26 収穫の秋の巻 2 (10月)

 

 夏の終わりから秋にかけて、だいたいいつも夕立がある。夕立といっても日本のように

可愛いものでなく、まさに嵐といった感じだ。昼過ぎまでギラギラの太陽が照りつけ、午

後五時頃、そろそろ真っ黒い雷雲が盛り上がって来たかと思えば、何処からとなくサワサ

ワと風が吹きはじめ、稲妻が走る。ガラガラと雷音が聞こえるようになると雨もぽつぽつ

やって来る。突然風が嵐のように変わるとショーが始まる。雨がよくぞここまでと思うほ

どの勢いで落ちて来る、ザーザーと凄い音、よく見ると氷の粒だ、たちまち辺り一面が白

くなる、水たまりに沢山の氷が浮かび雨の勢いで踊っている。風は益々強くなりオリーブ

の小枝を引きちぎる、とどめは雷が近くに落ちてスッと電灯が消える。これがだいたい三

十分ほどで終了、雲が切れて今日最後の太陽が顔を見せると、カピトーネの谷間に虹が架

かりショーが終わる。この展開の速さ、激しさ、ドラマチックなところ、やっぱりイタリ

アだと思う。

 秋も深まって来ると雨の日が以外に多くなる。緑一色だった丘もしだいに色づき始める

赤く色づく樹はほとんどなく、ほぼ黄色のバリエーションだ、立ち枯れたようにシエナ色

にそのまま葉を付けたものも多い。牧草は一年を通して多い少ないはあってもほぼ変わら

ずに黄緑色をなしている、それ故全体の印象として枯れ色一色という感じではない。

 十月の終わり頃、友達のヤードラナ、フランコ夫婦たちと一緒に近くの村のお祭りに出

かけた。彼女の母国は隣国のユーゴスラビアで今現在も内戦状態だ、夏に彼女の家で会っ

た甥も戦闘に参加しているということだ。日本に居れば遠い国の話だがここイタリアでは

臨場感がある。日本は平和ぼけしていないか。

 「栗祭り」には近所の村から、沢山の人が来ていた。以外に若い夫婦づれが多く、村祭

りもこのぐらい賑わっていなければ面白くないだろう。ポンポン音がするので覗いて見る

と、栗を大きな金属のざるの様な物に入れ、直接火であぶっている、栗が弾ける音だ。音

がしなくなると、ザァーと木箱に移して煙がたっているような状態で小袋に入れて売る。

一つ買ってみた、美味いことは美味いが、どうも破裂した時に実が飛んでしまってほとん

ど食べるところがない。口の中と手をすすだらけにして、色々な出店をひやかしに行く。

 遠くからたのしげな歌声が聞こえる、アコーデオンで奏でられる旋律は単純で覚えやす

い、二十人ほどの黒一色のかぶりものをした若者たちが、一人の爺さんの先導で歌いなが

らやって来る。広場の所で止まって、もう一度大声を張り上げて歌い収める。拍手喝采。

 日本の村祭りは寂しくなった。全国的に知られる観光客相手の大きなお祭りではなく、

地域の住民たちで楽しむお祭りが寂しくなった。ショーアップされた大規模なフェスティ

バルもいいけれど、素朴な昔ながらの、小さな村祭りがいい。

                                  

 

 

         27 収穫の秋の巻 3 (11月)

 

