と云う前提が潜む。あたかもそ れに答えるかのように、東日本の震災時には「震災復興 支援」なる題号が、一時は雨後の筍の如く頻繁にメディ アを賑わし、それはそれで意義ある活動であった事に違 いはないが、しかし、それはあくまで作品制作とは別種 の副次的な活動であり、作品自体の価値が試された訳で はなかった。むろん震災を題材や契機とした表現は、そ れぞれの分野で様々に為されたけれど、「如何なる危機 においても、芸術には何かを成し得る力が有る」と言え るに値する表現は、果たしてどれほど有ったろうか。あ の時、本当に支援の一翼を担ったと言えるのは、已むに 已まれぬ思いでとにかくも現地に飛び込んで、泥まみれ になって災禍と向き合った無名の人々だった。実際に夥 しい瓦礫を拾い、無数の残留を救ったのは彼等である。 対して芸術に関わる者達が、否応なく突き付けられた事 実は、あらゆる惨事や災禍を前に、それはたった一片の 瓦礫すら拾えない、たった一個の握り飯にさえ及ばない と云う、芸術の徹底した「無力」だったのではないか。 再度、問うてみたい──今、芸術に何が出来るか。一 見この問いは、芸術の存在意義が問われる困難な設問に 思える。しかしそもそも芸術とは、実用から離れた純粋 な表現であった筈だ。もしくは、何らかの目的を達する ための手段と云う実用的価値を離れ、純粋に表現そのも のを目的とした時に、初めて芸術は芸術足り得たと言う べきか。とすれば元来芸術は、実用的な一切の価値を持 たず、自ずからそれを放棄している。喩えれば、野に咲 く花のようなものだ。無力なだけではない、無益な花な のである。よって、災害や戦争と云った極度の暴力の前 で、芸術は抗う一切の手立てを持たない。且つ、社会的 には何者をも救えない。「如何なる危機においても、芸 術には何かを成し得る力が有る」と云う先述の前提は、 元から崩れているのである。この「何も出来ない」「何 の役にも立たない」と云う覚悟から、芸術は始まるので はないだろうか。そして、この覚悟を自らの根幹に据え てこそ、初めて芸術は何かを成し得るのかも知れない。 思うに、野の花は如何なる力も持たないけれど、人は 取るに足らない路傍の小花から、大いなる癒しを得る事 がある。のみならず、自らの都合で咲いているに過ぎな い一輪の野花に、時に人は救いを見出し、励ましの声を 聞き、一条の希望さえ感じ取る。つまり、野の花自体は 無力であり無益であっても、それを見る人、即ち「受け 取る側」にとっては、時に蘇生へと導かれるほどの強靭 な「力」と成り得るのである。芸術もまた、同じではな いだろうか。上述の如く、芸術は一切の実用価値を持た ず、よって社会的には全くの無力・無益な存在である。 しかしながらそれを受け取る側は、感動と云うあの言い 難い精神の揺動を通して、時に自らが変革されるほどの 衝撃を体験する。言わば社会的には全くの無力であって も、作家からの送信とそれを受信する個人が、徹してパ ーソナルな関係に在る時、芸術は受け手に或る確かなも のをもたらす強靭な「力」と成り得るのである。その時 に初めて芸術は、紛れもない価値を有するものとなるの だろう。所詮社会の変革は芸術には不可能であり、そも そも芸術はその役割を持たない。それを成すべきは即ち 政治であり、思想であり、社会運動なのだが、然りなが らその力が如何に強くとも、個人にまでは決して及ばな い。芸術こそが、個人の変革を可能にするのだと思う。 作家はただひたすらに役に立たない物を、命を削って 創り上げ、世に送り出す。その純粋なる無益の産物を、 どう受け止め、どう意味付け、どう活かし、どう役立て るのかは、徹して受け手に委ねられている。芸術の存在 意義は、むしろ受け手が作り出すものではないか。なら ば送り手である芸術家の為すべきは、せめて受け手にま で響き到るような、精一杯の「花」を咲かせる事だ。強 大な力に翻弄され、為す術もなく蹂躙されてなお、幾度 も幾度もその下から甦り咲き直す、力ある一輪の花を。 手に余るような難題ほど、くどくどと書き連ねてしま うのが私の悪い癖で、ご容赦頂く他ないのだけれど、改 めて榎並さんの芸術家としての姿勢を顧みると、やはり 芸術の在るべき領分と云うものを、明確に弁えた人であ る事が分かる。