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絵描きのぼやき

2月28日 (月)

はる 7604
 嫁が一泊遊び

更新時間 : 18:44:29

2月27日 (日)

はる 7603
 パス


更新時間 : 17:56:38

2月26日 (土)

はる 7602
 アフガンもイラクの時も後から見れば時の権力者たちによって仕組まれた戦争だったということが良くわかる。特に私たちは国境を直接他国と接していないので今回の事も臨場感をもって把握できないでいる。マスコミはほとんど場合風見鶏のように大衆が見たいような情報しか流さない、流せない。絶対に正しい情報などないからだ。鵜呑みにするのは権力側の思うつぼだ。こちら側からみれば正しいことも裏から見れば間違っているということも大いにある。とくにネットの時代情報があふれている。自分の頭で考えて情報を取捨選択するひつようがある。なにはともあれ武力によって他国を侵略することは反対です。
 何かしら「希望」が見いだせれば。

更新時間 : 21:35:39

2月25日 (金)

はる 7601
 ロシアがウクライナに侵攻した。

更新時間 : 21:49:09

2月24日 (木)

はる 7600
 麻雀

更新時間 : 19:14:25

2月23日 (水)

はる 7599
 ぱす

更新時間 : 17:34:15

2月22日 (火)

はる 7598
 もうすぐ古希を迎える。いい歳だ。どこから見ても老人になったと思う。けれど若い時に何年か定職を持っただけで、30を超えてから就職したことがないので退職をする、リタイヤするという感覚が今ひとつわからない。この歳になると友人や知人たちはほとんど退職して年金暮らしとなる。色々不平不満があるらしいけれど、おおむね私から見れば悠々自適の何の心配もない老後暮らしのように思える。
 しかし、どうにも元気がない。当然の話だが、毎日が羨ましいような休日ライフでこれからは自由に自分の時間を使って第二の青春だ!と元気いっぱいの人は少ないように見受けられる。それの原因は余生という考え方だとおもうな。もう現役を降りてしまっている。特に周りに学校の先生が多いのだが、彼らは一般的に教養もあって好奇心もあるはずなんだが、現役を降りてしまうと急激に老いてしまう。趣味の畑仕事ぐらいしか生きがいがないようだな。

更新時間 : 00:18:52

2月21日 (月)

はる 7597
 パス

更新時間 : 17:54:38

2月20日 (日)

はる 7596
 裸婦クロッキー
物を見て描く写生やクロッキーは面白い。たぶん絵を描くことが好きだという原点がそこにあるのだろうな。何年何十年やってもまったく飽きない。飽きないどころかますますのめり込んでフラフラになっても描いている。
 が、こういった写生と創作の間にはおおきなギャップがある。勘違いする人がたまにいるけれど、写生の延長上に創作はない。写生をどんなに繰り返しても写生が上手くなるだけで、創作にはならない。どこかで意識して創作、表現しようとしなければ変わることはない。いい悪いではなくてね。
 私は作品を描く時には全く何も見ない。見ることでイメージを再現しようとは思っていない。心の中にある何かを見つけたい、そのための道具として絵を描いている。

更新時間 : 23:10:10

2月19日 (土)

はる 7595
 パス

更新時間 : 20:57:03

2月18日 (金)

