6 初めての国外旅行の巻 1(七月)

 

 だいたい三ヵ月に一度、国外旅行にでることにした。国外と言っても前にも書いたよう

に、ヨーロッパの場合簡単に行ける、海をはさんだ海外のイメージとはだいぶ違う気がす

る。最初に選んだのは、フランスまで飛行機で飛んでその後、国際列車に乗り換えてドイ

ツの黒い森をみながらロマンチック街道をバス使って南下、ローテンブルクからミュンヘ

ン、そしてモーツアルトの生地ザルツブルクを経て憧れの音楽の都ウィーンへ、そして夜

行列車でローマへと帰って来る。と簡単に書いたが、これが約十日の日程だからかなりの

強行軍といえる。自分たちですべての事を決めて行くことは、楽しい事ではあるが言葉の

問題も含めて大変なことだった。

 まずパリまでの飛行機をどうするか。ローマの町を歩くと多くの旅行会社があることに

気づく。私たちの場合チケットは片道でいい訳で、そういった条件で格安のチケットを探

す。安いにはそれなりのリスクがあるわけで、ただ安いだけで選ぶのは間違っている。た

とえば週に二回しか便がない場合、もし欠航した時すべての計画がだめになる可能性があ

る。又極端に朝が早かったり夜遅い場合、ホテルを別にとる必要が出てきて、かえって高

くなることもある。色々考えてクウェート航空のチケットを購入、日本で少し高い食事し

た程度の出費で済んだ。

 鉄道のチケットはどうするか、外国で鉄道の切符を買うのはとても大変だと分かってい

たので、ユーロパスを買うことにした。短期間に多くの国を回る場合、それぞれの国で切

符を買うのはロスが大きい。その点このユーロパスは一度で済むので都合が良い。しかも

各国の列車の一等に乗れる。少し高いがリッチな気分で鉄道の旅をするのも悪くない。

 何回かローマの駅の窓口に行ってみたが、これがまたわからない。長い行列の後ろに着

いて順番を待つ、やっと自分の番が来て、おじさんにパスのことを伝えようとすると、今

日はストで明日来いと言う。何ということだ。マンマミーア。何事も気長にやることだ。

次の日、ローマに住む利夫さんの姉さんに、ご足労願ってなんとかユーロパスを手に入れ

る。洋子姉さんもパリへ行くそうだ。パリで逢う約束をして、ローマでうまいケーキとカ

フェを御馳走になる。何となくカッコいい話になってきた。これでパリまでは行けそうだ

。ところで、一時バブルの頃、老後は海外でというのが流行って、多くの人がハワイとか

に移住し、最近になって夢破れて帰国する人がいると聞くが、利夫さんのご両親はその十

年も前にイタリアに移住し、もうすっかりイタリアの社会に溶け込んで悠々自適の生活を

愉しんでいた。最近は年に一度は日本に帰国しているようだが、一週間もいるとローマに

帰りたくなるそうだ。夢みたいな話だが本当のことで、日本のいいところも、悪いところ

も外にでて初めて気づくものだと改めて思った。

 そんな訳で、期待に胸ふくらませて、ローマ・ダビンチ空港を旅立ったのだった。

 

 

         7 初めての国外旅行の巻 2

 

 パリ・ドゴール空港に着く。ここからパリ中心街までバスで一時間ほど、もう午後の八

時頃なのに空はまだ明るい。バスのフロントグラス越しに夕映えの凱旋門が見えた時、パ

リに来たと実感した。もう七月なのに以外に肌寒く、これからの旅に少々不安を覚える。

パリには今日を入れて三日しかない、利夫さんに手配してもらったホテルに着き、明日以

降の作戦を練る。ルーブル美術館は避けて通れない。それで一日取られる。あと一日はか

みさんのお供でお終いだ。どの町へ行っても是非見なければならない、美術館や教会があ

って、それで二三日は取られてしまう。終日自由行動の我々の旅は、以外に時間的なロス

も多く、短期間に効率良く観光したいならば、パックツァーを選択したほうが良い。夜は

洋子さんと食事に出かける。

 二十年前にパリに来たときも、今回もパリの印象は変わらない。ただ何となく寂しいの

は自分が二十代の青年ではなくなったという喪失感から来ているのかもしれない。旅とは

不思議なもので、それは一遍の詩のように色々な切り口を見せてくれる。二十歳代の青年

の感覚と今の私たちとは違って当然だろう。それにしてもパリの町の美しさは変わらない

 

