11 日常生活の巻 1

 

 ほとんど一ヵ月に一度旅に出る。元来旅が好きかと問われれば、けっしてそうではなく

日本に居るときは出無精で用がなければ家にいたい方だ。仕事がら家に居ることの方が多

いのだけれど。この旅にでるにつけて自分の中で決めたことがある。それは多くの事を見

る事だ、できるだけ多くの小さな旅にでること。そしてスケッチすること、後は楽しんで

こようこれだけだ。油絵を描きはじめて二十五年ほどになるがこれほど永く、油絵の匂い

を嗅がなかったことはない。特に最近は描きたいから描くのか、展覧会があるから描くの

か分からなくなって来ていた時だけに、一息つくのもいい機会だと思った。

 旅に出ていない時は、午前中はチンクエチェントに乗って近くの風景のスケッチに出か

ける。時にはサンドイッチを作ってもらって少し遠くまででかけた。一年近くになると、

めぼしい所はほとんど絵にした。絵を描きはじめた頃、よく自転車に乗って油絵の道具を

担いで風景スケッチに出かけたものだが、この頃はアトリエ制作が多くなり、ほとんど実

際の風景を見て描くということがなくなっていた。イメージを脹らませ、まだだれも見た

ことがないものを創りだす。それはそれで面白いことだったのだが、どうしても自分の中

だけで繰り返していると自家中毒に似て麻痺してくるところがあり、最近はややマンネリ

になってきたかなと思われた。自己模倣を繰り返す、これが一番こわい。

 日本にいれば色々な情報が入り乱れて入ってくる、新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、いい

か悪いか別問題としても、かなり影響される。そういった情報から全く切り離されて、裸

の自分と向き合い、なにも考えずに、ただ美しい風景と対峙して筆を動かしていると、絵

を描きはじめた頃の感激が戻って、絵を描くことが好きだったのだと改めて感じた。

 特に自由に使える車が出来てからは、ほとんど毎日ナルニの街やカピトーネの丘を描き

に出かけた。石畳の階段に座って街の風景を描いていると、何故か猫や犬が集まって来た

同類の物を感じたのか、不思議な物を感じたのか聞いてみたこともないのだが。街にはも

ちろん日本人などいないし観光客もいない、東洋人自身が珍しい。わたしがその日何処で

絵を描いていたか、家に帰るとマリアが知っていると言うことが良くあった。だれかが見

かけて彼女に連絡したのだろう。目立つ存在であることは嫌なことも多い。最初町中を一

人で歩くのが嫌だった。日本にいる外人が視線を感じて嫌だというのを聞いたことがある

が、全く嫌なものでおもわず早足で歩いてしまう、それもしだいに慣れてはくるのだが。

 街角で絵を描いていると、昼時になると街の古い鐘が何処からとなく聞こえて来る、昼

食にご主人がスクータで帰って来る、ラジオからはテノールの歌声、それにあわせて誰か

が口ずさむ、隣の家では大声で夫婦喧嘩、猫がミヤーと鳴く。急いでかたずけて家路につ

く、途中の下町で今日のパン半切れと新聞を買うことを忘れないようにと、マリアからの

伝言。午前中はそれで終わる。

 

 

         12 日常生活の巻 2

 

