1 旅立ちの巻 (4月)

 

 と言う訳で、夫婦揃って約一年間、イタリアの小さな田舎町(カピトーネ村)に滞在す

る事になった。うそからでた誠、瓢箪からこま、藪からぼう、きっかけは単に「行けたら

いいね」ぐらいの夢だった。それがいつのまにか「行きたいね」となり「行くのだ」とな

った。考えてみれば、私の人生は、いつも「だといいね」から始まる。絵描きになったの

もイタリアで個展ができたのも、この虫のいい夢から始まる。


 さて西まわりに回るならばどの都市に滞在しても一年間ならば有効という、誠に都合の

いい航空チケットを手に入れて、成田空港を、大いなる期待と不安を抱えて旅立ったのだ

った。ヨーロッパは、二十年も前の学生時代に一度、貧乏旅行したとはいえ、西も東も分

からないのは当然として、今度は女房づれだし、昔のように、若くもない。ましてローマ

はどんな観光案内を読んでも、要注意の悪名高き都市である。鬼が出るか蛇が出るか、で

たとこ勝負の流れ旅、でこぼこコンビの夫婦旅が始まったのだった。


 アムステルダムに着いたのは、お昼すぎ、そこで延々とローマ行きの飛行機を待つ。格

安チケットには、この待つと言うことが必要不可欠だ。振り返って考えてみると、この旅

で得た教訓の一つかもしれない。ローマに着いたのは、夜中の十一時頃、さてさてお迎え

が来ているだろうか、ここが人生の分かれ道、待つこと十分、これが一時間にも2時間に

も感じられましたが、無事利夫さんとめぐり逢ったのだった。


 利夫さんは、ヨーロッパに来て、二十年近く、今ではイタリア人の嫁さんマリアと愛児

タロー君の良きパパで、添乗員を生業にしている。しかしこの時点では、逢ったこともな

ければ、喋ったこともない、どんな人物か、知る由もない。一種の賭で、この旅のいいも

悪いも、あなたしだい、私にはこう言った開き直りがあって、今のところ、これが功を奏

している。


 カピトーネ村はローマから東北方向へ百Kmほどの地図にも載らないような、小さな村

で、地理的にいえば、ローマとアッシジの中間点になる。ローマのダビンチ空港を出発し

て高速道路をぶっ飛ばしてカピトーネ村に着いたのは、真夜中の1時をとうに過ぎていた

だんだんと明かりが少なくなり、寂しくなって行き、その村に着いた頃には、明かりなど

全くなかった。辺りは真っ暗、はるかかなたに、星のように瞬く明かりがあるだけ、利夫

さんは色々説明してくれるのだが、なんせ周りが真っ暗なので、なにも分からない、ぽつ

んと燈った明かりの下に行けば、カーサ、キムラがそこにあった。


 私たちの部屋は、全く独立した家で、広い庭の片隅に建っている。家の中はベットと机

と洋服ダンス、それとバスルームのみの可愛い家です。全く知らなかったのですが、この

家は、私たちが使うのが初めてで、新築だった。これはついてるこの旅は、旨くいくとい

う予感がしたのだった。

 

 