 次の日ルーブルに向かってシャンゼリゼ通りを下って行く。ルーブルまで続くポプラ並

木は、大きく空を切り取る様にそびえ立ち、まさに佐伯祐三の絵のようだ。ナポレオンの

遺産とはいえ、この2Kmに及ぶ凱旋門からの見通しのきく大通りは充分にその役目を果

している。パリの町は多くの画家や詩人がその美しさを讃えているが、都市の美しさの理

想的な形ではないかと思う。町は人が居て、そこで生活し、尚且つ美術館があり、大学が

あって人々が集まるカフェやバーがあり、老人や子供たちが安心して遊べる広場や公園が

ある。それらが実に有機的にバランス良く自然に納まっている。これはじつは大変なこと

で一朝一夕ではできない。幾多の戦争や民族の争い事などもあったろう、疫病の流行や災

害もあったろう、そういったことを経て人々は学習し、本当にいいものはいつまでたって

もいいものであると言う確信を持っている気がする。そしてそれを次代にも引き継ごうと

努力しているところが日本と違うところだ。十年経ったら全く町が変わってしまった、と

言うような大きな理想のない町づくりは、永い目でみればとんでもない無駄だと思う。

 パリには幾つもの鉄道駅があるが、私たちが目指す列車はパリ東駅から出る。ドイツの

南東部にある「黒い森」地方を通ってフランクフルトまで行き、その後乗り換えてロマン

チック街道の始点ヴュルツブルグまで行く。かなり複雑な乗り継ぎをするがトーマスクッ

クの時刻表を睨みなかがら、鉄道を乗り換えていくことは、時間のロスではあるが自由な

旅をしている気がして楽しかった。この旅のおかげで鉄道旅行に自信を持った二人でだっ

た。

 

 

         8 初めての国外旅行の巻 3

 