はる 7594
一部ネタバレなので、気にする人はスルーしてください。
 映画「ドライブ・マイ・カー」を観た。3時間だけど、あっという間に過ぎた。超大作という感じはしなかったな。カンヌではもう受賞しているらしいので、まぁフランス人好みの映画かもしれん。恋愛映画ではないけどね。原作が村上春樹だからもっと奇想天外なストーリーかと思ったけれど、映画版はある意味分かりやすい展開にはなっていた。でもまぁ文学的といえばそうかもしれん。私的にはかなり面白い映画だと思ったな。
 色々なテーマが錯綜して流れてメインを絞ることはむつかしいけれど、主人公は舞台の演出家であり役者でもあるという設定だ。彼はもうそこそこ認められた役者であり、今回は役者としてではなく一人の演出家として一つの舞台を任される。多くの役者が世界中から公募されて一つの舞台を色んな言語、手話などで総合的に組み合わされて作られてゆく。色んなが言語が飛び交うながらも違和感なく一つの舞台が作られてゆくというのもこの映画の魅力かもしれないな。こういった手法があることさえ知らなかったので新鮮だった。ただ高度に洗練されたチェホフの戯曲があるから出来る事かもしれないな。
 ただ当然テーマはそんなところにはない。彼はある意味この世界では認められた存在で、奇麗な伴侶にも恵まれ成功した人物として描かれている。役者という職業ははたから見れば華々しく格好のいい憧れの仕事のように見える。実際成功すれば大きな地位も名誉もお金も得るのだが、表現者という職業はそれだけでは済まないところがある。彼のように高い評価を得たものは反対に何かを代償として払っている場合が往々にしてある。
 彼の場合一番信頼している妻に裏切られる。それを知っていながら彼女との関係が壊れてしまう事を恐れてそのままにしてしまう。そうやって偽りの関係を続けて行くのだが、ある突然彼女は亡くなってしまう。亡くなってしまったことでさらに心の闇の部分を抱え込んでしまう。その現実の闇の部分と劇中劇のチェホフの「ワーニャ叔父さん」が交互に関係しながら進んでゆく。絶望に陥り、苦悩しながらも“死”ではなく“生”を選び取っていくという内容だ。舞台の最終章で韓国人の手話で語られるセリフはなかなか泣けるものだった。ただ、こういってしまうとハッピーエンドな軽い作品に映ってしまうのだが、そうではないことを実際に映画館で観て確認してほしい。
 久しぶりにいい日本映画だった。


更新時間 : 21:41:01

2月17日 (木)

はる 7593
 パス

更新時間 : 20:40:03

2月16日 (水)

はる 7592
 いつの間にやらもうすぐ古希を迎える。二十歳前後の頃と、何も変わっていないのに歳だけは一人前の老人の部類にはいいている。誰が見てもどうみても立派な老人だろう。もうすこしましな人間になるつもりだったが、大した者にはならなかったな。大器は晩成するというけれど、今やもう遅すぎるだろう。

 しかし、あの何者でもなかった二十歳前後の頃を思うと未だにつらくなる。みんなそうかもしれないが、どこかに就職して働けば何かがどうにかなる保証はあるのか?自分には何が出来るのか、これから一生かけてやれるほどのことがあるのか、誰も分からない。何もわからない。学校ではそれなりの進路指導をしてくれるのだけれど、ただ単に会社を選ぶだけじゃないか、それが自分の一生を決めることになるのか。

 就職しないで生きることを真剣に考えていた。何故かな?働かされる、好きでもないことをやりたくないということかな。使われていると結局は自分の時間を労働に変換しているわけだ。それだったら自分の好きなことをやりたい。それで一生が終わってしまってもいい。そんな覚悟かな。

 フリーランスで生きるということは簡単なことではない。そうせざるを得なかった人間だけがフリーになるのだ。真面目に堅気の仕事ちゃんと勤まるならば、フリーになる必要はない。


更新時間 : 00:19:26

2月15日 (火)

はる 7591
 2022 3/9〜15
 私の在廊は3/12(土)のみです。
普段はほぼ毎日絵を描いている。それが仕事だからということもあるけれど、年間に個展を4,5回開催するので、単純に考えても100点以上の作品が必要になる。描いている作品は大きくても20号で、ほとんどが10号以下の小品になる。なぜ小品しか描かないのか?といえばそれ以上のサイズは日本の家屋では飾ることが難しく、また高くなって購入する人が少ないからだ。
 小さな作品を20点から30点用意して展示して各地を回るというのが私の方法で、いつの間にかそれが私の生活スタイルになった。売れるのがいい絵なのかどうか分からないけれど、売れないと生活できないわけだから、ある意味シビアではある。売れた売れた完売だと騒ぎたくもないけれど、売り絵だパン絵だと蔑まれたくもない。絵描きとはそういうものだ。
 一年に一枚自分の背丈以上の大きな作品を描く。これはなんだろうな、自分の絵描きとしての矜持みたいなものだろうか。他人はどうでもよくて、自分なりの挑戦だと思っている。売れるとか売れないは関係なく、昨年までの自分をぶっ壊しながらどこまで行けるのか、どこまで深く掘り進めることができたか、果敢に挑戦してゆきたい。
 どこまで続けられるのか、分かりませんがよろしくお付き合いのほどをお願いいたします。

