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絵描きのぼやき

2月28日 (金)

はる 8851
山梨新報2025/2/28 コラム
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 ネットでは先行でアップしたコラムですが、今日付けの山梨新報で掲載されました。新聞の場合、作品と一緒に掲載されるのでメッセージはより強く伝わるかもな。一ヶ月に一回で83回目のコラムですから、始めてから7年経ちました。最初は一年位でネタも尽きるだろうと思っていたのですが、けっこう続くものですね。好き放題、テーマはあっちに行ったりこっちに来たり、何でもいい画家の視点で書いてくれという事なので続いているのかもしれません。

更新時間 : 22:19:31

2月27日 (木)

はる 8850
散歩道
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 テレビも殆ど見ないので夜は風呂入って、ブログを更新したりネットを見たらそうそうにベットに入って図書館から借りた本を読みながら寝てしまう。大体二時間くらいでトイレに起きる。よく寝たと思ってもそんなもんだ。若い頃のように、一日中寝てられるなどということはない。眠るにも体力がいるようだ。
 朝は大体七時くらいにおきる。朝飯を作って支度して散歩に出掛ける。寒いくらいの方が、身が引き締まっていい。近くの公園で体操して帰る。
 仕事は午前中2時間、午後3時間くらいで夜は余程の事が無ければやらない。何もない時のルーティンはこんなもんだ。
 個展が始まると日々が一転する。私はどの会場にも大体毎日つめている。会期が長い個展はその限りではないが、自分の個展会場に居るのは好きだな。お客様と唯一お会い出来る場だからな。作家によっては嫌がる人もいるけれど、まぁ人それぞれでいい。
 健康でこの生活が続けられることを願ってる。

更新時間 : 17:47:14

2月26日 (水)

はる 8849
2025「ツガイ」f4部分
京都 洛で展示予定
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 技術は後天的なもので、あとからいくらでも磨く事が出来る。生来のセンスは後から何とかなるものではないという?ただ、技術にもセンスがあって上手い人は何の努力もせずに上手い。下手くそがどんなに努力しても追いつかない。地頭の良し悪しに似ているな。

更新時間 : 22:45:58

2月25日 (火)

はる 8848
散歩道
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 六月の地元のグループ展「スクエア展」(山梨県立美術館)で毎年一人が併設の個展を開催することになっていますが、今年は10年ぶり三度目の私の番になりました。最初の個展が2005年、次が2015年で今年2025年で三回目ということになります。(この二回目までの大作15点は山梨英和大学に寄贈しました。希望すれば観覧することが出来ます)
 私の場合、年に4、5回も個展を開催しているので、珍しくもないと思われる方も多いと思いますが、これがここ10年の大作(130号を中心に)ばかりを10点ほど並べるとなると、いつもの個展とは様子が違うように思います。
 次の10年となるとかなりの高齢になって来ますので、大作ばかりの個展というわけにはいかないでしょうね。存命していればということですが。というわけでこれが最後の、大作の集大成となるでしょう。自分でも楽しみにしています。近づきましたらまたこの場ても告知しますので、宜しくお願いします。

更新時間 : 08:04:15

2月24日 (月)

はる 8847
「コンダクター」sm 部分
京都 洛で展示予定
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 私の絵は途中ですか?と聞く人がたまにいる。確かにそう言われればそう見えなくもない。しかし、これ以上描くと絵は確実に壊れてしまう。
 昨日と繋がる話だけれど、絵は生きている事が一番大事なことだ。絵描きは絵を描くことが好きな連中が多いのでどんどん描き込んでゆく。描き込むほど完成度が上がると信じているけれど、どうなんだろう。一度振り返ってみる必要があるのじゃないかな。
 全部が全部説明してしまうと観る人の入り込む余地がなくなってしまう。何処で止めるかというのが難しいところだけれど、誤解を恐れずにいうなら、描かずにすむならできるだけ描かない方がいいように思う。
 その結果必要不可欠な色と線だけになって、これは途中ですか?ということになる。

更新時間 : 21:45:51

2月23日 (日)