 昼食に二時間はかける、だいたいパスタから始まって、肉料理か魚料理、サラダかチー

ズ、最後はエスプレッソで締める。もちろん、いつも自家制のワインが側にある。私自身

ほとんどアルコールが飲めないので匂いを愉しむ程度。奈良漬けでも酔ってしまう、イタ

リアに来てワインが飲めないなんて、もったいないと利夫さんによく言われた。しかたな

い、こればっかりは体質だから、諦めた。

 午後は昼寝の時間、大体どこの店も閉まってしまう、街にでても人通りが途絶える。元

来が怠け者の私はこの習慣だけは直ぐに身についた。シェスタはなかなかいいものである

午後の活動は四時過ぎから、誤解のない様に言っておくが、マリアは朝五時には起きて仕

事している。

 カーサ キムラには駄犬のロビンと駄猫のシロのほかに、鶏が十数羽、鳩が二種類、一

方は鑑賞用、もう一方は食用だ。イタリア人にとって御馳走である鳩の丸焼きも、私たち

には今一つ食欲のわいてくる物ではなかった。日本人にとってパスタやリゾット、最近で

はピザなどは馴染み深く、むしろさすがに本場なにを食べても、例外なく美味しい。ビザ

も本当に色々な種類があり、生地の部分も厚い物、ごく薄い物とあってそれぞれの店の特

徴となっているようだ。パリパリになった生地とトロトロのチーズのミスマッチが口の中

で混ざりあっておいしい。特に秋口のキノコのシーズンはきのこ好きの私には応えられな

かった。

 隣のジュゼッペ爺さんの家は典型的なイタリアの農家で毎日食べるパンはもちろんピザ

も自分の家の石窯で焼く、生ハム、チーズ、サラミほとんどすべて自家製である。自分た

ちで作った物を自分たちで食べるということに、彼らは自信と誇りを持っている。「おれ

が他で作った物を食べると思うか」と爺さんはよく言っていた。農業が企業のように利潤

を追求しだすとこれほど割りの合わない職業はない。爺さんの家ではよく夕食を御馳走に

なった。イールダ婆さんはなんの偏見もなく我々を迎え入れてくれ、何かと気を使っても

らった。日本に帰る時には「いつ帰ってくるのか」と何回も聞かれて困った。イノシシの

肉はもちろんウサギやキジ、これはもちろん爺さんが山で猟をしてくるのだが、「カズハ

ル 今日のは何の肉かわかるか」と言われて、まぁ普通の肉ではないと思ったが、想像も

つかず、それがヤマアラシのにくだと聞いて吐きそうになったのを懐かしく思い出した。

ジュゼッペ爺さんとイールダ婆さんは結婚五十周年を何年か前に済ませたばかりで、それ

でも今だに毎日キスを五十回もするのだと自慢していた。かってにして下さい。

 夕方はロビンと散歩に出かける。夕暮れ時のカピトーネの風景はとても言葉では表現出

来ない美しさだ。茜色の空がだんだんに群青に変わり、ブドウやオリーブの木が闇に沈む

頃、夕食になる。

 

 

         13 日常生活の巻 3

 