         2 美人は三日で飽きるの巻

 時差ぼけと、極度の緊張で、よく眠られず、早朝に目が覚めた。薄ぼんやり、明けてい

く空の下、初めて見るカピトーネ村の風景は一生忘れる事はない。薄黄緑の牧草と、オリ

ーブの苔むした緑と、ブドウ畑がなだらかに続く丘の起伏の上に、美しい階調をつくって

続いている。点在する白い塊は、よく見ると羊たちの群れで、ゆっくりと移動している。

レンガ色の瓦屋根と、白い壁、糸杉とポプラ、すべてそこにあるのが自然でうまくレイア

ウトされている。風景がこれほど美しいものだったのかと、しばし呆然と眺めていた。


 イタリアに暮らしてみて思うことは、彼らはなにが美しいのか、もっといえば、なにが

人生にとって大切なのかを、どんな田舎のおじさんでも、心得ていると言うことだ。昔の

日本にはあったのだけれど、悲しいかな現代の日本には無くなってしまったものが、イタ

リアの田舎にはある。


 カーサ キムラは、広大な土地に、フドウやオリーブを植え、野菜なども自給自足する

田舎暮らし、ただやっぱりどこかお洒落だ。


 お洒落といえば、イタリア人はとことんお洒落だ。ローマなどのバールのボーイさんな

どをみればよくわかるが、とにかくカッコいい、彼らの伊達男ぶりには頭が下がる。内容

もさることながら、見栄え、外見のカッコよさに命賭けているようなところがある。いい

意味の見栄っ張り、言葉をかえれば、ダンディズムこれが生きているように思う。本音と

建前とよく言うが、現代の日本では、本音ばかりが大切にされて大義名分がおろそかにさ

されているように思う。「武士は食わねどたか楊枝」これって立派なダンディズムだと思

うがいかがなものか。


 私たちの住んでいた村から、車で十分ぐらいの所に、ナルニという少し大きな古い町が

あり、イタリアのほとんどの町がそうであるように、小高い丘の上に、城壁をめぐらし、

その中に石作りの建物や噴水、石畳を作り、未だ中世そのものの雰囲気を醸しだしている

。毎年五月にそこで、日本で言う、時代祭りがあり、初めて見るその光景には、鳥肌がた

つほど興奮した。舞台設定は充分でこれほど効果的な大道具はないだろう。照明の当て方

や衣装デザインのセンスは、こんな田舎町のお祭りでさえ、脱帽する。そのなかの古いフ

ランチェスコ派の教会で聴いたグレゴリオ聖歌のアカペラはかけひきなしに、素晴らしい

ものだった。半年後にこの町で、個展ができるなどとは、夢にも思っていなかった。


 なんだかんだと、一ヵ月近くなにもしないでこの村にいた。美人は三日で飽きる、の例

えどうり、ハネムーンはそう長くは続かない。最初に音を上げたのは、かみさんの方で、

確かに、風景は美しい、空気はうまい、けれど、日々の生活は、退屈で、やっぱり日本に

居るときと同じように、掃除や洗濯、食事の準備があるわけで、夢のようなことばかりで

はない。なんとかして車を、手に入れる必要がある。動く自由を確保しなければ、このま

ま一年終わってしまう、欲の出てきた二人だった。

 

 

         3 ローマ語学学校へ行くの巻 (5月)

 