はる 8846
 裸婦クロッキー

更新時間 : 18:58:51

2月22日 (土)

はる 8845
「ツィゴイネルワイゼン」f20の部分
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 若い頃にいきがって神戸から北海道まで原付のスーパーカブでツーリングしたことがある。道々はほとんど駅か野辺の納屋みたいなところで野宿した。そうすると髪はボサボサで体は垢じみて、だんだん浮浪者のような出立ちになってくる。駅に泊まる時はたくさんの荷物を手に持って歩くものだから、まさにホームレスだな。
 生活用具一切をもって放浪の旅に出るというのは昔からの憧れだったな。その流れなのか、車中泊の動画や、ブッシュクラフトのキャンプの動画を観ることが多い。動画の再生数の多さから見ると案外多くの人が共感を持って観ていることがわかる。狩人というのか、男の性のような気がするな。

更新時間 : 20:12:06

2月21日 (金)

はる 8844
散歩道
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まだまだ寒い。朝は-4度

更新時間 : 18:04:47

2月20日 (木)

はる 8843
2025「赤の工場」f3 部分
京都 洛で展示予定
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 最初「赤い工場」だった。それだとそのままだよな。検索すると実際に「赤い工場」というのが岡山の山奥にあったみたいだな。ベンガラを生産していたようだ。見たわけではないので、何とも言えないけれど。
 ところが、「赤の工場」とすると俄然面白くなる。絵の具ではなく、世の中の赤が全てこの工場で作られたもので、もしこの工場がなければ、赤は存在しないとすると面白い物語ができるな。他に「青の工場」とか「黄の工場」などがある事になる。村上春樹なら面白い御伽噺にしてくれるだろう。ちなみにハルキストには叱られるかもしれないが、彼とは同郷で大体同じ世代で同じ頃にジャズの洗礼をうけたいうことで、勝手にシンパシーを感じている。
 昔々の話。神戸の長田あたりには工場がいっぱいあって、今のように規制がなかったものだから、それぞれの煙突からいろいろな色の煙を吐いていた。それを電車の中から見ていた子供が「あの赤い煙は夕焼け空を作るんだね」と母親にたずねていた。それを聞いていた私はそうなんだと納得した。

更新時間 : 17:47:20

2月19日 (水)

はる 8842
2025「辻音楽師」sm 部分 混成技法
京都 洛で展示予定
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はる 8842
 さて、今日は何を書こうかな。又後で覗いてみて下さい。

 絵は下手くそな方がいい。上手い人はいくらでもいるし、上には上がいて比べられるとどうしても順位がつく。それでも上手を目指すというなら反対はしないけれどね。
 学生時代は何でも順番がついた。一番が居れば必ずびりっけつがいる。全体の半分の人はそれなりに優越感を感じて、後の半分は劣等感にさいなまれることになる。人間の競争意識というのか、少しでも他より優位でいたいという気持ちを利用して組織をコントロールしている。知らないうちにそんなヒエラルキーに慣らされてしまっている。
 生き方に上下はない。どう生きても一生なんだな。好きなように生きればいい、みんなと同じでなくてもいい。後はその覚悟ができるかどうかだけの問題だ。

更新時間 : 22:55:08

2月18日 (火)

はる 8841
パス

更新時間 : 17:37:08

2月17日 (月)

はる 8840
2025「城壁の街」sm
京都 洛で発表の予定
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はる 8840
 このナンバーはほぼ毎日一つずつカウントしています。忙しくて何も書かない日もありますが、基本毎日何か書くようにしています。始めたのが2000の9/25からで当時は毎日更新していませんでしたのでナンバーにラグがあります。単純に365で割っても24年と少しかかります。
 始めた頃はブログなどという言葉もありませんでしたね。ネットの創成期でそれまでノートに綴っていた日記をパソコンの日記帳に移行し始めた頃でした。雑文を書き散らすことは学生の頃からで、絵を描くより長い習慣だな。
 こういうものは義務や仕事と思ってやっても続きませんね。書くことが好きである、考えることが好きである、書きなが考えるタイプの思考をする人に向いています。タネは文章の中にある。絵のアイディアとよく似ています。
 まったく人それぞれだ。好きを続けるといつの間にかそれが仕事になったり自分を助けてくれる。何が好きかなど分からなくてもいい、とっかかりは何でもいい、とにかく続けられる事を続ける事だな。

