16 ヴェネチィア パドヴァ シエナ 小旅行の巻 3

 

 パドヴァからフィレンツェまで鉄道、フィレンツェでシエナ行きのバスに乗る。バスの

ターミナルが分からず荷物をもってうろうろする。こんな時旅の疲れとスムースにいかな

い苛立ちからいつもケンカになる。悪いのは大体、私の方だが。

 きれいに舗装された道を軽快に走って行く、途中の小さな村をどんどん通過して、一時

間ということだったが、もう少しかかったように思う。バスはシエナの城門の外に着く。

帰りのバスの時間と場所を聞いて、みんなと同じ方向に歩きだす。

 シエナは絵を描く者にとって馴染みの深いひびきだ。シエナ色、バァーント・シエナ色

レンガのような色だけれどもう少し赤みがある、この町の色だ。小さな幾つかの丘の上に

あるこの町は、フィレンツェと並び称されるほどの力があった。シンボル的なマンジャの

塔もどこかフィレンツェのヴェキオ宮殿の塔ににている。ただフィレンツェの様に交通の

便がよくないので、どこか取り残された中世の古都というイメージがあり、大きくない分

好ましい。

 イタリアは古来からの都市国家の集合体で、日本などの様な中央集権国家と少し違って

かなり地方色が強い。イタリアでサッカーが盛んなのは、ある意味でそういった郷土愛と

無関係ではない。シエナの歴史は他の歴史書に譲として、とにかくこのトスカーナ地方の

有力な城下町で、フィレンツェやローマはあまりにも有名で、その分観光地化されすぎて

いて不満を持つ人も、必ず満足する魅力有る町だと思う。

 石畳の上を道に沿って歩いて行くと、右手にゆるやかにカーブする。道の両側はレスト

ランや小さなお店が並ぶ、その店の屋根越しに、ドゥオーモの尖塔が見える。私たちのホ

テルはこの聖堂の近くなので、みんなと同じ道を行くのではなく、脇道にそれる。谷底に

落ちる様な急な坂道を下ると、反対に上り坂になった。なんのことはない、結局前の道と

合流したのだ。人とは違う寄り道をする、くたびれ損の私たちの人生そのものだ。しかし

途中に地元の人達で賑わううまそうなトラットリア(食堂)を見つける、そこで食べたス

パゲティ・プリマベラ(冷たいトマトソースのスパゲティ)はとてもおいしく滞在中何回

か食べに出かけた。人生悪いことばかりではない。

 この旅で沢山のホテルに宿泊したけれど、ローマのホテル・ロカルノとシエナのホテル

・ドゥオーモ、ローテンブルクのホテル・ハンブルグは一生忘れないだろう。このホテル

の良さは立地条件の素晴らしさだ、名前の通りドゥオーモの近く、カンポ広場まで歩いて

五分ぐらい、この町の住人になったような気になれる。

 荷を下ろして、さっそく町の探索にでかける。ゆるい下り坂を歩いて行くと音楽学校の

校舎が右手に見える、ときどき練習の音が聞こえる。こんな環境で好きな音楽を勉強でき

るのは羨ましいかぎりだ。

 

 

         17 ヴェネチィア パドヴァ シエナ 小旅行の巻 4

 