 カーサ キムラは、小高い丘の上にある。そこから、最寄りの鉄道駅(ナルニ アメリ

ア)まで車で十分、歩いて一時間はかかる。これが問題だ。どうすれば駅まで自分たちだ

けで行けるのか。マリアの話によると、朝七時頃駅までのバスが一本あるそうだ。これだ

と思って色々調べてみると、本当に朝一本しかない。帰りは三時と五時の二本のみだった

。それでもないよりはまし、それに頼るほかない。


 次の日、必死の思いでバス停まで、歩いて行く、これが又十分ぐらいかかる。やっとの

おもいで、バスを待っていると、近所の爺さんが出てきて「プールマン ニエンテ」と言

う。後で分かった事なのだが、この爺さんはアル中で、問題有りの爺さんだったらしい。

そんな事はその時わかららない、「プールマン」っなんだ、どうやらバスの事らしいが、

バスはアウトブスじゃないのか。「ニエンテ」とはないと言うことだ。なんと今日は、バ

スがないと言うことかと、愕然としていると、そこにスーッとバスが来たのだった。


 ローマの語学学校に二週間通う事になって、なんとなくイタリアで生活しているのだな

ぁと言う実感がわいてきた。田舎は田舎でとても素晴らしいのだが、やっぱり都会に出な

ければなにも始まらない。なんとそれまで一回も観光らしい観光をしていなかった。

 初めてローマに二人だけで出た時のことを、はっきりとおぼえている。学校を探しに行

ったのだが、あの悪名高きローマ・テルミニ駅を出た時はしっかりバックを抱えて、目も

すわって「寄らば切るぞ」と言う出で立ち、まさにお上りさんを絵に描いたようだった。

そのおかげか、一度も危ないめにあったことがないのは、ありがたいことだったけれど。


 イタリアの鉄道は、日本の鉄道と違い、格別安い。安いのは有り難いのだけれど、極端

にイタリア的である。よく言われるのは時刻の不正確さだが、例えば、私たちは毎日、同

じ時刻の電車に乗るのだが、授業に間に合うことは、稀で度々遅刻した。極端な話、突然

待っている電車が運休になったりした。よくしたもので、乗客はだれ一人として文句も言

わない。ごく普通の日常生活なのだ。それから、よく見るのは、駅の窓口に長蛇の列があ

ることだ。もっとも自動販売機なる物が、少ない。ヨーロッパを旅して思うことは、日本

の町の便利さだ。日常品のほとんどの物が、人の手を煩わすことなく手に入れる事ができ

る。どの町にも、清涼飲料水の自販はあるし、コンビニに行けば、喋らなくても物が買え

る。効率、利便性だけ考えるならば、その方がいい。その代わり失ったことの、なんと多

いことか。町から魚屋や八百屋が無くなった。職業にプロ意識が無くなった。人々から会

話が無くなった。笑顔が消えた。子供から子供らしさが無くなった。世界一のお金持ちの

国になっても、人が人間らしさを失ってしまったら、なんのための効率や利便性なんだろ

うか。仮に経済という目標を、失ったら、いったい日本は何を理想とすればいいのか。こ

こイタリアに来て妙に、日本が気になりだした、二人だった。

 

 

         4 初めての小旅行の巻 (6月)

 