更新時間 : 16:38:50

2月16日 (日)

はる 8839
2025「遠い日々」f6 部分 混成技法
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 絵を描き始めた頃は公募展やコンクールが華々しいころで、何とか世の中で認められるにはここで一発ドカンと大賞をゲットしてさっそうと画壇に上がりたいと思っていた。それゆえにコンクール向けの大作を量産していた。審査員を調べて傾向を練ったりした。自分の芸とは無関係な大それた夢を見ていたものだ。
 しかし、若い時はそんな浅はかな夢をみても許される時でもある。全く無駄だったかといえば、そうでもない。色んな所で同じような仲間がシノギを削っていることを知ったし、上には上がいることも知った。一番の収穫はたとえ大賞をゲットしたとしても、それは一時のまぐれ当たりのようなもので、本当の実力が無ければ一発屋で終わってしまうということを知ったことだ。
 もう一つは、多くの作品を描いたことでじぶんの限界を知った事だ。たとえ駄作であったとしても、ある時にものすごい量の作品を作ることで自分の実力を知ることが出来た。今こうやって生きていけるのは、その時の蓄えがあるからではないかな。
 さて今はコンクールや公募展の時代ではなくなった。無名の新人がさっそうと世の中に出る方法はInstagramなどやYouTubeを使ったsns戦略だろうな。ただこれも本当に実力がなければあっという間に忘れられてしまうだろう。結局は地道に作品を作って発表していく、アナログな方法しかないのかな。

更新時間 : 19:21:45

2月15日 (土)

はる 8838
アトリエの自作のイーゼル
 小品はほとんどこの小さな箱の上で作る。箱の下はゴミ箱になっていて、削りかすなどがそのまま入るようになっている。
 使う絵の具が水性なので油彩絵の具のように粘性がなく立てて描くと流れてしまう、それゆえに基本画面は床に寝かせてたらし込むように置いてゆく。油彩を描いていた頃は大きな木のイーゼルを使っていたけれど、いつのまにか床に座りこんで描く今のスタイルになった。かっこよく言えば、憧れの座職の小間物細工師のようだ。

更新時間 : 17:10:15

2月14日 (金)

はる 8837
2025「詩人」SM
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 今日は寒かった。先日の子供のお城はだれかが壊したようだ。
 細工師というのは、代表的なのはカンザシなどをつくる飾職人とか、根付けなどの彫物職人などのことをいうようだ。工業製品が今のように安価に多量に出回る前は、生活に必要なあらゆる物を職人が作っていたわけで、居職の仕事というのは私にとってなかなか魅力的な仕事だ。ただ、私の場合人々にとって役立つ物を作っているわけではないのがこころ苦しい。
 思索というのか、思考の種みたいなものを作りながら愚考する。それを簡単な絵や言葉にして全国をまわる、全国といっても大体行ける場所というのは決まっていて、見てくれる人も少しずつ変わってゆくだけで、ほとんどがいつもの常連のお客様だ。
 やっている事は本当に些細なことで、ありふれた日常をうたっているだけだ。ストリートミュージシャンが駅前でギター抱えて歌っているようなものか。大層な芸術理論も圧倒的な技術も無い、中途半端ないい加減な人間がそうやって生きていければ、それだけで丸儲けじゃないだろか。

更新時間 : 18:32:03

2月13日 (木)