 カンポ広場は大きな貝殻のような恰好をしている。広場といっても競馬ができるのだか

らその広さが想像できるだろう。イタリア人は演劇好きだ、それも歌劇(オペラ)だ。よ

く言われるようにオペラは総合芸術で、音楽、演劇、美術、照明、衣装、そして演出と、

どれ一つ欠けても成立しない、すべてが渾然と一体となって一つの物を作りあげる。これ

は一朝一夕にできることではなくて、ながい伝統と訓練を必要とし、そしてその根底には

イタリアと言う国民性がある。それは、そういった芸術を愛し育てて行こう、楽しもうと

いう意識があることで、特に選ばれた人々だけが楽しむのではなく、普通の市井の人々に

もその意識が強い。これはとても大切なことだ、だからこそいまだにイタリアは多くの人

々にとって魅力のある国でいられるのだ。カンポ広場の貝殻状の蝶番の部分に立つと、「

これは舞台装置だ」と思う。背後にあるのはこの町の象徴プッブリコ宮殿市庁舎、背景と

すればこれほど立派な物は望めない。周りはぐるりと建物に囲まれて、音響効果もよさそ

そうだ、それによくある野外劇場のように、すべての中心がこの一点にむかって微妙に傾

むいていて、観客の目を嫌でも引きつける様になっている。特に劇場ではなく日常空間に

こういったスペースを持つ国民は、やはり意識が変わって来ると思われる。観光客は買い

物や観光に疲れると、三々五々この広場にやって来る。私たちもこのテラスでカプチーノ

を注文する。

 シエナは絵画史に於いても重要な場所で、シエナ派と言われる多くの画家を輩出した。

ドゥッチオ、シモーネ・マルティーニ、ロレンツェッティ、の名前は絵画ファンでなくと

も聞いたことがあると思う。ただイタリアの場合、あまりにも数が多いため、どれが本当

に大切な作品なのか混乱してしまう、やはりかなり美術史なりを勉強して行ったほうがい

いだろう。反省。

 夜にプッブリコ宮殿のホールでコンサートがあると言うので出かけた。残念なことに前

日ならばシモーネ・マルティーニの壁画の前で聴けたそうだが、今日は小さなホールだっ

た。昼間この市庁舎にあるマンジャの塔(102m)の一番上まで登ってかなり疲れてい

たので眠ってしまわないか心配だったが、ここの音楽学校の色々な国の学生たちの指揮で

変化があって面白く、充分楽しめた。特に日本人の学生の指揮があり、妙に日本が懐かし

くなっていただけに、身びいきか良くおもえた。話は変わるがマンジャの塔と言うのは可

笑しな名前で「マンジャーレ」が「食べる」、カピトーネで食事の時よく利夫さんが「マ

ンジャ、マンジャ」と言っていたのを思い出した。「食べろの塔」かと思って調べてみる

と、「マンジャ」とは人の名前だったそうだ。レオナルド・ダ・ビンチがビンチ村のレオ

ナルドだとすると、ひょっとするとマンジャおじさんは物凄い大食漢だったのかもしれな

い。

 

 

         18 友人たちの訪問   (8月)

 

 外国にいると友人からの手紙が結構楽しみのひとつだ。カピトーネ村には小さいながら

郵便局があって、ほとんど毎日スクーターに乗っておじさんがやって来る。この郵便局に

はずいぶんとお世話になった。日本から冬物の荷物を船便で送ったのがちょうど三カ月で

着いたがすべて郵便局止めで、小さい部屋が私たちのダンボール三個でいっぱいになった

原型をとどめないかっこうではあったが無事着いた、感謝。

 私たちがイタリアに居るあいだに沢山の友人がやって来た。何といっても家族全員六人

を引き連れてやって来た田中さんたちはすごい。元々利夫さんを紹介してもらったのがこ

の田中さんで今回の旅の大恩人なのだが、私たちが居ることもあって全員でやって来た。

ミラノの近く、ブレーシアに住む手塚さんの家族も一緒になって総勢十五、六人の大所帯

になって、マイクロバスをチャーター、大名旅行もさもありなんと言う、大旅行を敢行し

たのでした。ローマ、ナポリ、ポンペイ、アッシジ、ペルージャアと一緒に旅をしたが、

自分たちで計画して行くゲリラ的小旅行とは一味違うワイワイと楽しい旅だった。こうい

う気の合った仲間どうしの団体旅行も外国の場合、他に気を使うことが多いだけに気楽に

旅ができて、ときにはいいな思った。

 田中さんたちもそうだったが、他の友人たちも、持って来てくれるお土産の量が全く凄

かった。すべて日本食で、千代子さん(その後一緒にイギリスに渡ることになる女友達)