語るべき事は言葉で語る、語り得ない事 は絵に描く、よって余計な主義主張を絵画には混在させ ない、それが榎並さんの貫いて来た、画家としての揺る ぎないスタンスである。もう十数年も足を運んでないの で現状は知らないが、以前はたまに団体展を覗くと「戦 争を告発する」「環境問題を告発する」と云った類いの 社会派作品が有って、それらに「◯◯賞受賞」等々のシ ールが、誇らしげに貼付されている図を見かけたが、思 うにどんなに戦禍に打ちひしがれた子供を描いた所で、 或いは累々と堆積したゴミの山を描いた所で、それは何 の役にも立たず、状況は露ほども動かない。当人はそれ で勇気ある告発をしたつもりかも知れないが、本当に戦 争や自然環境を憂うのなら、悠長にアトリエで絵など描 いてないで、即刻何らかの社会運動に身を投ずるべきだ ろう。先述した通り、それは絵画の為すべき役目には非 ず、己の分際を履き違えた、芸術の傲慢と言う他ない。 「ペンは剣より強し」の「ペン」とは、絵画の筆ではな い、言論のペンを指すのだ。と云う訳で榎並さんは、語 るべき事はハッキリと言葉で語る。ご存じの方も多いと 思うが、もう20数年も続けられているブログに、近年 はフェイスブックも加わって、それらを舞台に榎並さん は、折々に時事批評を記されている。それが実に明け透 けな舌鋒鋭いもので、マスコミの当たり障りのない日和 見論評に辟易している身としては、常々溜飲の下がる思 いで拝読している。ただ、天下の東電や政局に歯に衣着 せぬ批判を浴びせるものだから、私としてはいつか電力 総連や安倍一族の闇討ちに遭うのではないかと気が気で はないのだが、ご本人は至って飄々としたものである。 閑話休題、言論の分野はその位にして、そろそろ絵画の 分野に話を移そう。今回の「旅寝の夜話」と云うタイト ルに関して、画家は次のようなコメントを寄せている。 今だから言えるのかも知れない。こうやって巡回展を 始めた当時は、今のこの形を予想していたわけではな い。20数年やって来て、結果的にこういう形が出来 上がっていた。何となく始めた事が、やがては大きな 道筋になって本道になって行くような事は、よくある ことだ。最初からこうやって巡回展をやって行けば、 とかやって行けるだろうと計算出来たら、それは私 ではない。結局、どういう風に生きて行きたいのかと いう事だろう。ただ有名になるとか、地位や名誉が欲 しいとか、そういう事ではない。生業として職人にな りたいわけでもない。それなら、就職して働いた方が 何倍も楽なのだから。自給自足と言うのだろうか、実 際に食べ物を育てるのではなく、思想上の自給自足。 ああでもないこうでもないと考えながら、思考の芽を 育てて、絵や文章で表現する。それを世の中に問うて 少しばかりの糧を得る、こんな生き方が出来れば理想 だ。こういうのを、何と言うのだろう。昔の旅芸人と か漂泊者などは、そんな生活者ではなかったろうか。 思想上の自給自足──と画家は記していたが、思想と は詰まる所「言葉」であるから、文章においてはそのま ま思想表現が可能であっても、絵画においては言葉を介 さないため、そこで用いられるものは感性の言語、いわ ゆる「造形言語」となる。この場合の「言語」とはむろ ん比喩であるから、実際に用いるものは絵具やメディウ ムによって創り出される、色や形・テクスチャー等々を 指す。考えてみれば、画家は自らの精神をそのまま画布 に塗り付ける事は出来ない。如何なる想いであれ、それ は絵具による造形言語に、翻訳されなければならない。 よって、そこにどんなに深い精神が感じられようとも、 それは徹して絵具の重なりと連なりでしかない。然りな がら私達見る者が、そこに或る確かな精神を感じ取るの は、画面上における造形言語への翻訳が、画家の手で十 全に成されているからだろう。そして言うまでもない事 だが、その作業に画家の用いる道具は、絵具と絵筆のみ (榎並さんの場合は様々なコラージュも加わるが)なの である。この美術表現の原則とも言える「翻訳」と、現 在どれほどの画家が、真摯に向き合っているだろうか。 絵画に寓意や風刺を交えたり、何らかのコンセプトや理 念を施したり、声高な主義主張を入れ込んだり──と云 った具合で、他作家が様々なファクターを絵画に混在さ せている間に、榎並さんは黙々と独り、画面に絵具や墨 を掛け流し、壁土や黄土を塗り重ね、種々の布地や素材 を貼り込み、その上に更に絵具を積層させ、時によって は幾工程を経た画面を大胆に破壊して、新たな手掛かり を希求してゆく。