更新時間 : 23:28:47

2月14日 (月)

はる 7590
 大阪JAZZ展

更新時間 : 19:28:00

2月13日 (日)

はる 7589
 2022「ローマの松」 F3 ⓔ混成技法
未発表
・・・・・・・
 そうだな、こんな絵も好きだな。何だかよくわからない下手くそな絵だけど、それなりに面白い。具象絵画だけど、やっていることは全く抽象とかわらない。偶然に出てきた形からイメージしただけだな。
 最初にローマの松など描くつもりなど全くなかった。コラージュしたプリント布にたまたま真ん中に一本の木のようなフォルムがあった。それも意識して貼りこんだわけではない。何とかそれを生かせないか色々やっているうちに、ちょっと前の「美術館の午後」という絵のイメージとダブった。まぁあんな風に建物と大きな樹のシルエットで絵にならないかと試行錯誤している。
 ほとんど墨のような絵の具をどっと垂らしたら、ローマの松が現れた。このローマの松のイメージはどこかで読んだことがあると思って、今回検索してみた。なんと漱石の「坊ちゃん」の中でこんな一文があった。
「以下「坊ちゃん」より引用】
赤シャツ:あの(島の)松を見給え、幹が真っ直ぐで、
   上が傘のように開いてターナーの絵にありそうだね。
野だ:全くターナーですね。あの曲がり具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ。
   (中略)どうです教頭、これからあの島をターナー島と名付けようじゃありませんか。
赤シャツ:そいつは面白い。我々はこれからそう言おう。
 私は文学青年ではなかったので、これを直接読んだ覚えはない。教科書だったかもしれん。どこかで聞きかじったのだな。それが心のどこかに残っていてたまたま今回出てきたというわけだ。昔ローマを初めて観光した時に実際にこの「ローマの松」を見て、あぁこれだったのかと感動したことを思い出いだした。



更新時間 : 22:58:33

2月12日 (土)

はる 7588
 きっせん

更新時間 : 15:09:20

2月11日 (金)

はる 7587
 パス


更新時間 : 19:46:51

2月10日 (木)

はる 7586
  ちょっと考えたことを書いておこう。後で消すかもしれん、コメントはいりません。あしからず。
 多くの人は見たものを見えたまま写真のように描くのが絵画だと思っている。まぁそれは否定しません。色々いっても絵が上手というのはそういうことでしょう。流行りの雑誌やネットのグループ展などをみてもそういう上手い絵がほとんどだな。別にひがんでいるいるわけではないですよ。ただ、海外の作家の作品をインスタやFBで観ることが多いけれど、こういった絵画はほとんど日本だけの傾向のような気がするな。日本だけ特殊なフィルターがかかっている。北斎、浮世絵、アニメションと突出しているからね、ガラパゴス的といえばそうかも。
 写真を見て形をトレースするようになぞることは出来るけれど、それは絵を描いたとはいえない。写真を見て描いた絵に違和感を感じるのはその人の解釈、意識が抜けているからだ。例えば世の中には輪郭線というものは存在しない。我々は絵を描く時に仮の線として輪郭線をひく。そこにこうであろうという解釈が必要になる。明暗にしても同じことが言える。無段階のグラデーションには「私はこう見た」という解釈がない。ものを描くという事はこの解釈の連続なんだな。「こう解釈した」という報告の総体が絵画という事になる。街の似顔絵描きさんのブロマイドを見て何かむずむずするのはそういったわけだ。
 最初に一本の線をひく。そうするとそこに天と地が現れる。どんどん線を重ねることによって、やがて線が面になって落書きが人の顔になったり、どこかで観た風景になったり、忘れていた物語だったりする。最初に意識したものではない。自分では気が付かなかったり忘れていたことがふっと思い出されたりする。分かっていることを描いてもつまらんだろう。心の中にあるものを見えるようにすることが絵を描くことではないのかな。そうやって考えると絵を描くという事はかなり恥ずかしい仕事であって、ただ見て観えたまま描くなどということはまだその取っ掛かりに過ぎないというきがする。
 絵描きであるということは、あえてその恥をしのぶとい覚悟ができるかどうかだと思うな。