 語学研修も無事修了し、とは言ってもほとんどなにも変わらないのだが、さっそくその

成果を、試めそうと小旅行に出かけた。ナルニからフォリーニョで乗り換えてアッシジま

で行き、その後花のフィレンツェを経由して帰って来ると言う予定だ。


 アッシジはよく知られているように、聖フランチェスコ派の総本山で絵はがきなどで、

有名な美しい教会がある。アッシジの駅からバスに乗って十五分ほどで、丘の中腹にある

教会広場まで行く。途中の電車の窓からでも、その美しい白い要塞状の教会が眺められる

が、実際その場に立つと、まるで白い大きな翼を広げた鳥の様な姿に圧倒され、包み込ま

れる様な気になる。とことこと坂道を、登って行くと壁画で有名な聖堂が現れる。


 キリスト教に於ける聖人の存在は、異教徒の我々にはよく理解できないのだが、ある意

味で守護神の様な存在で、一神教であるところのキリスト教においても、人はもう少し身

近な存在の神を、欲しがるようだ。イタリア人のよくある名前でフランコやフランカ、パ

ウロやパウラ、マルコなどすべてこれらの聖人から貰っている。


 聖フランチェスコの物語は、日本に居たときから気になっていたことで、というよりこ

の旅を計画したのもある意味で、このアッシジのジョットの壁画を見たかったからと言っ

てもいい。


 西欧の文化に憧れて油絵を始めた私だったが、しだいにその居心地の悪さに気づきはじ

めて、この四、五年は伝統的な油彩よりも、日本の襖絵や絵巻物に共感をおぼえるように

なって来ていた。金箔地の上の朱色や緑青、墨の黒、深い藍色の美しい微妙な調和は日本

人独特のもので、洋画法のみの教育を受けた我々でも、深いところでは忘れていなかった

と言うことだろうか。とはいえ伝統的な日本画に戻るわけにもいかず、模索していた時に

ジョットに出会った。ルネサンス以前の西欧では、まだ遠近法が完全なものではなく、大

切な物は大きく、背景は小さくと、日本の場合と同様に、自由に構成しプリミティブでは

あるが、表現として力強く強烈なインパクトを持つ。色彩においても共通点も多い。特に

金箔地の背景などは、西洋と東洋を結び付ける考え方だ。


 ジョットに魅かれた、もう一つの理由は、彼らの絵が社会的に大きな力を持っていたと

言うことだ。もちろんそれはは、その時代に一番権力を持っていたキリスト教と結びつい

ていたこともあったけれど、彼の絵には、他の人にはない分かり易さがある。現代の表現

者が一番陥り易い自己満足が彼の絵にはない。如何に人に伝えるか、そのことを何よりも

優先していたと思う。分かり易さ、言い換えれば、いい意味の大衆性が大きな力を持つ。


 「鳥に説教」は二階の扉を入ってすぐ左にある。薄暗い聖堂の壁に直接描かれたこの絵

は、この聖人の人柄や生き方を物語るには最も分かり易いエピソードで、ジョットは愛情

を持ってこれを描いている。

 

 

         5 マリアの出産の巻 (6月)

 

 言い忘れたのだが マリアは妊娠八ケ月だった。それを聞いたのが、孝志さんと空港で

初めて逢って、高速でカーサ キムラに行く途中のドライブインでコーヒーを飲んでいる

時だった。たまげた、臨月の妊婦の居る家庭に、我々のような外国人が、のこのこ出かけ

てホームステイして大丈夫なのだろうか。孝志さんは日本人だからなんとか意思の疎通は

できるけれど、マリアは片言の日本語だと言うし、肝心の利夫さんは、添乗員の仕事上、

出かけると一週間は家をあけると言うし、まだ三才のタロー君もいる。こりゃ困った。し

かしもう引き返す訳にはいかない。今から考えると、子供のいない我々夫婦にとって、こ

の赤ちゃんの誕生は、自分たちのことの様に嬉しかったのだが、その時は只々驚いた。


 マリアは働き者で、我々の心配をもろともせず、自分で車を運転して、どんどん用事を

済ませていった。入院する前日まで働いていた、これには頭が下がる。イタリアン魂かも

しれない。マリアの実家のあるサルデニアからお姉さんのカテリーナと姪のエレナが手伝

いにきた。


 イタリア人は日本人以上に身内を大切にする。なにかあったらすぐに親族郎党集合する

。だれかの誕生日、だれそれの結婚何周年、それにクリスマスや学校行事、又色々な国の

友達が始終、休みの度に遊びにやって来る。この色々な国の友達という感覚は、なかなか

日本人には理解できない。特にヨーロッパは国と国がつながっているため、例えば旅に出

ても国境を越えたと言う感覚なしに済んでしまうことがよくある。特に最近は、通貨統合

とか、経済的にヨーロッパは一つのあらわれか、パスポートさえ見ないことが多い。と言

う訳でキムラ家には、いろんな国の友達が来てパーティになる。英語、ドイツ語にイタリ

ア語に日本語まぁその賑やかなこと。お喋りが美徳の国だけある。


 所変われば品変わると言う諺があるが、東洋と西洋では考え方が、全く逆の場合が結構

有る。例えば、このお喋りにしても、西洋では、基本的に自分と他人とは違うと言うこと

から始まっている。だからとにかく人とは話をする、対話する事からすべてが始まる。だ

から話をしないのはバカか何か良からぬことを考えている輩ととられる。反対に日本など

の場合、「あうん」の呼吸などと言って、喋らない方が美徳であったりする。最近日本が

国際化していろんな所で問題を起こしているのも、この自分の事を多くは語らないと言う

習慣が災いしているように思う。自分のこと自国のことを人に伝える教育がこれから是非

必要だと考えられるが、今の日本の教育は反対のことばかりしている、受験、受験で知識

ばかりの人間が増えて、本当に必要な人間としての教育をしていないように思うのは私だ

けだろうか。


 みんな集まって、わいわいやっているうちに、利夫さんとマリアの待望の女の子、ハナ

コちゃんが誕生したのだった。おめでとう。