これら一連の飽く事なき作業は、即ち 感性に湧出する無形の精神に、形を与えるための翻訳作 業に他ならない。但し、翻訳とは言っても頼るべき辞書 は無いのだから、一切は手探りである。だからこそ画家 は、他作家が主義主張をこねくり回している間に、正し く「手」を用いて未知の領域を模索する。やがてその先 にゆくりなくも何かが降り立ち、画面に確固とした形が 浮かび上がる時、長い翻訳の作業は完結するのである。 今回も昨年と同様に、西千葉駅を挟んだ新鋭画廊「く じらのほね」との同時開催となる。内容も同様に、当店 は混成技法によるタブロー、先方は水彩によるドローイ ングとなるが、周知のようにドローイングもまた、斬新 かつ軽妙な魅力に溢れたものなので、若きオーナーのモ ダンな店作り共々、ぜひ併せてご高覧頂ければと思う。 最後に蛇足ながら。前頁に「芸術の意義は受け手が作 り出すものだ」と書いたが、ならば私達受け手の為すべ きは、作品から響き到る声を、余す所なく十全に聞き取 り得るアンテナを、常日頃から磨いておく事に尽きる。 どんなに優れた送信でも、劣化した受信機では何も届か ない。磨かれた感性のアンテナは、必ずや優れた精神を キャッチする筈だ。そこに、掛けがえの無い何かを見出 す時、私達は自らの作り出した「意義」を知るだろう。 (22.04.17) 山口雄一郎 更新時間 : 14:01:53
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4月19日 (火)
はる 7654 第96回国画会展 ■東京展(国立新美術館 六本木) 2022/5/4〜5/16 ■名古屋展(愛知県美術館ギャラリー) 2022/5/24〜5/29 ■福岡展(福岡県立美術館) 2022/6/21〜6/26 更新時間 : 19:33:42
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4月18日 (月)
はる 7653 アニメ第二弾 アニメ「老いた山羊」榎並和春 音楽 「老いた山羊」飯田未来子 ・・・・・・・・ 買った時にパソコンについていたアプリで素人でもこんな遊びができる。やり方次第ではかなりのことができそうだな。なかなかのおもちゃです。 更新時間 : 22:12:50
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4月17日 (日)
はる 7652 今展は一年ぶりとなる榎並和春さんのドローイング作品による個展です。榎並さんのドローイングは画用紙の上であらゆる材料を展開し、その中を決して器用ではない線が何らかの形を拾い上げるように走り、描かれます。その奔放な画風は一人の人間の「人生」という旅路の中の1ページを切り取ってきたかのようで、奥深い味わいと豊かな魅力を感じます。今年も近隣の山口画廊さんとの合同での展覧会です。ぜひ併せてご覧ください。 企画画廊 くじらのほね ・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・ 榎並和春個展 2022 4/28〜5/15 「旅寝の夜話」 ☆山口画廊&くじらのほね同時開催 千葉・山口画廊 タブロー 5/1(日)在廊予定 https://www.yamaguchi-gallery.com/review/ 企画画廊 くじらのほね ドローイング https://www.gallerykujiranohone.com/ 4/30(土)在廊予定 ・・・・・・・ 絵は全て自画像みたいなものだ。老いることは表現者にとって悪いことばかりではない。眼も腕も衰えては来るけれど、今まで見えなかったものが見えてくるのではないかと期待している。どうにもならんかもしれんけどな。ははは。 更新時間 : 17:48:49
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4月16日 (土)