 カーサ キムラの家は彼らが来るまではほとんど倉庫だった。婆さんが一人で住んでい

たそうだが、亡くなってからはだれも住んでいなかった。利夫さんたちはローマに住んで

いてどこか適当な田舎家を探していてこの家を見つけた。一階は大きな家畜小屋で二階に

住めるようにはなっていたそうだけれど。バスもトイレももちろん水道もなかった二万坪

の土地とこの家がついて、日本ではとても考えられないような価格で購入、その後一階を

リビングに改装、大きな暖炉を部屋の真ん中の壁にどんと据え、キッチンを増築、二階を

三部屋とバスルームに分け、水道を引いて、トイレの浄化槽を埋め込み、外壁を昔のオリ

ジナルの壁にして、外回りの整理、庭に芝をはって、etcそれだけでも一冊の本になる

ほどの手を入れて現在に至そうだ。それ故彼らは自分たちの家に大変な愛着を持っていて

例えばリビングの床には、シエナのカンポ広場のレンガを焼いたと同じ工房の職人を使っ

ている、とかリビングの柱は隣のジュゼッペ爺さんが若いころ山から切り出してきたもの

を使っていて、自分が丸太にしたのだ。とか自慢げに話していた。

 家づくりの思想がかなり違う。いいものを自分たちで選んで、ゆっくりじっくり楽しみ

ながら、家を作っていく。お金はかかるけど、小綺麗で破調も少なく、とにかく直ぐにと

いうのが魅力で出来合いのものを使って貴方任せで家を作るのと、お金はないけどゆっく

り自分が参加しながら家を作っていくのと何方が豊かなのか。二十年経った時、本物は益

々磨きがかかり重厚さをまして行き、反対ににせものは壊して建て替えるしかない。残る

のは多量のゴミだけという悲しい結果になる。大量生産、大量消費、大量塵芥という悪循

環を何処かで転換していかなければ、明るい未来はないと心底思った。

 西欧の若者たちはよく旅行する。ウィーンからの帰りに夜行列車に乗った事は前に書い

た。寝台車で一緒になったのはオーストリアの医学部の学生だと言っていた。ボロのバッ

クパッカーで旅慣れている感じだった。若い時はみんな貧乏で体力だけはあるので安い寝

台車でホテル代を浮かして旅をする。年を取るとやはりその体力をカバーするだけのお金

が必要で少しリッチな旅をする。ユーロパスで一等車に乗れば、そんな老人夫婦ばかりだ

 ローマの空港で沢山のブランド品の紙袋を持ってわいわい騒いでいる集団にあった。日

本人の女性ばかりの団体で、最近の日本人はものおじしなくてよいなぁと思っていると、

突然みんな例のウンコ座りをして話だした。お金があるから高級ブランド品を買うそれは

まぁいいとしても、一見して小綺麗なカッコウをした娘たちがどうして国際空港の真ん中

であの座り方をするのか。格式、様式、スタイルそういったことを一番大切にする国で貴

族御用達のブランド品を買って、どうしてカッコよくスマートに振る舞えないのか。物だ

け買ってそれで一流になったように思うのはまちがいだ。いっそそれならイタリアの見栄

っ張りの性格までも買って来い。

 

 

         14 ヴェネチィア パドバ シエナ 小旅行の巻 1(7月)

 