 ロマンチック街道の始点ヴュルツブルグは思いのほか小さな田舎町で、よくある西洋の

おとぎの国の様な可愛らしい町で、イタリアの田舎とも違う独特な雰囲気がある。よく知

らなかったのだが、ロマンチック街道とは、「古代ローマヘ続く道」と言う意味から来て

いるそうだ、「すべての道はローマに続く。」なるほど言葉は面白い、普段なにげなく使

っている言葉の語源をたどれば、意外なところにたどり着く。古代のローマはそれほどま

でに力があり、周辺の人々が憧れ、夢見て「ローマの様に」と言うところからロマンチッ

クと言う言葉の意味が出てきたのかと想像する。現代ならばさしづめニュー・ヨークと言

うところか、ただし二千年後ロマンチックと同じような意味の言葉として残っているかど

うか知る由もない。

 ヴュルツブルクからヨーロッパ・バスに乗ってロマンチック街道をひた走る。誠にのど

かな牧歌的な風景が延々と続き、ルーブルで見た、ニコラ・プッサンが描いた「アルカデ

アの牧人」を連想した。乗客はシーズン前のためか以外に少なく、香港からだと思われる

青年たち、アメリカ人の二人づれ、日本の老夫婦と私たちだけであった。自国にないもの

を見たいと思うのは当然だ。

 ローテンブルクに着いたのは昼過ぎだったが、あいにくの雨ですぐにでもホテルに入り

たかったが、なかなか見つからずに苦労する。どちらかが荷物の番をして一方がホテルを

探す。見過ごしていたのだが古い個人の邸宅の様なホテルで少々感動する。若い夫婦が自

宅を改造してホテルにしたそうだ。二百年は経っているだろう。町は相変わらずのおとぎ

の国だ。ここから電車に乗り換えてミュンヘンへ、彼の町はどんな所だろうか。

 沢山の車が行き交い混沌とした喧騒が懐かしい、東京を思いだした。ドイツのいままで

の町ではあまり見ることの無かった浮浪者も多く、なんとなく無秩序で治安が悪そうだ。

そんな第一印象のミュンヘンでしたが、ヨーロッパの町はどこも鉄道の駅を中心に発達し

た日本の町とは違い、旧市街はかなり奥まった所にあって駅前だけを見て判断するのはま

ちがっていた。観光案内で新市庁舎の鐘楼に、古い機械仕掛けのオルゴールがあるという

ので出かけた。しかしいくら探しても新市庁舎なるものが見当たらない。西欧ではその町

の一番立派な建物が市庁舎であるはずなのだが、そこにあるのはバロック様式の黒々とし

た、どでかい建物があるだけで、いっこうにあたらしくない。私の感覚では「新」とは十

年ぐらいのつもりだったのだが、この新市庁舎は優に百五十年はたっている。時間の物差

しの違いに唖然とした。アルテ・ピナコテークが修復中、近代絵画のレンバッハ私立美術

館に行く。久ぶりに近代の絵画を見る、西欧の連綿と続く重厚な絵画を見てきて、食傷ぎ

きの私の目には、近代のカンディンスキーやクレーのなんと可愛らしく美しく見えたこと

か。ほっと一息ついた二人だった。

 

 

         9 初めての国外旅行の巻 4

 