はる 7651 《棍棒での決闘》フランシスコ・デ・ゴヤ 1820年から1823年 ・・・・・・・・・ どうにも憂鬱だ。こうならないように、こうなってしまうと取り返しがつかないから取り決めをつくったのじゃあないのか。人類はどこまでいっても懲りない。死ぬまでやってろ!!それこそ百年前の大帝国主義まで戻ってしまった。 更新時間 : 18:00:49
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4月15日 (金)
はる 7650 このところ新しい記事を書いていない。FBに重点がおかれているからだ。 更新時間 : 20:06:07
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4月14日 (木)
はる 7649 新学期がはじまった。定時制だけになった。 更新時間 : 20:33:53
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4月13日 (水)
はる 7648 パス 更新時間 : 21:43:23
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4月12日 (火)
はる 7647 パス 更新時間 : 19:40:53
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4月11日 (月)
はる 7646 古希を迎えて改めて思う事を書いておこう。正直言ってこれからいくつまで絵を描いて生きて行けるのか、明日終わってしまうかもしれないし、100歳まで描いて行けるか藻分からないな。 とにかく描ける間は描き続けて行こうと思っている。生業だという事もあるけれど、それ以上に自分の生き方としてそこにこだわって行きたい。 国画もこれ辞めちゃうと大作描く動機が無くなってしまうし、スクエアも辞めることになるしな。恰好がつかない。本当に体が言う事を聞かないのじゃしょうがないけれど、描ける間は大作も年一枚は描いて行こう。 今ドローイングとかクロッキーが面白い。ドローイングは何が出てくるのか、自分でもワクワクしながら絵を描いている。こんなことはタブローではほとんどない。絵を描くことの楽しさの原点がここにある。 更新時間 : 17:49:27
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4月10日 (日)
はる 2645 裸婦クロッキー 更新時間 : 21:02:58
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4月9日 (土)
はる 7644 企画画廊 くじらのほね 飯田未来子 「丁寧な暮らし」というワードが流行ってしばらく経ちます。 このコロナ禍の中で生活を見直す人が増え、そのニーズに合わせたように色んなメディアがこぞってこのワードを表示していた時期があった気がしますが、そもそも「丁寧な暮らし」とは何を指すのか、試しにインターネットで検索してみたところ大して中身ある記事は見つからず「北欧インテリア」や「オーガニックな食品」「日本の職人さんが作った道具を使う」といった類の紹介例ばかりが出てきました。何か「これではない」という感覚を引きずりながらふと榎並さんの作品を見たときに「これこそが丁寧な暮らしではないか」と反射的に思いました。 榎並さんの絵の題材となるものは様々で、そのあたりにある日常的な事物から市井の人たち、何気ない風景、かと思えば神聖な祈りを思わせるモチーフなどありとあらゆるところから拾われています。 ばらばらに見えるモチーフたちですがひとつ言えるのは、どのモチーフも必ず榎並さんの人生の中に「在った」ものなのだろうということです。 当然ですが人は自分が知らないものは描けません。 リンゴの存在を知らない人に「リンゴを描け」と言っても無理なことのように、その人の人生の中に存在する事物しかモチーフにはできないものです。 逆に言えばモチーフの幅の広さはそのまま人生経験の広さとも言えます。決して長くない人生の中で起こる事柄や出会う人たち、そういった事象とどれだけ向き合い自分の糧にしていくか…それは自分という人間を形作っていく上でとても大切なことではないでしょうか。 「丁寧な暮らしをする」とはつまりそういうことではないかな、と思います。 自分の声に耳を傾け、日々起こるたくさんの出来事の中から美しいものを自分で見つけられる生活。 