 映画「ベニスに死す」はご存じのように、初老の音楽家がゴンドラでヴェネチィアを訪

れるシーンから始まる。夏の気だるい午後の雰囲気を画面いっぱいに漂わせていた。実際

に行ってみると、海上から上がって来る様子がよくわかる。それからあの海独特の潮気を

含んだねっとりとした、肌にまとわりつく様な空気の雰囲気がよく表現できていることが

分かる。

 ヴェネチィア・メストレから列車は海の上を走る。久しぶりに海を見た、海というより

少し広い運河だと思った。ほとんど風もなくただ匂いだけがその存在を示した。ヴェネチ

ィア・サンタルチアの駅を下りると目の前に運河がひろがる、多くのゴンドラや水上バス

(ヴァポレット)が行き交い、他の町の駅のターミナルに似ている。ただ海上であるとい

う点を除いて。観光地であるヴェネチィアに特に行きたいと思った訳ではなかったが、こ

うしてこの地に来てみると不思議な町の魅力の虜になる。

 建築家の安藤忠雄氏がヴェネチィアの魅力を「水との共生だ」となにかに書いていたが

現代の社会では水は必要不可欠なものであるにもかかわらず、極力その存在を隠すことに

注意がはらわれている。川は護岸のためコンクリートで覆われ、フェンスがはられ立ち入

り禁止にさえなる。子供たちがそこで遊んでいて事故があったらどう責任をとるのか、そ

んなことが問題になる。たとえばヴェネチィアの運河すべてにフェンスをはればこの町の

魅力は死んでしまうだろう。臭い物に蓋ではないけれどなんでも囲って見えなくしてしま

うばかりが「良い」とは思えない。水を管理するのではなく「水と共生」するその理想的

な形がここヴェネチィアにはある。遠くない昔、人はこのように水を身近に感じ生活して

いたのではないか。なにか懐かしい安堵感があるのはそんなところから来ているのかもし

れない。

 町の中はまるで遊園地の巨大迷路のようだ。至る所に小さな橋がかかり、ゴンドラやモ

ーターボートが行き交う。地図を片手に町を探索するのだが、同じ様な建物の中で直ぐさ

ま自分の位置を見失ってしまう。早々に切り上げてローマ広場からヴァポレットに乗って

サン・マルコ広場まで行く。この水上バスには何回も乗ったけれどいつも満員で異様に蒸

し暑い。広場は沢山の観光客でごったがえす、世界的な観光地だからしかたないのだろう

けれど、人の多さにはうんざり、観光もそこそこに一日目は終了。

 夏のバカンス前とはいえヴェネチィアはすごい人だろう、ホテルもとれないだろう、レ

ストランも高いだろう、シャワーも使えないだろう。そんな予測でホテルは電車で三十分

ほどのパドヴァにとった。パドヴァにはもうひとつ大切な用事があった。それは次の項に

書くことにしょう。

 

 

 

         15 ヴェネチィア パドバ シエナ 小旅行の巻 2(7月)

 

 パドヴァは「大学の町」としてイタリアの他の町の人々の間では知られている。事実歴

史的な人物がこの大学で講義している。地動説のコペルニクス、「それでも、地球は動い

ている」のガリレオ、「神曲」のダンテ、これだけでもすごいことだ。べつに大学を見に

来たわけではないけれど。

 駅前はなんてことない普通の町の風情で、もう夏休みなのか学生の姿もあまり見かけな

かった。ヴェネチィアが凄い人だったのでそう感じたのかもしれないが。ジオットの有名

な壁画のあるスクロヴェンニ礼拝堂がこの町にある。

 ある観光案内書によると現在は修復中で見ることができないと書かれていた。二、三カ

月イタリアにいて気づくことの一つに、町のいたるところで、やぐらを組んでテントがは

られていることだ。二十年前フィレンツェの「花の大聖堂」を見た時は、とにかく真っ黒

な石でできた汚い聖堂だなという印象だったが、今回見ると洗い落とされた様な白い綺麗

な聖堂で印象がまるで違った。そして現在もまだ一方では修復中のテントがかかっている

ミラノやフィレンツェの有名な壁画や建築だけでなく、ナルニなどの田舎の町でさえかな

りの時間と費用をかけて修復している。石の建築物だからなにもしないでもいい訳ではな

い、壊して新しくモダンなビルを建てた方が楽だ、残すには強い意思が必要だ。

 駅前通りを市街に向かって歩いていくと、左手にこんもりとした小さな森が見える、修

復中とはあったが、ここはイタリアだひょっとするとオープンしてるのではないか。何故

かそんな気がした。案の定堂々と開いていた。約七百年前のこんなちっぽけな礼拝堂が幾

多の戦争を経て、こうやって存在している事だけで感動ものだが、ここにはアッシジの壁

画以上に重要な作品が残されている。

 スクロヴェンニとは個人の名前で、当時かなりの財を成した金融業者で、キリスト教の

教えでは金貸しは天国に行けないというので、それの罪滅ぼしでこの礼拝堂を建てたらし

い。いつの時代も同じ様な人間がいるものだと思う。しかし彼は後世の人々にこうやって

ジオットの作品を残す器を作ったと考えるならば、それで充分天国に行ける資格がある。

 キリストの生まれる前からの物語が延々と続き「最後の審判」まで天井から壁まで彼の

絵でうめつくされている。アッシジの絵はかなり大きな物で公の仕事と言う感じがするが

ここの絵は大きさも手頃で個人の注文によるプライベートな仕事という気がする。その分

親密でより作品としての質は高いように思われる。おかしいのは最後の審判の部分でスク

ロヴェンニ自身がこの礼拝堂を神に捧げている図があるところで、当時の神父らしい人が

この建物を担いだ恰好になっている。結局彼はこれが言いたいがためにこの礼拝堂を作ら

せたのだ。それにしてもどんなに権力を持とうと、それ以上の存在がいると言うことは、

現代の逆上せ上がった人間にも必要なことじゃないかと思う。