はる 8836
散歩の途中で見つけた、子供のお城。
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 細工師を調べてみると、色々出てくる。香具師、大道芸人、敵やなどなど。
 知らなかったけれど、絵解きという説法芸があったらしい。文盲の多かった中世以前では布教活動にはなくてはなら手法だったらしい。これは西欧でも同じだな。
以下Googleさん
【大道芸】より
 ほとんどすべての芸能は,その発生期においては屋外の大地の上で行われており,むしろ芸能にあっては,長く〈屋外の芸〉もしくは〈大道の芸〉という芸態が当然のことであった。しかし,特に近世以降に人形浄瑠璃,歌舞伎といった舞台芸能が発展すると,〈門付(かどづけ)芸〉〈見世物〉〈物売り(香具師(やし))の芸〉なども広く含めたもろもろの大道の雑芸(ざつげい)は,舞台芸能とははっきり区分けされて意識されるようになった。そしてこの大道芸も,江戸時代を通じてかなり複雑多岐に分化し,最大の繁栄をみせるのであるが,その種類は,節季候(せきぞろ),万歳(まんざい),猿回し,春駒(はるこま),獅子舞,大黒舞,夷舞(えびすまい),ちょろけん,祭文(さいもん)語り(祭文),説経語り(説経),鉢叩(はちたたき),人形回し,太神楽(だいかぐら),鳥追(とりおい),絵解き,八丁鉦(はつちようがね),門談義,辻謡曲,太平記読み,大道講釈,乞食芝居,声色(こわいろ),一人(ひとり)相撲,曲鞠(きよくまり),曲独楽(きよくごま),のぞきからくり,居合抜(いあいぬき)(居合)等々,実に300種以上にものぼるといわれる。

絵解き・
絵解(えとき)は、宗教的背景を持ったストーリーのある絵画である「説話画」の内容や思想を当意即妙に説き語る行為、およびそれを行う日本の職能、芸能である。
元々寺院や神社の教化・宣伝等の目的でなされてきたが、鎌倉時代以降からは急速に大衆化・芸能化し、娯楽的な要素を含むものも増えた[1]。
絵画と語りが一体化した絵解きは、長い年月、文字を読めない人々にとって重要なものであった[2]。紙芝居も絵解きから派生しており、アニメーションや漫画の背景にあるのも絵解き文化である

更新時間 : 18:55:13

2月12日 (水)

はる 8835
パス

更新時間 : 13:38:46

2月11日 (火)

はる 8834
2月山梨新報 スーパーエッセイ
就職しないで生きる
 卒業の季節だ。新社会人として希望を胸に巣立って行く人も多いだろう。その反面、やって行けるだろうかと、不安に苛まれている人も少なからずいる。仕事と生き方について少し考えてみたい。
私が旅芸人など、流れ者を描くことが多いのは、自分の暮らし方とどこか似ているからだ。フリーランスで生きるというと、どこか才気ばしった優れ者のイメージがあるが、ぷー太郎やホームレスといえば世間的には落伍者ということになる。
 こまどり姉妹(流しの演歌歌手、若い人は分からんかな)の話をどこかで読んだ。普通に考えると、彼女たちは歌うことが好きで自ら選んだ人生だと想像する。ところが好きで選んだとするとかなり違うらしい。いくつかの選択肢があってその中から選んだ訳ではない。選んだのであるなら、嫌なら辞めることができるし、稽古事、趣味、という事になる。彼女たちの生き様はそんな生易しいものではない。生きるか死ぬか、唄うか死ぬか、そんなギリギリのところで生きてきたということだった。
上の話は今の時代なかなか理解しにくいことだけれど、例えば自分の「好き」を探して仕事にしなさいと大人は簡単にいう。でも、選んでこれが好きと言える人間はほんの少しだ。ほとんどの人が学校を卒業する段階になって訳も分からず、みんながやってるからと、髪を切ってリクルートスーツに身をつつみ就活するわけだ。その仕事が好きか、嫌いか、一生できるかどうか、そんなことは選択の要件には入ってない。
 若いころから仕事についてよく考えた。働く事が生きて行くための必要悪であるなら出来るだけ要領よく少ない時間働いて、後は余暇として自由な時間を過ごせばいい。しかし、本当に働くことは自分にとって必要悪でいいものなのか、もっと積極的に働くことが自分にとって楽しいものにはならないのか。
  「月曜日の憂鬱」誰でも多少あるよね。子供の頃からだな。だから登校拒否がよくわかる。学校など無くなればいい、会社などなくなればいい。どうしても組織の中で生きることが出来ないならば就職しなければいい。そういう選択肢もある。具体的にいえば小さな商売をする。モノを作って売る。食べ物を作って自給自足を目指す。何か特技があれば個人教室をひらく、などなど。組織に入らないで生きて行く方法はいくらでもある。
社会的な成功、安定、地位や名誉、お金からは縁遠い生き方だけれど、心が平和に生きることが出来るなら、それが本人にとって一番幸せではないか。最初に戻るのだけれど、世の中の常識から離れて生きるという覚悟の問題だ。社会とはそういうものではない。社会貢献しなく自分だけ生きて行けばいいのか、と怒られそうだけれど「好き」が見つからない場合、組織で生きられない場合、そんな人は就職しないで生きるという選択肢もあると覚えておいて欲しい。