音を聴き、よく味わい、手触りを感じ、香りを楽しみ、彩を心に刻んでいく…そうして見つけ出す美しさを人によっては音楽に託し、人によっては絵に表し、そして表現にたずさわらない人達でも必ずその人自身の形となってその美しさは現れるように思います。 丁寧に暮らしていくこととはきっと自分と丁寧に付き合っていくことなのでしょう。 改めて榎並さんの絵を見たとき、多くの人々が見過ごしてしまうような物事の中にも榎並さんは美しさを見出せるのだろうと思いました。 一人の人生の中で起こる事柄はこの世界で起こる全ての事柄の中のほんのわずかでしかありません。 そう考えると人生の中で出会う全てのことは奇跡的な確率で自分と出会ったのだと思います。 そういった沢山の奇跡を拾い集めて繋ぎ合わせ絵にしていく…そんな榎並さんの画業を見ていると素朴な尊さを感じます。 更新時間 : 22:44:12
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4月8日 (金)
はる 7643 古希前々夜 - 2022.04.08 更新時間 : 22:48:45
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4月7日 (木)
はる 7642 パス 更新時間 : 17:57:08
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4月6日 (水)
はる 7641 ぱす 更新時間 : 19:24:29
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4月5日 (火)
はる 7640 パス 更新時間 : 21:19:40
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4月4日 (月)
はる 7639 実際に戦争を起こすなんて気違い沙汰だ。アフガンもイラクもベトナムもそうだけど。一人の権力者によって名もない市井の人々の生活が踏みにじられる。敵も味方もない。お互いに取り返しがつかないほど傷つき恨みが残る。まして核など使えば人類は生き残れないかもしれない。それでもなお、戦うのか? 戦争とは人を殺すのだ。その自覚があるのか。敵は血も涙もない鬼でも悪魔ではない。生み育ててくれた親がいて、可愛い子供がいて、信頼する伴侶がいて、愛する恋人がいる普通の人間なのだ。なぜ殺しあわねばならないのか。「敵がせめてくる」というのがいつもの手段だ。その家族を守るため、国や祖国を守るため、そうやって見えない敵に恐れおののき、なりふり構わず戦地へと押しやられてしまう。よく見てみよう。考えてみよう。勇ましいことをいう政治家に任せていては殺されるよ。 更新時間 : 22:36:19
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4月3日 (日)
はる 7638 パス 更新時間 : 21:22:34
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4月2日 (土)
はる 7637 この春に古希を迎える。我々が子供だったころは70歳はかなりのお年寄りだった。腰が曲がってようやっと生きているような年寄りが多かったように思う。しかしなぁ、今の70歳はまだぴんぴんしてる。これからもう一段階アップして違う景色を観ることができるのではないかと楽しみにしている。 絵はすべて自画像みたいなものだ。コラージュして絵の具を垂らして眺めているうちに山羊の頭が見えてきた。もともとヤギとか羊、ロバみたいなあまり勇ましくない動物が好きだった。何となく自分に似ているからかもしれない。威張ったり影響力のある人のそばには寄りたくない。基本大体において傍流だな。これからも変わらんだろう。 更新時間 : 19:17:01
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4月1日 (金)
はる 7636 四月になりました。 更新時間 : 18:48:37
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