 オリーブの実が濃い紫色に変わる、十一月の終わり頃、フランスにもう一度行く事にし

た。この前はほとんど通過しただけで充分に満足しなかったからだ。中一日スイスのベル

ンに寄ってパウル・クレーを見に行く予定だ。その前にオリーブ狩りを済ませる必要があ

る。

 利夫さんは将来もっとオリーブの樹を増やしたいと思っているようだが、今のところ自

宅で一年間消費するぐらいの量しか作っていない、二三十本だろうか。ヤードラナとフラ

ンコ夫婦にも手伝ってもらって、オリーブ狩りを始めた。

 まずオリーブの樹の根本から半径五mほどネットを張る、これで落とした実を受け取る

のだ。樹の中心に向かって梯子をかける、こうすれば仮に梯子が外れても、何処かの枝に

引っ掛かるからだ。梯子に上り手当たり次第かき落として行く、後は時間さえあれば終わ

る仕事だが、以外にまめな作業で遅々として進まない。それでも一日の仕事を終えて集め

てみると一人では持ち上がらないほどの収穫だった。その後村の業者に預けて搾ってもら

う、今年のできはまずまずと言うことだった。

 オリーブオイルはイタリア料理には欠かせない、マリアなどなんでもこのオイルを使う

搾りたてのバージンオイルは白濁していて発酵するのかガスが出るそうだ、一度車に積ん

でサルデニアまで行った時、破裂して荷物がオイルまみれになったそうだ。それを聞いて

いたので帰りの飛行機は心配だった。何時も手元に置いてガス抜きをしていた、一番気を

使ったお土産だった。これも危険物になるのかな。

 調味料としてサルデニアの塩を使う、どう違うのか上手く言えないけれど、とにかく塩

辛いだけでなく美味い、さらさらとしていて甘塩とも違う。利夫さんが焼く肉はこの塩だ

けの味付けだけど滅法美味い。もちろんこの塩も持って帰って来た。

 フランスに出かける前に詰めて置かねばならない事がある。できれば個展をやりたいと

利夫さんやマリアに話をしていたが、その話がやや具体的になって来た。カーサ・キムラ

を改装する時にお世話になった建築家のブルーノさんは美術にも造詣が深く、又町の実力

者でもあった。話がとんとん拍子に進んで、この日は会場を決めるため、市の職員と会う

ことになっている。利夫さんと一緒にナルニの市役所まで行き、プルチネラさんと会う、

彼は画家でもある。最初彼は教会でやろうと言っていたが、とても会場が大きすぎて、ス

ケッチでは間がもたない、いろんな会場をあたったが、なかなか決まらず諦めて帰りがけ

に寄ったのが、市の劇場でそこの二階のロビーを借りる事にした。

 会場と日時が決まった。十二月十六日から二十三日まで、クリスマス・イブの前日まで

だ。忙しくなりそうだ。イタリアでの始めてのクリスマスはきっと思いでに残ることにな

るだろう。                             

 

 

         28 パリ旅行の巻 1 (11月)

 