更新時間 : 18:31:16

2月9日 (水)

はる 7585
 パス


更新時間 : 22:56:17

2月8日 (火)

はる 7584
 ちょっと考えたことを書いておこう。後で消すかもしれん、コメントはいりません。あしからず。
 多くの人は見たものを見えたまま写真のように描くのが絵画だと思っている。まぁそれは否定しません。色々いっても絵が上手というのはそういうことでしょう。流行りの雑誌やネットのグループ展などをみてもそういう上手い絵がほとんどだな。別にひがんでいるいるわけではないですよ。ただ、海外の作家の作品をインスタやFBで観ることが多いけれど、こういった絵画はほとんど日本だけの傾向のような気がするな。日本だけ特殊なフィルターがかかっているように思える。何故なんだろう。
 見えたものを観えた通り描くというのは実際にはできない。例えば世の中には輪郭線というものは存在しない。我々は絵を描く時に仮の線として輪郭線をひく。そこにこうであろうという解釈が必要になる。ものを描くという事はこの解釈の連続なんだな。「私はこう見た」「こう解釈した」という報告の総体が絵画という事になる。
 そうやって考えると絵を描くという事はかなり高度な抽象的な作業であって、ただ見て観えたまま描くなどということはできないという事がわかる。

更新時間 : 23:02:14

2月7日 (月)

はる 7583
 ぱす

更新時間 : 19:40:20

2月6日 (日)

はる 7582 
 どうやら復帰できたようだ。事の顛末はこういうことだった。
 二日前いつものようにログインしようとしたけれど、パスワードを入れてクリックしてもフリーズしたように動かなくなった。何の反応もしない。色々からかったけれど、事態は一向に改善しない。諦めて事務所に問い合わせのメールを出した。
次の日回答があったのだけど、言われたことをやっても解決しなかった。それでパスワードが分からないということで申請して変更した。それでもいっこうに動かない。改善しない。他のパソコンでも、携帯でも、違うブラウザでもだめ。完全にお手上げ状態に陥った。
 昨日事の顛末を書いてもう一度事務所に問い合わせのメールを出した。
 回答はこの入力画面の下の「私は人間です」だった。
 こんなもん知らんがな。勝手に設定しよって、迷惑な。だれもこんなものクリックせんやろ。
 これはいたずらに機械的になりすましで管理画面に入れないために設定されたものらしい。このブログの会社の設定ではないのだ。これにチャックを入れて、写真合わせみたいなことやって、私が人間だと認められて初めて管理画面に入ることが出来た。

 誰かが教えてくれんと分からんがな。こんなもん勝手に設定したらあかんで。

 皆さん、管理画面にログイン出来んようになったらそういうこっちゃ。


更新時間 : 20:58:27

2月5日 (土)

はる 7581
パス

更新時間 : 19:37:20

2月4日 (金)

はる 7580
 パス


更新時間 : 20:53:00

2月3日 (木)

はる 7579
 できるだけ大きな刷毛を使う。小さな筆で描くと説明図になってしまう。そこのところが難しい。後はもうどうすれば絵になるかどうか、瀬戸際の仕事だな。何年やっても計画通りにはいかない。人生と同じ。醍醐味はそこにあるように思う。
 何を描いても、どう描いてもいいのだと思う。反対にいえばどう描いても何を描いても面白ければいい。そうでなければ他人を納得させることはできない。自己満足で終わらない、そこが素人との違いだな。
朝井まかて 「眩」p130
 「・・・限りある時で如何に書くか、その肚が括れねぇんなら素人に戻れ。・・・・たとえ三流の玄人でも、一流の素人に勝る。なぜだかわかるか。こうして恥をしのぶからだ。・・・」

更新時間 : 21:48:46

2月2日 (水)

はる 7578
 寒山拾得

更新時間 : 23:21:41

2月1日 (火)

はる 7577
 二月です。

更新時間 : 22:25:26

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