更新時間 : 19:24:02

2月10日 (月)

はる 8833
2025「六角堂」f0 混成技法
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昨日の続き
 個展などで作品を展示する場合、作家は全ての作品に思い入れがあるものだから、どれもこれも対等に飾りがちだけれど、鑑賞する側からいえばそういう展示は退屈に見える。ある意味個展会場そのものが一つの作品のようなもので、作品同士がお互いに引き立てあうように展示しなければ勿体無い。
 作品はある程度余裕を持って用意した方がいいだろう。作家によって色味、傾向はかなり似てくるものだが、出来るだけ同じ種類の作品が隣にくるのは避けた方がいいだろう。例えば一つの作品が風景なら隣は人物にするとか、赤系統のなら隣は青系統にするとか、縦絵の隣は横絵にするとか、大きさに変化をもたせるとか、色々考えられる。額装する時に並べて、人に見てもらうのもいいかもな。ただし、展示は設置芸術のようなものなので、あくまで実際に会場に立って決めた方がいいと思う。これはあくまでも私個人の主観なので違うと言う人がいてもいい。
 後私は会場効果として音楽を流している。あまり大きな音は人によって鑑賞の妨げになるので避けた方がいいけれど、文章も展示スペースがあれば展示する。それがいいのか悪いのかわかりませんが、それもこれも全てひっくるめて私だと考えている。次で124回目の個展になる。

更新時間 : 21:10:14

2月9日 (日)

はる 8832
今日のアトリエ
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 額装は絵を描く事とは関係のない職人仕事だけれど、会場効果を考えて何を選ぶかというのは大事な作家の仕事だ。

更新時間 : 19:02:57

2月8日 (土)

はる 8831
パス

更新時間 : 21:21:47

2月7日 (金)

はる 8830
2025「旅行記」f8 部分 混成技法
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 次のテーマは「ひとひとのあわい」と考えています。「あわい」という言葉がきれいだったので使ってみたいと思った。
ひとひとのあわい             
 何者かになろうと思って絵を描き始めた訳ではありません。二十歳前後の若造にそんな大それた希望など持てるはずもない。ただ描き続けること、それだけを考えてここまできました。
 古希すぎて毎日が飛ぶように過ぎてゆきます。「あわい」とは物と物の間のことを指します。私たちは時と時、日と日、人と人のあいだを生きています。何事もない日は真っ白なページとなって記憶に残りません。少しあらがって汚してみたい。
 何処に行くのか、行き着くのか未だに何も見えません。たぶん、最後までやり通しても完成することはないでしょう。問い続けること、それが目的と言えるかもしれません。
 今回も祈りにも似た、なにげない日々のあわいを歌う事にしました。

更新時間 : 16:24:19

2月6日 (木)

はる 8829
赤色の顔料をアクリルのメジュウムで練ったものを絵の具といて使用しています。混成技法になった当時は試みとして色々な顔料や粉末をアクリルメジュウムで練って使っていたが、水を含むため多量につくるとほとんどが腐ってしまった。当初は防腐材を買って来て使用していたが、自然素材を使って防腐材を使うというのも本末転倒だ。それ以来どうしても必要な絵の具を使用する分しか作らないようになったが、元来が無精者なので段々アクリル絵の具の方に傾いて行った。元々市販されているアクリル絵の具は含まれている顔料が少なく水彩絵の具のようで不満だった。その点で下地塗料としてのカラージェッソは含んでいる顔料分も多く、その用途から下の色を隠す力もあるので絵の具として使用している。
 元来が適当な大雑把な人間なので、几帳面に計量したり記録したりはほとんどしない。大体が場当たり的で適当に、使える物ならなんでも使うやってみる、やってみてだめなら次を試みる。そうやっていまの方法に辿り着いた。いい加減というのは「良い加減」だといいように解釈している。