 パリには出来るだけ長期に滞在したかった、この前の様な短期周遊型の旅は、パック旅

行ならいいけれど、自分たちでホテルを探したり、荷物を管理したり、移動したりするの

は、無駄も多くとにかく疲れる。そういった教訓から今回は一週間パリに滞在することに

した。中一日スイスまでの小旅行を入れても、荷物は預けていくので楽だろうと思った。

 何回目かの飛行機旅行、イタリアに来てから人の迎えや見送りを含めて幾度となく、こ

の国際空港に来たのに、いつまでたっても慣れないでいる。ただこの一寸した緊張感が快

いと思えるようになって来た。楽しい旅になりそうだ。

 パリはストライキの真っ只中だった。地下鉄はもちろんバスも国際列車も動かない。ホ

テルのフロントで聞けば「そう長くはやらないだろう」ということだったが。スイスは行

けないかもしれない。町の中をローラースケートでスイスイ走る人が多い、たぶんストの

せいだろう。私たちは歩くしかない。

 今回は前に行けなかったオルセー美術館へ行く、毎日一つずつ巡っても一週間では足り

ないほどの美術館がパリにはある。昔ルーブルの横に小さな印象派美術館があった、その

後、何年か前に駅であったこの建物を美術館に改装、印象派美術館の作品も吸収された。

 印象派の絵には馴染みのある絵が多い、二十世紀の絵画史はパリで始まったこのグルー

プからといってもいい。五百年以上の西欧絵画史を見てきて、このグループが出てきた必

然性がほんの少し理解できた。さてこうなって来ると是非現代美術のメッカ、ニュー・ヨ

ークへ行って美術史の旅を締めくくりたいと思う。

 ここで懐かしい絵に出会った、人は誰も一つの絵や音楽に慰められた記憶があると思う

私の場合はモネの「アルジャントゥーユのヨット」だ。湖に浮かぶヨットを描いただけの

なんでもない絵だけど、極単純な構図と大振りな筆で躊躇なく一気に仕上げた清々しさは

当時の憂鬱な気分を吹き飛ばしてくれたことを思い出した。

 印象派は相変わらずの人気でかなりの人だが、ほとんど触れるぐらいの距離で見られる

のでありがたい、それにしても何時も思うことだが、美術館や博物館で見る絵や彫刻は何

処かよそよそしい、出来るだけ多くの人に、いい条件で見せようとすれば、こういった事

になるのだろうが、何か違う気がする。結局芸術のコレクションは個人の趣味の問題であ

って、万人に共通のものではない。作品は個人のコレクションになるのが一番幸せなのか

と思う、そうなると又問題も多いのだが。

 その後サンジェルマン・デ・プレの画廊街をまわる。美術大学が近いせいか若い新しい

絵が多い、久ぶりに現代絵画を見て刺激を受ける。ナルニの個展ではスケッチばかりでは

なく少し自分の絵も描いて飾ってみようかという気になった。田舎暮らしも楽しいけれど

たまにはこうして刺激を受ける必要もある。              

 

 

         29 パリ旅行の巻 2 (11月)

 