 オーストリアの古都ザルツブルグに行きたいと思ったのは、モーツアルトの生地である

ということが大きな理由だ。最近は聴く音楽もだんだんバッハからグレゴリオチャント、

どちらかといえば、絵画と同様にプリミティブな自然な音楽が、一番楽に聴けて今の私に

は快いのだが。天才モーツアルトの流れるような旋律は、例外でオーストリアに行くなら

是非、彼の生地を見てみたいと思った。

 ホテルからとことこ小さな商店街を下って行く、こう言った商店のウィンドディスプレ

イは、はるかにラテン系の民族の方がうまい、ゲルマン民族は質実剛健で味気ない。ザル

ツブルグ城でコンサートがあると言うので、軽い食事をとってお城に向かう。ザルツブル

グのどこからでも見えるこの中世の城は、小高い丘の上にあってケーブルで登る。

 このお城からの眺めは、たぶんモーツアルトもながめただろう。ザルツァッハ川を挟ん

で広がる旧市街の街並を眺め、コンサート会場である「領主の間」に向かう。九百年以上

経っているこのお城の中は、狭い階段が迷路のように続き、ドラキュラの館もさもありな

んと思われた。広間はかなり広く、厚い板敷きで歩けばギシギシと床鳴りがした。舞台の

背後は小さな窓があり、開け放たれた窓から、早い夏の今日最後の光が、舞台上の譜面台

を浮かび上がらせていた。この広間自身が一つの楽器でどんな最新のコンサートホールを

持って来てもたちうち出来ないだろう。夕闇迫るこの古城で聴いたモーツアルトはこの旅

の収穫の一つだ。

 オーストリアの首都ウィーンで是非見たかったのは、十九世紀末の美術集団分離派のク

リムトやシーレはもちろんだけれど、絵画ではなく異端の画家兼建築家のフンデルト・ワ

ッサーの家である。バルセロナのガウディーほど有名ではないけれど、植物を連想する有

機的な形は共通点がある。しかし彼の場合かなりアバンギャルドで初めて見るとギョッと

する。探すのに苦労したが、ちょうど開催していた彫刻家のマリノ・マリーニのデッサン

展もみることができ、旅の疲れも出てきたところだったので一日目は早々にホテルに帰る

 次の日は街の探索に出る。ホテルから地下鉄に乗って旧市街地へ。このところ旅もだい

ぶ慣れてホテルさえ決めてしまえば、後は街の地図と交通マップさえあれば何処でもいけ

る。先ず異様なタマネギ頭のような分離派展示館へ、クリムトの壁画が少々、がっかり。

旧市街はさすがにハプスブルグ家、いままで訪れたどの街よりも豪華で絢爛だ。博物館や

大学、王宮、劇場、オペラ座にゴシックの大寺院、有名な高級ブティックやカフェ、大道

芸人たちが楽しげな音楽を奏で、道行く人々もどこか優雅で暇人風。山の手線の内側ぐら

いの地域にこれだけのものが凝縮すれば、文化は爛熟しやがて頽廃的な耽美主義が台頭し

てくるのは必然だろう。そんな独特な雰囲気のあるウィーンの街を後に、歩き疲れた二人

はローマ行きの夜行列車に飛び乗ったのだった。

 

 

         10 車が手に入るの巻 (7月)

 

 前にも書いたが田舎暮らしには車が必需品だ。ちょっと下町までの買い物も車がなけれ

ば人の手を煩わさなければならない。かといって新車を買うほどの余裕もない。中古車の

具合のいいものを、下町の利夫さん御用達の修理工マルコに頼んであったのだが、なかな

かいいでものがなかった。イタリアの場合、日本の様な車検制度がなく、乗れるだけ乗っ

てそれでお終い、修理不良でトラブルがあったとしても、それはすべて自分の責任で自分

が悪い、自己管理これが原則だ。それ故具合のいい中古車というものがあまりない。

 ある日マルコから電話でいいでものがあったと連絡がはいる、さっそく利夫さんと下町

まで行く。走行距離やメカニックの方も問題ない、試乗もしてみたが素人目には分かろう

はずもなく、これで良し。さて契約ということになって、マルコが業者に連絡、なんか難

しそうな顔している。さてはなにか問題が、私が外国人ゆえ日本大使館へ行って戸籍謄本

を伊訳してもらい私本人である証明が必要とのこと。さもありなんと思い、住民表から謄

本、すべての書類は用意してある。なにがあるかわからないのが外国生活、パスポートさ

えあればとにかく日本までは帰れるのだけれど。それさえ取られるかもしれない。住民表

謄本、写真は是非必要だ。

 というわけでローマの日本大使館へ行く、テロを警戒しているのだろうけれど、大使館

は物々しい警戒で緊張する。受付で用件を言ったのだけれどうまく伝わらない、なんとか

日本語の通じる人と連絡がとれ、一つの関門を通過。ガシャと大きな大きな音をたてて鍵

が開く、中に入って又扉があったが今度は簡単に通過、中に優しそうな日本語を話すおじ

さんがいて一安心、用件を話すと明日できるから来いと言う。田舎から出てきているので

なんとか今日中にと押し問答。やっとのことでそれならば、今日の夕方と言うことになっ

た。

 言われた書類も提出しこれで準備万端、あとは車を待つだけとなったが、なかなか連絡

がこない、業を煮やしてこちらから電話すると、やっぱり色々な理由で車は買えないらし

い。なんとと言うことか、それなら最初からそう言えよな、とみんなで怒ったのだったが

だめなものはしかたない諦めるしかない。マリアが心配して「なんとかなる、それがイタ

リアだ」となぐさめてくれた。

 ローマの洋子姉さんが新しい車を買った。日産のマーチ、信じがたい色々な事があって

納期が随分と遅くなったのだが。そのためにいままで乗っていた、フィアットのウノがマ

リアにまわってきて、マリアの乗っていたチンクエチェントが私にまわってきた。やった

ァ、時々この車を運転していたし、こんな車に乗りたいなと思っていたので大喜び。ただ

この車一度火を吹いたことのある、すぐれもの。雨がふれば傘が必要かもしれぬ、底抜け

けれどとにかく下町までは行ける、やっほー。