などあのサムソナイト一つがほとんど全てが日本食で、おまけにインスタントラーメンを

ダンボール一つ持ってきた。イタリアで日本食の商売でもやるのかと疑われてもしかたな

いだろう。後日談、彼女は帰りに空になったサムソナイトの他に、さらに一つ大きなバッ

クを買って、それぞれいっぱいにして帰国したのだ。結局プラス・マイナスゼロだった。

 それにしてもそうやって外国にやって来るツアー客は若い女性同志のペアーとかおばさ

ま族が多く、ようするに暇があって自由になるお金を持っているのは今の日本では、そう

いった女性たちだということだろう。男はなんだかんだ言っても忙しく、まとまった休暇

もとれないでいる。もしかりに休暇を取ったとしても他のことに使ってしまうだろう。美

術館やコンサートに行っても圧倒的に女性の方が多く、なんとなく気まずい思いをする。

 昔芸術は奴隷による労働によって暇のできた裕福な人達の暇つぶし的遊びから生まれた

今は男たちの労働によって暇のできた少し裕福な女たちの暇つぶし的遊びになろうとして

いる。芸術だけでなく学問や経済、スポーツまで今一番元気に活躍しているのは女性たち

ではないだろうか。まわりの女性たちを見ても、彼女たちはしなやかで且つしたたかで且

つ大胆だ。反対に男性は自分を含めて固くて脆い、社会の組織にがんじがらめて縛られて

次第に元気を無くして行くようだ。

 おとこたちよ!肩の力を抜いてもう少し楽に生きてみないか。  

 

 

         19 サルデニア旅行の巻 1 (9月)

 