 パリには大道芸人が多い、大体が一人でバイオリンとかアコーデオンを持って、よく知

られている一節を披露する。上手いと思う人もいれば、お金を取るのだったらもう少し練

習をしたほうがいいと思う人まで千差万別だ。街角に等身大の彫刻が置いてあった、ここ

は芸術の都さもありなん、と誰かがコインを投げ込むと、ゆっくりと動きだした、おまけ

に手にはシャボン玉をもっていて、吹き上げる。五分ほどのショーが終わると電気が切れ

たようにガクッと止まる。後は微動だにしない、もうお分かりかと思うがこれも大道芸、

全身真っ白の衣装で、顔を含めて出ているところは絵の具を塗ってこれも又真っ白。最初

見たときは本物の彫刻かと見間違えた。もう一つ、誰かが街角で叫んでいる、手振り身振

りも加えて真剣だ、ケンカかと思ったが女性一人だ。終わると回りの人が拍手、コインを

投げ入れる、これは自作自演の詩の朗読。色々な人が自由に表現して、又それを楽しむす

べを知っているかのようだ。

 次の日はあいにく朝から雨だった。オランジェリー美術館でモネの「睡蓮」を見る。印

象派の画家の中で一番その理論に忠実に、光の再現を心掛けた作家は彼ではないかと思う

一番奥の大広間をぐるっと巡る「睡蓮」を見ていると、彼のその情熱に打たれる。午後は

グラン・パレで大セザンヌ展を見る。近代絵画の父と言われる彼の人気は物凄く、雨のな

か二時間ほど並ぶ、昔一番最初に買った画集がゴッホとセザンヌだった。人は絵を描き始

めると、自分の中で美術史を繰り返す、プリミティブな悪戯書きから始まって、やがてデ

ッサンを覚えて物が忠実に描けるようになると、自分の感情を表現したくなる。その頃ゴ

ッホに捕まる、やがてセザンヌが気になりだして、色彩派はマチス、形派はピカソ、心情

派はダリと別れていく。誰もが一度は通る道がセザンヌで、近代絵画の父と言われる所以

だ。楽しい絵ではないが、構図、色彩、形体と飽くなき追求の姿に脱帽、自分もこうあら

ねばと戒めた。

 スイスにはやっぱり行けないことになった、残念。後で分かったことなのだが、ストは

この後延々と約一ヵ月続き、フランスのGNPまで下げてしまった。おかげで私たちはパ

リの町を歩くことにかけてはエキスパートになってしまった。今となってはいい思いでだ

が、その時は恨めしく思った、なにぶんせっかく探した美術館がストのため臨時休館にな

っていたりしたからだ。

 十二月になって、いよいよパリの町もクリスマスのデコレェーションに熱をおびて来た

シャンゼリゼの大通りの並木に灯がともり、デパートのレイアウトは一層華やいで、町の

そこら中のビルが可愛いプレゼントの様だ。案外地下鉄に乗るより、こうやって町を歩い

て、ウィンドーショッピングしている方が楽しかったのかもしれない、これはひょっとし

て負け惜しみかな。                         

 

 

         30 パリ旅行の巻 3 (12月)

 

 ポンピドゥー・センターに行く。ご存じのようにポンピドゥー大統領の提唱で建てられ

た国立文化芸術センターで、中に世界最大の近代美術館のひとつパリ国立近代美術館があ

る。外国には時の為政者の名のついた施設がけっこう沢山ある、ドゴール空港なんかもそ

うだ。ポンピドゥー・センターは一度見ると忘れられない様な、風変わりな建物だ。昔大

阪の万博のパビリオンに建築途中の様に足場が組まれていた建物があったが、何かそれを

連想した。古ぼけた骨董品の建物ばかりを見てきた目にはとても新鮮に思えた。ただ好き

嫌いで言うなら、あまり好きとは言えない。

 ストのせいか意外に閑散としていて、じっくりと作品を見ることが出来た。ピカソ、ブ

ラックからダリ、そして抽象の祖カンディンスキー、そして今回行けなかったクレー、マ

リリン・モンローのウォーホルまで、ほぼ現代美術をカバーしている。それ以後は現在進

行形で町に出れば幾らでも見ることが出来る、ただその内どれが美術史に残って行く作品

なのか神のみぞ知るである。百年前印象派でさえマイナーなグループだった。

 それにしても、ほとんど日本人の作家がいないことに寂しさを感じる、その昔日本は神

秘の国として、その風俗や芸術が多くの芸術家にインスピレーションを与えた、今西欧で

見ることが出来るのはその残り香の様なものだけだ。

 異国に居て、日本のことをよく考えた、日本という国は思った以上に遠い国だ。片思い

に似て日本人が思うほど相手は意識していない。例えばこの旅にしても、日本に居ながら

かなりの情報を得ることができた、色々な雑誌が毎月のようにパリやローマを特集する、

地元の人が知らない様なことまで知ることができ、それが当たり前のようになっている。

それに対してこの国の人達は、一部の人を除いて、日本の事を知りもしないし興味もない

知らなくても不自由しないし、存在さえ見えない、前にも書いたが自己主張しない者は無

視されても仕方ないのだ。見えない相手から突然、超高度な精密機械やエレクトロニクス

が売りつけられて来るものだから大騒ぎになる。

 日本と言う国は素晴らしい伝統と文化を持った国だ、その事を誇りに思うし、その存在

を富士やま、芸者的な物でなく、又SONY、HONDAだけでなく知ってもらいたいと

思う、一方通行だった情報の流れを、少なくとも相互に行き交うものにしたいと切実に思

った。

 その後、ピカソ美術館、イコン展、クリニュー美術館、と画廊巡りをしたりクリスマス

セールで賑わうデパート巡りに付き合ったり、夕方は本屋に行くことも多かった。帰りに

は市場でオレンジを買い、近くの売店でサンドイッチとジュースを買ってホテルで簡単に

済ますこともあった。パリの人は不親切だと聞いて、どれほど意地悪か楽しみにしていた

のだが期待外れのようだ。                      

  このあと、個展  スペインへの小旅行  ニューヨークを経由して帰国 その話はまたの機会に・・・。ではでは                  つづく