更新時間 : 20:30:17

2月5日 (水)

はる 8828
山梨美術協会会員展始まりました。
2/9日曜日まで
山梨県立美術館
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絵を描き始めて初めて誉めてもらったのがこの山梨美術協会の公募展だった。あれからかれこれ50年近く過ぎてしまった。とにもかくにもこれが無かったら絵を続けていたかどうか分からない。絵は一人で描くものだけれど、長く続けていくには何かしら繋がっていることも必要かな、わずらわしいと思うこともあるけれど。中央も地方も少子高齢化でどうなってゆくのか分かりませんが、絵を描く人が無くなることはないでしょうと楽観している。

更新時間 : 13:42:19

2月4日 (火)

はる 8827
今日のアトリエ
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 今日のアトリエ
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 使用する色は少ない。基本的には三原色に白と黒だな。白にも色々あって、絵の具の白ばかりではない。胡粉の白は半透明でホヤホヤと美しい。珪藻土の白はぽったりとして暖かい白だ。雲母の白はキラキラしてはんとうめいで青と合う。組み合わせることでバリエーションはいく通りにもなる。
 基本的に私は色の人ではないのかもな。あまりに多くの色があると混乱してしまう。一つ一つの色味よりも、それらをどう使えば調和するか、心地いいかそういったことの方が得意かな。
 絵を描き出して普通に物が描けるようになって、どうやって今の自分の考えていることを表現するか、どうやると観る人を巻き込めるか、そんなことばかりを考えていた。言葉で伝える事が出来るならそれでもいい。言葉に出来ないモヤモヤをどうにかして伝えたい。それが今の絵柄とタイトルを模索するスタイルになった。

更新時間 : 10:45:45

2月3日 (月)

はる 8826
今日のアトリエ
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 音楽にはメロディ、リズム、ハーモニーという基本的な要素がある。更にジャズに限らないけれど即興性が大切な要素でもあるな。現代音楽のようにメロディがまるでなくなってしまうと我々素人にはなかなか面白さが理解出来ない。
 クラッシックなどでも一番こころにすんなり入ってくるのは何となく美しいメロディーで歌謡曲でいえばサビということになるか。歌詞のある歌曲は具象画で、歌のない純粋な音だけの音楽は抽象画だというようなことを聞いたことがある。分かりやすい例えだ。
 抽象絵画でも基本的に具象的な感動から出発している絵画は理解しやすいが、全く抽象は私には面白さがよく理解出来ない。それ故に描けないだろう。国画には抽象の大家が沢山いるので機会があったら聞いてみよう。

更新時間 : 20:11:34

2月2日 (日)

はる 8825
2025「マドンナと私」f8部分
思索のかけら もしくは落書き
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 毎日が飛ぶように過ぎて行く。同じようにみえて確実に同じ時はない。どこまでがうつつかまぼろしか。「まどろむような日々」だ。楽しかった事も悲しかったことも、遥か彼方にぼんやりと漂ううたかたのようだ。
 さて、一仕事するか。

更新時間 : 22:04:02

2月1日 (土)

はる 8824
2025「遠い日々」f6 混成技法
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 抽象と具象の間の仕事が好きだ。全くの抽象はカッコいいけれど、ある意味でずるいなぁといつも思う。そこからが作家の芸の見せ処じゃないのか。過ぎた日々を回顧してイメージを紡ぐ。それが絵になるか、歌になるか、詩になるか時と場合と人によって様々。何でも有りの混沌のままの状態はips細胞みたいなものだな。何にでもなれるけれど、何物でも無い。私が具象にこだわるのは、その方が多くの人を巻き込めると思うからだ。

更新時間 : 20:05:22

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