 イタリア人たちは六月になればそわそわする。この夏のバカンスをどこでどうやって過

ごすのか。一年をこのバカンスのために働くと行っても過言でない。八月に入れば早々に

海に山に出かける。それも一週間から長い人たちは一ヵ月ゆっくり休む、それも観光地で

はなく人のこないような所へ行き、なにもしないで過ごす。これがイタリア流バカンスだ

 キムラ家もこのところ毎年サルデニア島に二十日間ぐらい出かける。サルデニア島は元

々マリアの実家のある島でイタリア半島のむこう脛あたりに浮かぶ、シチリア島に次ぐお

おきさの島である。スペイン語なまりのイタリア語を話す人々が住み、文化的にはスペイ

ンに近いようだ。島の北の地方はサンゴ礁の続く高級リゾート地でヨーロッパの富豪たち

の別荘やホテルがある、もちろんそんな所には縁がなくてぐっと庶民的なバンガローを探

す。利夫さんが「バンガローに行こう」と言うので、浜辺の海の家みたいな物を想像して

食事付きだというけれど、それもいいかとOKしておいた。

 利夫さんたちは子供もいるので車で出かける、それがまったく信じがたい様な大荷物、

今年は生まれたばかりのハナコちゃんもいるので、よけいに荷物が増えて非難民さながら

の、動く家状態だった。私たちは電車で先に出かけて、ローマから北八十Kmほどのとこ

ろにあるチヴィタヴェッキア港で落ち合い、フェリーに乗って島に渡という計画。夜の十

時半出航ということで、十時に港で待つが、これがなかなか大変なことだった。港に着く

と物凄い数の車で、おまけにみんなバカンスに行くので気分はハイの状態、キャンピング

カーを牽引する車や、日本じゃとても許可されないだろうはみ出すほどのボートを乗せて

亀がひっくりかえった様な車、てんでに何か叫びながらゆっくりと船に吸い込まれていく

軌跡的に落ち合えて、無事船上の人になったのだった。

 早朝サルデニア島のオルビア港に着く、ホテルの車が迎えに来てくれていて、そこから

オロセイまで一時間ほど、途中の風景はいままでのイタリアの緑豊か芳醇なものとは打っ

て変わって、紺碧の海と真っ青な空と赤茶けた岩山であり過酷な風土が想像された。ホテ

ルに着く、海の家のバンガローを想像していた私は、そのあまりの違いに自分のイメージ

の貧しさを恥じた。綺麗なタイルでかざられたアーチを抜けるとそこは自由なアラビアン

な世界だった。百ほどの部屋が十棟ぐらいに分かれ、それぞれ中庭に向かって開いている

一つの部屋は十畳ほどの寝室と六畳ほどのリビングとシャワーが付いている。部屋の前に

はテラスがあってそこで本を読んだり昼寝をしたり自由なスペースだ。中庭には大きなプ

ールがあって一日中子供たちが遊んでいる。又ここにはステージがあって昼間は子供たち

相手のアトラクション、夜はそれはそれは陽気なエンターテイメントのショーが夜中まで

ある。松林を抜けるとそこはプライベートビーチで抜ける様な空と海が我が物となる。こ

れだけの施設がとんでもない費用で利用できる。いい国だ、イタリアは。   

 

 

         20 サルデニア旅行の巻 2

 

 朝起きるとシャワーを浴びて食事に出かける。食堂は半地下にあってテラスの方から南

国の様な日差しが朝から眩しい。バイキング方式の朝食を軽くとる。後はさっそく海の方

へくりだす。ホテルの名前の入ったパラソルが砂浜にまるでキノコの様に群生している。

日差しがあまりにも強く三十分も我慢できない、ヨーロッパのひとたちはこのじりじり焼

ける太陽が好きで平気で肌を焼く。気儘に泳いだり肌を焼いたり本を読んだりで午前中は

終わり。昼食はかなりハードなイタリアン料理のフルコース、ボーイさんなんかもよく教

育されていて気持ちがよい。午後はそれぞれの部屋に帰って昼寝をする、夕方テニスの真

似事をしたりプールで泳いだり。夜になるとこれがけっこう涼しくなる、夕食がすめば後

は広場で大騒ぎ、大体がみんな揃ってのダンスで終わる。これが延々毎日繰り返されるの

だ。こういった施設がサルデニアには幾つもあって、みんなてんでにバカンスを楽しむこ

とができる様になっている。習慣の違いもあるけれど、バカンスの過ごし方はイタリア人

の方が数倍うまい。二三日海や山に行っても疲れるだけだ。

 十日ほどこのホテルに居て、同じ島の中に住むマリアの姉さんカテリーナの家にお世話

になることになった。ちょうど島の反対側東部の町オリスターノの近くマルビューという

町だ。利夫さんたちとホテルで別れて、ここから島を横断する電車の旅となる。ヌオーロ

というサルデニアの内陸部を代表する山岳都市までホテルの車で送ってもらう。かなりの

スピードで軽快にぶっ飛ばしていくが少々乱暴な運転で怖くなった。途中の風景も岩山ば

かり、すれちがう車もほとんどなく、どんどん山奥に入って行くようで不安になった。運

転手は陽気なおじさんだったが。山の上の砦の様な町がヌオーロだ。ここで切符を買おう

とするが全く通じず、駅長さんが出てきて大騒ぎしてやっとマルビューまでの切符を購入

そこから一両編成のおもちゃの様な電車に乗ってトロトロと山を下って行く。ほとんどケ

ーブルカーの雰囲気だ。駅には利夫さんが迎えに来てくれていて無事カテリーナの家に着

いたのだった。

 翌日カテリーナと彼女の旦那さんが畑に果物を取りに行くと言うのでついて行く、ぽつ

ぽつと実ったオレンジ色の実を取ってくれた、なんとサボテンの実だった。見かけはわる

いがけっこう甘く何故かなつかしい味がした。過保護に育てられたどこかの国の果物より

もずっとうまい気がした。午後からマリアの両親に挨拶に行くことになって車で出かける

。車で二時間ほど内陸部に入る。その風景はいまだにはっきりと焼きついている。見渡す

限りの地平線にほとんど木らしいものがなく広大な荒れ地が続く。こんな寂しくなるよう

な風景をいままで見たことがない。両親にあってお礼言っての帰り、振り返ると真っ赤な

夕陽がオリーブの古木に引っ掛かっていた。